Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground wolF』

優しい記憶

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 忘れもしない。あの日は秋の爽やかな青空はぼんやりと濁り、太陽は厚い雲の向こうに姿を眩ませていた。呼び出された事務所に出向く為揺られる電車の窓に、空から落ちる大粒の雨が打ち付ける。何と無く、悲しい日だった。

 閑散とした事務所には、孝明が一人事務所番をしていた。机に長い足を投げ出して転寝する若造を起こさないよう、俺は静かに呼び出された部屋の扉を開く。白いソファに寛いでいた武骨な男は、俺の姿にその強面をくしゃりと緩めた。
 國真会若頭であり、俺の直属の兄貴分、米倉輝樹。誰からも好かれる陽気な男は、こんな俺にさえ分け隔てなく接してくれる。
「何です?こんな所に呼び出して」
「まあ、ええから座れや」
 向かいのソファを尖った顎先で指され、渋々と腰を下ろす。その一挙一動を見詰める視線は相も変わらずに熱い物だ。好かれていると実感するに有り余るそれは、この人に関して言えばもう十年右腕として隣にいるし、最早慣れてしまって不快でも無い。ただ本音を言えば少し、照れ臭い。
 思わず視線を逸らす俺を見て小さな笑を漏らすと、米倉さんはぽつりぽつりと言葉を噛んだ。
「もう直ぐ十年になるなあ。わしゃあ初めて会うた日にな、何て綺麗な男なんやて思うたんよ。お前の目は余りにも純粋じゃったけえ」
 また訳の分からない事を。この男は持ち前の陽気さで良くこう言う意味不明な戯言を口走る。
「見る目なさすぎますね」
 そんな可愛げの無い答えにさえ、米倉さんは幸せそうに小さな笑みを浮かべた。
「今日も空が青かった」
 そして、そんな脈絡の無い事を呟いた。
「今日は雨ですよ。空は灰色だ」
 窓はないが、大凡空の方を見上げた俺を見詰める米倉さんの顔は、何時もみたいに優しい物だ。顔に似合わず慈愛に満ちた、菩薩みたいな人。そう良く言われていた。
 米倉さんはふいと同じように薄汚れた天井を仰ぐ。
「雲の向こうには何時でも、青空が広がっとるんよ」
 この詐欺師と思いっきり詰ってやろうかとも思った程、見た目とのギャップが凄まじい。思わず噴き出して笑ってしまった俺に視線を戻した米倉さんの顔には、やはり優しい色が浮かんでいた。
「わしゃあな、お前もそうだと思うとるんよ。お前のその曇り切った目の奥には、必ず澄んだ色がある筈じゃけえ」
 人の好過ぎる言葉に俺にしては珍しい素直な笑さえ引っ込んだ。またそれか。俺にそんな心はない。何年も前に、あの東京タワーの下に捨てて来た。残ったものは役にも立たない、捻じ曲がった自尊心だけだ。
「下らない」
 不機嫌に吐き捨てた俺に微笑みかけた後、米倉さんは徐に使い込んだセカンドバックの中から何かを取り出した。ゴトリと重い音を立てて机に置かれた黒い銃が、鈍い光を放つ。俺の嫌いなトカレフ。この一昔前の粗悪な拳銃を自慢するバカはいない。何より米倉さん程の立場の人間が今更拳銃など珍しくもないだろう。
「……そう言う事ですか」
 その言葉と共に自然と乾いた笑が漏れた。俺の抹消命令が出た。それは何も驚くべき事ではない。組を窮地に追いやった目障りな危険分子は排除するに限る。それに伊崎会長は俺の事を好いてはいなかったから。
「相変わらず肝が座っとるのお」
 可笑しそうに笑いを噛み殺す男を尻目に、ソファに深く凭れ窓の無いこの部屋の草臥れた天井を仰ぐ。よく分からない黒いシミの数々が、不気味に影を落としていた。俺も今日、このシミの一つになるのだろう。
「別に死ぬのは怖くない。まあ、心残りがない訳じゃないけど、別にどうでも良いっちゃ良いし」
 この世に未練は無い。それに人生の幕を引いてくれるのが、他の誰でもない米倉さんである事だけが素直に幸せだと思えた。俺が唯一僅かでも心を許した人間がいたとすれば米倉さんただ一人だから。だがこんな風にしか考えられない腐った自分が、その時だけは心底嫌になった。
「すみませんね、出来損ないで。米倉さんも大変ですね」
 小さく笑う俺に、米倉さんも優しく微笑み返す。そしてゆっくりと言葉を投げた。
「将生、最後に抱かせてくれや」
 その言葉が、酷く胸を締め付ける。ズキズキと疼くように、息苦しさを覚える程の痛み。分かっていたんだ。この男がどれ程、俺を想っていたか。それでも俺は皮肉に口元を歪めた。
「変な冗談、やめて下さいよ。それに残念ながら俺は抱く方専門なんですよ。抱いて欲しいなら喜んで」
「そらあ残念じゃ。流石に掘られるんはのお」
 本気で考え込む米倉さんの険しい顔にホッとした途端、思わず吹き出してしまった。
「バカ」
 笑いながらそう詰る俺を見て、米倉さんも可笑しそうに笑った。相変わらず屈託の無い笑みだ。

 俺達は何時ものように下らない冗談で笑い合う。最期の時だからなのだろうか。俺の心に長年忘れていた暖かな灯火が揺れる。凍り付いた心を溶かしたものはこの男の真っ直ぐな想いなのだと思う。もう少し、俺がまともな人間だったなら、貴方を苦しめる事もなかったのだろう。今更後悔しても遅いから、どうかこの別れを優しいこの男が引き摺る事の無いように。唯それだけを願う。

「もう良いよ、米倉さん。とっととやってくれる?早くこの下らない世を離れたい。あんたの厳つい顔も見飽きた所ですよ」
 小馬鹿にしたように言い捨てた俺を見て、米倉さんはふと小さく笑う。
「下手くそ」
 伸びた指先が、俺の存在を確かめるようにゆっくりと頬を撫でて行く。使い込まれ硬くなった武骨な感触が酷く、優しい物のような気がした。この世に未練はないが、少しだけ不安になった。
「ちゃんと……忘れられますか?」
 俺を忘れ、前を向いて生きて行けますか?そう問うた自分の言葉は、こんな俺でも込み上げる物があった。今なら、言えるのかもしれない。
「米倉さ──」
 長年言えなかった大切な言葉を贈ろうと薄く開いた唇に、そっと押し当てられた指先。心臓が一瞬、動くのを止めた。
「忘れてやらねえよ」
 そう小さく囁いて離れて行く骨張った手を、咄嗟に掴む事が出来なかった。直感は叫び続けていたのに。この手を、離してはいけないと。
 無造作に置かれていたトカレフに手を掛け、鍛え抜かれた腕がそれを持ち上げた。黒い銃身が、見せ付けるようにゆっくりと黒髪に沈んで行く。追い付かない頭でも直ぐにこの男が何をしようとしているのか手に取るように分かった。それと共に湧き上がる不安が、悪夢のような未来を容易に頭の中に浮かべた。
「……悪ふざけはやめましょう?あんたの悪い癖だ」
 トカレフに安全装置なんて物はない。その人差し指が引鉄を引いてしまえば──自分でそう考えておきながらゾッとした。
 なるべく自分の心を落ち着けようと足掻いてはみたが、膝がガクガクと震え、その上で硬く握り締めた拳迄、薬物依存者となんら変わり無く痙攣している。一気に水分を失った喉が張り付いて口を開く事もままならない俺を見て、米倉さんは小さく微笑んで見せた。
「なあ、将生?わしゃあ手前みてえに忘れろ何てキメた事は言えん。じゃけえお前の心の片隅に、ほんの少しだけでええ。共に歩んだ日々の事を置いといてくれや」
 それを覚悟の言葉と言うには十分過ぎる。深く吐き出された息の音が、鼓膜に張り付いて離れない。だがそのままゆっくりと伏した瞼が微かに震えていた。
 分かるよ。あんたも人間だ。どんなに裏社会を歩み、生き地獄を越えたとしても、死ぬのは怖いだろ?だから、やめてくれ。誰の命も、自分の命さえ省みて来なかった俺が、叫ぶように祈った。いかないで欲しい。生きて欲しい。あんたには、未来がある筈だ。
「ま、待ってよ。そんな事、あんたがする必要ないだろ?会長に、始末しろって言われたなら、素直に従えば良い!」
 珍しく吃る俺の言葉を静かに聴き入る男の顔には、まだ戻れる何かがある気がした。だからこそ、恥も外聞もあるものかと俺は必死だった。きっと、今迄生きてきた中で一番。
「分かった!抱かせてもやる!何でも聞く!もうあんたを困らせる事もしない!だから、お願いだ……!」
 この身体を許す事で救えるのなら、有り得ないと思っていた女役だってやってやる。あんたの為なら何だって出来る。
 気付けば、こんな俺でさえ変われる程、この男が自分の心に住み着いていた事を知る。
「米倉さん、俺は──」
 掠れた声がその先を言うより早く、閉じていた瞼が開く。そこにあったものは、迷いなど何一つも無く、強く、曇りの無い澄んだ色だった。俺は死への恐怖に二の足を踏む男の背中を、押してしまった。
「もうその腐った面見なくて済むなんて、清々すらあ」
 そう言って笑ったんだ。あの人は。ゆっくりと引鉄を引いた人差し指は、俺の唇に押し当てられた優しい物と何も変わりは無かった。
 耳を劈く銃声が反響して鼓膜を震わせ、狭い部屋に硝煙の匂いが充満して行く。
「嘘付き……」
 零れた言葉と共に、涙が一粒、握り締めた拳に堕ちた。震える指で乱れた黒髪を掻き上げると、黒々とした生温い液体がぬるりと掌を染めた。
 その唇はもう俺の名を呼んでくれる事はない。その指はもう、俺の髪を梳いてくれる事はない。その背中をもう、二度と追う事は出来ない。

 どうかこの狂おしい程の優しい現実を、嘘だと言ってくれ。

 込み上げた笑が抑え切れず漏れ出て行った。
「あんた、バカだろ」
 こんな社会のゴミの為に尊い命を捨ててしまうなんて。頭が悪すぎる。俺はずっと誰からも必要とされずに生きて来た。父親、母親、今迄擦れ違って来た全ての人間。誰が俺の存在を望んだ?夢も野望も未来もない。そんな男の為に、捨てる命など無い筈だ。
「バカ……!バカだ!大バカ野郎!!」
 銃声を聞き付けた孝明に取り押さえられても俺は、訳の分からない事を叫び、狂ったように泣いた。
 事務所の床に崩れ落ちた俺の耳に、叫びにも似た孝明の声だけが掠めて行く。それが、もう二度と取り返しの付かない過ちを犯したのだと突き付けるように、唯深く胸を抉る。

 米倉さんが、死んだ──。不思議とこの時に俺は何もかもを失った気がした。捨て去った筈の心が粉々に崩れ落ちてしまった。あの男の側でゆっくりと育てていた、大切な物迄も。
 最後に俺からキスの一つでもしてやれば良かった。せがまれれば女は勿論、男でも抱いて来た俺が、今更減る物でもあるまい。何を躊躇う事がある。何時ものように、誘えば良いだけだ。それでも長年あの男を頑なに拒絶した自分の心の奥底の塊は、誰にも、それこそ自分にも明かせぬ密やかな想いだった。
 あの男の隣を歩んだ日々。共に笑い合い、激情をぶつけ合った過去。俺達の間に息衝く感情。それはきっと何物にも変え難い、崇高な愛だったのだ。親子愛のようで、性愛のようで、そして唯隣人を愛すような。高潔で壊れ易く、誰が触れる事も許されない。そんな深くも浅い愛情。だからこそ俺は何時もあの男に触れたいと願い伸ばした手を、すんでで引っ込めて来た。触れればその脆い均衡が壊れてしまうから。身体なんか重ねなくてもいい。唯、側にいたかった。米倉さんはそんな俺の想いもきっと、分かってくれていた。だからこそ、唯受け入れる事しかしなかった。
 親に捨てられ、世間をひねて生きて来た俺に、あの男は何通りの愛をくれたのだろう。どれだけ大切に俺を育ててくれたのだろう。親のように、恋人のように、だがその何方でも無い形で俺を心底愛してくれた。だがそれ故に、この裏社会を生きる米倉輝樹は、死を選ぶ事しか出来なかった。俺はやはり二度と、愛など欲しくはないと思った。
 だから忘れてしまったのだ。自分が一瞬、孤独な地獄の底から天上に向けて手を伸ばした事を。気付いても、願っても、貴方にはもう、二度と届かないのだから。
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