Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground tigeR』

田島一平

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 こつんこつんと水槽のガラスを叩くと、小さな手足を必死でばたつかせて寄ってくる亀。固形の餌を投げ入れる飼い主の顔を覚えているのか、いないのか。いくら俺が餌を持ってガラスを叩いても知らん顔。
 そもそもあの甲羅の中はどうなっているのだろう。なぜ首が伸びてくるのだろう。くちばしのような口をぱくぱくさせて、意外と素早く餌を取る。亀は面白い。

「田島さんって、生き物が好きですよね」
 食事中の亀を熱心に見詰める俺を、飼い主である阿部はそう言って眩そうに見上げた。
「おお、好きだよ。動物園とかよく行くぞ。雄二も好きだろ。あそこの駅にあるちっせえ動物園なあ、餌やりタイムがいいんだよな」
「分かります、ミミたんはアイドルです」
「おお、だよなあ」
 白黒のロップイヤー、ミミたんは、とても人懐こい。膝に乗せて餌をあげることができるのだ。
 俺たちはよくおすすめの動物園や水族館の話題で盛り上がる。だが阿部は周りの目が気になるようで、周りに他の連中がいない時に限るのだが。
 今日は俺より遥かに歳上で阿部の兄貴分である山本が何の用でか部屋にいたからか、すぐに阿部は話題を逸らす。
「俺田島さんみたいな男になりたいです」
 そらした話題がそれかい、と阿部の相変わらずのセンスのなさに呆れながら俺は笑って見せた。
「雄二は将生付きだろうが」
「将生さんみたいになんて、絶対なりたくないですよ。あんな鬼悪魔を凝縮したような冷血漢。心がないんです、あの人には」
「こら、言い過ぎだぞ」
 俺たちがあまりにも呑気な会話をしているのが気に食わなかったのか、部屋の隅にいた山本は低く吐いた。
「阿部、騙されんな」
 びくりとすくみ上がり振り返った阿部ではなく、山本は真っ直ぐに俺を睨み付けている。
「うちのカシラはいまだに野生の虎だ。懐いたと思って手なんか出してみろ。喰われるぞ」
「だあれが虎ですか。俺は可愛い子猫ちゃんですよ、いつでもお膝に乗せて餌くれる優しい人募集中です」
 気味悪そうに俺を見やり、山本は不自由な足を引きずって部屋を出て行った。
「山本さん見る目ないっすね。そうか、山本さんは田島さんの元兄貴分ですよね。嫉妬かな。だいたい敬語なんて使わなくて良いんですよ、若頭なんだから」
「いやあ、俺なんか本当、なあんもできねえのになあ」
 阿部は俺の返答に何か喚いていたが、ふと思考が遥彼方へと飛んでいきあまり聞いていなかった。

 あいつは得体が知れない。昔はよくそう言われてきた。俺もそう思う。俺は一体何なのか。
「よおく見ろ、一平。あれが生きている人間の顔だ」
 その言葉を、何故かよく覚えている。
 命と言うものの概念がなかった俺に、善と悪の存在すらも知らなかった俺に、山室晋三はそう言った。人間らしく生きてみよう。人間のフリをしてみよう。その先に、何かがあるのなら──。

 記憶の一番そこは、陽の当たらない酒臭いボロアパートの押し入れの中。男に組み敷かれた女が、悲鳴をあげてよがり狂っている。あとは永遠に締め切られたカーテンの向こうから聞こえる外界の声に耳を傾け、痩せ細った女の平手から逃れる時間だけが続く。
 常に飢えていた。女が残した食べ物を隙をついて食べる。食事と言う言葉すら知らなかったが、本能がそう導いた。それが俺にとっての普通だった。
 だがある日突然、女は動かなくなった。一度だけ男がきたが、すぐに慌てて出て行った。俺の存在はきっと、知らなかったのだと思う。じっと見ていたが、女が動く事は一度もなかった。
 ここにはもう食べ物がない。そう悟り、空腹に耐えかねて初めて外に出た。人気のない夜だった。素足が初めて触れた大地は、思うよりひんやりとしていたことをよく覚えている。
 人の姿をしているものは怖かった。痛い思いをしてきたから、なるべくにも人の姿をしているものがいない方へと向かううちに、鼻先に触れた匂い。嗅いだことはなかったが、なんとなく惹かれた。それは山の方からだった。匂いを頼りに少し行くと、火にかけられたなべ。その中では、しろい何かが踊っていた。ラーメンと言うものも知らなかった。だが本能はやはり的確にそれが食べ物であることを知らせてくれた。
 何も考えずに伸ばした手は、しかし突然掴まれた。驚いて視線を向けた先、頭も、顔も、縮れた毛に覆われた人がいた。
「それはおれのもんだ」
 毛むくじゃらの男はどこかもつれたようにそう言った。人の姿をしているが、顔面が毛に覆われているからか、何故か怖くはなかった。
「たべたい」
「いえでか」
 最低限の会話はできたが、家出と言う言葉は知らなかった。テレビもなく、女と話すことしかなかった人生だ。知らないことすら知らなかった。
「おやは」
 俺が首を傾げると、毛むくじゃらの男は首を横に振った。そして火にかざし俺のつま先から頭までじいっと観察し、ふうと息を吐いた。
「にげてきたのか」
「おなかがすいた」
 毛むくじゃらの男は目を丸くしたが、それっきり何も言わず、俺を座らせると鍋と向き合った。
 今にも熱湯に手を出しそうなくらいに身を乗り出す俺を牽制しながらも男はラーメンを完成させたらしい。きっちりと半分に分けて器を渡され、思わず素手で掴もうとした俺を男はまた慌てて制した。
「ばかか」
 バカと言う言葉は聞いた事があった。主に殴られる前に。この男も俺を殴るのか。そう思い身構えてはみたが、細長い棒を二つ俺に突き付けるだけだった。
「はしもて」
「しらない」
 俺は箸の存在も、使い方も知らなかった。毛に覆われていながらも男の何とも言えない顔はよく覚えている。

 男は何故かそれから俺を側に置いた。俺にしてみれば、殴られず、怒鳴られず、食事も出てくる。その存在は知らなくとも、俺にとっては天国のような場所だった。
 山の中は夏は涼しく過ごしやすく、冬は凍死しないようダンボールとブルーシート。それにどこで拾ったか分からない布団に包まり、熱した石を一斗缶に入れて暖房がわりに暖を取った。
 そんな生活は五年続いた。それなのに、覚えている会話はあまりない。男は口数が多い方ではなかったし、俺もまた言葉を知らなかった。少なからず教わったことはあったように思う。山に来る前より、少しは理解できる言葉が増えていたから。

 ある夏の日、男はブルーシートの家から出てこなくなった。布団に包まり寝たきりで、いつも通り食事を渡しても食べる様子がない。手を付けていなければ俺が食べる。それを繰り返しているうちに、袋麺やカップ麺の備蓄が尽きそうだった。俺は食事の作り方や火の起こし方は教わったが、きのみやきのこの見分け方以外、どうやって男が加工品を集めているのか知らなかったのだ。
 やがて男は微動だにしなくなった。ゆすってみた事はあったが、反応はない。ただ温かかった身体から一切の熱が失われていた事に驚いた。そのうちにブルーシートの家の中に蛆が湧き、匂いがひどく、俺は外で寝るようになった。
 腹が減った。もう何もない。川の水を飲み、きのみや草木を噛んで飢えを凌いでいたが、だんだんと立ち上がる気力もなくなり、男が作った荒削りな木の椅子に腰掛けたままじっとしている日が増えた。

 そんなある日だった。遠くから草木を踏み荒らす音が聞こえた。動物だろうか。身を隠さなくては。そうは思っても、椅子から転げ落ち、痩せた身体をその陰に隠す事しかできなかった。当然出る所は出ているが、動く気力が湧かない。
 足音はどんどんと近付き、やがて男と俺が作った獣道から一人の男が姿を現した。椅子の陰から警戒心を露わに伺う俺を見付けると、男は少し驚いたようにその鋭い瞳を見開く。
「坊主、私有地につき立ち入り禁止の看板が読めねえのか」
 何を言っているか殆ど理解はできなかった。けれど、不思議と男の声に敵意はないように感じた。
「うごかないんだ」
 俺は空腹で震える指をブルーシートに向ける。
「うごかなくなった」
 男は指差す方に視線を向け、躊躇もなくブルーシートをめくる。しばらく入っていなかったからどうなっていたのか分からないが、中から夥しい数の蝿が飛び立っていった。
「死んでるじゃねえか。ホームレスか。人様の土地で勝手に生きて勝手に死にやがって」
 大きな舌打ちと共に再び鋭い眼光が俺を捉える。
「お前はこいつの子供か」
 俺は首を振り、ブルーシートを再び指差す。
「どうしてみんなうごかなくなるんだ」
「死んでんだよ」
 首を傾げる俺を見て深いため息を吐くと、男はこちらへ歩み寄り椅子の陰に隠れる俺と目線を合わせるように腰を落とした。
「名前は。家は。親はどうした」
「どうしてうごかない」
 文字の存在も、親と言う概念も、生きる事も死ぬ事も知らなかった俺は、ただただ繰り返す。
「まいったなこりゃ」
 そう言って、男は腰を上げると数歩離れてどこかに電話をかけ始めた。
「ああ、ムネさんか。俺の山でホームレスが死んでんだ。……いやあ事件じゃねえ。自然死じゃねえかな。……不審な点は」
 ふと振り返った男と目が合う。一瞬の事だった。
「……いや、ねえな。俺が山菜採りに使ってる趣味の山だ、やめてくれよ。ただ人様の山に勝手に住み着いてたホームレスが一人でおっ死んだだけだ」
 男はその後も何やら会話をしていたが、やがて電話を切って再び俺の元へと戻ってきた。
「坊主、名前は」
 名前と言う概念が俺にはなく、やはり首を傾げる。
「ねえなら付けてやろうか。猫みてえだから、小虎とかどうだ」
 そう言いながら、ふと男の視線が俺の右手に落ちる。いつから握り締めていたのか、俺の手には好物の袋麺の空袋が握られていた。
「そのラーメンが好きなのか。じゃあおまえは一平だ」
 その男、山室晋三との出逢いが自分の人生を大きく変えるなどと、その時の俺は知る由もなかった。
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