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『Underground tigeR』
白井将生
しおりを挟むそれから俺は自分を守る存在がいなくなり、常に命の危険に晒されているような心地がしていた。山室晋三は気にかけてくれはするが、顔を合わせるのも月に数度。命を守る為、秀司さんに教わった事、今まで見てきた人々の事、その全ての知識を総動員してできるだけ人間らしく振る舞った。
そして秀司さんが死んでから半年ほど経った頃、いつまでも空席にしておけなくなったのか、山室組若頭候補として俺の名が上がった。それはもう内外とてつもない怒号が渦巻いた。候補といっても、上がった名は俺一人。三年生き残ると言う条件は伝えられなかったが、条件をクリアすれば若頭にすると山室晋三は宣言した。条件がなんであれ何故俺なのか、誰一人理解ができない。それは俺も同じだ。理解できない気持ちがよくわかる。
予想通り随分といじめられた。俺にもチャンスが巡ってきたくらいだから、自分にもあるだろうとは誰もが考えたらしい。俺が死ねばこの席につける。そんな夢を見た連中に。だが無意識に山本の足を砕いたあの日以来、俺がやり返すことはなかった。暴力は嫌いだ。それで何も晴れない事を、あの時に知ってしまったから。
そんな日々が一年経った。俺は相変わらず稼ぎも悪く、命の危険があるからと秀司さんの使っていた部屋を当てがわれたに過ぎないただの三下だった。だがその頃には少しだけ、人を騙せる位には人間というものを模倣出来ているような気はしていた。
昔の俺を知っている人は変わったといい、新たに入ってきた若者たちは、いつでも穏やかで怒る事のない俺を優しい人だと評価する。人間は面白いものだ。
そんなある朝、珍しく呼び出された俺は山室晋三の部屋に向かった。いつも険しく顰められた顔は、どこか綻んでいるように見える。
「一平、今日から面白えのが来るぞ」
「何が来るんですか」
山室晋三は顎先に手を当て少し考えると、悪戯っぽく笑って見せた。
「手負の狼かな」
俺はしばらく考え込んだ。
「怪我をした大きめの犬ですか」
「比喩だよ」
「ひゆ」
比喩とはなにか考えているうちに、山室晋三はどこか嬉しそうに呟いた。
「一平が虎なら、将生は狼だって事だな」
「まさき」
それがその狼の名前だろうか。
「あいつはヨネが命を賭けてでも守ろうとした男だ。まだ若くて跳ねっ返りだが、頭は相当キレる。あの人間性も、お前にとっては学ぶ事ばかりだろうなあ」
最近自害した國真会の若頭であった米倉輝樹と言う男の事は知っていた。確かにその下についていた若者がいた事は有名だった。歳はひとつ下で、とんでもない美丈夫であり同じくらいにとんでもない狂犬だとは広島から遠く離れたここにも聞こえてくるほど。それがその手負の狼ということだろうか。
山室晋三が面白いと言うくらいだ。どんな男なのか興味はあった。だが、その出逢いは俺の想像を遥かに超えた。俺の人生を変える人間は、秀司さんの後にはもういないと思っていた。それはどうも間違いだったようだ。
昼下がりの山室邸に現れた一人の男。どんな顔をして入ってくるのかと思えば、ちょっとした有名人を一目見ようと集まる群集を前にしてもまるで物怖じした様子はない。全てを見下した冷めた瞳。こんなむさ苦しい山室邸では見た事のない噂以上に整った顔立ちは、思わず誰もが見惚れるほどだった。
周りに倣い呆然とその派手な到着を眺めていると、ふと視線がぶつかった。俺を睨め付け形のいい唇の端を持ち上げたその表情に、俺はまた新たな人間を見たような気がした。
「あんたか、ろくに稼げもしない出来損ないの三下の癖に山室組を背負おうとしている命知らずは」
余りにも軽やかに初対面で人を愚弄するものだから、俺はおかしくなってしまった。
「そうだよ、よろしく。歳も近いし仲良くしよう」
にこにこと笑う俺を見て、その反応があまりに予想外だったのか、将生は整った顔を微かに歪めていた。
将生は噂以上の狂犬だった。これまで俺をいじめる事に忙しかった連中は、今度は暴れん坊の将生を止める事に忙しくなった。スラリと伸びた長身はまるで雑誌の表紙を飾るモデルのようだったが、その服の下は実践で使う為だけの筋肉が張り巡らされていたようだ。品のいい見た目からは想像もできないくらいに喧嘩が強い。挙句人を煽る薄汚い言葉まで息を吸うようにすらすらと出てくる。なんともおかしな男だった。
そしてその牙は度々俺に向こうとしていた。相変わらず暴力からは全力で逃げたい俺が余りにものらりくらりとかわすものだから意地になってきたのか、将生は日を追うごとに俺に絡むようになった。
「あんた気味が悪い」
兄貴衆や血気盛んな若者にあからさまな嫌味を言われてもへらへらしている俺を睨みながら、将生はいつもそう言っていた。
「こら、俺は一応兄貴だぞ」
俺もまたいつも決まってはぐらかすようにそう言った。しかしその日将生は機嫌が悪かったのか、それで諦めそうもない。何がそんなに気に食わないのか。人を攻撃したいと思った事のない俺には理解できなかった。理解できないものは面白い。
「ほら、そんなにがうがうしてると兄貴たちに可愛がってもらえないぞ」
だから少し煽ってみた。俺にとっては本当に少し。
「冗談抜かすんじゃねえよ」
言うが早いか突然腰に重い蹴りを入れられ、俺はなす術もなく障子を突き破り廊下に吹き飛んだ。その轟音に、わらわらと人が群がってくる。
「おい、将生が今度は一平と喧嘩始めたぞ」
そう言いつつ止める様子がないところを見ると、俺がこの狂犬に噛み殺されるか、はたまたこの西から来た厄介な荒くれ者との共倒れを期待しているのか。
「降参、やめてやめて」
態とらしく倒れ込んだまま身体を丸め白旗をぶんぶんと振る俺をその冷めた瞳で見下ろしながら、将生は吐き捨てた。
「弱すぎ」
多分だが、自分より僅か五センチ程とは言え背の高い大の大人を簡単に蹴り飛ばせる将生が強すぎるだけだ。これで終わりにしてくれるだろうと思っていたが、どうもやはり今日は機嫌が悪いらしい。秋口の、季節の変わり目。雨が降りしきる鬱陶しい日だからかもしれない。
「薄気味悪いんだよ」
そう言いながら胸ぐらを掴まれて、喉が締まる。
「苦しい苦しい、悪かったから離してくれよ」
それでもそう言ってへらへらと笑う俺を、将生はぶん投げるように手放した。また蹴られるのだろうか。そう身構えようとしていると、たまたま本邸に顔を出していたらしい幹部の男が荒ぶる将生の首根っこを捕まえてくれた。
「田島は図体だけでかい平和主義者なんだ。一応これでも親爺さんが認め組を預ける気のある奴なんだから、もう勘弁してやれ」
「平和主義者、こいつが?」
乾いたように笑い、将生はやっと興味をなくしたように踵を返した。
後から山室晋三に聞いた話しだが、その日は米倉さんの命日近くだったそうだ。米倉さんが自ら命を絶った日も雨が降っていて、どうやら今日の将生はナーバスになっていたらしい。こちらとしては知った事ではないし、米倉さんに俺が何をした訳でもない。それで暴力を振るわれるなんてたまったものではないが、将生がなんとも人間らしい奴なのだと知った。
しかしそもそも勘の鋭い将生には、初めて会った日から俺の性根が透けて見えていたのだろう。だが透けた先には何もなくて、未知の生き物が不快に感じ俺の中から本性を引き摺り出したい。そんな気持ちがこちらこそ透けて見えていた。だが残念ながら、俺は中身のない人間だ。いくら暴いても暴いても、何も出てくるはずがない。上っ面だけ秀司さんの真似事をして、人の皮を被っているに過ぎないのだから。
その夜、動物の鳴き声が絵と共に書いてある擦り切れた幼児本を読む俺の元に腹の虫が収まらなかった様子の将生が現れた。ノックもせずに乱暴に襖を開くものだから、俺はびっくりして本を落としてしまった。その先を追い掛けた将生の視線が、ゆっくりと俺と本との間を往復する。
「何読んでんの」
訝し気な視線をまっすぐに受け止め、俺はいつものように笑う。
「俺、文字が読めなくてさ。自分の名前も書けないくらいなんだよ。この本はぎりぎり読めるから」
「学校は」
「合わなくてなあ。一日で行かなくなった。今なら行けるかも知れねえけど」
拾い上げた本を軽くはたき、本棚に戻す。秀司さんが読んでいた沢山の本は、読まれないまま埃をかぶっている。いつか、この本棚全て読めるようになるだろうかと俺はいつも考える。
「どうやって生きてきたわけ」
背中にそう問われ、懐かしい思い出が蘇った。
「親が死んで食いもんないから逃げたらホームレスに拾われて、山の中で五年くらい。ホームレスが死んでたまたま親爺さんに拾われて、ここにきた。秀司さんには随分目を掛けてもらってな。ひらがなは教わった。やっと漢字に入ったとこで、死んじまってさ。だから将生の言う通りろくに稼げない俺が若頭なんて大層なもんの候補に名を上げられたのは、別に俺に何かある訳じゃなくて、俺は山室晋三の三男坊みたいなもんだってだけだ」
将生は興味があるのかないのか、相槌も打たず、だが何故か襖を閉めると無遠慮に机に腰掛け長い足を組んだ。
「あんた、別に喧嘩弱くないでしょ」
自分で投げた問いの答えを聞いているのかいないのか、余りにも突然で俺は笑ってしまった。
「いや、弱えよ俺は。まともに喧嘩なんかした事ないからさ。暴力は嫌いだ」
「教えてやろうか」
そう言いながら、将生は煙草に火を付ける。
「いやあ、いらねえ。そんな事より漢字を教えてほしいね。あとその臭えの俺の部屋で吸うなよ」
皆何が良くてそれを吸っているのか分からないが、俺はその匂いが苦手だった。飯が不味くなるから。
「煙草吸わないの」
将生は驚いたようにそう言って、何故かそんな所だけ素直に付けたばかりの煙草を揉み消した。携帯灰皿なんてちゃんと持ち歩いている事にも驚くが、変な所律儀なようだ。
「酒は」
「飲めなかないが、酔えねえみたいで。俺はカルピスが一番好きだよ。栄養ありそうな気がしてさ」
気がするだけで、そうでもないのかも知れないが。
「変なやつ」
「だから俺兄貴だってば」
別にタメ口を聞かれようが、お前だあんただと呼ばれようがどうでもいい。だが人はそう言うことを気にするようだから、コミュニケーションとして言っているだけだ。
少し物思いに耽るように視線を畳に投げていると思えば、不意に将生は机の上にあった紙とペンを取ると、すらすらと何かを書き始めた。本当に行動の読めない男だ。
すぐに書き終わったそれを俺に向けてずいと突き出して、将生はどこか照れ臭そうに視線を逸らす。
「これ、田島一平。自分の名前くらい、書けるようになれよ」
突き出された紙に書かれたその四文字を見て、何故だか顔の筋肉がふやけるような心地がした。これが俺の名前か。そう思うと緩まった頬が無意識に持ち上がる。
「将生は。どう言う漢字書くんだ」
俺は思わず紙を机に置いて腰を下ろし、初めて何かを教わる子供のような心地で将生を見上げた。
「そんなもん、知ってどうすんだよ」
そう言って、将生はどこか不恰好な笑みをその均整の取れた美しい顔に浮かべた。
ああ、本当だ。この男は面白い。
白井将生と言う男に出逢い、確かに俺は再び強く感じた。人間は面白いものだ。将生は俺とは違う。本当は誰よりも心がある癖に、まるでないようなフリをする。俺と対極にいるような不思議な男だった。何より面白かったのは、周りの評価が真逆である事。ただ自分が暴力から逃れるために人間を演じる俺を情に厚い人だと言い、誰よりも情の深い将生を人の心を持たない冷血漢だと言う。
不思議だった。確かに俺たちは対極にいる。それなのに、ひどく似ているような気もする。だがやはり本質は真逆。それは、どこか鏡に似ているような気がした。
将生はそれからも悪態をついて噛み付いてはきたが、気が向けば俺に漢字を教えてくれた。算数や、たまには小難しい本を読み聞かせてもくれた。少しづつ狂暴さも収まり、周りの連中とのつまらない喧嘩も遂にはしなくなった。だが相変わらずヤクザとしてうだつの上がらない俺と違い随分と稼いでいたようで、山室組に鞍替えし一年も待たずに部屋住から抜けてしまった。将生の金の稼ぎ方は尋常じゃないらしく、あっという間に俺の立場も追い抜いていく。まだまだ秀司さんの本は読めそうもないのに、もう漢字を教えてくれないのかと思うと残念でならなかったが、時を同じくして約束の三年が経った。生き延びてしまった。のうのうと。
将生に出逢わなければ、もしかしたら三年は持たなかったのかも知れない。
山室組若頭として正式に俺が決まった時、相変わらず俺はまだ部屋住の三下。しかも相変わらず誰よりも稼ぎが悪く、週二のコンビニのバイトで稼いでいるのかと罵られるくらいだった。正に前代未聞。傘下の組長クラスも眉を顰め、耄碌ジジイと陰口を叩くほど。それでも山室晋三は何ら気にするそぶりは見せず、相変わらず俺に人間を見て学べとだけ言い続けた。
そんな俺にも多少の危機感はあった。このままだと恥をかくだけだと定時制高校にも行ってみた。週二バイトのお前にそんな暇はないと周りは憤慨していたが、山室晋三の鶴の一声で入学。だがすぐに辞めてしまった。理由は単純で、面白くなかったのだ。定時制高校と言えど俺のように一切の学がない人間を教える場所ではない。生徒はたくさんいる。率直に、授業の七割も理解できなかった。唯一家庭科の調理実習だけは楽しかったが、毎週ある訳でもない。同じクラスの生徒とも仲良くはなったが、退学して一、二度会ったっきり気付けば連絡を取らなくなっていた。
暴力と暴言だけを受ける毎日はつまらない。つまらなくて仕方がなかった。秀司さんに色々な事を教わって生きた日々、将生にどつき回され、やがて互いを理解し合い鏡の中の自分を見るように過ごした日々、あれが幸せと言うものだったのではないか。毎日毎日山室晋三の目を盗んだ卑劣な暴力に晒され疲れ果てた俺は、そんな事まで考えるようになった。
最近田島が引きこもり始めた。そんな風の噂が流れる程、若頭となって一年経つ頃には俺は部屋から殆ど出られなくなっていた。何もかもがつまらない。
そんな俺の元に尋ねてくる者は、山室晋三を除いては一人だけ。立場が明確に変わってから敬語を使ってくるようにはなったが、俺たちの関係の本質は変わらない。
「どうです、イジメられる気分は」
今日もまた昼飯を食べに出ただけで難癖つけられて殴られ滲んだ血を拭っていると、将生はそう言いながら無遠慮に襖を開けて入ってきた。周囲の連中は嬉々としているだろう。引きこもりになった俺と狂犬と恐れられた男が二人きり。これは流血沙汰になるのではないかと。
「暴力は嫌いだね」
「同感ですよ」
皮肉な笑みを浮かべ定位置の机に腰を下ろす将生を、俺は信じられない面持ちで見上げた。
「誰が言ってんだ。昔は毎日毎日飽きもせず大騒ぎしていたじゃねえか」
「顔がいいってそんな事ばかりなんですよ。俺のケツ狙うなんて百年早い」
そんなことが理由で暴れていたのか。絶対にそれだけだとは思えないが、そりゃあ徐々に暴れなくなる訳だ。将生が三下のチンピラなんかとよろしくやるとは思えない。挙句あれだけ腕っぷしがあれば、諦めもつくだろう。
「色男は大変だね」
俺は色男じゃなくて良かったと心底思う。将生はふと思い出したように未だへらへらと笑う俺を見下ろした。
「あんた、そう言えば一度も女いないらしいね」
確かに俺は周りが一番盛り上がる女と言うものを持った事がなかった。一体何故そんなに盛り上がるのかが分からない。
「そう言うことは教わらなかった」
将生は呆れたような溜息を吐く。
「バカだな、本能ですよ」
「本能」
ああ、そうか。あれは本能だったのか。
「だとしたら俺にはないかもねえ。俺は、人工だから」
「気味が悪いね」
本気でそう思っているのかいないのか、曖昧な微笑を見上げる。
「そんじゃあ俺に本能が芽生えたら、将生がその本能の使い方を教えてくれよ」
「話聞いてます?」
侮蔑を含んだ視線で俺を見下ろしながらも、将生はその容貌に似合う不適な笑みを浮かべた。
「まあ、田島さんは全く趣味じゃないですけど仕方なく相手してやってもいいですよ。基本的に俺は来るものは拒まず抱くたちなんで」
「それ俺が抱かれるってこと?」
「当たり前でしょう。俺は悪いですけど抱かれる趣味はないんですよ」
考えてみたが、少し想像しただけで身震いする。
「ええ、やだなあ。痛そうだ。痛い事が嫌いなんだよ俺は」
「痛みを感じる脳みそはあるんですね」
「あるよ。俺を何だと思ってんだ」
どんな罵り方だ。
「見ろこの傷を。痛えんだよこれ」
むくれながら今一番痛い腹の刺し傷を見せてやるも、全く興味がないようで。将生は腕に光る時計に視線を落とし、どこか冷めた様子で呟いた。
「今日は時間があるんですが、引きこもりの若頭はどこか行きたい所はありますか」
「なんだそれ」
そう言いながら微かに滲む将生の照れ隠しにふと気付く。ああそうか、気を遣ってくれたのか。大の大人がいじめられていじけて引きこもっているなんてだらしがないとも言わず、慰める事もせず、全く憎たらしい奴だ。将生の情けに俺は自然と微笑んでいた。
「動物園かな。あの虎、生きてるかな」
秀司さんとよく行った動物園。好きだったそこに、もう何年行けていないだろう。
将生が車を出してくれて、俺たちは動物園へと向かった。白昼堂々スーツの男二人が入場券を買いに来たものだから、バイトの女の子は少し面食らっていたが。
園内を俺の好きな順番で、好きなペースで歩く。バクの檻の前で三十分動かなくても文句も言わず、急かす訳でもなく。将生はただ俺の後ろをポケットに手を突っ込んだまま、それも照れ隠しなのか気怠い感を全面に出しながら付いてくる。
久しぶりに訪れた動物園は、やはり俺が一番好きな場所だ。俺が気に入っていた虎はとっくに死んでしまっていたが、新たな命が彼のいた場所で欠伸をしていた。
何故サイに角があるのか。何故象の鼻は長いのか。何故虎の身体は縞模様なのか。何故──幼い頃のように、生き物に触れ疑問を持つ事が楽しくて仕方がなかった。野生児のように生きてきた俺の前には、いつでも知らない世界が広がっている。知る事の楽しさ、それを秀司さんが教えてくれたのだとようやく気付く。もっと早く気付ければ良かった。せめて、生きているうちに。
数年ぶりの動物園はやはり楽しかった。モルモットの餌やりタイムに小さい子供に混ざりうきうき参加する俺を心底冷めた瞳で見つめていた将生は、それでも何も言わず俺が満足するまで付き合ってくれた。やはりこの男は不思議だ。何故そこまで他者を拒絶するのか。俺に対してそうであるように、もっとその本質を曝け出せばきっと敵は随分と減るに違いない。今のままじゃあ生きづらいだろうに。そうは思うが、それが白井将生と言う男なのだ。だからこそ、将生は面白い。
帰りに二人で居酒屋に寄った。その頃には鉛を飲んだように重かった身体が軽くなっていて、俺は素直に将生に頭を下げた。
「ありがとうな、将生。気分が晴れたよ」
そう言えば最近入った動物好きな若者がいたから、そいつを連れてたまには動物園に行こう。俺が呑気にそんなことを考えている横で、将生は随分と長い事考え込んでいた。
ウーロン茶とカルピスを頼み、俺が夕飯代わりに唐揚げと白米を頬張っていると、将生はようやくその重い口を開いた。
「人は、勝手に人の価値を決めるもんです。あんたの価値は今ゼロに等しい。その価値を上げるには、自分自身で磨いていくしかない」
何を言い出したのかと顔を上げ、俺は口を挟むことをやめた。忙しいだろうに、わざわざ行きたくもない動物園に付き合い、恥ずかしいだろうに、俺が子供に混じりモルモットの餌をやっている姿を見守って。
いつでもそうだ。ただ鼻先の事だけを見て、如何に今この瞬間痛みのない平坦な道を歩むかしか考えていない俺と違い、将生の瞳はいつでも遥か遠く、死という未来を見据えている。死ぬ前に何が出来るか、何をするべきか、将生は常に思考して生きている。分かっている。いつかは死ぬんだ。秀司さんのように、一秒後に突然人生は終わるかもしれない。それでも俺はまだ死と真っ向から向き合うには精神が成熟していない。理解が出来ないと言った方がいい。何故突然みんな動かなくなるんだ。まるで、眠るように。だからこそ将生のような生き方は絶対にしたくはないが、ある種憧れに近い感情もまたある。
「勉強って自分でもできるんですよ」
将生はそう言うと、厳しい瞳を俺に向けた。
「暴力が嫌いなら、賢くならなくちゃならない」
既に深い傷を負った将生しか俺は知らない。将生はそう生きてきたのか。類稀な美貌故に向けられる暴力から身を守る為、自らを磨いて来たのだろうか。
「あんたならなれるでしょう。なりたい自分に」
ああそうか、待つだけではダメなのか。三十にもなって、俺は初めてそれを知った。
俺の人生は、全てが受け身だった。世界は厳しくとも、俺に手を差し伸べる人間は親切だったから。皆教えてくれていたはずだ。俺が自らの意志で生きる事を。人生とは、そこから始まるのだと。
俺が、なりたかった人──。
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