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『Underground──』
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一日目──なるべく何時も通りに過ごそうと、一人の寝室で朝六時半に目を覚ます。俺のペースで行かなければあの頭の切れる男には勝てない。
昨晩は取り敢えず戦前として互いに別の部屋で眠った。よく眠れたかと言われれば、そんな事はある訳が無くて、だけど持ち前の神経の図太さでそれはカバーするしか無い。
カーテンを開くと重い雲が所狭しと犇き合って、空を犯していた。鈍色に輝いて見える一点だけが、余計に不気味だ。
珈琲でも飲んで朝の一服をと思い扉に近付いた俺は、ノブに掛けた手を一瞬ピタリと止めた。扉を開く前から漂う、香ばしいトーストの匂い。嫌な予感がして慌ててリビングに出ると案の定。厳つい中国人が鼻歌交じりで台所に立っていた。髪をセットしていないからか、何時もの鋭利な雰囲気は無い。それどころか、両脇に追いやられた長い前髪が動きに倣いふわふわと揺蕩う様に、何処か柔らかな印象さえ受ける。
余りにも予想外だった光景に珍しくぼんやりと立ち尽くしていた俺に気付いた劉は、鋭い瞳を細め朗らかに微笑んだ。
「おはようございます。早いですね。朝食はパンで良いですか」
何となく気圧されて頷くと、招かれざる客の筈が、その手によって手際良く朝食がセッティングされて行った。
ふと気付けば愛用のサロンエプロンが大人しく奴の腰に巻かれて気取っている。愛用のコーヒーカップも、愛用のトースターも、簡単に寝返りを見せた。
苛立ちながらも椅子に腰を落としてはみたが、早くも相手のペースで始まった朝は機嫌ばかりが下降する。
「良い年した男が二人、向かい合って朝食とはな。全く色気が無い」
態とらしくぞんざいに吐いた俺に、劉は柔らかな笑みを浮かべた。
「貴方は艶っぽいですよ。それに男は四十からと、私の師の口癖でした」
「何の師匠だ」
質問した筈なのだが、劉はやはり小さく微笑んで白いカップに口を付けた。
朝七時のリビングは、何時もとあまり変わらない。純平がいても、いなくても。他人に左右される事の無い人生。それが長年、俺だったはずだ。
だが今日に限って言えば、金属が陶器に掠める微かな音さえもやけに鋭く突き刺さる。ちらりと前を伺えば、相変わらず不気味な位穏やかな表情がある。呑気に飯なんか食っているフリをして、一体腹の底で何を考えているんだか。分からない事に焦燥は募るばかり。
そんな似合いもしない苛立ちから逃れるように、俺は自ら作った簡単な朝食を心底美味そうに口に運ぶ目の前の男に乱暴な言葉を投げた。
「あんた、何でそんなに事細かく俺の情報を仕入れられるんだ。敵対する日本のヤクザにだって、俺の動きをここまで詳細には分からない筈だ。あんたの所はそんなに有能な情報屋を飼ってるのか」
嫌味でもなく、それ程優秀な人材なら紹介して欲しい位だ。
俺の詰問を受け困ったように微笑んだ劉は、何処か切な気に眉を顰めた。
「貴方は少し、私を勘違いしてますよ。まあ、私がそうしたのですがね。正確に言えば、私は組織の人間では有りません」
「どういう事だ。劉秀蓮と言う名だけは海を越えたこの国でも幾度か耳にした事はある」
初めて会った日に、俺が勘でこの男の名を言い当てたのもそんな噂を耳にした事があったからだ。もっとも、名だけだが。何でそんなにも裏社会の重鎮達を唸らせたのかは、俺も知らない。まあ無理もない。この世界は全て、隠し事で出来ているのだから。
だが様々な情報や、初対面の時の態度のおかげでこの男が福建マフィアの人間だと疑ってやまなかった俺にとっては、些か予想外の発言だ。
「あんた、本当に何者だ」
怖いもの知らずの俺にだって見えないものは何よりも恐ろしい。それが、俺のケツを執拗に狙う狼なら尚更だ。
話している時は一時も俺から目を逸らさぬ男は、何故かふいと視線を泳がせ、尖った横顔の流麗なラインだけを見せ付けた。
「そうですね、この国で言えば、掃除屋さん……ですかね」
俺はその答えに納得したのと同時に、意図せず息を詰めた。殺し屋、か。どうりで寸分の隙も無い筈だ。例え山室を残しておいたとしても、きっとあの気の良い男は物体となってこの床に転がった事だろう。そして俺は、そんな死骸の脇でこの男に可愛がられていたかもしれない訳か。想像もしたくないな。
悍ましい妄想から逃れる為に引っ張り出した記憶は、この男との初対面であった。車内で交わした刺々しい会話。それこそ裏社会を生きる人間同士の、探り合い。
「つまり、半沢武志の件も殺しで追っていた訳か。あんたを贔屓にしている福建マフィアの依頼で」
劉が小さく頷き、切れ上がった眼は再び俺を捉える。揺らぐ事の無い、漆黒が深い双眸。今迄会った誰よりも恐ろしい男だと、素直に感じた。
「……奴は、始末したのか」
無意識に口をついた言葉に、劉は不思議そうに小さく首を傾げた。
「ハンザワとは、親しかったのですか」
「いいや、忘れてくれ」
哀れな弟の養父。それだけのあいつが死んだとして、俺にとっては関係無い。何よりもう二度と会う事もない弟の養父など、街で擦れ違う高校生位の他人。気にする方が不自然だ。
これ以上この話しをしていては俺の分が悪くなる事を察し、俺は常々の疑問をぶつける事にした。
「何故ここまでして俺に固執する」
容貌が美しいだけではこんなにもこの男の心を捕らえる事はなかっただろう。俺は人を狂わせる事に関して言えば天才だ。だが、それでも腑に落ちない。この男が、危険を冒してまでもたかが人間一人を手に入れたいと思うのだろうか。
その答えは、迷う事無く告げられた。
「貴方と私は似ている。とてもね。だが圧倒的に違う部分がある故に、私達は互いに惹かれ合う運命にあるんです」
真剣な面持ちで吐いた男を前に、俺は思わず声を上げて笑ってしまった。
「俺が、あんたに惹かれるって。冗談はよしてくれ」
この数時間で見慣れた男は、相変わらず胸糞の悪い微笑みを湛えてそんな俺を見詰めている。無性に腹が立って仕方が無い。
「俺は誰にも惹かれない。誰にも心を許しては来なかったし、誰も俺に踏み込む事は出来ない。それが俺だ。可笑しな夢を見るのはよせ」
「そうですか。でも、私の腕の中で泣いていた貴方はとても可愛かったよ、マサキ。素質はあると思います」
俺は己のこめかみが痙攣する感覚を久しぶりに覚えた。
「良い加減口を閉じてもらえないか。あんたの事、今にも殺してしまいそうだよ」
洒落にもならない挑発。向こう見ずな宣戦布告。
「ならば、試してみましょうか」
俺が身を引くよりも素早く、腕を取られ身体が自由を失う。静かな食卓が一変、衝撃で食器が跳ね上がり、耳障りな騒音が鳴り響いた。
ぐいと引かれた身体は、抗う術も知らずに厚い胸板へと導かれ、我に返ったその時には、既に俺は無防備な獲物と化していた。何とか足掻いてはみるが、引かれた腕は背中に回っていて胸を押し返す事も出来ず、腰に回された男の腕が余りに強すぎて、足をバタつかせ変なステップを踏む事しか出来ない。
「私が嫌いなら、もっと本気で抵抗したら如何です」
「やってる……!」
くそ、腹が立つ。俺だって同じ男なのに、片腕でこうもあっさりと自由を奪われるなんて。
奥歯を噛んでもがく俺の顎を持ち上げ、劉は愛おし気に瞳を細めた。一瞬、その眼差しに呑まれた隙をついて、しじまに響く、微かなリップ音。続いて啄ばむように落とされる口付けを拒もうとしても、固定された顎が痛むだけで逃れる事が出来ない。
「やはり私は、貴方が欲しい」
濡れた瞳で囁かれた愛の告白は、俺にとってはまるで死刑宣告だ。可愛らしかった行為も、熱を帯びてゆくのは必定。次第に深くなる口付けは、脳に廻るべき酸素を尽く奪い去って行った。
苦しくて漏らす言葉にならない呻きは喉を震わせ、無情にも男の欲情を煽るばかり。舌が絡み合う度に、微かな水音がいやらしく響く。その舌技に絆されて、次第に抵抗も弱々しくなってゆく。
悔しいが、この男は旨い。薬で犯された日には気付かなかった真実も、こうして起き抜けの脳だとより鮮明に感じる。
ようやく解放された時には既に、俺は自立する事も容易では無くて、情けなく広い背中に縋り付いていた。
「貴方は余程キスがお好きなんですね。直ぐに感じ入ってしまう」
劉の瞳に映る己の顔は、言う通り融けて見えた。しつこく吸われた口腔が混ざり合った唾液で犯され気分が悪い。
「冗談じゃない」
元来の気性で跳ね除けようとするも、やはりそれも叶わず。相変わらず腰に回された腕が、熱を持ち始めた互いの身体をより強く密着させる。
「少し、素直になったら如何ですか。今は私達二人。虚勢を張る必要も無い」
何を馬鹿な事を、とでも言おうかと思った所で、けたたましくインターホンが鳴り響いた。一瞬二人して顔を見合わせたものの、直ぐに劉は意地悪く微笑んで見せた。
「どうしますか」
「出られる訳、無いだろ」
いちいち腹が立つ。だが来客に応じないと知った狼は、待ち切れず獲物を食卓に引き摺りあげた。食器が騒音を立て、俺の身体を中心に左右に割れる。
両手を頭の上で捕らえられ、足の間には筋肉質な太腿。人の自由を奪う事に長けた殺し屋の相手ほど不毛なものは無いけれど、噛み付かない訳にもいかない。
「信じられない。朝食位、まともに食えないのか」
朝は何時も穏やかであるよう努めているって言うのに。自分のペースを乱され冷静さを欠く俺が心底面白いのか、劉の生意気なしたり顔はより生き生きと艶めいた。
「今こうして、ゆっくりと味わおうとしているじゃありませんか」
最早返す言葉も見付けられない俺を尻目に、劉は食卓の上に置かれていた、この男が飾ったらしい一輪挿しの花瓶を徐に持ち上げると、何を思ったのか俺の胸の辺りでひっくり返した。当然ぼたぼたと垂れた水は否応無しに服に染み込み、素肌に冷たい感覚を突き刺した。
一体何しやがるんだと睨め上げる俺には目もくれず、男の骨張った武骨な指先は、薄っすらと肌の色を透かす胸元をもどかし気に這い回る。寝巻きに白いティーシャツなんか、着るべきじゃない。そう思ったのは初めてだ。
「あんた、本当に変態だろ」
毒にもならない嫌味を吐くと、劉は少し照れ臭そうに微笑んで見せた。冷たい水の刺激で勃ち上がった胸の蕾は、緩やかに撫でられ更にぷくりと腫れ上がる。意思と反し、触ってくれとでも言いたげに。
「いただきます」
そう言うが早いか、分厚い舌が布越しに胸の上を這い回る。何とか歯を食い縛ってみたものの、知り尽くした男の技は、やはり感心する程だ。繊細で、しつこくて、酷く官能的な愛撫。時折垣間見える凶暴性が、一番俺の身体にとっては厄介だ。
濡れた布越しに甘噛みされる度、腰が跳ねる。加えて水分を含んだ布地を吸い上げる音が、否応無しに鼓膜を刺激する。
「やめろっ!」
「本当に嫌なんですか」
両足の狭間に割り込まれた太腿で下肢の中心をゆっくり摩られ、頭にかあっと血が昇る。
「ではこれは、どう言う事ですか」
僅かなりと反応してしまった身体。随分と抜いてさえいないのだから、当然と言えば当然なのだが、こんないけすかない男に弄ばれても快楽に素直な人体が恨めしく感じる。そんな他人の羞恥を敏感に察した男は、態とらしく太腿を押し付けた。ここで狼狽えては完全な敗北。それはどうにかして避けなければ。
口元だけで作る、不恰好で皮肉な笑み。
「随分久しぶりなんでね。でも、これ以上はイかないみたいだ。ねえ、あんたの本気はそんなもん?これじゃあまるでガキの戯れ合いだ。減滅させないでくれよ」
この負けん気の強さが何時も破滅を招く。そんな事は痛い程に承知でも、悪態だけは滑るように口をつく。視線だけで俺を睨め上げた劉の薄い唇もまた、歪な弧を描いた。
「それでこそ、貴方だ」
だがこれから正に戦いが始まろうかと言う張り詰めた緊張感をブチ破るように、玄関の扉が開く音が響いた。思わず身構えたのは、俺だけでは無い。
「あれ、チェーン掛かってる。将生さーん、阿部ですー」
廊下の向こうで聞こえた声が余りにも間の抜けたもので、俺は一気に全身の力を抜いた。あの万年三下の屑野郎。何で何時も何時もこうタイミングってもんを知らないんだ。
「ウチの下っ端だ。出なきゃまずい。あのバカ、チェーン切って入って来るぞ」
それは劉にしてみても、避けたい事態だ。阿部も一応組織の人間。単独で巨大な存在に歯向かう程、頭が融けてはいない筈。
「そうですね」
心底不機嫌そうに吐き捨てながら、やはり劉は俺の上から身体を退けた。
この濡れたティーシャツはどうしたらいいものかと思案する間も与えず、玄関からは乱暴にチェーンを揺する音がする。これ以上放っておく訳にもいかず、俺は慌てて玄関に向かった。
少しだけ開いた扉の隙間から覗く間抜け面は、俺に気付いた途端眉を顰めた。
「あれ、将生さん何か息上がってませんか。て言うか、濡れてますけど」
「風呂だよ」
それ以上詮索するなと視線で訴えても、バカには通じないようだ。阿部は疑いの眼差しで俺を睨め上げた。
「……何か、キツイ香水の匂いしますけど。誰かいるんですか」
「いない。良いから帰れ」
僅かな隙間から飛び出した不細工な顔を潰してやる勢いで扉を閉めにかかる俺を前に、阿部も必死で抵抗を見せる。
「ええ、何か可笑しいですよ。あ、新しい女ですか。いやあ、良かったですよ。あの中国人にヤられてから、本当に将生さんそっちにいったのかと────」
続く言葉を遮るように、俺は引き攣る顔面に、満面の笑みを貼り付けた。
「五体満足でこのマンションから出たいなら、あと三秒やる」
扉は一秒を待たずに勢い良く閉ざされた。
阿部を追い返し憂鬱なリビングに戻ると、先程迄盛っていた男は、何ともない顔をしてクロワッサンの端を千切り口元に運んでいた。踏み荒らされた朝食の花壇も、元の通り秩序を重んじて居直っている。まるで寝ぼけていたのかと疑ってしまう程、そこに淫靡な空気は残されていなかった。ただ濡れた白いシャツだけが、薄らぼんやりと皮膚の色に染まるのみ。
狼狽えると負ける気がして、俺は目の前の男と同じように、何ともない顔をして身に馴染んだ椅子に腰を据えた。だがどうにも、好戦的な性は収まってはくれず──。
「あんた、香水キツイってさ」
皮肉めいた笑みを自然に形作りながら、やはり毒にもならぬ負け惜しみを零した。三日月型のパンからゆっくりと上る鋭い眼光が俺を射抜く。
「どうにも落ち着かなくてね。この身に染みた血の匂いが、鼻先を擽る気がして」
冗談か、本気なのか。相変わらず探りきれない深い笑みを湛えながら、劉は再び優雅に朝食を口元に運んだ。
それから静まり返った食卓で、俺はぼんやりと考えた。
一体どうして、この男を力技でも追い出してしまわないのだろう。幾ら昨今日本の極道者が抑圧されていると言っても、表の人間を飼い慣らしている俺ならば、幾らでも方法はある。それこそ今から動き出せば、夕方にはこの男の姿が俺の目の前から消え失せるだろう。無意味なゲームなんかしなくても、永遠に会わない方法だって簡単だ。多少懐が痛む位で、俺のこの平穏と貞操を守る為ならば安いものだ。何の為に面白味もない仕事なんてして、金を稼いでるんだ。こう言う時の為だろう?人生においての邪魔者を踏み潰し、道を整備する為の金だ。それ以外、何の使用用途がある。
なのに何故、俺は思い留まっているんだ。
「どこか行きたい所はありますか」
不意に劉はそう言うと、人の良さそうな笑みを仏頂面の俺に向けた。何処に行きたいとは、そのまま捉えていいものか。この男の事だから、何か思いがけない意図を含んでいないとも限らない。それこそ俺のように、何気ないと捉えられる言葉一つでさえ鋭利な棘を持つ人間だ。
一瞬思案した挙句、俺は素直に疑問を口にした。
「それはどう言う意味だ」
「折角の休日ですから、貴方には楽しんで頂きたいと思っているんですよ」
相変わらずのらりくらりとかわしにかわされている気がしてならない。
こんなにも他人に気持ちを揺さぶられる事にこの上ない嫌悪感を抱きながら、但しこの場はそれに身を任せるべきだと本能が告げる。
劉の思い通り、この驚愕の事態に内心狼狽えていると信じ込ませておけば、最悪機嫌は損ねない。相変わらず俺の真黒な腹の中は、どんな時でも意味の無い打算で満ちている。
「一人で好きな所に行ってきて下さいよ。生憎自分の庭をあんたと並んで歩ける程俺はおめでたい思考は持ってない」
それこそ組の連中に見付かったらどうなるか。想像するだけで全身から震えが湧き上がる。そんな憎まれ口になんら怯む事なく、劉は何かを思い付いたように瞳を輝かせた。
「では少し離れた動物園にでも行きませんか」
「行かない」
何なんだ一体。バカなのか。何が楽しくていい年した男二人で動物園なんか行くんだ。そんなバカは田島さん一人でいい。この男と連れ立ってなんて、それこそ想像したくもない位気味が悪い。何より、何でこの変態と喜んでそんな温和な時間を共有しなきゃならないんだ。
結局俺逹は間を取って、適当に東京の街を流す事で落ち着いた。考えなくとも嫌な思い出しかない、プライベート仕様のメルセデス。助手席で不貞腐れる俺の横には、上機嫌な異国の男。これを悪夢だと思い込むには少しばかり、長過ぎる。
そもそもこうして奴の手中に嵌り、のこのこ車に乗り込んでいる時点で俺にはやはりある種危機感が足りないのかも知れない。それは人間に於いては最も重要な、"命"に関してのモノだ。自殺をする気は毛頭無いし、自ら命を手放す事への嫌悪は人一倍強い。だが俺はどうやら、無意識のうちに我が身を危険に晒す道を選んでしまう癖がある。全く嫌になる。
流れる景色をやはり不機嫌に見送る俺の隣で、不意に劉が囁いた。
「貴方はどうして、この道に」
どうしてか──少しばかり考えてみたが、その理由が下らなすぎて思わず自分で笑ってしまった。
「俺は、天才だ」
予想外だったのだろうか。丁度良く赤に灯った信号から視線を離し、鋭いながら何処か真っ直ぐな瞳が俺を写した。だがその瞳の奥底に根付くモノは、不本意ながら俺とやはり似た性質を持っていた。
「分かるでしょう。貴方も同じ臭いがする。勉強、スポーツ、金儲け。何をやっても簡単に出来てしまう。躓く事が無い。正確に言えば、俺達はその躓きが何ら問題では無い事を知っている」
劉は静かに俺の言葉を聞いていた。だから出来得る限り、俺は冷めた笑みを作ってやった。
「詰まらないんですよ、人生が」
自分でも驚く程に温度を持たない声が吐き出したものは、何も隠す必要の無い、真実だ。その気になれば何もかもを思い通りに動かす事は可能だ。それは意志を持った人間でも。俺は他人に嘘を吐いて罪悪感など覚える人間じゃない。嘘も貫き通せば真実となるのだから。
だが未だ俺の枷となり、そして死ぬ迄この身を蝕む思念がある。
「だから俺は、唯一思い通りにならなかったこの世界で生きている」
たった一度。二度と償えぬ過ち。長年目を逸らして来たその真実に、気付かせてくれたのは劉だ。
この世でたった一人、どう足掻いてみても掴む事の出来なかった人物。俺の心に踏み入る事が出来たのも、未だあの男だけだ。今もまだあの頃のままに愛しているか。そう問われると、答えはイエスじゃあない。だが今も変わらずに思う。俺の隣で、生きていて欲しかった。
とは言え感傷的になるのはガラじゃない。何よりこんな話、面白くもない。一瞬窓の外に流した視線を、俺は努めて平静に運転席へと向けた。
「それじゃあ貴方は。どうして殺し屋なんて割に合わない仕事に」
皮肉を込めて問い掛けると、劉は自嘲気味な微笑みを横顔に咲かせながらゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「御存知の通り、我が国中国の貧富の差は未だ目を覆いたくなるような現状です。私はね、都会から遥か離れた寒村に産まれたのですよ」
日本で生きていては想像も付かない生活を、この男はして来たのだろう。だが僅かな沈黙さえ悲壮感を呼び起こす事を嫌ったのか、劉はすかさず続けた。
「そう言う所では今尚人身売買が根強く残っているのです。私も例外ではなくてね。五つの時に売られ、その時より、黒道に堕ちた」
良くある話です、と付け足して、少しだけ寂し気に微笑んだ男の横顔が、何故か身に馴染んだもののように感じた。
その日はそれっきり。大して記憶に残る会話もしなかった。劉の匙加減で連れ回され、挙句夜はまた別の部屋で眠った。いつ牙を剥くかと身構えていただけに、肩透かしを食らった気分だった。
昨晩は取り敢えず戦前として互いに別の部屋で眠った。よく眠れたかと言われれば、そんな事はある訳が無くて、だけど持ち前の神経の図太さでそれはカバーするしか無い。
カーテンを開くと重い雲が所狭しと犇き合って、空を犯していた。鈍色に輝いて見える一点だけが、余計に不気味だ。
珈琲でも飲んで朝の一服をと思い扉に近付いた俺は、ノブに掛けた手を一瞬ピタリと止めた。扉を開く前から漂う、香ばしいトーストの匂い。嫌な予感がして慌ててリビングに出ると案の定。厳つい中国人が鼻歌交じりで台所に立っていた。髪をセットしていないからか、何時もの鋭利な雰囲気は無い。それどころか、両脇に追いやられた長い前髪が動きに倣いふわふわと揺蕩う様に、何処か柔らかな印象さえ受ける。
余りにも予想外だった光景に珍しくぼんやりと立ち尽くしていた俺に気付いた劉は、鋭い瞳を細め朗らかに微笑んだ。
「おはようございます。早いですね。朝食はパンで良いですか」
何となく気圧されて頷くと、招かれざる客の筈が、その手によって手際良く朝食がセッティングされて行った。
ふと気付けば愛用のサロンエプロンが大人しく奴の腰に巻かれて気取っている。愛用のコーヒーカップも、愛用のトースターも、簡単に寝返りを見せた。
苛立ちながらも椅子に腰を落としてはみたが、早くも相手のペースで始まった朝は機嫌ばかりが下降する。
「良い年した男が二人、向かい合って朝食とはな。全く色気が無い」
態とらしくぞんざいに吐いた俺に、劉は柔らかな笑みを浮かべた。
「貴方は艶っぽいですよ。それに男は四十からと、私の師の口癖でした」
「何の師匠だ」
質問した筈なのだが、劉はやはり小さく微笑んで白いカップに口を付けた。
朝七時のリビングは、何時もとあまり変わらない。純平がいても、いなくても。他人に左右される事の無い人生。それが長年、俺だったはずだ。
だが今日に限って言えば、金属が陶器に掠める微かな音さえもやけに鋭く突き刺さる。ちらりと前を伺えば、相変わらず不気味な位穏やかな表情がある。呑気に飯なんか食っているフリをして、一体腹の底で何を考えているんだか。分からない事に焦燥は募るばかり。
そんな似合いもしない苛立ちから逃れるように、俺は自ら作った簡単な朝食を心底美味そうに口に運ぶ目の前の男に乱暴な言葉を投げた。
「あんた、何でそんなに事細かく俺の情報を仕入れられるんだ。敵対する日本のヤクザにだって、俺の動きをここまで詳細には分からない筈だ。あんたの所はそんなに有能な情報屋を飼ってるのか」
嫌味でもなく、それ程優秀な人材なら紹介して欲しい位だ。
俺の詰問を受け困ったように微笑んだ劉は、何処か切な気に眉を顰めた。
「貴方は少し、私を勘違いしてますよ。まあ、私がそうしたのですがね。正確に言えば、私は組織の人間では有りません」
「どういう事だ。劉秀蓮と言う名だけは海を越えたこの国でも幾度か耳にした事はある」
初めて会った日に、俺が勘でこの男の名を言い当てたのもそんな噂を耳にした事があったからだ。もっとも、名だけだが。何でそんなにも裏社会の重鎮達を唸らせたのかは、俺も知らない。まあ無理もない。この世界は全て、隠し事で出来ているのだから。
だが様々な情報や、初対面の時の態度のおかげでこの男が福建マフィアの人間だと疑ってやまなかった俺にとっては、些か予想外の発言だ。
「あんた、本当に何者だ」
怖いもの知らずの俺にだって見えないものは何よりも恐ろしい。それが、俺のケツを執拗に狙う狼なら尚更だ。
話している時は一時も俺から目を逸らさぬ男は、何故かふいと視線を泳がせ、尖った横顔の流麗なラインだけを見せ付けた。
「そうですね、この国で言えば、掃除屋さん……ですかね」
俺はその答えに納得したのと同時に、意図せず息を詰めた。殺し屋、か。どうりで寸分の隙も無い筈だ。例え山室を残しておいたとしても、きっとあの気の良い男は物体となってこの床に転がった事だろう。そして俺は、そんな死骸の脇でこの男に可愛がられていたかもしれない訳か。想像もしたくないな。
悍ましい妄想から逃れる為に引っ張り出した記憶は、この男との初対面であった。車内で交わした刺々しい会話。それこそ裏社会を生きる人間同士の、探り合い。
「つまり、半沢武志の件も殺しで追っていた訳か。あんたを贔屓にしている福建マフィアの依頼で」
劉が小さく頷き、切れ上がった眼は再び俺を捉える。揺らぐ事の無い、漆黒が深い双眸。今迄会った誰よりも恐ろしい男だと、素直に感じた。
「……奴は、始末したのか」
無意識に口をついた言葉に、劉は不思議そうに小さく首を傾げた。
「ハンザワとは、親しかったのですか」
「いいや、忘れてくれ」
哀れな弟の養父。それだけのあいつが死んだとして、俺にとっては関係無い。何よりもう二度と会う事もない弟の養父など、街で擦れ違う高校生位の他人。気にする方が不自然だ。
これ以上この話しをしていては俺の分が悪くなる事を察し、俺は常々の疑問をぶつける事にした。
「何故ここまでして俺に固執する」
容貌が美しいだけではこんなにもこの男の心を捕らえる事はなかっただろう。俺は人を狂わせる事に関して言えば天才だ。だが、それでも腑に落ちない。この男が、危険を冒してまでもたかが人間一人を手に入れたいと思うのだろうか。
その答えは、迷う事無く告げられた。
「貴方と私は似ている。とてもね。だが圧倒的に違う部分がある故に、私達は互いに惹かれ合う運命にあるんです」
真剣な面持ちで吐いた男を前に、俺は思わず声を上げて笑ってしまった。
「俺が、あんたに惹かれるって。冗談はよしてくれ」
この数時間で見慣れた男は、相変わらず胸糞の悪い微笑みを湛えてそんな俺を見詰めている。無性に腹が立って仕方が無い。
「俺は誰にも惹かれない。誰にも心を許しては来なかったし、誰も俺に踏み込む事は出来ない。それが俺だ。可笑しな夢を見るのはよせ」
「そうですか。でも、私の腕の中で泣いていた貴方はとても可愛かったよ、マサキ。素質はあると思います」
俺は己のこめかみが痙攣する感覚を久しぶりに覚えた。
「良い加減口を閉じてもらえないか。あんたの事、今にも殺してしまいそうだよ」
洒落にもならない挑発。向こう見ずな宣戦布告。
「ならば、試してみましょうか」
俺が身を引くよりも素早く、腕を取られ身体が自由を失う。静かな食卓が一変、衝撃で食器が跳ね上がり、耳障りな騒音が鳴り響いた。
ぐいと引かれた身体は、抗う術も知らずに厚い胸板へと導かれ、我に返ったその時には、既に俺は無防備な獲物と化していた。何とか足掻いてはみるが、引かれた腕は背中に回っていて胸を押し返す事も出来ず、腰に回された男の腕が余りに強すぎて、足をバタつかせ変なステップを踏む事しか出来ない。
「私が嫌いなら、もっと本気で抵抗したら如何です」
「やってる……!」
くそ、腹が立つ。俺だって同じ男なのに、片腕でこうもあっさりと自由を奪われるなんて。
奥歯を噛んでもがく俺の顎を持ち上げ、劉は愛おし気に瞳を細めた。一瞬、その眼差しに呑まれた隙をついて、しじまに響く、微かなリップ音。続いて啄ばむように落とされる口付けを拒もうとしても、固定された顎が痛むだけで逃れる事が出来ない。
「やはり私は、貴方が欲しい」
濡れた瞳で囁かれた愛の告白は、俺にとってはまるで死刑宣告だ。可愛らしかった行為も、熱を帯びてゆくのは必定。次第に深くなる口付けは、脳に廻るべき酸素を尽く奪い去って行った。
苦しくて漏らす言葉にならない呻きは喉を震わせ、無情にも男の欲情を煽るばかり。舌が絡み合う度に、微かな水音がいやらしく響く。その舌技に絆されて、次第に抵抗も弱々しくなってゆく。
悔しいが、この男は旨い。薬で犯された日には気付かなかった真実も、こうして起き抜けの脳だとより鮮明に感じる。
ようやく解放された時には既に、俺は自立する事も容易では無くて、情けなく広い背中に縋り付いていた。
「貴方は余程キスがお好きなんですね。直ぐに感じ入ってしまう」
劉の瞳に映る己の顔は、言う通り融けて見えた。しつこく吸われた口腔が混ざり合った唾液で犯され気分が悪い。
「冗談じゃない」
元来の気性で跳ね除けようとするも、やはりそれも叶わず。相変わらず腰に回された腕が、熱を持ち始めた互いの身体をより強く密着させる。
「少し、素直になったら如何ですか。今は私達二人。虚勢を張る必要も無い」
何を馬鹿な事を、とでも言おうかと思った所で、けたたましくインターホンが鳴り響いた。一瞬二人して顔を見合わせたものの、直ぐに劉は意地悪く微笑んで見せた。
「どうしますか」
「出られる訳、無いだろ」
いちいち腹が立つ。だが来客に応じないと知った狼は、待ち切れず獲物を食卓に引き摺りあげた。食器が騒音を立て、俺の身体を中心に左右に割れる。
両手を頭の上で捕らえられ、足の間には筋肉質な太腿。人の自由を奪う事に長けた殺し屋の相手ほど不毛なものは無いけれど、噛み付かない訳にもいかない。
「信じられない。朝食位、まともに食えないのか」
朝は何時も穏やかであるよう努めているって言うのに。自分のペースを乱され冷静さを欠く俺が心底面白いのか、劉の生意気なしたり顔はより生き生きと艶めいた。
「今こうして、ゆっくりと味わおうとしているじゃありませんか」
最早返す言葉も見付けられない俺を尻目に、劉は食卓の上に置かれていた、この男が飾ったらしい一輪挿しの花瓶を徐に持ち上げると、何を思ったのか俺の胸の辺りでひっくり返した。当然ぼたぼたと垂れた水は否応無しに服に染み込み、素肌に冷たい感覚を突き刺した。
一体何しやがるんだと睨め上げる俺には目もくれず、男の骨張った武骨な指先は、薄っすらと肌の色を透かす胸元をもどかし気に這い回る。寝巻きに白いティーシャツなんか、着るべきじゃない。そう思ったのは初めてだ。
「あんた、本当に変態だろ」
毒にもならない嫌味を吐くと、劉は少し照れ臭そうに微笑んで見せた。冷たい水の刺激で勃ち上がった胸の蕾は、緩やかに撫でられ更にぷくりと腫れ上がる。意思と反し、触ってくれとでも言いたげに。
「いただきます」
そう言うが早いか、分厚い舌が布越しに胸の上を這い回る。何とか歯を食い縛ってみたものの、知り尽くした男の技は、やはり感心する程だ。繊細で、しつこくて、酷く官能的な愛撫。時折垣間見える凶暴性が、一番俺の身体にとっては厄介だ。
濡れた布越しに甘噛みされる度、腰が跳ねる。加えて水分を含んだ布地を吸い上げる音が、否応無しに鼓膜を刺激する。
「やめろっ!」
「本当に嫌なんですか」
両足の狭間に割り込まれた太腿で下肢の中心をゆっくり摩られ、頭にかあっと血が昇る。
「ではこれは、どう言う事ですか」
僅かなりと反応してしまった身体。随分と抜いてさえいないのだから、当然と言えば当然なのだが、こんないけすかない男に弄ばれても快楽に素直な人体が恨めしく感じる。そんな他人の羞恥を敏感に察した男は、態とらしく太腿を押し付けた。ここで狼狽えては完全な敗北。それはどうにかして避けなければ。
口元だけで作る、不恰好で皮肉な笑み。
「随分久しぶりなんでね。でも、これ以上はイかないみたいだ。ねえ、あんたの本気はそんなもん?これじゃあまるでガキの戯れ合いだ。減滅させないでくれよ」
この負けん気の強さが何時も破滅を招く。そんな事は痛い程に承知でも、悪態だけは滑るように口をつく。視線だけで俺を睨め上げた劉の薄い唇もまた、歪な弧を描いた。
「それでこそ、貴方だ」
だがこれから正に戦いが始まろうかと言う張り詰めた緊張感をブチ破るように、玄関の扉が開く音が響いた。思わず身構えたのは、俺だけでは無い。
「あれ、チェーン掛かってる。将生さーん、阿部ですー」
廊下の向こうで聞こえた声が余りにも間の抜けたもので、俺は一気に全身の力を抜いた。あの万年三下の屑野郎。何で何時も何時もこうタイミングってもんを知らないんだ。
「ウチの下っ端だ。出なきゃまずい。あのバカ、チェーン切って入って来るぞ」
それは劉にしてみても、避けたい事態だ。阿部も一応組織の人間。単独で巨大な存在に歯向かう程、頭が融けてはいない筈。
「そうですね」
心底不機嫌そうに吐き捨てながら、やはり劉は俺の上から身体を退けた。
この濡れたティーシャツはどうしたらいいものかと思案する間も与えず、玄関からは乱暴にチェーンを揺する音がする。これ以上放っておく訳にもいかず、俺は慌てて玄関に向かった。
少しだけ開いた扉の隙間から覗く間抜け面は、俺に気付いた途端眉を顰めた。
「あれ、将生さん何か息上がってませんか。て言うか、濡れてますけど」
「風呂だよ」
それ以上詮索するなと視線で訴えても、バカには通じないようだ。阿部は疑いの眼差しで俺を睨め上げた。
「……何か、キツイ香水の匂いしますけど。誰かいるんですか」
「いない。良いから帰れ」
僅かな隙間から飛び出した不細工な顔を潰してやる勢いで扉を閉めにかかる俺を前に、阿部も必死で抵抗を見せる。
「ええ、何か可笑しいですよ。あ、新しい女ですか。いやあ、良かったですよ。あの中国人にヤられてから、本当に将生さんそっちにいったのかと────」
続く言葉を遮るように、俺は引き攣る顔面に、満面の笑みを貼り付けた。
「五体満足でこのマンションから出たいなら、あと三秒やる」
扉は一秒を待たずに勢い良く閉ざされた。
阿部を追い返し憂鬱なリビングに戻ると、先程迄盛っていた男は、何ともない顔をしてクロワッサンの端を千切り口元に運んでいた。踏み荒らされた朝食の花壇も、元の通り秩序を重んじて居直っている。まるで寝ぼけていたのかと疑ってしまう程、そこに淫靡な空気は残されていなかった。ただ濡れた白いシャツだけが、薄らぼんやりと皮膚の色に染まるのみ。
狼狽えると負ける気がして、俺は目の前の男と同じように、何ともない顔をして身に馴染んだ椅子に腰を据えた。だがどうにも、好戦的な性は収まってはくれず──。
「あんた、香水キツイってさ」
皮肉めいた笑みを自然に形作りながら、やはり毒にもならぬ負け惜しみを零した。三日月型のパンからゆっくりと上る鋭い眼光が俺を射抜く。
「どうにも落ち着かなくてね。この身に染みた血の匂いが、鼻先を擽る気がして」
冗談か、本気なのか。相変わらず探りきれない深い笑みを湛えながら、劉は再び優雅に朝食を口元に運んだ。
それから静まり返った食卓で、俺はぼんやりと考えた。
一体どうして、この男を力技でも追い出してしまわないのだろう。幾ら昨今日本の極道者が抑圧されていると言っても、表の人間を飼い慣らしている俺ならば、幾らでも方法はある。それこそ今から動き出せば、夕方にはこの男の姿が俺の目の前から消え失せるだろう。無意味なゲームなんかしなくても、永遠に会わない方法だって簡単だ。多少懐が痛む位で、俺のこの平穏と貞操を守る為ならば安いものだ。何の為に面白味もない仕事なんてして、金を稼いでるんだ。こう言う時の為だろう?人生においての邪魔者を踏み潰し、道を整備する為の金だ。それ以外、何の使用用途がある。
なのに何故、俺は思い留まっているんだ。
「どこか行きたい所はありますか」
不意に劉はそう言うと、人の良さそうな笑みを仏頂面の俺に向けた。何処に行きたいとは、そのまま捉えていいものか。この男の事だから、何か思いがけない意図を含んでいないとも限らない。それこそ俺のように、何気ないと捉えられる言葉一つでさえ鋭利な棘を持つ人間だ。
一瞬思案した挙句、俺は素直に疑問を口にした。
「それはどう言う意味だ」
「折角の休日ですから、貴方には楽しんで頂きたいと思っているんですよ」
相変わらずのらりくらりとかわしにかわされている気がしてならない。
こんなにも他人に気持ちを揺さぶられる事にこの上ない嫌悪感を抱きながら、但しこの場はそれに身を任せるべきだと本能が告げる。
劉の思い通り、この驚愕の事態に内心狼狽えていると信じ込ませておけば、最悪機嫌は損ねない。相変わらず俺の真黒な腹の中は、どんな時でも意味の無い打算で満ちている。
「一人で好きな所に行ってきて下さいよ。生憎自分の庭をあんたと並んで歩ける程俺はおめでたい思考は持ってない」
それこそ組の連中に見付かったらどうなるか。想像するだけで全身から震えが湧き上がる。そんな憎まれ口になんら怯む事なく、劉は何かを思い付いたように瞳を輝かせた。
「では少し離れた動物園にでも行きませんか」
「行かない」
何なんだ一体。バカなのか。何が楽しくていい年した男二人で動物園なんか行くんだ。そんなバカは田島さん一人でいい。この男と連れ立ってなんて、それこそ想像したくもない位気味が悪い。何より、何でこの変態と喜んでそんな温和な時間を共有しなきゃならないんだ。
結局俺逹は間を取って、適当に東京の街を流す事で落ち着いた。考えなくとも嫌な思い出しかない、プライベート仕様のメルセデス。助手席で不貞腐れる俺の横には、上機嫌な異国の男。これを悪夢だと思い込むには少しばかり、長過ぎる。
そもそもこうして奴の手中に嵌り、のこのこ車に乗り込んでいる時点で俺にはやはりある種危機感が足りないのかも知れない。それは人間に於いては最も重要な、"命"に関してのモノだ。自殺をする気は毛頭無いし、自ら命を手放す事への嫌悪は人一倍強い。だが俺はどうやら、無意識のうちに我が身を危険に晒す道を選んでしまう癖がある。全く嫌になる。
流れる景色をやはり不機嫌に見送る俺の隣で、不意に劉が囁いた。
「貴方はどうして、この道に」
どうしてか──少しばかり考えてみたが、その理由が下らなすぎて思わず自分で笑ってしまった。
「俺は、天才だ」
予想外だったのだろうか。丁度良く赤に灯った信号から視線を離し、鋭いながら何処か真っ直ぐな瞳が俺を写した。だがその瞳の奥底に根付くモノは、不本意ながら俺とやはり似た性質を持っていた。
「分かるでしょう。貴方も同じ臭いがする。勉強、スポーツ、金儲け。何をやっても簡単に出来てしまう。躓く事が無い。正確に言えば、俺達はその躓きが何ら問題では無い事を知っている」
劉は静かに俺の言葉を聞いていた。だから出来得る限り、俺は冷めた笑みを作ってやった。
「詰まらないんですよ、人生が」
自分でも驚く程に温度を持たない声が吐き出したものは、何も隠す必要の無い、真実だ。その気になれば何もかもを思い通りに動かす事は可能だ。それは意志を持った人間でも。俺は他人に嘘を吐いて罪悪感など覚える人間じゃない。嘘も貫き通せば真実となるのだから。
だが未だ俺の枷となり、そして死ぬ迄この身を蝕む思念がある。
「だから俺は、唯一思い通りにならなかったこの世界で生きている」
たった一度。二度と償えぬ過ち。長年目を逸らして来たその真実に、気付かせてくれたのは劉だ。
この世でたった一人、どう足掻いてみても掴む事の出来なかった人物。俺の心に踏み入る事が出来たのも、未だあの男だけだ。今もまだあの頃のままに愛しているか。そう問われると、答えはイエスじゃあない。だが今も変わらずに思う。俺の隣で、生きていて欲しかった。
とは言え感傷的になるのはガラじゃない。何よりこんな話、面白くもない。一瞬窓の外に流した視線を、俺は努めて平静に運転席へと向けた。
「それじゃあ貴方は。どうして殺し屋なんて割に合わない仕事に」
皮肉を込めて問い掛けると、劉は自嘲気味な微笑みを横顔に咲かせながらゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「御存知の通り、我が国中国の貧富の差は未だ目を覆いたくなるような現状です。私はね、都会から遥か離れた寒村に産まれたのですよ」
日本で生きていては想像も付かない生活を、この男はして来たのだろう。だが僅かな沈黙さえ悲壮感を呼び起こす事を嫌ったのか、劉はすかさず続けた。
「そう言う所では今尚人身売買が根強く残っているのです。私も例外ではなくてね。五つの時に売られ、その時より、黒道に堕ちた」
良くある話です、と付け足して、少しだけ寂し気に微笑んだ男の横顔が、何故か身に馴染んだもののように感じた。
その日はそれっきり。大して記憶に残る会話もしなかった。劉の匙加減で連れ回され、挙句夜はまた別の部屋で眠った。いつ牙を剥くかと身構えていただけに、肩透かしを食らった気分だった。
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