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『Underground──』
虎
しおりを挟む二日目──。
「おはようございます」
今日も今日とて勝手に人のエプロン腰に巻いて、我が物顔でキッチンに立つ大男は、風体に似合わぬ朗らかな笑みでそう囁いた。
「目覚めが悪い」
寝起きの気怠さも相まって、掠れた声でそう毒吐く俺を劉は微笑ましげに眺めている。現実は何時もこんな風に鬱陶しいものだ。
諦め半分、新聞片手にソファに身を沈める。相変わらず日本はお気楽能天気な話題ばかり。真のアンダーグラウンドを生きたあの男の目には、一体どう映っているのだろうか。
不意に人の気配を感じ振り返ると、劉が音も無く背後に立っていた。驚いたを通し越してゾッとする。この男はプロの殺し屋。大陸の裏社会で名を馳せた人物だと言う事を、どうも一瞬忘れてしまう。俺の能天気も呆れるほどだ。
冷や汗を滲ませる俺を尻目に、劉は節ばった指先で髪先を弄んで微笑んだ。
「貴方の寝癖ほど愛らしいものはこの世にありませんね」
何をトチ狂っているんだか。そんな呆れ顔を覗き込む劉の瞳は、いつにも増して輝いている。
「昨日のデートはどうでした、楽しめましたか」
「ええ、それはもう震える位」
俺の嫌味も、この男はくすりと笑って流してしまう。
これ程までペースを乱される事は珍しい。だが探り合いも騙し合いも、俺の得意分野だって事を忘れては困る。例えどんな危機的状況であっても微かな冷笑を浮かべ、全て踏み躙り乗り越えて来たじゃないか。そう喝を入れはしたものの、相変わらず寝癖で遊ぶ男を前に、何だか全てがバカらしく思えてしまった。
一頻り寝癖を弄り倒し飽きたのか、手を離した劉は、頬に唇で軽く触れてから微笑んだ。
「朝食が出来ていますよ」
鬱陶しい口付けを振り払わないのは何も受け入れたからじゃない。最早何もかもが面倒臭いんだ。誰に言うでもない自己弁解が、虚しく廻る。
馴染んだテーブルにセッティングされた朝食は、相変わらずにキチンとした洋食。トーストにスクランブルエッグ、サラダの他に、俺が好んで取り寄せている珈琲もしっかり添えてある。
流されるままに辿り着いた朝食の席は昨日同様、穏やかなもんだった。そう、俺が挑発しなければ良い。結局はそれだけなんだ。それは何も今回の件に関してだけじゃない。穏やかに生きる事も出来る筈だ。社会に最低限の接触だけで生きていく事も出来る。若かりし日なら難しかったのかも知れない。だが今ならば、仕事を辞めて、このマンションを引き払って、何処か田舎に引っ込んでしまっても何の問題もない。それでもどうして、危険を愛してしまう自分にまた、嫌気がさした。
「また、難しい顔をしていますよ」
そう劉に指摘されてしまう位に、何だか調子が出ない。終始泥濘に身体を横たえているような、抜け切った怠惰感が拭えない。俺ばかりを映す黒々とした瞳は相変わらずに穏やかで、それもまた妙な苛立ちを掻き回す。これ程まで他者に乱される事の珍しい俺としては、面白くはない。
だがふいと視線を逃した先のカレンダーを見て、この焦燥の理由に気付く。嗚呼、そうか。秋が近いんだ。抗えない脱力感が、全身に拡がってゆく。脱力感と言って良いのだろうか。それすら憚られるような、自分勝手な疲労感。
珈琲を一口含んでから、溜息と共に取り敢えずの言葉を吐き出してみる。
「昨日言ってた師匠って言うのは、コッチのですか」
何の脈絡なく始めた会話を、劉は律儀にも噛み砕いた後に小さく頷いた。その微笑は何処か、これまでとは打って変わった不恰好な物だった。
「腕の良い人なんですか。まあ、貴方の師匠だから、そうでしょうけど。今度紹介して下さいよ」
やめておけばいいものを。自らそう思っても、劉が微かに強張らせた頬を見るや、俺は闇雲に踏み込む事をやめられなくなっていた。
真っ直ぐに見据える黒々とした瞳が、この深淵すらも見透かすようにするどく煌めいている。
潜む感情は何だ。嘲り、悲しみ、憐れみ──どれも、違う。どれも違うが、指先に触れたカップが微かに震えた。
「何故、そんな目で俺を見る」
同調、いや、模倣とでも言おうか。紛れもなくそれは、他人に向ける俺自身の瞳だ。
「言ったはずですよ。貴方と私は、似ていると」
静かな声だった。圧し殺している訳でも無いが、酷く沈鬱な調子で紡がれた音は、何か嫌な予感を掻き立てる。
「だが一つだけ、圧倒的に違う」
心臓が大袈裟な音を立てる。俺は何か、間違えていないか。
「貴方は自身の命の危険に対して警戒心がなさすぎる」
息を詰めた瞬間、視界が不自然に揺れる。
「私が紳士だと信じましたか」
まさか、その予感は多分、間違いではない。
「欲しい物は手に入れる。どんな手を使っても」
「何を飲ませた。朝食だぞ」
「だからですよ。夕食だと警戒されますからね」
プライドもかなぐり捨てて、俺を手中に納めに来た訳か。だったら、その全てが無駄だと思い知らせてやるまでだ。
「あんた言ったな、俺たちは似ていると。似ているのに圧倒的に違う一点のおかげで惹かれ合うのだと」
劉は真っ直ぐに俺を見詰めている。
「分かるよ、その感覚は。確かに俺とあんたは似ているのかもしれない」
けれど、そう続け、態とらしく皮肉に口元を歪めて見せる。
「俺にはもういるんだよ。似ているなんて言葉では括れない、似ているようで、対極にいる。まるで半身だ。引力みたいなもんさ。確かに惹かれ合う。何年会わなくても、どれだけ離れていても、何とも思わない。会いたいとさえ思わない」
日常でその存在を思い出しもしない。
「それなのに、近付くとやはりどうしてもその引力に抗えず、酷く渇くんだ」
鏡の向こう側。ただただ互いを見詰めあうだけ。触れられない。触れてはならない。惹かれれば惹かれるほど、遠ざけなければならなくなる焦燥。俺にとっての半身とは、そう言うものだ。
「俺にとってそれはあんたじゃない。残念だったな」
肉体、欲情ありきのこの男にはわからないだろう。俺も人のことは言えないが。
気丈に振る舞えたのもそこまで。ひどい眩暈がする。これはまずいかも知れない。危機感の足りない俺でもようやく実感するが、逃れようとする身体は無様に床に転げ落ちる。真綿で脳を直接揉まれるようで気持ちが悪い、目が回る。
「貴方には少し強すぎましたか。まあでも、馴染むまで待っても問題ないでしょう。時間はありますからね」
その声が、遠退いて行った。
朦朧とする意識の中、断片的に記憶が繋がって行く。気分が悪い。目が回る。それなのに、何故こんなにも身体が熱い──。
途切れた意識が戻ると、慣れ親しんだベッドの上だった。やはり悪夢だったのか。一瞬でもそう思った自分を呪った。
服の中に差し込まれ、確かめるように筋肉の隆起を辿る掌。朦朧とする俺を見下ろす男のするどい瞳。もう意識を手放す事の出来ない絶望感。
「どうですか。依存性はそこまでないので安心して下さい。ただし、まだ合法ではないです」
返事の代わり、身を捩り声にならない呻きを上げる。ああ、気持ちが悪い。
「大丈夫。すぐに良くなりますよ」
迂闊だったと自分を罵った所で意味がない。
「何がゲームだ、ふざけやがって」
「まだ抗う気力があるのですか。貴方の精神力には感心しますよ」
逃れようと暴れる腕の自由をいとも簡単に奪い、劉は微かに微笑んだ。
「危機感のないご自身を恨む事ですね」
もう恨んださ。飽きる程に。
何故分からない。何故危険ばかりを好む。その答えは出ている筈だ。それなのに、俺は愚問を繰り返す。
詰まらないからでもない、刺激が足りない訳でもない。目を背けても、振り払おうとしても、いつでも俺を引き摺り戻す感覚。この世への未練なんて、もう何もない。
分かっている。それが米倉さんの願いではない事も、そうならずに生きて欲しいと願っていた事も。あの人が何の為に命を投げ打った。俺がこんな風に、命の危険を愛する為ではない筈だ。分かっているのに、これは抜けられない癖だ。
薬のせいか、余計な思考で絡まり合って頭が働かない。弱気になっている場合ではないのに、気分がひどく落ち込んでいく。それでも元来の荒い気性は、この男の思い通りになる事に拒絶反応ばかりを示す。
「俺に触れさせたいと言わせるんじゃなかったのか」
もう既に触れているじゃないか。そう息巻く俺を見下ろしながら、劉は相変わらず不気味な程に閑かだ。
「ええ、言わせれば良いんですよ。どんな手を使ってもね」
どうにもならない。分かっているのに、自分の思う方向と逆へ進む度に苛立ちが募る。
「それで勝った気になるなよ」
思いきり蹴り上げた足は、やはりいとも容易く制される。
「相変わらず諦めの悪い方だ」
また俺は間違える。
使い込まれた硬い指が乱暴に顎を捉える。鈍い痛みに眉を顰めながらも敵意を絶やさない俺を見下ろす男は、それすら嬉々として舐め取っていく。
「どれだけ抵抗しても構いませんよ。私はそれを全て退け、貴方に快楽を教えるだけです」
ざらざらとした断続的な嫌悪感。この男を前にすると、どれ程自分が愚かなのかを突き付けられる。
頬に落ちた唇が、ゆっくりと薄い皮膚を這う。もどかしい刺激の筈なのに、額からゆっくりと汗が落ちる。全身が痺れるような熱を持ち、触れた箇所がちりちりと燃えて行く。
ふと両手の自由を感じ、俺はまた勢い任せに振り抜いた。そう思っていたのに、頬を打つ前に停止する。
「可愛い抵抗だ」
そう言いながら、劉はスラックスのポケットから取り出した細い紐で素早く俺の手首を束ね、枕元の隙間に通すとキツく絞り上げた。どこまでも準備のいい男だ。
「さあ、次はどうしますか」
もう打つ手はない。この拘束も自分では解けない。多少の自由があるのは、この男が好きな体位でやるためだろう。
「言わなきゃ勝ちだ。好きにしろ」
完敗だ。もうなす術はない。俺はただ唇を噛んで、明日が終わるのを待つだけだ。
救いだったのは、劉の飲ませた薬が身体に合わなかった事だ。諦めてからは終始意識が朦朧としていた。まるで悪い夢をずっと見ているような感覚。
身体を暴かれる痛みや圧迫感、汗が止まらず、濡れた肌に這う舌の熱さ。唇を犯される度に身体が震える程気持ちが良かった。それなのに、ずっと気分が悪い。吐きたくても吐けない不快感。
身体の奥底で劉を感じている。身体は終始痙攣していた。今何をされているかわからない。悲鳴じみた喘ぎも掠れ、体力だけが尽きて行く。正体不明の薬を飲まされ、自分よりはるかにデカい男に一日中抱かれるなんて、意識がハッキリしていたら地獄以外のなにものでもない。
三日目──疲れ果てた身体で、諦め悪く逃れるように身動ぎをする。今が朝か、夜か、何も分からない。相変わらずしつこい男に組み敷かれたまま、もう掠れた声を上げる事しかできない。
身体中が悲鳴を上げている。一体この地獄はいつ終わる。
意識を手放そうと思った瞬間の事だった。突然、鈍い音と共に劉の重みが消え去った。朦朧とする頭でも何が起きたのか確認しようとぼやけた視界で辺りを見回し、思考が停止する。
誰かが劉とやり合っている。劉より一回り小さい、背は俺と同じくらいだろうか。一撃目で仕留め損なったお陰で反撃を食らいながらも、一歩も引く様子はない。
「田島さん……?」
何故ここに──その疑問と共に、俺はもつれる舌で必死に二人を止めようと足掻く。
「ちょ、ちょっと」
しかし脳が痺れてそんな情けない言葉しか出ない。ああ、まずい。喧嘩なんて生優しいもんじゃない。殺し合いが始まる。
相手は軍隊上がりのプロの殺し屋だ。もし田島さんに何かあったらどうする。山室組若頭と言う立場でありながら、俺のために殺されでもしたら。また失うのか。己の愚行のために。
しかし予想に反して押しているのは田島さんの方だった。俺の蹴りを避ける事も出来なかった癖に、そのしなやかな動きは、正しく野生の虎のよう。美しく、無駄がない。だがふと気付く。痛め付ける為のものでも、自分の権威を示す為でもない。この男の奮う暴力は、確実に相手を殺す為のものだ。
俺は無意識のうちに叫んでいた。やめろ、あんたは殺すな──と。だが掠れた情けない声は思うより小さくて、届いているとは思えない。止めなければ。取り返しが付かない事になる。身体に力が入らない。それでも、無我夢中で拘束を解こうと暴れ回る。薬のお陰か、目の前の現実のお陰か、痛みよりも焦燥ははげしく、自由のない身体への憎しみにも似た感情が渦を巻く。
再び重い音が部屋に響く。驚いて視線を向けまた俺は息を呑んだ。硬いフローリングに巨体を組み敷き、汗ばむ額に銃口を押し付けたまま、田島さんは殴られて切れたのか、血の滲む口元で微かに笑う。
「将生、大丈夫だから落ち着きなさい。そのまま暴れ続けたら腕がもぎ取れるぞ」
俺の腕なんかどうでもいいだろう、こんな時に。
「やめてくれ、あんたは背負うな」
あんたは、人の命なんて背負わなくていい。こんな俺のために背負うべきじゃない。俺と同じ道を歩む必要なんてない。
田島さんは縋るように吐いた俺の言葉には答えず、劉を見下ろしたまま問い掛けた。
「あんたが劉だな。どうも初めまして」
この男特有の舐めた態度に漆黒の深い瞳が細められる。
「そうか、貴方が半身でしたか。意外でした」
一瞬きょとんと瞳を丸め、それから田島さんは嬉しそうに笑った。
「そうだよ」
「私の調べでは暴力を嫌う心優しい男でしたが、間違いだったようだ。昏い、良い目をしていますね」
空気も読まずへらへらと笑うその顔は、いつも通りのものだ。誰もが騙される、陽気で気のいい男。
「悪いねえ、将生は人に懐かないもんでね。俺も随分手を焼いてきたんだよ」
「あなた方はそう言う関係ではないのでは」
「俺には動物の本能がないんでね」
劉はその意味が分からないのか微かに眉を顰める。童顔ではあるが整ってはいる。地位もあり人柄もいいのに四十を前にして未だ童貞だなんて、誰が信じる。俺や劉のように性を愉しむ事を知っている人間程、その本能がない事はまるで理解できない。
「将生は誰の愛情も欲しくねえんだと。愛情なんていらないのに、ただ何も言わず、何処にも触れず、認めてくれさえすればいい。同じ目線で、何も言わなくても通じ合えればそれで満足。自分の性質を自覚している癖にな。わがままな子で悪いねえ」
「それが、貴方だと」
「知らねえな。だが将生は俺の半分なんでね、生き別れた双子だよ」
こんな時にまた適当な事を。冗談を言う程冷静ならそれでいい。そもそもこの男が取り乱す筈がない。取り乱しているのは、俺だ。
「今手を引くなら見逃す」
静まり返る部屋には、俺の荒い息遣いだけが規則的に響く。
「分かりました」
その言葉でゆっくりと身体を離し、田島さんは床に脱ぎ捨てられた服を足で慎重に確認し、武器がない事が分かったのかそのまま器用に劉に放る。
「ゲームは無効だ。私は諦めない。必ず貴方を手に入れてみせますよ」
不吉な言葉だけを残し、劉は静かに去って行った。
しばらく俺たちは劉の消えた先を眺めていた。戻ってくるとは思っていないが、嵐が去ったあとの惨劇を見詰めているような心地だ。
どちらともなく我に帰り視線を合わせ、ようやく肩の力が抜ける。
「大丈夫か」
「田島さんこそ、大丈夫ですか」
「全然痛いよ」
切れた唇の端を拭い、田島さんは笑った。
「すみません」
気にするなとでも言うように俺の頭に手を置いて、その唇からは安堵の溜息が漏れる。
「よかった間に合って」
しかしそう言いつつ漸く惨状を認識したらしい。
「これ間に合ってる?」
「全然間に合ってないです」
間に合ったとしたら、俺が陥落しなかったことくらいだ。
「これでも最速で来たんだよ。いろんな足枷蹴散らしてさ。雄二がもう少し早く将生の様子が変だった事を教えてくれてたらなあ」
手の拘束を解きながら田島さんはそう言っているが、今が一番いいタイミングだったのかも知れないとは冷静になってみて思う。
「早く来ていたら、多分死んでましたよ。昨日の午前中からずっとこの部屋で飯も食わずやる事やってましたから、劉もさすがに疲れがあったのでは」
「ええ、今もう夜の九時だぞ。すごいな。そんな出来るもんなの」
「常人には出来ませんよ」
大体俺のダメージを考えて欲しい。正直身体中が痛すぎてもはやどこが痛いのかも分からない。力は入らず、起き上がれる気もしない。
「水取ってこようか。声が枯れてるよ」
そう言って立ち上がろとした男の腕を俺は乱暴に引いた。驚いた瞳が俺を見下ろす。心の奥底で、苛立ちが湧き上がるようだった。
俺たちの間には何時も、組織と言う壁がある。壁と言うより、楔とでも言ったほうが近いかもしれない。組織なくして俺達の関係は成り立たない。成り立つはずがない。互いにこの先ずっと、そう言い聞かせて生きて行くんだ。組の幹部と若頭。それ以上でも以下でもない。組の事がなければ、俺たちの間には何もない。だからこそ、ここに来た事が余計に腹立たしくて仕方がない。
「何で、ここに来たんだ」
「何がだ」
「あんたは自分がどの立場の人間か分かっているのかよ。俺なんかとは違うんだぞ。殺されていたかもしれない。あいつは軍隊上がりの殺し屋だ。そんなやつに喧嘩売って、運良く助かったけど、あんたが殺されたらどうなる。あんたが殺されていたら──」
嗚呼、生きていて良かった。そう思った瞬間、壮絶な安堵が否応なしに俺を襲う。
「わかったわかった、悪かったから落ち着いて。ほら、俺は生きてるし、将生も生きてるよ」
困ったように笑いながら、田島さんは親指で俺の頬を拭った。
「でもなあ、この部屋入って将生があいつに喰われてるとこ目の当たりにしたら、やっぱり嫉妬ってもんを感じた」
「だからそれは」
「嫌なもんは嫌なんだよ」
突然低く吐かれた怒気を含む声に、俺は咄嗟に視線を逸らしていた。殆どそれは本能的なものだった。動揺を隠すため悪態を吐く。
「銃の使い方なんて、知らない癖に」
「うん、でも三島がなんか嫌な予感がするから一人で行くならどうしても持っていけって言うから。とりあえず構えとけば脅しになるかなと思って。何にも言ってないのに凄い奴だよ。優秀な右腕のお陰で助かったんだぞ、俺たちは」
だったら、いつぞやの沢尻みたいに脅すだけで殴る必要はなかった。そのせいでやり返されたんじゃないか。
「暴力は嫌いだって」
「嫌いだよ。手が痛い。ゴムタイヤみてえだったぞあいつ」
それ以上頭が回らなくて、不貞腐れたまま黙り込む。
俺がそれ以上口を開く気がないと悟ったのか、田島さんは再び部屋を見回し床に落ちた服を拾い始めた。片付けられるものは片付けようとしてくれているらしい。
「田島さん、クローゼットの中に服があるんで、部屋着になりそうなもの適当にとってもらえますか。右の方にあります」
はいはいと言いながらクローゼットを漁る背中を見ながら、溜め息を吐く。早く眠りたい。
「俺のはどれ使っていいの」
俺の部屋着を手に、田島さんはさも当然のような顔で振り返る。
「泊まる気ですか」
「そりゃそうだよ、なんかあったら大変だろう」
なにもないとは確かに言えなかった。切れかけている薬のせいか、ずっと気分が悪い。
「まあ別に俺は裸でもいいからいいや」
そんな独り言を呟いて、田島さんは俺の分の服だけ持って枕元に戻ってきた。
「お風呂一緒に入る?」
突然の謎の発言に疲れた身体からより力が抜けた。
「入りませんよ」
「仕方ねえな、一緒に入るか」
「なんなんですか。入りたいんですか」
「ええ、どうしようかな。そう言われるとなんか恥ずかしいな」
どっちなんだ。しかし確かに一刻も早く身体を流したい。この部屋のシーツも全て捨てて張り替えたい。換気もしたい。
やりたい事は幾らでも思い付くのに、身体は動く気がしない。それでも必死で立ちあがろうとする俺を、田島さんは慌てたように支えた。
「大丈夫か」
「自分で歩ける」
そう言いつつ、差し出された腕に捕まっていなければ崩れ落ちそうだった。
「歩けてないけど」
強がりを言っている癖にどこからどうみても満身創痍な俺を見ながら田島さんは爆笑している。
「ほら、肩貸しな」
腹が立つが、こればかりはどうしようもない。
結局肩を借りて風呂場に向かい、最早力尽きてシャワーを持つ事もできない俺の背中を田島さんは文句も言わずに流してくれた。元々面倒見のいい男だ。誰よりも酒が強いから潰れた若手の介抱も何の躊躇もなくやるのだと、阿部がよく言っていた事を思い出す。
「どっかまだ洗いたいとこあるか」
その問い掛けに弱々しく首を振る。あるにはあるが、頼めるところでもない。とりあえず今は表面だけでも流せればいい。
「すげえなあ、将生の背中は。俺は痛いのが嫌いだから無理だなあ」
そう言う癖に、田島さんの身体には刺青なんかよりも目を覆いたくなる傷が無数に刻まれている。
不意に背中の一点に指が押し当てられた。
「こいつはマサル」
「なんですか」
「こいつはヨシコ」
「何やってます」
田島さんは次々名前を呼びながら背中を指で押している。
「こいつらに名前でも付けてやったら愛着湧くかなあと思って」
何で俺の背中に愛着を湧かす必要があるんだ。
「それ餓鬼って言うんですよ」
「ガキ」
「地獄絵図です」
わかっているのかいないのか。暫く考え込んだあと、田島さんは言いづらそうに口を開く。
「将生って実は結構マゾっ気あるよな」
「ちょっと黙ってもらえます」
気を紛らわそうとしてくれているのだろうが、傷口を抉っているんだよ。
確かに俺にはきっとその気がある。自虐趣味みたいなものなのだろう。危険に身を置いて、この命が喰われるのをただただ待っている。悪趣味この上ないが、俺には生きる目的もない。米倉さんが死んでからずっとそうだ。自戒の念は、思うよりも強く俺を引き摺り込んでいる。
俺だけが痛い目を見るならそれでいい。元よりそう言う生き方をしてきた。だが、遂に田島さんまで巻き込んでしまった。それが思いの外疲れた心に重くのしかかる。
「ああ、やばいかも。しんどい」
「吐くか」
目が回る。気持ちが悪い。
「吐いていいよ」
背中を摩られる感触を最後に、そのまま蹲るように身体が力を失くしていく。なんとも災難な連休だった。
深い深い眠りから意識がゆっくりと浮上して瞼を開く。穏やかな寝顔が目の前にはあって、何だか全てが夢だったのではないかとさえ感じた。
何故田島さんが隣に寝ているのだろう。不思議な気分だ。動く気力もなく思うより長い睫毛の数を数えていると、ふと瞼が開く。
「おはよう」
「おはようございます」
欠伸をしたついでに痛みを感じたのか、田島さんは微かに眉を顰め唇の端に触れた。少し切れただけのようだが、隠せそうにはない。
「どう言い訳しますか、それ」
「将生と喧嘩したって言うわ」
「ああ、納得されそうですね」
まだ痛む身体でゆっくりと起きあがろうとする俺を慌てたように支えるその手は、どうやら腫れているようだ。この男は力の加減を知らないのだろう。
気付けば汚れたシーツは見当たらず、クローゼットを漁った時に見つけたのか、新しいシーツが張られていた。どこまでも面倒見のいい男だ。
「すみません、何から何まで。ありがとうございます」
田島さんはまた欠伸をすると、おかしそうに笑い俺の寝癖を指先で撫で付けた。
「大丈夫ですか。初めての朝帰りなんかして。遂に童貞卒業かって大騒ぎになりますよ」
「ああ、そうなるのかな。じゃあそう言うことにしといてくれる?」
本当に、適当な男だ。それで良いのなら俺には関係ないが。
ふと視線が絡む。ハッキリとした二重瞼の下の黒目がちな瞳。人の警戒心を解くようなあまい童顔。誰もが言う。田島一平は優しく、愉快で面倒見のいい人だと。だがこの男の奥底には、何かが潜んでいる。初めて会った時から感じていた。底が見えずあまりにも気味が悪い。この男は、怖い──。
「将生」
そんな声で、俺を呼ぶな。本能的に身を引こうにも、痛む身体は思うよりも動かない。
「やっぱり将生は色男だなあ。綺麗だよ」
いつも通りの笑みでしみじみと窶れた頬を撫でるものだから、なんだか無性に苛立って手が出てしまった。痛いと悲鳴を上げながら、田島さんは突然叩かれた右頬を押さえて目を見開いている。
「あ、すみませんつい」
冷めた様子で吐き捨てた俺の言葉に、声を上げて笑い出す。
「やっぱ摘み食いくらいしといてもよかったなあ。武勇伝として」
「分かってないね、田島さん。チャンスは早々あるものじゃない。一度きりを手に出来なければ、山室組を潰すなんて夢のまた夢だ」
「はい、間違いないです」
しゅんと項垂れた男からはもう、気配は消えていた。
「珈琲飲めますか。カルピスないんで」
「珈琲飲めるようになったよ」
礼の代わりに朝食でも振る舞って送り出そう。そう思って部屋から出た瞬間、俺は後悔した。
連休は昨日まで。玄関のチェーンは田島さんが引きちぎったらしく、脱ぎ捨てられた見知らぬ靴もある。なにより劉の残した残り香に何か良からぬ気配を感じ息を殺していたのか、リビングで四人が雁首揃えて固まっている。それはそうだ。裸の男の手を借りて、俺が寝室から出てきたんだから。
沈黙を破ったのは慎太郎だった。
「え、田島さん、ですよね」
驚愕を絵に描いたような顔でそう呟く慎太郎にそうだよと笑いかけながら、俺はソファまで連行された。手が届かない所に置かれるとまずい。この男が何を言い出すか。
「覚えていてくれたのか。久しぶり」
「お久しぶりです。俺の事も覚えていてくれたんですね。え、いつからですか」
相変わらず自立できずソファで項垂れる俺と田島さんとの間で指を彷徨わせながら、慎太郎の空いた口は塞がらない。
「もう十年前くらいからかな。この事は将生が怒るから秘密にしといてくれよ」
「おい」
面白がっている場合じゃない。次いで我に帰ったのは山室だった。
「田島……って、一平か?」
その山室の言葉に田島さんは深く頭を下げる。
「隆司さんもお久しぶりです」
自分の記憶よりも立派に育った男を前に、山室は感嘆の溜息を漏らす。
「でかくなったなあ。全然気付かなかったよ。しかもまさか、将生さんと一平が」
「俺の可愛い将生が世話になっているようで」
「田島さん」
言わんこっちゃない。楽しんでやがる。
「秀司が世話になったのに、礼も言えなくてすまなかった」
「いえ、世話になったのは俺ですよ。今度墓参りしてやって下さい。親父には内緒にしとくんで」
悪戯っぽく笑う田島さんを前に、山室は微かに瞳を潤ませる。そんな山室の脇から、今度は雪が顔を出す。
「将生さんのどこがいいの」
「おお、誰だ」
「隆司さんの旦那」
その返答に、田島さんは楽しそうに笑いながら俺を振り返る。
「なんか安心したな。将生が愉快な仲間たちに囲まれていて」
そこでようやく田島さんは純平に気が付いたようだ。
「お前もいたのか。久しぶりだな坊主。どうだ、勉強してるか」
純平も一度あっただけのこの男の事を覚えていたのか、嬉しそうに頷いた。
田島さんは何処にいても人に囲まれる。人当たりがよく、何時でもにこにこと愛想を振り撒いて。思わず身震いをする。誰が知っている。あの男の本質を。
「将生、飯行くぞ。今日は仕事休め」
俺が一瞬考え込んでいるうちにどうやら話がまとまったらしい。
「俺は歩けないんで、どうぞ行ってください」
「そうか、ちょっと乱暴にし過ぎたかな、悪かったな」
「いい加減その設定やめろ」
もう全員気付いているだろう。この男と俺の間に何もない事は。何故か大盛り上がりで出掛けようとする一群を俺はふと思い出して止めた。
「田島さん、俺から一報入れるんで余計な事言わないように」
「ええ、もうここ来る前に雄二に俺は今日遂に将生を口説いてくるって言っちゃったよ」
本当にこの男は。そうも思ったが、そうでもしなきゃ山室晋三から田島さんを守れと言い聞かせられている田島信者の三島がついてきていただろうし、一人でこんなところまで来られなかったのだろう。それは分かる。分かるが、もう少し別の言い訳があっただろう。そもそも何で俺を口説くのに銃がいるんだ。三島め。
ああ、でもいい風除けにはなるかも知れない。俺が田島一平の男だとしたら、誰が手を出せる。悪い手ではないかもしれない。問題は、俺のプライドだけだ。
「じゃあゆっくり休めよ」
その言葉を残し、遠退いて行く喧騒。静まり返る部屋は、やはり心地がいい。
疲れ果てた身体をソファにゆっくりと沈め、テーブルの上に放ったままの煙草を手に取る。もう少し休んでから今日分のキャンセルの連絡をしよう。そんな事を考えているうちに、眠りに落ちていた。
気付かないフリをした。何もかも。俺が刺激した獣が、どれだけ危険なものであるのかも。分かっていた筈。俺の愚行は、俺の受難だけでは許してくれない事を──。
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その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【R18+BL】甘い鎖~アイツの愛という名の鎖に、縛られ続けたオレは……~
hosimure
BL
オレの1つ年上の幼馴染は、強いカリスマを持つ。
同性でありながら、アイツは強くオレを愛する。
けれど同じ男として、オレは暗い感情をアイツに持ち続けていた。
だがそれと同時にオレ自身もアイツへの気持ちがあり、そのはざまで揺れ続けていた。
★BL小説&R18です。
恋なし、風呂付き、2LDK
蒼衣梅
BL
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「恋人のフリをして欲しい」
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「女ったらしエリート男」と「フラれたばっかの捨てられネコ」が始める偽同棲生活のお話。
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