Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground──』

代償

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 劉との望まぬ再会から直ぐに俺はマンションを引き払う事に決めた。劉は諦めないと言っていた。だとしたら同じ事になるとも知れない。合鍵を持たせている阿部や、その阿部から合鍵を借りて助けに来た田島さんと違い、あの男がどうやってセキュリティを掻い潜ったのか分からない。こんな危険な場所にいつまでもいられない。いい加減俺も本当の意味で自覚するべきだ。次はない。何度もそう言い聞かせる。

「痛い出費だな」
 ぼやく俺の横で、書類の整理をしていた山室が新しいマンションの間取り図を覗き込む。
「また広いですね」
「広さじゃない。セキュリティを重視しているんだよ」
 はあ、と気のない返事をして、山室はふと思い出したように微笑んだ。
「一平とは随分仲がいいそうで」
「よくない」
 俺のいない所で何を言ったんだか。別に仲が良い訳じゃない。互いに誰にも見せない暗い部分を勝手に透かして見て、睨み合っているだけだ。
 俺が不機嫌をあらわに煙草に火をつけると、山室はふと視線を落とす。
「最初一平だとは気付きませんでしたよ。飯を食って話していても、同一人物とは思えなかった」
 俺が出逢った時は、既に今の田島さんだった。微かに透けて見える、底なしの闇以外。
「そうか、知っているんだな山室は」
 あの男がホームレスの死体の横で飢えていたその時から。
「怖いと、思ったことはないか」
 思わず口をついた問いに、山室は視線を上げる。
「ありますよ。俺はずっと、一平が怖かった。暗い目でじっと人を観察するだけで、何を考えているか分からない。言葉もろくに話せず得体が知れない。見た事のない子供でした。当時は俺もまだガキだったから一平の生い立ちも理解できず、実はあまり関わって来なかったんです」
 その言葉に妙に納得する。そうだ。あんな特異な生い立ちの男が真っ直ぐに育つなんてあまり考えられない。
「秀司が隠したんです。このままでは、一平は人として生きていけないからと」
 どんな手を使えばそんな事が出来るのだろう。山室秀司に聞いてみたいが、それはもう出来ない事が少し口惜しい。
「随分と可愛がっていましたよ。弟が欲しかったんですかね。今の一平を見れば、それが正解だったんでしょうね」
 どこか寂しげに視線を落とし、直ぐに山室は俺に向き直る。
「いい男に育っていました。これからも一平と仲良くやって下さいよ」
 珍しく巫山戯るものだから思わず肩を殴ると、山室は楽しそうに笑った。生真面目なこの男が俺をおちょくるなんて、悪い影響だ。引き合わせるべきではなかった。引き合わせた訳ではないが。

 それから直ぐにマンションを引き払い、俺は新居へと移動した。大して離れていない、相変わらず東京タワーの見える高層マンション。
 飛ばなくてはならない事態が多い身だ。引っ越しは慣れたもの。元々家具も殆ど置かない質だからそれ程大変でもない。ただ新しい部屋になったとしても、気は休まらないが。いつまたあの男が不法侵入してくるか。それこそ気が気ではない。
 そろそろ純平も独り立ちさせないといけない。今回の引っ越しはいい機会だから、一人暮らしをさせる前準備としてしばらく俺から離れ山室と慎太郎の家で交代で見てもらう事にしていた。だから余計に夜一人でいるとつい後ろを振り返ってしまう。最早トラウマになっている。それでも一人はやはり落ち着く。俺はこうして誰にも邪魔されずに生きて行きたいんだ。
 ふとカレンダーに視線を投げる。今年の墓参りは、少し遅れそうだ。怒られそうだな。お前はいつまでそんな事をしているんだと。気の済むまで怒ってくれよ。それで俺が変わるなら、願ったり叶ったりだ。
 劉はそれからもじわじわと俺の精神を蝕むだけで、姿を見せる事はなかった。新居の合鍵を渡した阿部にはひと時も身体から離すなと念押したし、山室と慎太郎に持たせている一本も、あの二人が他人の家の鍵をぞんざいに扱うとは思えない。本当に一体どうやって侵入してきたのか。分からなければ対策のしようがない。
 いつでもそうだ。嵐が過ぎ去れば、こうして自らを戒め警戒して。その癖また同じ事を繰り返す。瘡蓋になった側から傷付けて、血が滲むのをみて後悔に暮れる。難儀な癖だ。全く嫌になる。
 それにしても。気配を殺し、確実に獲物を追い詰めて行く。とんでもない男に好かれたもんだと自分で自分を笑うしかない。

 僅かばかりの荷解きも済んでしばらく。俺は思い立ったように田島さんのスケジュールに予定を入れた。
 田島さんが俺と連絡を取りたい時は阿部を通し、滅多にないが俺から用がある時は、同期させている田島さんのスケジュールに勝手に空白の予定を入れる。それは前の田島さん付きのおやじが俺と田島さんの橋渡しを面倒臭がってそうしたのだが、現田島さん付きの三島は気に食わないようだ。滅多にないから突然入る空白の予定が何なのか分からず、神経を使うとぼやいているとは阿部から聞かされた。
 何時でも戒める。俺たちの間の組織と言う存在を、互いに認識させ合うように。

「おお、また闇討ちか」
 笑いながら歩み寄る男が眼前にたどり着く前に煙草を揉み消す。長年染み込んだ癖みたいなものだ。
「近くに美味い唐揚げ屋があるらしいんで、この間の礼です。飯でも行きませんか」
 大好物の唐揚げと聞いて小躍りしている男には、やはりあの夜見せた震える程の深さは感じない。
「ありがとう三島。気を付けて帰れよ」
 今日はこの近所の店に行くからと、仏頂面の三島に田島さんが手を振り歩き出す。
 若くして幹部になった俺たちには必然的に若い三下がつく事になる。立場上田島さんには年上の男が付いていた事もあったが、やはりあまりうまくは行かなかったようだ。田島さんの若頭就任には、まだ拒絶反応が残っていない訳ではないから。それから三島になったのだが、二人は相性がいいらしい。相性の問題以前に、田島さんは若者程よく気をつかう。俺より田島さんにつきたい若手が多い理由がよく分かる。
 店に入りいつも通りウーロン茶とカルピスを頼む。もうそろそろ身体に気を使わないといけないと何度言っても、俺といる時だけだからと田島さんは譲らない。カルピスを置いている店を探すのが地味に面倒くさい事を、この男は知らないだろう。
「聞いてくれよ、あの後すごい手が腫れてなあ。三島が怒って大変だったんだぞ」
 そりゃあ人を殺す勢いで殴れば、殴った方もダメージを受けるだろう。適当に返事を返しながらメニューを眺め今日は何を食べさせるか考える。田島さんは俺の返答など期待していないし、いつもの事だ。
「そういや引っ越したんだって」
「ええ、やっと落ち着きました。遅くなってすみません」
「律儀な奴だなあ。気にしなくていいのに」
 あれは気にしなくていいレベルの迷惑ではないのに、田島さんはそう言って笑う。
 結局シンプルな唐揚げ定食を頼み、到着を待つ間俺たちは毒にも薬にもならない会話を楽しむ。一年に数回とは言え、よく飽きないものだと自分の事ながら思う。
「地獄絵図見てきたよ」
 俺の背中を見るのは初めてだったか。もう十数年の付き合いともなると色んな事を忘れてしまう。どうやら好奇心の強いこの男は地獄絵図に強烈な印象を持ったらしい。
「綺麗だった」
「感性がどうかしてますよ」
 亡者が苦しむ姿を綺麗だなんて言いそうもない癖に、やはり変な男だ。
「名前付ければ愛着って湧くもんだろ」
 そう言えば俺の背中の餓鬼に名前を付けていたっけ。その事を思い出した途端、脳裏に蘇る。この男の後ろにある暗い影。
「喧嘩が弱いなんて、嘘じゃないですか」
 俺の問い掛けに、田島さんは笑う。
「喧嘩じゃない。殺ろうとしているんだよ」
 そんな柔らかな笑顔で言う事ではない。
「こないだやっと気付いたんだよ。秀司さんの葬式の日も、俺は山本さんを殺そうとしていたんだって」
「何で、そんな事」
「嫌だったんじゃないか」
 まるで自分ではない誰かの話しをするように、田島さんは軽く笑ってそう言った。
「暴力は嫌いだねえ」
 この男は分からない、掴めない。それは一体、誰の言葉なんだ。
「将生はもう結婚しないのか」
 余りにも突然変わる会話に付いていくのもやっとだ。
「さあ、分かりませんね」
「六回も結婚して、まだあるかも知れないのか。色男はさすがだねえ」
「増やさないでもらえます」
 四回ですよ、と俺は乱暴に吐き捨てる。結婚なんて、するものではない。ねだられてしてきたが、俺は心底向いていない。そもそも愛情もなく、性欲を満たす為だけの付き合いだ。俺の嘘を信じ、そして醒めて行く。知った方がいいかと思い四回も試してみたが、全て無駄な時間だった。過去から逃れるように視線を上げる。田島さんは、真っ直ぐに俺を見詰めていた。
「将生」
 そんな声で、俺を呼ばないでくれ。俺が気付くか気付かないかを試すかのように、会話の隙間に差し込まれる、〝それ〟。舐められたものだ。気付かない筈がないだろう。だがその正体がまるで分からない。何時も不安で、恐ろしくて、息が詰まる。
「冷めるから、食べたら」
 人のいい笑みを浮かべる男の頬に米粒がひとつ。
「ああ、そうですね」
 俺もまたそうやって逃れるように気付かないフリをする。〝それ〟に触れてはならない。この距離を長年保ってきたのは俺だけではない。田島さんもまた同じ。それは、呪縛にも似たもののような気がしている。
 俺たちは遺された者。心の奥底、二度とは届かぬ問いを繰り返す、愚かな生き物だ。だからこそ互いを鏡としてその姿をじっと眺め、無意味に安堵するのだ。壊れている事は知っている。だが俺には同じ鎖に繋がれたこいつがいる。この世界で唯一理解が許される存在。それが俺と田島一平の関係の正体だ。だからこの先もこうして、組織と言う楔を握り締めて生きて行く。それは互いに言葉にせずとも感じている。
 この先も、ずっと。うすい、禁忌に触れないように。

 唐揚げ屋で田島さんに世話になった礼を済ませしばらく経っても、劉は僅かな影さえも見せなかった。もう諦めたのではないか。確かに劉とて異国の地で易々と動けるものでもない。それならそろそろ連休を取って少し遅れたが広島に戻り米倉さんの墓参りをしようか。相変わらず危機感のない俺はそんな事を思いながらスケジュールの調整を進めていた。

 秋の半ば、重い雨の降る日だった────。

 その日、長引いた商談が終わり、疲れた身体をシートに沈めてすぐだった。ポケットに突っ込んだままにしていた携帯が着信を知らせ震え出す。表示された名前を見て深い溜息を吐く。とりあえずシカトしよう。急用ならもう一度掛けてくるだろう。
 そう思い軽く瞼を閉じる。しかし着信は絶える事はなく、これでは休むこともできないと仕方がなしに俺は電話に出る事に決めた。
「はい」
 何時もは不機嫌な俺の声にもめげずでかい声で要件を伝えてくる阿部だが、その日は鼻を啜る不愉快な音だけが続く。なんなんだ一体。
「阿部、どうした」
 俺がそう問い掛けると、ようやく答えが返ってきた。
「将生さん、撃たれました」
 俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。阿部もまたひどく動揺しているのか、声も震え要領を得ない。
「阿部、落ち着け。ちゃんと話せ、誰が撃たれた」
 泣きじゃくりながら、阿部の悲鳴じみた声が響く。
「田島さんが、撃たれたんです」
 思考が停止する。聞き間違いではないのか。
「田島さんが撃たれて、三島も────」
「容体は」
「分かりません、俺も今から病院に行くとこで、将生さん、今どこですか」
「分かった。直ぐに行くから先に病院で待ってろ」
 通話を切り、性急に運転席に投げ掛ける。
「悪いが全てキャンセルだ。東山病院に向かってくれ。なるべく早く」
 そこが山室組がよく使う病院だと知っている二人は、何事かと目を合わせながらも何も言わずに頷いた。車は方向を変え走り出す。
「将生さん」
 高い耳鳴りの中、山室の声が遠くで聞こえる。
「大丈夫ですか。真っ青ですよ」
 握り締めた手が震える。ついこの間会ったばかりだ。いつも通りだった。おかしなところはなかった筈。一体、何が起きた。
 田島さんが組を潰そうとしている事がバレたのか。いや、それはない。微かな疑惑も全て俺が握り潰してきた。あの人に危険が及ばぬように、裏で手を回してきた。敵対しているとは言え山誠会とも最近はそれ程ひりついてはいない。何より山室組を相手にいきなり頭を狙うだろうか。
 一体誰に、田島さんは無事か、まさかあの男の事だ、死ぬ筈がない──次々と巡る思考が絡み合い、息も出来ない。ただ一つ残された可能性だけが、俺の心臓を握り締めて離さなかった。
 それは、文字通り山室組を大きく揺るがす事件だった。

 病院の前で車を降り、正面玄関に走ると入り口で阿部が蹲っていた。
「何泣いてんだ、状況確認したのか」
「怖くて、できません」
 この役立たずと罵った所で意味はない。何よりそんな八つ当たりをしている場合ではない。
 阿部を置いて行こうとしたが、俺が来た事で少し気を取り直したのか縺れる足で阿部は付いてくる。病院は続々と到着するスーツの男たちでごった返していた。迷惑だろうに、病院側も強くは出られないようだ。
 何処へ行くかも分からぬままとりあえず人波を追って行くと、診察室の前に年寄り連中が数人見えた。残りは暇を持て余していた部屋住の連中か、全員顔面蒼白で泣いている奴も多くいる。それが、事態の深刻さを物語っているようだ。
 その中の一人が俺に気付くと、大袈裟に手招きをした。
「将生、遅えぞ」
「すみません、田島さんは」
「今親爺さんが医者と話してる。どうも出血が酷いらしくて。搬送される時すでに意識もなかったようだし、助かるかどうか」
 そうですかと返す自分の声がひどく掠れている。息が上がっているのは、走ったからだ。そう無意味に言い聞かせる。
「何だってまた突然」
 一人がひそめた声でそう言うと、周りは堰を切ったように話し出す。
「今一平がやられる理由がねえ」
「秀司さんの時と同じじゃねえのか」
 既に誰が何の為に田島さんを襲ったのかで騒ぎ出している。その根底には、山室組を次に背負うのは自分なのではないかと言う仄暗い期待が見え隠れする。まだ詳しい容体もわからないのに、こいつらはいつもそうだ。自分の欲望ばかり。
 眩暈がする。立っていられない。
「将生さん、大丈夫ですか、座りましょう」
 背後にいた阿部が驚いたようによろける俺を支え、傍のベンチに誘導して行く。阿部もまた立っていられないのか、俺の足元にへたり込んだ。
 その悲痛な顔から逃れるようにきつく瞼を閉じる。脳が揺れるようで、支える為に顔面を両手で覆うと、未だ手が震えている事に気付く。その瞬間、これまで経験した事のないような壮絶な後悔が押し寄せる。
 嗚呼、俺は、なんて事をしたんだ──。

 組長はそれから直ぐに医者と話しを終え診察室から出てきた。どうなっているのかと詰め寄る男達に向かい、押し殺したような声が響く。
「病院に迷惑かけんな。お前ら全員帰れ。今夜が峠だ。俺から言えるのはそれだけだ」
 狭い廊下は騒然とする。それはそうだ。それだけ衝撃的な事件であり、それだけあの男が慕われていると言う事。それでも言われた通りひとり、またひとりと病院を後にして行く。
 人も薄れてきた中、頭を抱え動くこともできずにいると、揺れる視界に雪駄が映った。
「何してる。お前もだよ将生。阿部、引き摺ってでも連れて帰れ」
 阿部が震える声で返事をした瞬間、俺は殆ど衝動的に床に額を擦り付けていた。
「すみません」
 普段一切の感情を見せない俺の突然の悲鳴じみた声に、まだ残っていた連中でざわめいていた廊下が水を打ったように静まり返る。
 重い静寂を噛み、一段と低い声が問い掛ける。
「お前が頭下げるって事は、山誠会の仕業じゃないってのか」
 冷たい廊下に触れた掌は、未だ震えたまま。
「劉秀蓮だと思います。すみません、俺のせいです」
 視界に何かが映った次の瞬間、左頬に衝撃が走る。老いた男の蹴りとは思えない、重いものだった。
「この大馬鹿野郎」
 怒号を浴びて尚、体制を立て直し俺は再び床に額を擦り付ける。
「申し訳ありません」
 それ以外、言葉が出ない。
「一体ヨネに何を学んだ。あの男の何を見てきた。長年お前は何を戒めに生きてきたんだ。何故分からねえ。お前の生き方は人を殺すって事を何故自覚しない」
 胸ぐらを掴まれ乱暴に引き起こされ、目の前に迫る赤い瞳を前に、思わず意味もなく涙が溢れる。
「自分で分かるだろう。お前はばかでけえ引力を持ってる。上っ面だけ秀司の真似事をして、性根は何にも興味関心のない一平さえも狂わせるだけの魔性を持ってる。いつまで一人で生きているなんて甘えた勘違いしているつもりだ。その所為でまた大事なもんを失う気か。あんな悲劇を、何度繰り返す気だ馬鹿野郎」
 俺を床に叩きつけ、組長は低く吐いた。
「一平が死んだら、俺がてめえを殺してやる」
「申し訳ありません」
 その重い怒りを前に、ただただそう繰り返す事しか俺にはできない。
「てめえで始末つけるまで、俺の前に二度と顔見せるな」
 押し殺したようなその声が、鼓膜から離れなかった。

 何時までも床に這いつくばる俺を阿部は引き摺ずるようにして車に押し込み、俺はそのまま病院を後にした。帰りの車中、祈るように蹲る俺を横目に、阿部は一言も口を聞かなかった。

 朦朧としながらも何とか自宅の玄関に足を踏み入れた途端、身体から力が抜け膝から崩れ落ちる。きつく瞼を閉じると浮かぶ、米倉さんの屈託のない笑み。俺が、殺した男。
 今まで息をしていた人間が、さっきまで隣で笑っていた男が、自らの愚行のせいで突然動く事をやめる。身に染みた恐怖。嫌と言うほど見てきた悪夢。衝撃的な、命の終わり。何故俺は学ばない。
 脳が拒絶しているかのように田島さんの顔が思い出せない。後悔なんてしていない。そんな事はもう、言えなかった。何故俺はあの人を巻き込んだ。あの時阿部に田島さんには言うなと言っていたら──。
 そうじゃない。分かっているだろう。劉を煽る為だけに、田島さんの存在を明かしたのは俺だ。あの男がどれ程危険な男か、俺への執着がどれ程のものか、分かっていた筈なのに。田島さんを軽んじていたのだ。田島さんだけではない。自分も含めた全てを軽んじて生きてきた。自分が愚かだと知りながら、変わろうと思った事もない。そのツケが回ってきた。この事態を招いたのは紛れもなく俺だ。また、俺は人を殺す。

「隆司さん、将生さんの様子が」
 意識の遥か向こう、慎太郎の声がする。
「将生さん」
 次いで山室の声が頭上で響く。田島一平襲撃の情報が既に回ったのか、心配して来ていたのだろう。二人の前だからと、気丈に振る舞う事さえできない。
 身体の震えが止まらない。息が、出来ない。
「なんか血吐いてませんか。大丈夫ですかね、救急車呼びますか」
「いや、吐いてる訳じゃなさそうだ。殴られたかなんかだろう。過呼吸になってるから、とりあえず落ち着かせよう。慎太郎、袋と拭くもの持ってきてくれ」
 玄関で蹲り震える俺の背を、大きな掌がゆっくりと摩る。
「将生さん。今は、祈るしかない」
 その押し殺した声は、山室晋三のものと良く似ていた。
 米倉さん亡き今、失うものなどないと思っていた。それなのにどうしてか俺は、田島さんの命をただただ願い続けていた。
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