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『Underground──』
秋雨
しおりを挟む大勢の人々が祈る中、田島さんの意識が戻ったのは、それから二日後だった。一撃目で田島さんが撃たれ、三島は田島さんを庇い被弾したそうだ。脅しなどではなく、劉が田島さんを確実に殺そうとしていたのかと思うと、震えが止まらなかった。
田島さんは幸い内臓に大きな損傷もなく、運が良かったそうだ。ただ出血がひどく、やはり危険な状態ではあったらしい。三島はまだ、意識が戻らない。
俺の処分は組長の一声で保留となっている。このご時世薬物で稼ぐ連中に次ぐ稼ぎ頭を失う事は組にとっても痛手だ。それでも、相変わらず揉め事ばかり起こす俺への風当たりはより強くなった。破門するべきだとの声も少なくはない。元よりそんなものは気にしていないが、やはり田島さんの命を危険に晒してしまった事は、俺の中で思うより重かった。
気怠さを引き摺りながらも目を覚まし、この後の準備進める俺の元に懐かしい人物から着信があった。携帯を耳に当ててすぐ、酒に焼けた笑い声が響く。
「おい、またやらかしたんじゃろう。田島さんがあんたのせいで死にかけたってこっちまで話し来とるよ。将生はまたやったんかって皆呆れとるわ」
懐かしい故郷の言葉は、微かに胸を締め付ける。電話の向こうの伊崎は、俺が山室組に鞍替えする前、國真会にいた頃の弟分のようなもの。相変わらず大問題ばかり引き起こす俺を揶揄うために電話をしてきたようだ。
「今度ばかりは参ったよ」
珍しく弱気な返事を返す俺を、伊崎は喉の奥で笑う。
「へえ、あんたがねえ」
自分でも驚いている。あれ程取り乱した事を。全くトラウマとは厄介なものだ。自分の知らない所に根を張って、突然張り切って出てくるのでは対処のしようがない。
憂鬱を吐息と共に吐き出していると、伊崎はしみじみとつぶやいた。
「米倉さんは、悲しんどるじゃろうなあ」
「そうかもね」
「かもじゃねえ、悲しんどるよ」
分かっている。俺にだって。だが俺に変わる気がないのだからどうしようもない。田島さんを巻き込んでしまった事は心底後悔している。生きていて良かったと深く思う。だが俺はこの先も変わらないのだろう。危険を愛し、意図せず誰かを殺す。
「将生さん、いい加減分からんか。あん人があんたにどう生きて欲しかったんがさ」
伊崎はそう言うと、粗野なこの男に似合わぬ優しい声で呟いた。
「ちゃんと乗り越えて、誰かと肩寄せ合って、米倉さんじゃない誰かを愛して生きてほしいんよ」
思わず乾いた笑いが漏れる。ようやく父親である会長に認められ若頭となり、伊崎もまた、組を背負う立場となって少しは大人になったのだろう。
「孝明」
君は進み、俺は立ち止まる。皆俺を置いて未来へと歩んで行く。長年見慣れた光景だ。その背中を幾度見送ってきたか。
「米倉さんの気持ちが、今なら分かる気がするんだよ」
微かな沈黙を経て伊崎は低く吐く。
「あんた、何しょおとしとるん」
全く勘のいい男だ。嫌になる。
「バカな真似するなよ」
バカな真似なんて、もうし尽くしたさ。そう心の中で呟いて、返事もせずに通話を切った。
今日も、東京は雨だ。
伊崎との電話を終え、準備も整ったところで丁度よく山室から到着の連絡を受ける。今日は慎太郎に休みをやって、山室だけをマンションに呼び出していた。
「おはようございます」
勘のいい男は何かを嗅ぎ取っているのか、僅かに緊張が滲む足取りでリビングに姿を現す。俺はソファに腰掛け山室に渡すものの最終確認をしながら態とらしい世間話を投げ掛けた。
「さっきちょうど孝明から電話がきたよ」
「へえ、伊崎は元気でしたか」
「相変わらずだね。まあでも大変なんじゃない。伊崎会長は山室の親父と違って厳しいから」
座って、と言う俺に従い、山室は対面のソファに腰を下ろした。警戒心をあらわにする山室の前に数枚の名刺を並べ、パソコンを差し出す。
「この中に会員の名簿が入っている。借金の額と、対応している顧客の情報が書いてあるから。取り扱いには十分注意してくれ。慎太郎とも共有しない方がいい。このパソコンを渡すから、管理は全てこれで。何か分からなければこの名刺に連絡を」
「なんですか」
怪訝そうな山室を置いて、俺は説明を続ける。
「こっちが貸金庫の重役のもの。俺の財産は三つに分けてあるから、追々でいい、確認してくれ。あとこれは組の方のものだから、山室は気にしなくていいけど存在だけ知っていないとと思って。触ると大騒ぎになるから気を付けて。会社の売り上げの二割は組に流れる事になっているけど、そのへんは組の連中がやるから気にしなくていいし、帳尻合わせもこちらはしなくて大丈夫だから。経理の事は基本手を出さなくて良いようにしたが、何か分からなければここへ」
そこまで説明を終え、俺はようやく山室と向き合った。その瞳には、微かな怒りすら滲んで見える。
「この会社は山室に渡す。潰すも続けるも好きにしろ。手続きの事も全て任せてあるから心配しなくて良い。もし会社を畳むにしても会員の事は気にしなくて良いから、ここにだけ連絡を」
同じやり取りを過去にもしたな。だがあの時とは違う。これはもしもの為の布石ではない。確信的な未来だ。
「全て一週間後に手配してある。マンションは住んでもいいし、売ってもいい。好きにしてくれ」
「やめて下さい」
山室の押し殺した声は、やはり組長のものとよく似ている。
「俺があんたの下で働いて何年経つと思う。何をしようとしているかくらい、もう分かるようになった」
「だったら黙って従え。十三年も塀の中にいた前科者のお前に今更まともな職はない。悪い話じゃないだろう」
これは裏社会に身を置き生きる俺の為すべきこと。山室にどうこう言われる筋合いはない。俺の強い決意を感じている筈なのに、それでも山室は引かなかった。
「こんなもの受け取れない。そんな形で、罪は償うもんじゃない」
俺には何も響かない事を知りながらも、山室は辛抱強く俺に投げ掛ける。何時迄も甘いんだよ、山室。ここを何処だと思っている。
「お前の顔、見飽きたんだよ」
そう吐き捨てる俺を、山室は恨みがましく睨み付けていた。
山室を追い返し、そのまま俺はマンションを出た。待ち合わせの場所までのタクシーに乗り込み、流れる景色を見るともなしに眺める。
今日は一日雨だろうか。気温もぐっと下がり、もう冬が近付いている。雨粒が窓にぶつかりゆっくりと筋になっていく様を見詰める自分の心が穏やかである事にどこか安堵を覚えた。米倉さんも、最期の時をこんな気持ちで過ごしたのだろうか。そうだったらいい。
待ち合わせ場所の人気のない高架下には、阿部が一人ぼんやりと佇んでいた。
「お待たせ」
俺の声に我に帰ったその顔は、いつもより少し窶れて見える。懐から取り出した紙袋を渡す手も、ひどく震えていた。
「頼まれていたものです」
中身を確認もせず乱暴にコートのポケットに突っ込む。
「回収はD倉庫、三日後だ」
「分かりました」
じゃあ、と言って踵を返そうとした俺を、阿部は掠れた声で引き留めた。
「将生さんは、ずるいですね」
なにが、と問う俺を、阿部は見る事もなくぽつぽつと言葉を繋いでいく。
「俺の事、歯抜けとかジャガイモとか散々面と向かって悪口言うし、俺の尻をすぐ蹴り上げるし、すぐ殺すぞって脅すし、レインボーブリッジ全裸で走らせようとするし、頼んでもいない歯の治療代振り込んでくるし、万年三下の俺でも稼げるようなシステム作って働かせようとしてくるし、田島さんが理不尽な暴力で引きこもった時も無理矢理引きずりだして連れ回すし、田島さんのガス抜きも三島の気持ち考えないで勝手にやるし」
その歯の治療代はギャンブルで全部すったろうが。
「将生さんは鬼です。悪魔です。人の心がないです」
そうだよ、俺はそう言う人間だ。それなのに、何故そんなに泣くんだ。
「でも、将生さんがいなくなると寂しいです」
子供のように泣きじゃくる阿部を前に、思わず吹き出してしまう。驚いて顔を上げ、阿部もまたつられて笑った。
「もっとまともな兄貴分につけ。お前は案外いい二番手になるよ。歯を治したらな」
もう二度と歯の治療代は振り込んではやらないが。そう続ける俺に、阿部は少し誇らしそうな笑みを浮かべた。
「俺はずっと将生さん付きですよ。みんな嫌がるから、俺しかいないんです。将生さんは選べる立場じゃないですからね。俺が将生さんを選んでるんです」
バカだな、本当に。
「物好きも、大概にしときな」
その言葉を残し踵を返す。阿部はまた不細工な顔を汚れさせ、俺が見えなくなるまで深々と頭を下げていた。
この時を待ち望んでいた訳じゃない。それなのに、心は穏やかだ。
それから二日後、制限はあるものの面会が可能になった知らせを聞き、俺は一人病院を訪れた。田島さんが襲われた原因が俺である事はすでに知れ渡っている。面会に行けば方々から怒号が飛ぶだろう。だからなるべく人のいない時間、朝一番を狙った。
見張には睨まれたが、予想通り病室に人気はない。広い個室でぽつんと置かれたベッドに横たわり、田島さんはぼんやりと窓の外を見詰めていた。
「田島さん」
俺の声にゆっくりとした動作で振り返ったその顔は、記憶よりも随分と白かった。
「ああ、将生か」
どこか疲れたような顔で田島さんは微笑んだ。痛みに弱い男だ。どれだけ苦しんだ事だろう。
「わざわざ悪いな、忙しいのに」
首を横に振り、枕元の椅子に腰を下ろす。
「どうですか調子は」
「うん、今は薬も効いてるから落ち着いてる。あんまり覚えてねえんだよ。急だったから。痛いんだなあ、撃たれるのって。俺はもう、銃は握れないなあ」
そう言って笑いながら、田島さんは視線を落とした。
「三島な、一命は取り留めたそうだ。意識も戻ったよ」
「そうですか」
小さくうん、と言ったっきり。田島さんはぼんやりと指先をみつめている。自分を責めているのだろうか。三島が盾になった事を。
椅子から立ち上がり深く頭を下げる。そんな事で許されるとは思っていない。許されるつもりもない。
「俺のせいです、すみません」
「違うよ」
間髪も入れず放たれたものは、ひどく静かな声だった。
「将生、違う」
答える事が出来なかった。俺には、答える言葉がなかった。
不意に頬に指先が触れる。山室晋三の重い怒りは、未だ頬に微かな痕を残したまま。
「どうした、これ」
頬を撫でる指を制そうとした俺の手を取って、田島さんはどこか寂しげに笑う。
「何でそんな顔してる。俺は生きてる。三島も生きてるよ」
「すみません」
もう無理だ。ここにはいられない。早く、逃げなくては。そう気持ちばかりが逸るものの、怪我人の手を強く振り解く事ができない。いや、そうじゃない。
この男を前にするとどうして、こうも渇く──。
「今きたばっかだろ。もう少しいろよ。暇なんだよ、いつもみたいに相手してくれよ」
「すみません、田島さん」
俺を捕らえていた手は思うよりも弱々しく、少し身を引いただけで離れていった。
「行くな」
背中に投げられる声が、胸を締め上げるようだ。
「将生──」
振り切るように病室を飛び出し、俺は病院を後にした。
もう覚悟は決めた。心は穏やかだ。何度もそう言い聞かせる。だからお願いだ。そんな声で、俺を呼ぶな。
雨が落ちてくる。全てを洗い流して行くように。
遮るもののない雨にさらされ冷えた身体を温めるようにコートの前を引き寄せ、煙草に火を付ける。火を付けたそばから濡れる煙草は、美味くはないな。埠頭に程近い倉庫群は、かすかな潮の匂いがした。
背後から近付く足音に細い吐息を吐いて、付けたばかりの煙草を揉み消す。振り向いたそこには、夢にまで見た男の姿があった。
「良かった、本物ですね」
仄暗い夜の中から歩み寄る男は、俺の言葉に口元だけで微かに微笑んだようだ。
「大金積んだんだ。ガセ掴まされたらたまったもんじゃない」
薄暗がりと同化し獲物を見据えるその瞳は、正しく大陸の狼だ。
「随分と探しましたよ、劉さん」
「それは嬉しい」
俺の敵意を隠さぬ声にも何ら揺らぎを見せず劉は微笑んでいる。あんたの事を殺そうとする夢を、毎夜見たよ。
「ゲームをしないか」
予想外だったのか、細い眉が微かに動く。
「俺が死ぬか、あんたが死ぬか」
劉はその言葉を噛み砕くと、その憎らしい顔から笑みを消した。
「貴方に勝算は」
「ないですね」
でもね、そう続けて、雨に濡れ重みを増したコートを脱ぎ捨てる。
「言ったでしょう。日本人てのはバカな民族でね。仁義や人情なんてものを大事に持っていたりするんですよ」
俺にはそんなものはないと思っていたが、どうもそうではないらしい。この男が田島さんを撃ったと思うと、総毛立つような怒りを感じる。
「本気なのですね」
「ええ、覚悟は決まりました」
ゆっくりと近付く劉が眼前に迫る。百八十ある俺でも視線をあわせるためには見上げなくてはならないその巨体。恵まれた骨格と、鍛え抜かれた身体。愚かでなければ尻尾を巻いて逃げるだろう。本能的に感じる、圧倒的な生物としての力の差。だが残念ながら、俺は誰もが認める愚か者だ。
使い込まれた指が顎先を持ち上げる。その瞳からは、重すぎる執着が揺れている。
「そこまでしてあの男を守りたいのですか。貴方らしくもない」
「俺の何を知ってる。上っ面な情報だけ集めて、知った気になるな」
乱暴に手を振り払い、高い位置にある腰を狙い足を振り抜く。奇襲をかけたつもりだったが、劉はいとも容易く俺の蹴りを腕で受けた。ゴムタイヤとは、大袈裟ではない。
「まさか、私と素手でやり合うおつもりですか」
「生憎、鉄が嫌いなもんでね」
阿部に用意させた安物の銃は、やはり握る事ができなかった。米倉さんの命を奪ったそれは、俺には重過ぎる。
生身で渡り合うにはレベルが違い過ぎるなんて、そんな事は承知の上だ。それでも尚なりふり構わず無様に足掻く愚かな俺を、劉は苦々しく睨み付ける。
「それが、本当の貴方ですか」
誰にも心が靡かない人間なんて、この世にはいないのだろう。それはこんな俺も同じだ。目を逸らし、足掻いてでも受け入れたくなかった。今、この時までは。
「そうだよ。俺はあんたの思うような上等な芸術品でもなんでもない。気に食わなければ本能のままに牙を剥き、その癖気に入った奴には傍迷惑で自分勝手な忠義を誓う。どこにでも居るチンピラだ」
唇だけで、薄く微笑んで見せる。
「幻滅したか。残念だったな。あんたと俺は似てないよ。どこもね」
俺は変わらない。危険が迫れば迫るほど、嬉々として手を広げ迎えに行きたくなる。
勝てる筈がない事は分かっていた。毎夜見る夢と同じ末路を辿る事も。それでも似合いもせず燃え立つような怒りにも似た激情を、劉もまた真っ直ぐに受け止めてくる。
「そこまで私を退けたいなんて、傷付きます」
嘘をつけ。傷付いた様子なんか微塵も感じさせず、劉は俺の執拗な攻撃をあしらっていく。それどころか、少しの沈黙の後、どこか切ない瞳を潤ませた。
「貴方のその愚かな覚悟に、私も応えなくてはね」
腹に入った膝は思うよりも深く、なす術もなく膝をつく俺の胸ぐらを掴みコンクリートの壁に叩き付け、劉は微笑みながら耳元深く囁いた。
「最後だ。いい声で鳴いてください」
だれが、思い通りになんてなってやるか。痛みに喉が引き攣り声も出ない癖に、そう心の中で吐き捨てる。
そんな俺を嘲笑うかのように素早く手首を後ろ手に縛り、劉は雨が滴る髪を掻き上げる。俺を見下ろすその瞳は、やはり絶対的な捕食者のものだ。
ジャケットを雑に剥ぎ取られ、ずぶ濡れのシャツ越しに大きな掌が這う。冷えた皮膚に触れた熱に、思わず震えが起きた。反射的に蹴り上げた俺の足は、やはり容易く制される。
「手を縛れば次は足ですか」
「言ってんだろ。そう言う男だよ」
生意気に吐き捨てた言葉ごと奪われる。重なった唇の隙間に流れ込む雨が、不快なほどに生暖かい。
屈辱に唇を噛み締める俺を劉は着々と追い込んで行く。三度目ともなれば慣れたものだ。劉も、俺も。
だが何度経験しても嫌なものだ。抱かれると言うものは。俺はこちら側ではない。それなのに、抉じ開けられた身体が痛みと共に齎すものは、不快感と背中合わせの不愉快な快感。
性急に推し進められる腰から逃れるように身を捩れば、より深く突き入れられる。引き付けを起こしたように荒く息を吐きながら、雨の冷たさに救われる。呻きにも似た喘ぎは雨粒に反射して散って行く。自由を奪われ好き勝手弄ばれてでも痛いほどに感じ入る本能が、恨めしくて堪らない。
「一晩中意識のない貴方の身体に教え込んだ甲斐がありました。初めての時とは違い随分と良さそうな顔をしていますよ」
気性が荒いとは損なもので、自分でも抑えきれない疼きを噛みながら尚、噛み付こうとしてしまう。
「するわけ、ないだろ、下手くそが」
粗野な言葉に反応し、劉は怒りにも似た欲情をぶつけてくる。狂いそうな絶頂感に押し上げられ、頭が白く弾け飛ぶようだ。仰け反る胸に唇を落としながら、劉は低くわらう。
「見せてあげたい。口ではそう言いつつ自ら腰を揺らし、切な気な瞳で私を見詰める貴方の顔を」
睨み付けているつもりの俺の頬を撫で、劉は耳元に唇を寄せる。
「まるで、雌犬だ」
いっそ一思いに殺してくれ。そう願っても、この男より弱い俺にその資格はない。
抱かれる趣味なんてなかった俺が、俺を捨てた母にさえ感情をもてなかった俺が、この世で唯一憎しみを持った相手に抱かれて最期の時を迎えるなんてわらえる。
雨が降り頻る薄闇の中、意識を失うまで劉は俺を犯し続けた。極楽浄土は、強者のみに与えられるもの。やはりこの世は地獄だ。
遠のく意識の片隅で、呻く俺の周りを踊るようにまわる餓鬼を想像し、ふと笑ってしまった。あれは、マサルだ。あっちはヨシコだったか。
何故こんな時に実感してしまうのだろう。米倉さんの気持ちなんか、知りたくもなかった。誰かの為に命を賭すなんて、バカのやる事だと蔑んで。それなのに、やはり心はひどく穏やかだ。
山室は俺の愚行を罪の償いだと言った。俺自身初めの認識はそうだったのかもしれない。だが今にして思えば、そうではなかった。例えここで命が尽きても、田島さんの生きる道が続くならそれでいい。だから俺はここにきた。差し違えてでも、その命を狙う獣を排除する為に。
自分と似ているのに、対極にいる男。誰からも愛され慕われる陽気な兄貴分。変わった生い立ちのせいか、共にいると予想外の事ばかりでつい自然と笑ってしまう。確かに田島一平はこの地獄を生きる俺の微かな安らぎだった。
だがその胸の奥底で翳る正体不明の深い穴は、俺にとって強烈な引力を持っていた。長年抗ってきた。触れてはならないと言い聞かせてきた。その理由も、俺は自覚している。それでも心の奥底はやはり、命を賭けてもいいと思える程に、あの男に惹かれてしまっていたのかもしれないな。そう感じる自分に思わず笑ってしまった。
もう満足だ。このくだらない人生も。凍えた肌に、温かな涙がひどく沁みる。俺はただ、二度と目が覚めない事を祈った。
しかし俺の願いなど、叶った試しがない。すぐに忘れてしまうその現実は、相変わらず容赦なく俺の頬を叩いていく。
強く身体を揺さぶられふと重い瞼を開く。まだ悪夢の途中か、そう思った俺の視界には、予想していなかった間抜け面があった。
「将生さん、大丈夫ですか」
大丈夫な訳ないだろう。空気を吸うだけで身体中が痛くて堪らない。
「良かった」
阿部はそう言って俺を起き上がらせ壁に背を付け座らせると、頭上に傘を翳し慌ててコートをかけた。劉が情けで下だけは履かせて去ったのか。それでもずぶ濡れの身体にはだけだシャツ。覗く素肌に乱雑に散る赤い痣。誰がどうみたって、これはヤリ倒された姿だ。
「銃の回収に来たらここで倒れていたから」
俺の死体の回収まで頼んだつもりだったが、真意に気付いてはいなかったようだ。感傷に浸りいい二番手になるだなんて、言うんじゃなかった。
「万年三下」
「何で今そんなこと言うんですか」
阿部はそう言って、また顔を歪めて泣いた。汚い顔だ。
「煙草、持ってるか」
阿部は慌てたようにポケットから煙草を取り出し、俺に一本差し出した。唇に挟んだ瞬間、馴染みのない匂いが微かに抜けた。火を付ける阿部の手を間近で眺めながら、ゆっくりと吸い込む。肺を潜らせ吐いた息が白く濁る。秋が終わろうとしていた。
生き延びたのか、俺は。
覚悟をしてここまで来た。生き残るとは思ってもいなかった。これから何をしたらいい。こんな気持ちを抱えて、どう生きればいい。嗚呼、頭に来る。何を安堵している。一体俺はどうしたんだ。自分が生きていると分かった途端、何故その顔を思い浮かべてしまう。あの男が俺を呼ぶ声が、耳元でこだまする。恋しさにも似た焦燥に吐きそうだ。
自覚している。抗い続けた理由を。
米倉さん、俺は、貴方を忘れたくはないんだ──。
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