Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground──』

自覚

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 劉は本当に諦めたのか、俺への執着は潰えたか、不安はあった。だが足取りを追うと劉はあの後直ぐに中国へと帰ったようだ。次日本に入国したら連絡が入る手筈になっている。金はかかるが、仕方がない。そう言う稼業だ。また来るようなら今度こそ返り討ちにしてやればいい。二度と、日本の地に足を踏み入れる気になれないくらいに。
 完璧な敗北を喫してもまだ、俺は勝てる気でいる。全くこの性格にも呆れてしまう。
 そしてあの日早朝阿部によって発見された俺は、その後見事に大風邪を引いた。寒空の下雨に打たれ一晩中放置されていたのだから当然だ。

 甲斐甲斐しく栄養ドリンクやらゼリーやらを並べている山室は、先ほど働くと言って聞かない俺を力技でベッドに沈め随分とご立腹のようだ。思いの外高熱で抗う事もできず不貞腐れて布団に鼻先まで埋める俺を見下ろし、元々鋭い瞳を光らせる。
「全く、風邪で済んで良かったですよ。鉄砲玉に狙われる立場の癖に、自分が鉄砲玉みたいな顔して二度と変な事言い出さないでください」
 そんな顔をした覚えはない。
「将生さん、そろそろ本当に自覚を持って下さい。この会社にはあんたが必要なんだよ。俺に代わりが務まる訳ないだろうが」
「俺の仕事なんて借金抱えた奴らの教育とやる気のケアだけだ。俺より山室の方がそう言う才能はあるだろ」
 未だ俺が良いと言う客には俺がついているし、誰より稼いでいるのは実言えば俺だ。だがそこまで山室には望んでいない。会員の教育とメンタルケアだけならばこの男に務まらないとは思えない。
「俺は雪で手一杯ですよ。不器用なんで」
 確かにこの男は不器用だ。だが、山室はその手の才に長けている。一見能天気な田島一平に対し不満のある老人連中が、未だ隆司がいればなどとうっかり口にするくらい。山室が組長の跡目に腰を据えたのはまだ二十歳そこそこだった筈だが、それを才能と言わずなんと言うのか。
 ぼんやりと若かりし日の山室を想像していると、リビングの椅子を持ち出してきた山室が見張のように枕元に腰を下ろした。その瞳にはもう、怒りはないように思う。
「何故、仇討ちなんてしようと思ったんですか」
 伺うように問われ、思わず笑いが漏れる。
「仇討ちなんかじゃない。うちの若頭に降り掛かる未来の危険を排除しようとしたんだよ」
「あんたにも、そんな心が残っていたんですね」
 自他共に認める利己主義の俺が他人の為に命を危険に晒すなど、山室には想像もできなかったのだろう。それは、俺も同じ。
「不思議なもんだな。米倉さんの気持ちがわかる日が来るなんて」
 歳をとったのか、と戯ける俺を見詰め、山室は密かに拳を握りしめる。
「前に一平を怖いと思った事はあるかと聞きましたよね」
 突然の不穏に、俺は眉を顰めた。
「言うべきではないと思っていました。二人が良い関係を築いているのなら、将生さんが、一平に心を寄せているのならと」
 いや、と付け足して、山室はまた強く拳を握る。
「誰にも話すつもりはありませんでした」
 握り締めた拳を微かに振るわせる山室からは、怒りと共に深い悲しみが伺える。
「先日一平と再会して、俺は恐ろしくて堪らなかったんです。まるで秀司が、そこにいるような気がして」
 山室は、何を話そうとしているのだろう。
「少し、昔話をしてもいいですか」
「いいよ」
 断る理由はなかった。秘めていなくてはならない思いは、いつでも殴り付けるような真実を齎す事を俺は知っている。
 山室は小さく息を吐くと、静かに話し始めた。
「俺のお袋は、幼い俺と秀司の前で首を括りました。俺はこの通り神経の図太い人間だ。確かに壮絶なショックは受けたが、年を追うごとにお袋が選んだ道だと思うようになった。だが秀司は俺と違った」
 俯き拳を握る男からは、新たに悔しさが滲んでいるようだった。
「秀司は、壊れていました」
 衝撃な命の終わりはいつも、人の心をいとも容易く壊してしまうものだ。心穏やかで優しい人物だったと評判の山室秀司も奥底に深い闇を抱えていたとして不思議ではない。
「親父を憎み、お袋を憎み、俺だけを妄信して生きていた。依存に近いものだったと思います。だが俺は秀司が忌み嫌う極道者になった。秀司を見捨てた訳じゃない。秀司をこの道から遠ざけたくて決めた事だ。だが、伝わらなかった。それどころか一人の女を愛し、塀の中へ身を投げた」
 分かりますか、山室は問い掛けるようにそう言って、瞼を伏せる。
「表向きは祝福してくれた。この道から足を洗う事に二の足を踏む俺の背中を押してくれた。だが、秀司の心はもうあの頃には離れていたんだと思います。俺の代わりに、一平と言う存在を見つけたから。道を踏み違えた兄とは違い、一平ならば自分を真に理解し、幻滅させる事もなく、見捨てず、思い通りに生きてくれる──歪んだ自己愛から、自分の分身のような人間に育ててしまったんです」
 山室秀司の願いは見事に成就した、と言うことか。
 俺は一人納得していた。どこか違和感を覚えるちぐはぐした言葉たち。あれはきっと田島さんが未だ理解できていない、山室秀司の言葉だ。
「一平は、組を潰そうとしているんじゃないですか」
 頷くことが出来なかった。例え山室であろうと、肯定する事は出来ない。しかし沈黙は、肯定のようなものだ。
「一平と再会した時、秀司はなんて罪深い事をしたんだと思いました。無垢をいい事に自分の思い通りに人格を形成するなんて、恐ろしい事だ」
 ふ、と山室は顔を上げる。
「それでも、一平があんたを想う気持ちは秀司のものじゃない。一平のものだ。危険を省みず福建マフィアの男に喧嘩を売るなんて、頭の良い秀司は絶対にしない」
 そう言って深く頭を下げる男を前に、俺はあの夜の事を思い出していた。確かにあれは、誰もが知る田島さんではなかった。
「俺は一平にとって将生さんが秀司の狂気じみた洗脳を解く存在になりえるのなら。そう思ってしまうんです、すみません。これは俺のエゴだ」
 いつまで経っても、甘い男だ。そんな事を俺に言ってどうなる。そう毒吐きながら、熱のせいか頭は働かず、本心ばかりが意思に反して溢れて行く。
「田島さんに惹かれている。その自覚はある。だが米倉さんの事を、俺は忘れたくないんだ」
 たった一人、俺を愛し死んだ男への気持ちをなかった事にはしたくない。伊崎がなんと言おうと、俺は未だ米倉さんに縋り続けている。俺にとって米倉さん以外の人間に心を寄せる事は、米倉さんを裏切る事のように感じてしまう。
「俺は愛美のことも、真也のことも、忘れた事なんて一度もない。それでも雪と共に生きる事を決めた。その背中を押したのはあんたじゃなかったか」
 山室はやはり、俺を勘違いしている。バカなお人よしだ。
「忘れなくても、人は愛せる。愛しても良いんです、将生さん」
「これは愛だの恋だの、そう言う感情じゃない」
 田島さんに持つ感情は米倉さんへのものとはまるで違う。軽薄で、もっとシンプルなもの。
「本能だよ」
 だから厄介なんだ。胸の奥底で大切に育んできたたった一つの愛情を、そんなもので踏み躙ってしまいたくない。
 本能からは逃れられない事は分かっている。それでも抗うしかない。人間とは、愚かなものだ。

 次の日には熱も幾らか下がり山室も満足したのか、俺は仕事を再開した。突然死んで山室に会社を譲る筋書きだったから特にスケジュールの変更はなかったが、予定外に生き延びたおかげでやる事は腐る程ある。
 今日山室は会員の付き添いで居らず、車内は俺と慎太郎の二人きり。とある会員から会社で義務にしている性病検査の日程を変更したいと連絡を受け、どう動かそうか詰め込まれたスケジュールと睨み合っていると、運転席から慎太郎が声を掛けてきた。
「将生さん、まだ調子悪いんですか」
「悪くないよ。なんで」
「いや、あんまり顔色良くないんで」
 言われ車窓に映る自分に視線を投げる。
「そうかな」
 そう返しつつ、やはり少し窶れた。異国の殺し屋にこう何度も強姦されたのではそうもなるか。こんな疲れた顔で客を取るには、少し気が引ける。食事を増やしてまた真面目に身体を作らないと──なんだか、疲れたな。やはり近々休みを取ろう。結局米倉さんの墓参りにも行けていない。
 ぼんやり窓を眺めていると、再び慎太郎が問い掛ける。
「田島さんそろそろ退院できるそうですね。お元気ですか」
 一体どこから情報を仕入れてくるのか。慎太郎は幹部である俺より耳が早い時がある。
「さあ、どうだろう。近々俺も本邸に顔出す予定だから、その時に会うんじゃない」
 どんな顔して会えば良い。あの男への想いを実感して。いや、変わらないか。抗えばいい。人間には、理性があるのだから。
「田島さん言ってましたよ。将生が一番信頼できるって。俺と雪は大反対しましたけどね」
 慎太郎の声を聞きながらふと思い出す。慎太郎が、山室秀司の右腕だった事を。
「山室秀司は、お前から見てどんな男だった」
 バックミラー越し、一瞬俺に視線を投げ、慎太郎はどこか重い口調で呟いた。
「秀司さんは……優しい人でしたよ。でも俺自身子供育てて多少大人になった今思うと、分からないです」
 似合もしない物悲しげな笑みで、慎太郎は言葉を繋いで行く。
「俺みたいな下っ端の事も可愛がってくれましたし、俺は恩義がある。組の為じゃなく、秀司さんの為だけに極道者でいたようなもんです。それに隆司さんの弟さんだ、だから悪くは言いたくない。だけど、どこか歪な人だったんだと思います」
「それは、田島さんの事か」
 慎太郎は曖昧に頷く。
「部屋住の間では噂になっていましたよ。田島一平は、山室秀司の情夫だって。俺はあんまそう言う噂好きじゃないんで、気にしていませんでしたが。確かに秀司さんの田島さんへの感情は、行きすぎていたような気はします」
 それは広島にまで噂が来ていた。俺もまた二人ともに面識もなく興味がなかったから、忘れていたが。
「秀司さんは田島さんに仕事をさせませんでした。年はそんな変わらないはずの大人の男をずっと自分の部屋に閉じ込めて、まるで人形みたいに可愛がって。組長とはそれで随分と揉めていたみたいですが、結局亡くなるまでまともに仕事をさせていませんでしたね」
 それを跡目にしたのだから、山室晋三は一体何を考えているのか。実際田島さんはいまだに阿部より稼げていない。組長の女が営むラウンジを一つ持っているだけだ。その分直参の組との橋渡しやらに精を出しているようだが、田島さんを認めない人間が多い理由はそこにもある。
 回顧を終えた慎太郎の微かなため息が静かな車内に響く。
「久しぶりに会った田島さんは変わっていました。前は一切感情のない人だったんですけどね。まるで秀司さんと話しているみたいで、懐かしさと共に少し悲しくなりました。秀司さんの事を本当に慕っていたんでしょうね。でも、あれは田島さんではないですよ」
 慎太郎はそこまで話し終えると、突然態とらしい声を上げた。
「あ、すみません将生さんの男に失礼な事言って」
 思わず運転席の背もたれを蹴る俺をミラー越しに見ながら、慎太郎は笑った。
 何故だろう。ひどく苛立つのは。山室の話を聞き、慎太郎の話を聞き、蓄積されていく重い嫌悪感。それはまるで、嫉妬にも似た感情だ。

 それから少しして、ようやく俺の元にも田島さん退院の知らせが回った。三島はまだしばらく退院は無理そうだが、経過は順調だそうだ。組内では元々優秀だった三島を英雄視する見方が強まっている。見習うべきだな、俺も。
「体調は良くなりましたか」
 車に乗ってすぐ、阿部は抜けた前歯を惜しみなく披露し笑顔で俺に問いかける。
「良くなったんじゃない」
 風邪はとっくに良くなった。だがずっと喉元に何かが閊えたような不快感が拭えない。
「田島さんは今朝戻られました。元気でしたよ」
 それは良かった。
「組長も一安心したのか、今朝はご機嫌でした」
 その機嫌をこれから損ないに行くのだから、気が重い。
 返事をしない俺への阿部の一方的な会話をラジオのように聞きながら山室邸へと車が滑り込む。車外に出た俺を、庭掃除をしていた下っ端が睨み付けている。思わず乾いた笑いを漏らす俺の後ろから、阿部が慌てたように囁いた。
「将生さん、ダメですよ喧嘩しちゃ。いくら将生さんも被害者とは言え田島さんが死にかけたのは事実なんですから、もっとしょんぼり歩かないと」
 返事もせず、俺は煙草に火をつけポケットに手を突っ込んで歩き出す。
「ああ、またそんな煽るような事して」
 やはり俺は変わらない。そう実感した。誰かが殺してくれるなら、それも人生だ。
 態とらしく横柄に歩いて行くと、背後から呼び止められた。
「こら、せっかく掃除したんだから汚しちゃダメだぞ」
 その声に思わず振り返ると、にこにこと人の良さそうの笑みを浮かべ、田島さんは何故か箒を持って庭先に立っていた。顔色も随分良さそうだ。大方俺がくると聞いて庭先で待っていたのだろう。手持ち無沙汰だから掃除なんかしながら。
 煙草を揉み消し、頭を下げる。
「親父の所か」
「ええ、報告に」
 報告と言う言葉に微かな反応を見せる瞳。何故こうもこの男の心が分かってしまうのだろう。
「俺も一緒に行こうか」
「いえ、大丈夫です」
 それだけ言って踵を返す俺の背中に、田島さんは態とらしく大声を張り上げた。
「あとで部屋に寄ってくれ。入院中暇で本を読んだんだけど、読めなかった漢字があるんだよ」
 そんなもの、誰かに読んでもらえばいいものを。そもそもこんな態とらしい事をしなくても、俺は何も感じていない。元々敵の多い生き方をしてきた。敵意には慣れている。慣れないのは、性愛の混じらぬその嘘くさい好意の方だ。

 組長の部屋の前で阿部と共に廊下に正座をし、障子を引く。そのまま二人揃って両手をついて頭を下げ、阿部を残し部屋へと入り障子を閉める。再び畳に両手をつき、俺は深く頭を下げた。
「おはようございます」
 返事もせず、山室晋三は愛刀の手入れに勤しんでいる。この男を前にすると、やはり圧倒される。
「この度は申し訳ありませんでした」
「始末つけたのか」
 はい、と返す俺の頭上、ため息とも吐息とも取れぬ微かな音が響いた。
「運が良かったなあ」
 それは、俺が無事始末をつけられたから排除し損ねた、と言う事だろう。
 返事もせずただ畳に額を付けじっとしている俺の前に、山室晋三が歩み寄る。
「ヨネが死ぬ前に、ここで同じようにそうやって頭下げていた。俺にしか頼めない、将生を頼む、ってな。泣いていたよ、ヨネは。惜しい男を亡くした」
 こんな所にまで、米倉さんの愛情が残っている。そう思うと、自分勝手な苛立ちが胸を満たす。
 そもそもおかしな話だった。あれだけの事をしでかした俺が國真会から山室組に引き抜かれるなんて、ある訳がなかったんだ。
「聞き分けの良かった一平も、お前を破門するか迷っていると相談しただけで暴れるしよお。何だって俺が目を掛けている連中はこぞってお前なんかに熱を上げるかねえ。ほとほとお前は、罪な男だよ」
 呆れたような溜息に言葉もない。
「確かにお前は頭もキレるし度胸もある。肝も据わっているし、良くも悪くも人を狂わせるだけの魅力がある。だが、誰よりも臆病だ。試しに踏み出してみな。少しはお前の腐った世界も良くなる」
 一向に返事をしない俺の気持ちを、この男は知っているのだろう。
「将生、俺はお前を買ってるよ」
 だがな、と低く吐く声と共に、手入れしたばかりの刀が畳に突き刺さる。その刃は、あと数ミリで俺の命に届く所で鈍く輝いていた。
「三度はねえぞ」
 その燻るような深い怒りは、やはり重い。
「心得ています」
 心得ている。二度と同じ過ちは繰り返したくない。変われるかどうかは、知らないけれど。

 組長の部屋を後にして、阿部と共に庭を沿う廊下を歩く。米倉さんは、どんな気持ちでここを歩いたのだろうか。
「田島さんの部屋に寄るから、帰る時に呼ぶ」
 頭を下げて去って行く阿部を見送り、来た道を振り返る。愛しさだけが、込み上げてくるようだった。

 かつて通い慣れた廊下を進み目的の場所に辿り着き、微かな憂鬱を引きながら無遠慮に襖を開く。若頭と言う立場の人間の部屋を訪ねる態度ではないが、これは昔からだ。部屋の主はそんな俺を嬉しそうに迎えるのだから、これで良いのだろう。
「おお、待ってたぞ鉄砲玉」
「なんですか」
「鉄砲玉みたいな顔して病室出て行くから。本当に死んだらどうしようかって心配したんだぞ」
 俺は一体どんな顔をしていたのか。逆に気になってくる。
「死ぬ気でしたよ」
 殺せなかったのか、生かされたのか。正直どちらでも良い。俺は生きている。まだこの地獄に佇んでいなくてはならない。それが現実だ。
「やめてよ、寂しいじゃん」
 寂しい顔など微塵も見せず、田島さんはへらへらと笑っている。これが山室秀司かと思うと、苛立ちが微かに燻る。
「将生が隣にいてくれなきゃ、俺はいやだよ」
 隣にいた事などない。俺たちは適度に距離を取って来たじゃないか。そうしないといけなかった。それは、あんたも同じだろう。
 ぞんざいな態度で定位置の机に腰を下ろし、不躾に足を組む俺の元へ、田島さんは本を持って近寄ってくる。
「これこれ、読んで欲しいんだよ」
 山室秀司の部屋で、山室秀司の本を持ち、山室秀司の言葉で俺と接する。
「どうした」
 それなのに──。
「将生」
 何故突然、そんな声で俺を呼ぶ。何時迄もその正体に気付かないとでも思っているのか。この俺が。そうやって山室秀司の隙間に本性を覗かせ俺を引き摺り込もうとする癖に、いつまでバカのふりをしているつもりだ。
 嗚呼、腹が立つ。
 力任せに振り抜いた蹴りが重い筋肉にぶつかり鈍い音が響く。衝動が抑えきれない。俺は元よりこう言う人間だ。口を開くより、手が先に出る。
 くぐもった呻きと同時に、重い衝撃が背中に走る。俺を机に組み伏せ見下ろす双眸は、見た事のない静寂を持っていた。傷も癒えぬ身体の防衛本能だろうか。
「なに、どうしたの」
 ご機嫌斜めか、と取り繕うように笑う田島さんは息一つ上がっていない。
 踏み出したくない。抗っていたい。俺は米倉さんを忘れたくない。そう思うのに、本能が叫ぶ。離れていれば平気な癖に、こうして近付くと抑え切れない激情に呑まれそうになる。どうしてこんなに、渇くんだ──。
 身をひかれる瞬間、殆ど衝動的に襟元を掴む。
「なんだ、まだやりたいのか。傷口開いちゃうからもう終わりだよ。医者に怒られる」
 軽く手を払われるより早く、乱暴に引き寄せる。一瞬、時が止まったかのような静寂が満ちた。何が起こっているのか理解が出来ていないのか、目を見開いたまま俺を見下ろすその間の抜けた童顔は、何時も見る男のものだ。
「目は閉じるんだよ。色気がねえな」
 そう吐き捨てて、再び薄く開いたままの唇に、そっと唇で触れる。初めて触れたそれは、思うより柔らかく、思うよりも熱かった。

 長い沈黙だった。意味もなく見詰め合ったまま、俺もまた動く事が出来なかった。
「ええ、なに、え、どういうこと」
 ようやく我に帰り呟くように言葉を漏らす田島さんを前に、どうにも気まずくて思わず視線を逸らす。途端に頭上から笑いが降った。
「ずるいよなあ。そこは俺に照れさせてよ。初めてなんだから」
 何を笑っているんだ。どう言うことか分かっている癖に。苛立ちに巻かれ睨み付ける。
「俺は覚悟を決める。あんたはどうする」
「だからずるいんだって」
 田島さんはそう言って笑いながら、表情とは裏腹、怯えたように身体を離す。本棚に向かう背中からは、困惑と、確かな拒絶が滲んでいた。

 そのまま言葉も交わさず、俺は部屋を後にした。本人あまり自覚はないのだろうが、田島さんを縛るものは俺なんかよりもずっと重い。直ぐに答えが出る筈がない事も分かっていた。俺もまた直ぐに答えが欲しかった訳でもない。自覚がないとはそう言うことだ。俺と違い、向き合う時間がこれまでなかったのだから。

 米倉さんを失い、歩みを止めたその時に、俺は同じように立ち止まりそれをなんら悲観せず生きる男と出逢った。それが田島一平だった。
 俺はただただ米倉さんの影を追って、田島さんは愛を乞う子供のように山室秀司を模倣する。
 胸の内のずっと奥底、二度と会えぬ大切な人を抱き俺たちは生きてきた。互いの抗えぬ引力に抗えば抗うほど、傷付き悦びを得る。死者に向かう愛こそ己の全てなのだと。趣味の悪い行為を繰り返しながら、触れてはならない禁忌の前でただただ戒めのように見詰めあっていた。
 本能でわかっていたのだ。触れてしまえば、全てが終わる。俺達がそれぞれ大切にしてきた小さなものが粉々に壊れてしまう。
 だが山室の語った真実を知り、それを目の当たりにした時。怒りにも似た激情についに抗う事が出来なかった。俺が惹かれたのは、山室秀司ではない。何時迄も田島さんを支配するその存在に、嫉妬にも似た感情すら覚えた。全く俺らしくもない。
 それでもやはり本能が呼ぶのだ。この男を手に入れたい。いや、そうじゃない。この男は、もうお前のものじゃない。俺のものだ、と。
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