Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground──』

鎖ざす

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 秋が終わり、冬が訪れた。結局米倉さんの墓参りには行けていない。俺は本能に負けた。今更顔向けなんてできない。
 後悔しているのかと聞かれると、分からない。月日が経ち、あの男との距離が離れれば、やはり理性が仕事を始め触れてはならなかったと感じる。
 田島さんとはあれから一度も会っていない。連絡すら取っていない。今までと何ら変わりない、組の幹部と若頭と言う距離感。あの激情も、いつの間にかなりをひそめてしまった今、覚悟を決めると息巻いた癖に再び俺から動く気もなかった。

「将生さん、聞いてんの」
 不意に語気を荒げた声が耳に掠め我に帰る。眉を吊り上げた雪が苛々した様子で俺を睨み付けていた。
「聞いてない」
「何なの、ちょっと襲われたくらいで落ち込んじゃってさ」
 誰があんな事でいつまでも落ち込むか。
「君みたいに弱い癖に虚勢を張っている訳じゃないからねえ。俺を抱こうなんて酔狂な連中は踏み潰してきたんだよ。襲われ慣れた君と一緒にしないでほしいね」
 俺の煽りに喚く雪を宥めながら、山室はさっさと帰りたいのか、書類をまとめ始めた。
「まあまあ、とりあえずこんな所ですかね」
「そうだね。明日朝から俺も出るから。泊まりになると思う。午後は自由にして」
 分かりました、と返したあと、山室はふと思い出したように顔を上げた。
「純平はどうしますか。将生さんに会いたがっていますが」
 無理やり離せば新しい何かを見つけるかと思ったが、純平の執着は凄まじいものだ。
「バイト増やすか。もう居候させる気はないし、あと一年で十八だろう。客を取らせる訓練も始めないと。金貸しも俺も、慈善事業じゃないんでね」
「バイト増やすのは良いですが、一度ここに戻してやった方がいいと思いますよ」
 純平のいない生活は快適だったが、山室が言うならそうなのだろう。
「そう、分かった。じゃあ来週かな。今週は忙しい」
 怒りを収めそんなやり取りを眺めていた雪は、驚いたように目を丸くする。
「ねえ、なんか将生さん素直になってない。隆司さんに惚れるのだけはダメだからね」
 呆れ果てる俺と山室を前に、雪は本気のようだ。雪も分かっているのだろう。魔性と呼ばれた自分より、俺が数段上を行く男だと言うことを。だから恐れる。自分の旦那を取られるんじゃないかと。全く、山室も苦労が絶えないな。
 俺が悪態をつくより早く、山室は雪の耳元で小さく囁いた。
「雪、将生さんにはちゃんと一平っていう相手がいるんだ」
「え、それ冗談じゃないの」
 山室も慎太郎もネタにしやがって。
「いいじゃん、一平。良いやつだし面白いし、俺の友達だし」
 一体いつから友達になったんだ。聞きたい事は山ほどあるが、何だか疲れてしまった。
「うるさいんだよ。早く帰って夫婦の時間でも大切にしてろ」
 追い立てられるように帰って行く二人を見送り、ソファに身を投げる。テレビを付ける気にもなれず、料理を作る気力もなく。ただなんとなく、電話をかけた。
「もしもし、なんですか」
 電話口の阿部は口に何か含んでいるのか。確かに夕食時だが、周囲が騒ついている。
「今平気か」
「今ですか、田島さんと飯食ってます」
「なんで」
 予想外の返答に、思わず口から出てしまった。
「ちょっと二人で出掛けてて」
 阿部はそれほどおかしいとは思わなかったのか、淡々と返してくる。俺は続々と湧き上がる質問をぐっと呑み込んだ。
「元気か」
「俺ですか、元気ですよ」
 思わず溜息が漏れる。
「君の事になんか興味あると思う、俺が」
「ちょっとは気にして下さいよ俺の事も」
 相変わらず電話越しでも不愉快な声だ。
「田島さんは元気か」
「元気ですよ。今日もジョージの世話してくれましたし、相変わらずです。あ、今日は個人的な快気祝いに動物園に行ったんですよ。それで今飯食ってます。何で連れて行かないんだって三島に怒られましたよ。あいつ田島さんが撃たれてから神経質になってて。あ、替わりますね」
 かわらなくていいと言う前に、阿部は携帯を渡したようだった。誰、と言う声が遠くで聞こえたと思ったら、すぐに田島さんの声が耳元で響く。
「おお、どうした」
 声なんて、聞くつもりじゃなかった。様子はどうか、知りたかっただけだ。
「いえ、阿部に用があって」
「そうなの。俺に替わりたかった訳じゃないってよ、雄二」
 再び阿部に戻されそうになり、俺は何故か慌てて問い掛けた。
「動物園、楽しかったですか」
「うん、雄二とミミたんに餌あげてきた。最近毎週行ってんだよ。な、雄二」
 何なんだミミたんと言うのは。二人の和気藹々とした雰囲気に、また気分が沈む。
「どうした。雄二に戻そうか」
「いえ、このまま切ります」
「そう、分かった。あ、待て、雄二がまだ話あるって」
 名残惜しさもなく、携帯は阿部に戻された。
「将生さん、組長から伝言です」
 阿部の声が遠く聞こえる。
「来週の田島さんと三島の快気祝い、来なきゃ破門するそうです」
 返事もせず、俺は通話を切った。
 何なんだ、よそよそしい。前はもう少し嬉しそうにしていたじゃないか。阿部の存在ばかりひけらかしやがって。いや、俺が気にしすぎているだけなのかもしれない。そもそもそう言う男だ。能天気なフリをして、何にも興味がない。何より山室秀司の呪縛は、思うよりも強かったのだろう。だとしたら、そろそろ身を引くべきか。
 追う立場は嫌いだ。そんな事生まれて一度もした事がない。追われ逃げるのが俺の性分だ。
 本能からは逃れられない癖に、そんな事ばかりを考える。俺は相変わらず愚かな人間だ。

 次の日、慎太郎の迎えで車に乗り込み、いつも通りの朝を迎える。シートに身体を沈め足を組む。いつもならそのままスケジュールの確認をするのだが、そんな気にもならず窓に頭を預けた。
「山室」
 その一言だけで助手席から煙草を差し出し、火を付ける。見慣れたその仕草にも、少しだけ気分が落ち込む。
「行きたくないな」
「どうしたんですか、体調悪いんですか」
「そう言う事じゃないけど」
 食事も増やした。連続した事件で少し痩せた身体も元に戻した。体調は良い方だ。それなのに、気持ちだけがずっと低迷している。
「少し休みたい」
「はいはい、入院する前に教えて下さいね。力技でも休ませるんで」
 珍しく駄々をこねる俺を、二人は笑い飛ばす。
 苛立っているうちに、目的地に到着してしまった。嗚呼、行きたくない。そんな事を考えても仕方がない。山室が開く扉を潜り車外に出ると、随分と冬が深まってきていた。
「後はよろしく」
「おつかれさまでした。報告は一応入れます」
 この後二人には会員の付き添いを一件頼んでいるが、そのまま午後から半休をやった。今日はそれを利用して桐島家と山室家で水族館に行って食事をするんだと。さっき憂鬱な俺を前に盛り上がっていた。
「明日の迎えはどうします」
「迎えはいい。タクシーで帰る」
 俺の返答を受け、山室を乗せて車は走り去ってしまった。
 一等地の高層マンションに足を踏み入れ、深いため息をひとつ。気怠さを引きながらオートロックを抜け一つの扉の前へ。
 インターホンを押し、勿体ぶるように開いた扉の隙間から、最近嗅ぎ慣れない香水の匂いが鼻先を擽る。
「お久しぶりです、凛さん」
 笑を作る俺と対照的に、女の顔には微かな面白くなさが見える。
「もう切ろうかと思った」
「すみません、裏の仕事が慌ただしくて」
 裏ね、と呟いて、部屋に導かれる。
 嫌なんだ、この女は。鼻のきく女狐。俺が山室組の人間だと言う事を知っている、唯一の愛人。何より、俺の兄貴分の女だ。また新しい火種になりそうな癖に、それをゆすりのタネに俺を手放そうとはしない。知っていた訳じゃない。たまたまそうだっただけだ。ただ、いい女ではある。
「聞いたわよ。一平ちゃんが撃たれたって」
「もう退院しました。元気ですよ」
 俺のジャケットを手際よく脱がせながら、長い睫毛で縁取られた瞳を細め、俺を試すように微笑む。
「何があったの」
「関さんに聞いたでしょう」
 どうせ全て知っているのだろう。関と言う俺の兄貴分は、口が軽い事で有名だ。
「聞いてないわよ。貴方が、中国のマフィアのオンナにされたなんて」
 俺が言える事ではないが、とことん性格が悪い女だ。
 背中に身体を密着させ、ゆっくりとタイが引き抜かれる。今を何時だと思っている。まだ真っ昼間だぞ。そう感じる俺は、やはり少し疲れているのかもしれない。
「聞かせてよ」
 耳元に囁かれた言葉に、乾いた笑いが漏れた。
「今日はそう言うプレイにしますか」
 シャツのボタンを弾く指先を捕らえ、背中に張り付く細い身体を胸の中に抱き寄せる。
「俺がどうやって抱かれたのか、知りたいのでしょう」
 人間とは、上っ面で生きるには簡単なものだ。こうして肌を重ね言葉を交わせば相手を分かった気になれる。

 俺に抱かれたい奴は抱いてきた。金をもらっても、もらわなくても。女でも、男でも大差はない。互いにどれだけ性と言う本能を満たせるか、それだけだ。そもそも俺はそう言う人間だ。人間とも言えない、獣と同じ。それが一番楽な生き方だと俺は知っている。
 裸の背に回された長い爪が、ふとマサルに触れる。そのまま擽るようにヨシコの方へ──。
「何か、おかしかった」
 その声にふと我に帰り、自分が笑っていた事に気付く。
「ああ、いえ、すみません。くすぐったくて」
 何が、マサルだ。どこまで侵食してくる気だ。こんな時に出てくるな。萎えるだろ。
 だから時折こうして現れる感情に、ひどく苛立つ。

 大して面白くもないのに昼前からベッドに入り猿のようにやる事やって、情事の名残もなく、煙草に火を付ける。男とは便利なものだ。いい女ならどうとでもなる。嫌いでも、憎くても。下らない。
「腕が落ちたんじゃない」
 横目で流し見る俺を、勝ち誇ったような笑が見据えている。相変わらず完敗だった癖に、どの口が言う。
「満足できませんでしたか、今回はサービスしときます」
 態とらしい笑みを浮かべ、細く煙を吐き出す。嫌な女を抱いてただ働きとは、一体何の時間だったんだ。
「満足よ。貴方は誰よりも上手。何より貴方レベルだと、景色がいいのよ」
 うっとりと頬を擽る指先に、思わず乾いた笑いが漏れる。
 この女レベルでも、落ちない男。それがこいつにとっての俺の価値だ。金で買える癖に、金でしか買えない事に焦燥を募らせる。簡単なもんだ。俺はこの腐った世界で金を稼ぐ為に長年磨いてきた。持って生まれた容貌を利用し、より高める為に。こんな、屑みたいな価値を。
「ほかの女のこと考えていたでしょう」
 その言葉に、思い当たる節がない訳じゃない。確かに気を逸らした。ほんの一瞬だけ。
「それとも、男かしら」
 何故俺の背中の餓鬼に名前なんて付けたんだ。いらない置き土産を残しやがって。
 答えない俺に痺れを切らしたのか、悔し紛れの言葉が刺さる。
「まあ、そろそろいい人見つけてもいいんじゃない。相手に苦労なんかしないだろうし」
 たった一人の男に勝手に翻弄されて、苦労してるよ。この俺が。
 やはり俺はこちら側だ。溺れて行く人間を見下ろし、嘲笑うように手を引く。そうやって生きてきた。それなのに、今更抗えない本能が胸の内で燻り続けている。
 快気祝いなんて、行きたくもない。会いたくもない。どうせ、また打ち拉がれるだけだ。
 長年積み上げてきたものを、自分を守る為の鎧を、こうも簡単に打ち砕いてしまう。本能とはやはり厄介なものだ。

 それから純平が家に戻り、また騒がしい毎日が始まった。純平の執着の矛先となる事はやはり苦痛で、その度に感じる。俺は一人が好きだ。一人で生きていきたい。組織にいる以上不可能だと偉い奴らが何度も叩き込んできたのに、未だに俺はわからない。バカなチンピラのままだ。
 憂鬱が晴れない。どうしてこんなに、渇くのだろう。

 その日、田島さんと三島の快気祝いが執り行われた。二人ともに後遺症もなく快復したそうだ。劉は殺す気ではあったのだと思う。例え劉が組織の人間でなくとも、田島一平に手を出した時点で二度と日本でビジネスなど出来ない。こんな平和な島国に大口の仕事が多数あるとは思えないが、それにしても三万を越す構成員を持つ日本最大規模の組織に単身喧嘩を売るなど、正気の沙汰じゃない。殺す気でいなければやる意味もない。運が良かったと言うべきか、身を挺して田島さんを庇った三島のお陰か。
「将生さん、間違っても喧嘩しないように。努めて大人しくしていましょう」
 俺が考え込んでいると言うのに、運転席から阿部がさっきから何度目か同じ事を俺に投げ掛けている。返事をしないからなのか、鬱陶しいからやめて欲しい。
「売られなきゃな」
「今日は売られても買っちゃだめですよ、祝いの席なんですから」
 何だってその祝いの席に原因を作った人間を呼ぶかね。こっちもいい迷惑だ。

 宴会場のある料亭に着くと、既に殆どが出揃っているようだった。それでもまだ騒つく中、俺はできるだけ組長や幹部陣、何より田島さんの視界に映らないよう、阿部を盾に隅の方に陣取った。
「将生さん、幹部の席はあっちですよ」
 周囲の三下はそう言って俺を退かそうとするが、意地でも俺はここを動くつもりはない。
 普段滅多な事がなければ顔も見せず尾鰭のついた噂に加え見た目と真逆な凶暴な性質。そもそも組内にいる時は愛想を振り撒く必要も無く、人を寄せ付けない俺が隣にいたんじゃ気兼ねなく飲むことも出来ないだろうが、今日ばかりは我慢してもらうしかない。
 それでも阿部が俺の隣で持ち前の陽気さを惜しみ無く披露していたから、しばらくすれば少しはマシになった。
 宴は進み組長に続き田島さん、三島と挨拶を終え、あとは好き好きに楽しんでいる。俺は相変わらず。誰の目にも触れないよう、隅の方で俯いたまま飲めもしない酒を煽る。こんな時に阿部の顔がデカくて助かるとは思わなかったが、誰にも見つかる事はなかった。組長はきっと俺の存在に気付いているだろうし、最後に挨拶だけして帰るか。
 そんな事を考えて時計を見ていると、帰りの運転があるからウーロン茶でバカ騒ぎしていた阿部は、不貞腐れる俺に気付き眉を顰めた。
「田島さんに挨拶行かなくていいんですか」
 阿部は話しかけるなと目線で訴えて分かる男ではない。
「あんなに仲良かったのに、どうしたんですか」
「よくない」
 良かったじゃないですか、と騒ぎ立てる阿部の口を塞ぎ、慌てて周囲を確認する。幸い周りの喧騒に紛れて気付かれなかったようだ。
 ふと田島さんの姿が視界に映る。泥酔した三下に肩を組まれ、これまた泥酔した三下に膝の上で泣かれ、楽しそうに笑っている。
 俺が来る事は知っているだろうに。探しもしない。前は何処にいても飛んできて、誰がいようが退けて隣に座ってきた癖に。
「将生さんあんまりそんなヤケになって飲まないでください。弱いんですから」
 衝動的に思いっきり肩を殴る。予想外に痛がった阿部が馬鹿でかい悲鳴を上げるものだから、遂に俺は見付かってしまった。
「将生、お前そんなとこで何してる」
 そう言って近付いてきたのは、元々俺を面白く思っていない一人だった。まあそんな連中、この中にはごまんといるが。
「祝いの席ですから、穏便に」
「退け」
 一応盾になろうとした阿部が蹴り飛ばされ、テーブルの鍋に突っ込んだ。火を消して随分経っていた事が救いか。周囲が騒然とする中、太い腕が胸ぐらを掴み上げる。
「ほら、誰のせいだと思ってる」
 思わず拳を握り締める俺の腕に、白菜まみれの阿部が縋り付く。
「ダメです、将生さん」
 なんだ、そのアホ面。一瞬そんな事に気を取られた隙に、俺まで顔面を殴り飛ばされ畳に倒れ込む。そのまま馬乗りになった男の顔は、ひどく不快なものだった。普段見下されている恨みか。ようやく俺を組み伏せられる。その歓喜に満ちている。大勢の前で俺を辱められる仕打ちなんて、誰が考えたって今なら一つだ。
「厳つい中国人をどうやって誘惑したのか、見せてみろよ」
 そう言いながら、男の手が乱暴にジャケットごとシャツを脱がせようとするものだから、ボタンが弾け飛ぶ。嗚呼、最悪。酒なんか飲まなきゃ良かった。酒さえ飲んでなきゃ、こんな奴──。
 下卑た笑い声が遠くで聞こえる。もう沢山だ。疲れてしまった。一体この数ヶ月で何着気に入っていたスーツがダメになったか。どこで毎回作っているか金額と共に突きつけてやりたい。
 阿部が必死で止めてはいるが、周りの人垣に追いやられて行く。案外阿部も忠義心のある奴だったのか。そんな事を考える程俺はもはや諦めの境地に達していた。何よりこんな祝いの席で、俺が強姦されるのを誰もとめないはずがない。
「何してる」
 案の定、三下を引っぺがす事に苦戦したらしい田島さんが慌てた様子で駆け寄り、俺の上に跨る男の腕を掴み上げた。一体どんな力を入れているのか、野太い悲鳴が和室に響き渡る。また殺そうとしているのかと思うと止めなくてはならないのだが、そんな気にもなれなかった。
 周囲の連中が慌てて男を俺から引き離し難を逃れても、騒動は収まらない。
「こいつが、生意気なもんで」
「ほら、土下座しろ」
「そんな事しなくていい」
 野太い土下座コールの中では、田島さんの低い声は通らない。騒動をおさめるには仕方がない。何より、俺のせいではあるのだから。
 乱された服も直さぬまま、よろよろと起き上がり俺は言われた通り畳に両手をついて頭を下げる。
「この度は、申し訳ありませんでした」
「やめろ、将生」
 田島さんはそう言って俺を起き上がらせ、乱れた衣服を健気に直して行く。
「将生にこんな事させて、何になる」
 珍しく怒りを露わにする田島さんを止められる者は、やはり一人しかいない。
「一平」
 組長はそう低く吐くと、俺から離れろと目線で訴える。そんなものが通じる程、田島さんは今冷静ではない。
「あれは将生のせいじゃない。勝手に好かれて、相手にされないからって向こうが勝手にキレただけだろ」
「それでもだ」
 まるで叱責するような、重い声だった。
「お前の命は、この色男と比べものにならないくらいここにいる連中にとっては重みがある」
 組長の言葉に周りは水を打ったように静まり返る。
「次お前を危険な目に合わせる事になったら、俺が直々に将生を殺す。それくらいの覚悟は俺も、将生も持っている。この組背負う覚悟がないのはお前だけだ、一平。お前はいつまでそうやって阿呆のフリしてるつもりだ」
 組を背負う覚悟なんて、ある訳ないだろう。あんたの息子の洗脳で、この組を潰そうとしているのだから。

 その後組長の一声で荒れ果てたテーブルは片付けられ、宴は仕切り直し。俺は殴られた頬を阿部に冷やされながら、酒が回りまともに座ってもいられず、その肩に頭を預けぼんやりと空を見詰めていた。
 やがて面白くもない余興が始まり、少し気を取り直した俺はようやく重い腰を上げた。
「煙草、吸ってくる」
 ついてこようとした阿部を制し、一人喫煙所へと向かう。この料亭の喫煙所は、庭の隅に木板の壁に囲まれてひとつあるだけ。今日は山室組の貸切だから、余興が始まった今そこに人影はなかった。
 壁にもたれ、煙草を吸う気にもなれずぼんやりと白い玉砂利を眺めていると、人影が近付いてくるのが見えた。面倒な相手じゃなければいいと思いながら視線を上げ、俺は思わず声を漏らした。
「三島」
 田島さんの下についてから煙草はやめたと聞いていたが。俺に文句でもあるのだろう。
 俺の眼前で立ち止まった三島に向け、小さく頭を下げる。
「悪かった、お前まで巻き込んで」
「田島さんを危険に晒した事、許しません」
 この男は、自分よりもやはり田島さんなのか。許されるとも思っていないが、その強い忠義心には感心する。
「独り言だと思って聞いてください」
 不意に三島はそう言うと、拳を握り締めた。
「貴方に憧れていました。田島さんと出逢わなければ、貴方に付いていたくらいには。誰に何を言われても揺るがず、組織の中で我が道を行く。その癖田島さんを密かに支える献身的な一面もある。正直、かっこよかったです。その背中を見て、阿部も俺も生きてきた」
 けれど、そう続けて三島は悔しそうに唇を噛み締める。
「田島さんを貴方に近付けたくなかった。いつかこうなる気がしたから。貴方は、人の心を狂わせる」
 三島が何を言いたいのか、酒にのぼせた頭では分からず、俺は相変わらずぼんやりと眺めていた。
「田島さんを守るのは俺です。貴方ではない。それでも、あの人にとって必要なのは俺ではなく貴方です。身を引くなんてしないで下さい。責任を感じているなら、この先も今まで通り誰よりあの人の心の側にいてあげて下さい」
 俺は、身を引こうとしているように見えたのか。確かにそうなのかも知れない。
 このままでは俺だけが振り回されて消耗して行く。田島さんはきっと、本能に負けはしないだろう。それに酷く苛立っていたのは事実。プライドが高いとは、難儀なものだ。
 だが、田島さんに必要なのは俺じゃない。三島のような存在だ。それは誰に聞いても同じだろう。悪いが俺は、やはり利己主義の軽薄な人間だ。他人を支えるなんて性に合わない。

「三島」
 その声に二人同時に顔を上げる。庭先に、田島さんが立っていた。
「戻ります、すみません」
 三島は俺に頭を下げ、逃げるように去って行った。
 玉砂利を踏み締める音がゆっくりと近付いてくる。俺は視線を落とし、細い息を吐いた。
「悪いな」
「いえ」
「三島は俺の事大好きでさ、それでちょっと怒ってるだけだから」
 三島は、そんな事を言いたい訳じゃなかった。その言葉も返せなかった。息が詰まる。
「そんな顔すんな。そもそも将生が悪い訳でもないんだし」
 不意に唇の端に指先が触れる。熱を持ちじくじくと痛む傷を撫で、田島さんは低く吐く。
「痛そう」
 痛いんだよ。そんな所を撫で回すな。そう毒吐く事も出来ない。渇いて渇いて、喉が張り付く。
「こっち見ろよ」
 そんな声で、俺に話しかけるな。
「そんな顔この先もずっと俺の前でするなら、嫌いになっちゃうぞ」
「なれば良いだろ」
 苛立ちを吐き出すよう、腰を目掛け足を振り抜く。避けるでも、受けるでもなく、田島さんは大袈裟に吹き飛んで倒れ込んだ。ああ、そうかよ。まだ山室秀司で行くのか。上等だ。
 態とらしく倒れ込む男の襟元を乱暴に掴み上げる。言いたい事は腐る程あった。この胸の内を吐き出してしまいたかった。それなのに、言葉が出ない。俺は一体、何をしてるんだ。
「何でそんな顔してる」
 ゆっくりと鎮まって行く瞳を前に、苛立ちが再び喉元に迫り上がる。
「将生──」
「二度とそんな声で、俺を呼ぶな」
 覚悟も決まらないくせに、そうやって俺を弄びやがって。
 睨み合う俺たちの間に、突然間の抜けた声が通り抜ける。
「何やってるんですか、将生さん」
 慌てて走り寄る阿部は、胸ぐらを掴む俺を引き離すと必死で田島さんに頭を下げる。
「すみません、酔ったみたいで」
「酔ってない」
「何言ってるんですか、そんな顔して。連れて帰ります、すみません」
 不貞腐れる俺を引き摺りながら、阿部はしつこい程に頭を下げていた。

 帰りの車中は終始小言が止まらず、その騒音に眠る事も出来なかった。何で俺が阿部に説教されなきゃならないんだ。確かに俺が悪かったかも知れない。だが、あの男が覚悟も出来ないくせにいつまでも俺を引き止めようとするから悪いんだ。
 そう心の中で愚痴るだけ愚痴り、俺は深く息を吐いた。冷静になろう。これまでと変わらない。田島さんから離れるだけだ。それの何が問題なんだ。
 もうやめよう。俺たちはやはり、戒めるために惹かれ合っただけなんだ。
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