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『Underground──』
初雪と鉄塔
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快気祝いの後、俺は無理矢理休みを取り広島に戻った。ようやく踏ん切りがついた。らしくもない気持ちに揺さぶられる事ももうやめた。だから遅れていた米倉さんの墓参りをするために。
終電で広島に帰ったから、墓参りは朝にする事にして、その日は久しぶりに伊崎と会う事にした。指定された場所がキャバクラで、相変わらずな伊崎に呆れと共に微かな安堵を覚える。
「田島さん、良かったのお」
広島では今その話題で持ちきりらしい。やはり将生を破門すべきだったと、かつて俺にやられた連中は息巻いているそうだ。國真会が山室組の直参とは言えもう関係ないのだから、放っておいてくれればいいのに。
「その話ししないでくれる」
苛立ちと共に吐き捨てると、伊崎は身を乗り出す。
「なんでなん」
「大変なんだよ。色々うるさく言われて。快気祝いの席で土下座させられるわ中国人をどうやって誘惑したんだって犯されそうになってスーツもダメになるし」
スーツの恨みはいまだに覚えている。あれは一番気に入っていたのに。懇意にしていたテーラーが去年亡くなったから、もう作る事も出来ない。
「わやじゃのお」
だが俺の災難を伊崎は豪快に笑い飛ばす。こう言う所は楽でいい。
「顔がいいって大変なんだよ、生きるのが」
「ほお、あんた自分が顔だけ思うとるんか」
顔以外何があるって言うんだ。そもそも顔が良くなければ劉に好かれる事もなかった訳だし。
「将生さんの憎いとこはなあ、優しいとこじゃ」
「なにそれ」
「顔もええ、スタイルもええ、見てくれは完璧。それなのに性格悪くてくっそ生意気。誰にも心開かんくせに、たまあに変に優しくするじゃろう。人の心をくすぐるんよ」
「俺が優しくなんてした事あったか」
「無自覚も罪じゃなあ」
伊崎は呆れたようにそう言って、この粗野な男には似合わない優しい笑みを浮かべた。
「あんたの優しいとこはな、米倉さんがくれたもんじゃ。米倉さんが、将生さんの事大事にしとった証。それ大切にせにゃあつまらんよ」
やめてくれよ、墓参りの前にそんな事を言うのは。
「何落ち込んでるんか知らんけど、あんたもたまにはそん位落ち込んだほうがええ」
豪快に背中を叩かれ、思わず咽せる。
「その方が愛されるで」
落ち込んでなんかいない。何で落ち込む必要がある。俺はこれまで通り、米倉さんの想いを抱え一人で生きて行く。田島さんには三島と言う立派な女房役がいる。俺はもう必要ない。それだけの事だ。そんな自己弁解をしている時点で、田島さんの一件が尾を引いているのだろう。全くらしくない。
まだ遊ぶと言う伊崎を残し、俺は一人ホテルに帰った。寝るだけだと思い取ったビジネスホテルで一夜を明かし、次の朝早朝に出発した。
タクシーに揺られ、懐かしい景色を眺める。やはり俺はこの街が好きだ。いい思い出は、浮かばないけれど。
通いなれた墓石の迷路を進む。人の訪れないその墓は、いつでも雑草に侵されている。一本一本丁寧に抜いて、墓石を飾る鳥の糞を綺麗に拭き取る。好きだった花を添え、線香がわりに煙草を手向け、手を合わせ瞼を閉じる。
今日はよく晴れている。気持ちのいい日だ。米倉さんはこんな日が好きだった。朝食を終え、縁側に座り、日向ぼっこを楽しみながら布団を畳む俺を優しく見守っていた。懐かしい、思い出だ。
貴方が死んでから、煙草を変えました。貴方が好んで吸っていた銘柄に。戒めのつもりだった。それなのに、いつの間にかそうではなくなっていて。煙草を吸うたびに米倉さんを感じる事も少なくなりました。少し、寂しく思います。
謝らなくてはならないことがあります。米倉さんの事を、俺は一瞬忘れようとしました。愛でもない、恋でもない、それなのに、抗う事が出来なかった。初めての感覚に狼狽えて、俺は正気を失っていたんだと思います。
田島さんは、貴方にはどこも似ていない、おかしな人です。漢字も読めない、言葉もあまり知らない、性欲がない事が俺の中では一番の驚きです。あと俺の背中の刺青に名前を付けていました。変わった人です。
年も近かったから、部屋住時代は良く一緒にいました。一方的な暴力を振るった。それでも田島さんは、いつでも朗らかに笑い、牙を剥く俺を面白がっていた。荒ぶる俺をうまくコントロールしていたのだと思います。
思い出してみれば、田島さんといた日々は楽しかった。こんな俺が、よく笑っていました。貴方にだけ見せるような、不恰好な顔で。知らず知らずのうちに心を許していたのかもしれません。
諦めた今、それでもあの人に会いたいと微かに願ってしまうこの心は、やはり柄にも無く初めての恋をしていたのかもしれませんね。こんな事話せるのは貴方だけだ。俺の人生初めての失恋を、笑ってやって下さい。
瞼を開く。煙草は燃え尽き、灰だけを残していた。落ち葉の入ったゴミ袋を手に腰を上げる。また来年、そう心の中で呟いて踵を返す。
ふ、と風が抜け、俺は思わず振り返る。呼ばれた気がした。そんな事、ある訳がないのに。抑えきれず涙が伝う。
今、貴方に会いたいです──。
広島から帰ってから、俺は変わらずに過ごした。ゆっくりと、忘れて行く。自分の中に眠る不愉快な本能を。会わなければいいだけだ。そもそもそれ程頻繁に会っていた訳ではない。最近色々ありすぎて、顔を合わせる機会が多かっただけだ。俺は元々執着のない人間だ。切り捨てる事も身に馴染んでいる。何より側にいなければ、あの引力も意味がない。
この自己弁解も、やがて日々に押し流されて消えて行くのだろう。それを待つだけだ。
「ええと、今月は新規が七件。覚えきれるかな」
頭を掻きながら、ソファで新規会員のプロフィールを眺めていた慎太郎が呟いた。
「何でこうも新しい人材が来るんですかね」
「それだけ世の中金が必要なんだよ」
underground rabbitは、会員の出入りが激しい。目的を達成し辞めて行くものも多いが、代わりに入るものも多い。常時百人前後の会員を抱えているのだが、俺は勿論、慎太郎や山室もその全てを把握していなくてはならない。
育ってしまえば良いのだが、教育に時間がかかると正直三人では手が回らない事もある。希望があれば付き添うし、顔合わせには必ず同席する。俺は営業も自ら行わなくてはならない。最近では暇な主夫生活を満喫する雪に手を借りる事もある程。
しかしこの仕事ははっきり言って信用だけで成り立っている。だからこそ昔は自分以外の人間に任せる事ができなかった。それが今や山室と慎太郎に振る事もあり、俺も気付かぬうち、いつの間にか二人を信頼していたようだ。俺も少しづつ、変わってきているのかもしれないな。
「昼飯にするか」
朝から続いたスケジュールの調整もひと段落し、重い腰を上げる。今日は立ち会いもなく、一日マンションに缶詰だ。そろそろ休憩しても良いだろう。
「なんか取りますか」
山室はそう言うが、何だかそんな気分ではない。
「いや、作るよ。何がいい」
キッチンに向かう俺の背中に、慎太郎の明るい声が投げられる。
「え、いいんですか。じゃあ炒飯で。俺将生さんの炒飯めちゃくちゃ好きなんですよ」
最初の頃は俺を警戒していた慎太郎も、随分懐いたものだ。
「確かに将生さんの飯はうまい。俺も慎太郎に乗ります」
「将生さん、老後はとっとと足洗って食堂でも開いたらどうですか」
「俺がそんな長生きすると思うか」
どうせそのうちどこぞの誰かに殺される。そんな人生だろう。
そもそも足を洗う気なんてさらさらない。俺はこのままこうしてここで、地獄に身を浸し生きて行く。微かな平穏に触れる度、そう自分を戒める。そうやってこの先も俺は生きて行くのだろう。
忙しく日々を過ごす。早く過ぎろと願う程、季節はゆっくりと流れる。
その日は、東京に初雪が観測された。
「寒いな、今日も」
「積もりますかね。雪だるま作りたいって、夢が」
山室と慎太郎も滅多にない降雪を前に微かに浮かれた穏やかな会話を続けている。
そろそろ年末か。帰る家も親もない俺には関係のない事だが、毎年多くの者が山室邸で年末年始を過ごす。組は家族。これは古来からヤクザの常識だ。このご時世あまりそんな強固な繋がりは感じないが、それでも兄貴だ弟だ親父だと呼び、どこかで繋がっている気がするのは、伝統がまだ息衝いているからなのだろう。
山室と慎太郎は家庭持ちだ。うちは毎年文句を言われない程度には年末年始に休みをやっている。おかげで俺は一人で仕事をするから、山室邸で過ごしたのはもう十年も前の事。新年を迎えたって何が変わるわけでもない。年を一つ取るだけだ。
そんな事にまで思いを馳せている俺の元に突然かかってきた電話。画面に大きく表示された名前に、一瞬思考が止まる。
「なんで」
思わず呟いた俺を、山室が助手席から振り返る。
「どうしたんですか」
「ああ、いや」
そう言って震え続ける携帯に視線を落とす。
どうして、田島さんから直接電話が来るんだ。阿部はどうした。何か、大変な事態だろうか。
恐る恐る耳に当てる。少しの沈黙の後、低く、静かな声が鼓膜に響いた。
「将生」
随分と聞いていなかったその声に、胸の奥が微かにさざめく。
「今、平気か」
「はい。丁度今仕事が終わって帰るところです」
平静を装ってはいるが、微かに動悸が早まって行く。自分で思うよりこの奇襲に動揺している。
「明日休みだろ。ちょっと出ないか」
何で俺の休みを知ってる。阿部が流したのか。
「今日は若手は慰労会でしょう。無理ですよ」
「なんで、いいよ。将生が運転してくれれば」
拒否する事はできた。だが阿部も通さず連絡してきた事に、やはり俺は何か嫌な予感がした。
「分かりました。家に着いたら迎えに行くんで、一時間半は掛かると思います」
「そっちまで行くよ。もう、実は来てる」
それには思わず声を荒げてしまった。
「何してるんですか、危ないでしょうが。勿論三島もいるんですよね」
たった一人でふらついて、何かあったらどうする気だ。田島さんは微かな沈黙の後、小さく呟く。
「いるよ」
何故、嘘を吐く。
「分かりました。着いたら連絡します」
苛立ちのまま通話を切り、俺が電話をしているからと話を中断していた二人に声をかける。
「ごめん、今日純平預かってくれないか」
「何ですか」
「さあ、分からない。なんか嫌な予感がする」
山室が振り返り、俺と同じように眉を顰めた。
「将生さんの嫌な予感は、嫌ですね」
そうなんだ。俺の嫌な予感は、大抵とんでもなく嫌なんだ。
慎太郎に急いでもらい、部屋には純平と鍵を取りに戻った程度ですぐに出る。そのまま三人を見送り地下の駐車場へ。
殆ど乗らないからどうしようか悩んだ挙句スタッドレスに替えておいて良かったが、積もる前に帰らなければ。山室邸に送って戻るとなると、結構時間がかかる。
何時に送れば良いか考えながら田島さんを探したが、その姿はどこにも見当たらない。苛立ちながら電話を掛けると、すぐに繋がった。
「いないじゃないですか」
「そう言えば引っ越したんだっけ」
思わずため息が漏れる。
「前のマンションですか、近いんですぐ行きます」
「ゆっくりで良いよ」
「うちの若頭をこの雪の中待たせたら、殺されますよ」
自分の立場も考えて欲しいが、俺の立場も考えて欲しい。何かあったらまた俺のせいだと騒ぎ立てられるに決まっている。
結局田島さんは本当に前のマンションにいた。やはり三島の影はない。一体何をしているんだか、こんな雪の日に。
目上の人間だから後部座席に乗せるべきだが、何故か田島さんは俺が運転する時は助手席に乗りたがる。そもそも俺の車に乗せる事なんて、一、二度あった程度だが。
「積もる前に帰ります」
うん、と小さく呟いた横顔を盗み見る。いつもより随分とおとなしいが、何かあったのだろうか。落ち合う前に阿部に聞いておくべきだった。そう悔やんでも仕方が無い。
「どこに行きたいんですか」
「将生の思い出がある所、全部」
積もる前に帰ると言っているのに。全部なんて行っていたら広島まで行かなきゃならない。
「久しぶりに見たな、眼鏡くん」
俺が無茶ぶりに苛々とナビを漁っている横で、田島さんは眼鏡をかける俺を見て微笑んでいる。確かに運転する時と長々パソコンで作業をする時しか眼鏡はかけないが、それにしても呑気なものだ。
「そうですね」
適当な返事を返し考える。思い出、と言われ、思い付く場所は殆どひとつしかない。それも、一箇所で納得させられる絶好の場所だ。
「じゃあ、一箇所だけですよ」
うん、と頷く声を聞いて、車は走り出す。
二十分ほどで目的地に着いたが、車内に殆ど会話はなかった。視力が悪いのかとか、前に乗せた時も一度した会話程度。これまでは二人でいても話しが尽きる事はなかったのに。気持ちが離れるとは、こういう事なのだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えながら社外に出て、俺は思わず目を疑った。
「何でそんな薄着で来るんですか」
田島さんは安物のスーツにペラペラのコートを羽織っただけ。慌ててマフラーを首に巻いてやるが、正直長時間外になんかいられないだろう。しかしそんな俺を田島さんは慌てて制した。
「いいよ、俺なんか」
こんなに自己肯定感が低かっただろうか。最近組長にでも絞られたのかもしれない。
「組長の話し聞いてましたか。あんたの命は重いんです。ちゃんと磨いてきたんでしょう。暴力から逃れる為に」
早口でそう捲し立てながら寒そうな首にマフラーを巻く俺を、何故か田島さんは突然抱き締めた。余りにも驚いて思わず突き飛ばしてしまった。手は離されたが、よろけもしなかった。
「待ってください、何のつもりですか」
「精一杯の感謝の気持ちを表現してみました」
そうへらへらと笑う顔はいつも通りだ。
「バカな事しないで下さい」
悪ふざけはよくしていたが、何故かやはり嫌な予感がする。
さっさと終わらせよう。そう思い歩き出しながら、気持ちとは関係なくすらすらと言葉が出て行く。
「あんたは早く良い嫁捕まえて、組長安心させてください。長男は男と養子縁組して、次男は暗殺。最後の息子の孫を楽しみにしてる顔してますよ」
「無理だろ、俺には」
慌てて俺と肩を並べ、田島さんは困ったように笑う。
「自覚ないでしょうがあんたの女になりたい奴なんか掃いて捨てるほどいるんだから、どれかで手を打ったらどうです」
「将生、いつか刺されるぞ」
「生憎、器用なもんで」
絶対刺されると連呼していたが、綺麗に別れる事に関しては再三注意を払ってきた。誰に対しても。
ふと思う。何故俺たちは、互いに惹かれ合っていると自覚している癖にこんな不毛な会話を続けるのだろう。意味のない自傷行為だ。
やがて辿り着いた広場に人影はなかった。普段はぽつぽついたと思うが、今日は積雪が予想されるから電車が止まる前に帰ったのだろう。
「ここは」
田島さんが雪が舞い散る空を見上げぽつりと問い掛ける。
「東京タワー。俺が母親に捨てられて、米倉さんに拾われこの裏社会に足を踏み入れた場所。俺の思い出の地です」
今日も東京タワーはあの頃のまま。俺と同じ、変わらずそこにある。
「米倉さんの事を、俺は愛していたのだと思います。愛情なんてほしくなくて、誰かを想う自分が気持ち悪くて、だから拒絶してきた。死ぬ前に気付いていれば、自害させる事もなかったのに」
タワーの先端を眺めていた瞳が、ゆっくりと俺を捉える。
「俺の人生は戒めです。誰が何と言おうと、米倉さんへの想いに引き摺られて生きて行くんです」
だからもう、俺を引き摺り込もうとするな。
離れていた時間と、田島さんが俺を拒絶した事実が、やはり俺にとっては大切な事だった。俺は変わらない。たった一人死ぬまで生きて行く。
突然牙を剥く俺に向かい、田島さんはふ、と微笑んだ。
「将生は、綺麗だな」
一体何を言っているんだ。やはり変わった男だ。気にしていないのなら、それで良いが。
「田島さんの思い出は、どこにあるんですか」
「親父が山菜取りに使ってる山。あとはもう、山室家だけ」
この男の中にはやはり何もない。山室秀司以外には。余りにも空虚だ。悲しくなるほどに。
そんな俺の気も知らず、田島さんは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「今日、ひとつ思い出ができたよ。ここは将生が心を開いてくれた場所だ」
「開いてない」
誰が開くか。何を勘違いしているんだか。牽制しただけだ。もう、俺からは動かないと。
不意に伸びた指先が、そっと首筋に触れる。昨晩知らぬ間に客に付けられたキスマークをマフラーで隠していた事を思い出す。
「セックスってもんは、どんなもんだ」
「分かりませんね。俺は申し訳ないくらいに動物的な人間なんで」
ただ、そう続けて、鉄塔を仰ぐ。
「きっと気持ちがいいんです。肌が触れ合うと、どうしようもなく気持ちがいいもんなんです。指先を絡め合うだけで心が満たされる。きっとそんなもんなんでしょう」
俺は知らないが、そんなもんなのかもしれない。
「何で七回も結婚して子供作らなかったの」
だから四回だ。勝手に増やすな。
「先天的な無精子症なんですよ」
田島さんは首を捻っている。
「種がないんです」
それでも分からないらしい。
「保健体育の授業ここでやりましょうか」
おかしそうに笑う顔を前にすると、全てがどうでも良くなってくる。
「子供が作れないんです。ああ、射精はできますよ」
男を絶望させるその現実は、俺にとっては幸運な事だ。
「良かったと思っています。俺みたいな愛情のない人間は、親になるべきじゃない」
俺がまともに子育てなんてできる訳がない。誰に聞いても同じだ。
「そうかね。俺は将生の事好きだけどな」
その言葉に、爆発的な怒りを覚える。
「どう言う意味ですか」
田島さんは真っ直ぐに俺を見詰めるだけ。ちらちらと舞う雪が、長いまつ毛にとまり溶けて行く。
「どう言う意味で言ってます」
再び低く吐くと、人の良さそうな笑みが溢れた。
「人間として。面白いから、将生は」
嗚呼、なんて空虚な男なんだろう。だがきっと、俺はその空虚に引き摺り込まれていたのだろう。
雪が強くなってきた気がする。もう帰らなくては。雪道は慣れないし、事故を起こしたら大変だ。
「帰りましょう。また三島が心配しますから」
そう言って歩き出そうとする俺の腕は、何故か強く掴まれ引き戻された。
「今から新居行こうよ」
「いやです、何でですか」
「いいじゃん、俺も広い家見たい」
何を突然駄々っ子モードに入ってるんだ。傍迷惑な。
「帰りますよ。連れ回して怒られるのは俺なんだから」
これで田島さんが風邪なんか引いてみろ。また俺は土下座させられるかもしれない。組長の日本刀の錆になるかもしれない。
分かっている。そんなものは詭弁だという事は。ずっと嫌な予感がするんだ。ここを離れたい。逃げ出してしまいたい。逃れられなく、なる前に。
「将生」
手を掴まれ進む事も出来ない癖に、振り返る事が出来なかった。この胸の高鳴りが、大きな勘違いでありますように。柄にもなくそんな事を願う。
深く息を吐き、ゆっくりと振り返る。掴まれていた手が柔らかく握り直される。
「いいんですか。知らないですよ」
「いいよ」
指先が絡む。頬に添えられた手が、熱い。
「本当に、いいんですね」
うん、と小さく囁いて、田島さんはどこか不安げに微笑んだ。
「いいよ」
その甘い声に引き摺られるように、うすい禁忌に触れる。触れたら最後、戻れない事を知りながら──。
終電で広島に帰ったから、墓参りは朝にする事にして、その日は久しぶりに伊崎と会う事にした。指定された場所がキャバクラで、相変わらずな伊崎に呆れと共に微かな安堵を覚える。
「田島さん、良かったのお」
広島では今その話題で持ちきりらしい。やはり将生を破門すべきだったと、かつて俺にやられた連中は息巻いているそうだ。國真会が山室組の直参とは言えもう関係ないのだから、放っておいてくれればいいのに。
「その話ししないでくれる」
苛立ちと共に吐き捨てると、伊崎は身を乗り出す。
「なんでなん」
「大変なんだよ。色々うるさく言われて。快気祝いの席で土下座させられるわ中国人をどうやって誘惑したんだって犯されそうになってスーツもダメになるし」
スーツの恨みはいまだに覚えている。あれは一番気に入っていたのに。懇意にしていたテーラーが去年亡くなったから、もう作る事も出来ない。
「わやじゃのお」
だが俺の災難を伊崎は豪快に笑い飛ばす。こう言う所は楽でいい。
「顔がいいって大変なんだよ、生きるのが」
「ほお、あんた自分が顔だけ思うとるんか」
顔以外何があるって言うんだ。そもそも顔が良くなければ劉に好かれる事もなかった訳だし。
「将生さんの憎いとこはなあ、優しいとこじゃ」
「なにそれ」
「顔もええ、スタイルもええ、見てくれは完璧。それなのに性格悪くてくっそ生意気。誰にも心開かんくせに、たまあに変に優しくするじゃろう。人の心をくすぐるんよ」
「俺が優しくなんてした事あったか」
「無自覚も罪じゃなあ」
伊崎は呆れたようにそう言って、この粗野な男には似合わない優しい笑みを浮かべた。
「あんたの優しいとこはな、米倉さんがくれたもんじゃ。米倉さんが、将生さんの事大事にしとった証。それ大切にせにゃあつまらんよ」
やめてくれよ、墓参りの前にそんな事を言うのは。
「何落ち込んでるんか知らんけど、あんたもたまにはそん位落ち込んだほうがええ」
豪快に背中を叩かれ、思わず咽せる。
「その方が愛されるで」
落ち込んでなんかいない。何で落ち込む必要がある。俺はこれまで通り、米倉さんの想いを抱え一人で生きて行く。田島さんには三島と言う立派な女房役がいる。俺はもう必要ない。それだけの事だ。そんな自己弁解をしている時点で、田島さんの一件が尾を引いているのだろう。全くらしくない。
まだ遊ぶと言う伊崎を残し、俺は一人ホテルに帰った。寝るだけだと思い取ったビジネスホテルで一夜を明かし、次の朝早朝に出発した。
タクシーに揺られ、懐かしい景色を眺める。やはり俺はこの街が好きだ。いい思い出は、浮かばないけれど。
通いなれた墓石の迷路を進む。人の訪れないその墓は、いつでも雑草に侵されている。一本一本丁寧に抜いて、墓石を飾る鳥の糞を綺麗に拭き取る。好きだった花を添え、線香がわりに煙草を手向け、手を合わせ瞼を閉じる。
今日はよく晴れている。気持ちのいい日だ。米倉さんはこんな日が好きだった。朝食を終え、縁側に座り、日向ぼっこを楽しみながら布団を畳む俺を優しく見守っていた。懐かしい、思い出だ。
貴方が死んでから、煙草を変えました。貴方が好んで吸っていた銘柄に。戒めのつもりだった。それなのに、いつの間にかそうではなくなっていて。煙草を吸うたびに米倉さんを感じる事も少なくなりました。少し、寂しく思います。
謝らなくてはならないことがあります。米倉さんの事を、俺は一瞬忘れようとしました。愛でもない、恋でもない、それなのに、抗う事が出来なかった。初めての感覚に狼狽えて、俺は正気を失っていたんだと思います。
田島さんは、貴方にはどこも似ていない、おかしな人です。漢字も読めない、言葉もあまり知らない、性欲がない事が俺の中では一番の驚きです。あと俺の背中の刺青に名前を付けていました。変わった人です。
年も近かったから、部屋住時代は良く一緒にいました。一方的な暴力を振るった。それでも田島さんは、いつでも朗らかに笑い、牙を剥く俺を面白がっていた。荒ぶる俺をうまくコントロールしていたのだと思います。
思い出してみれば、田島さんといた日々は楽しかった。こんな俺が、よく笑っていました。貴方にだけ見せるような、不恰好な顔で。知らず知らずのうちに心を許していたのかもしれません。
諦めた今、それでもあの人に会いたいと微かに願ってしまうこの心は、やはり柄にも無く初めての恋をしていたのかもしれませんね。こんな事話せるのは貴方だけだ。俺の人生初めての失恋を、笑ってやって下さい。
瞼を開く。煙草は燃え尽き、灰だけを残していた。落ち葉の入ったゴミ袋を手に腰を上げる。また来年、そう心の中で呟いて踵を返す。
ふ、と風が抜け、俺は思わず振り返る。呼ばれた気がした。そんな事、ある訳がないのに。抑えきれず涙が伝う。
今、貴方に会いたいです──。
広島から帰ってから、俺は変わらずに過ごした。ゆっくりと、忘れて行く。自分の中に眠る不愉快な本能を。会わなければいいだけだ。そもそもそれ程頻繁に会っていた訳ではない。最近色々ありすぎて、顔を合わせる機会が多かっただけだ。俺は元々執着のない人間だ。切り捨てる事も身に馴染んでいる。何より側にいなければ、あの引力も意味がない。
この自己弁解も、やがて日々に押し流されて消えて行くのだろう。それを待つだけだ。
「ええと、今月は新規が七件。覚えきれるかな」
頭を掻きながら、ソファで新規会員のプロフィールを眺めていた慎太郎が呟いた。
「何でこうも新しい人材が来るんですかね」
「それだけ世の中金が必要なんだよ」
underground rabbitは、会員の出入りが激しい。目的を達成し辞めて行くものも多いが、代わりに入るものも多い。常時百人前後の会員を抱えているのだが、俺は勿論、慎太郎や山室もその全てを把握していなくてはならない。
育ってしまえば良いのだが、教育に時間がかかると正直三人では手が回らない事もある。希望があれば付き添うし、顔合わせには必ず同席する。俺は営業も自ら行わなくてはならない。最近では暇な主夫生活を満喫する雪に手を借りる事もある程。
しかしこの仕事ははっきり言って信用だけで成り立っている。だからこそ昔は自分以外の人間に任せる事ができなかった。それが今や山室と慎太郎に振る事もあり、俺も気付かぬうち、いつの間にか二人を信頼していたようだ。俺も少しづつ、変わってきているのかもしれないな。
「昼飯にするか」
朝から続いたスケジュールの調整もひと段落し、重い腰を上げる。今日は立ち会いもなく、一日マンションに缶詰だ。そろそろ休憩しても良いだろう。
「なんか取りますか」
山室はそう言うが、何だかそんな気分ではない。
「いや、作るよ。何がいい」
キッチンに向かう俺の背中に、慎太郎の明るい声が投げられる。
「え、いいんですか。じゃあ炒飯で。俺将生さんの炒飯めちゃくちゃ好きなんですよ」
最初の頃は俺を警戒していた慎太郎も、随分懐いたものだ。
「確かに将生さんの飯はうまい。俺も慎太郎に乗ります」
「将生さん、老後はとっとと足洗って食堂でも開いたらどうですか」
「俺がそんな長生きすると思うか」
どうせそのうちどこぞの誰かに殺される。そんな人生だろう。
そもそも足を洗う気なんてさらさらない。俺はこのままこうしてここで、地獄に身を浸し生きて行く。微かな平穏に触れる度、そう自分を戒める。そうやってこの先も俺は生きて行くのだろう。
忙しく日々を過ごす。早く過ぎろと願う程、季節はゆっくりと流れる。
その日は、東京に初雪が観測された。
「寒いな、今日も」
「積もりますかね。雪だるま作りたいって、夢が」
山室と慎太郎も滅多にない降雪を前に微かに浮かれた穏やかな会話を続けている。
そろそろ年末か。帰る家も親もない俺には関係のない事だが、毎年多くの者が山室邸で年末年始を過ごす。組は家族。これは古来からヤクザの常識だ。このご時世あまりそんな強固な繋がりは感じないが、それでも兄貴だ弟だ親父だと呼び、どこかで繋がっている気がするのは、伝統がまだ息衝いているからなのだろう。
山室と慎太郎は家庭持ちだ。うちは毎年文句を言われない程度には年末年始に休みをやっている。おかげで俺は一人で仕事をするから、山室邸で過ごしたのはもう十年も前の事。新年を迎えたって何が変わるわけでもない。年を一つ取るだけだ。
そんな事にまで思いを馳せている俺の元に突然かかってきた電話。画面に大きく表示された名前に、一瞬思考が止まる。
「なんで」
思わず呟いた俺を、山室が助手席から振り返る。
「どうしたんですか」
「ああ、いや」
そう言って震え続ける携帯に視線を落とす。
どうして、田島さんから直接電話が来るんだ。阿部はどうした。何か、大変な事態だろうか。
恐る恐る耳に当てる。少しの沈黙の後、低く、静かな声が鼓膜に響いた。
「将生」
随分と聞いていなかったその声に、胸の奥が微かにさざめく。
「今、平気か」
「はい。丁度今仕事が終わって帰るところです」
平静を装ってはいるが、微かに動悸が早まって行く。自分で思うよりこの奇襲に動揺している。
「明日休みだろ。ちょっと出ないか」
何で俺の休みを知ってる。阿部が流したのか。
「今日は若手は慰労会でしょう。無理ですよ」
「なんで、いいよ。将生が運転してくれれば」
拒否する事はできた。だが阿部も通さず連絡してきた事に、やはり俺は何か嫌な予感がした。
「分かりました。家に着いたら迎えに行くんで、一時間半は掛かると思います」
「そっちまで行くよ。もう、実は来てる」
それには思わず声を荒げてしまった。
「何してるんですか、危ないでしょうが。勿論三島もいるんですよね」
たった一人でふらついて、何かあったらどうする気だ。田島さんは微かな沈黙の後、小さく呟く。
「いるよ」
何故、嘘を吐く。
「分かりました。着いたら連絡します」
苛立ちのまま通話を切り、俺が電話をしているからと話を中断していた二人に声をかける。
「ごめん、今日純平預かってくれないか」
「何ですか」
「さあ、分からない。なんか嫌な予感がする」
山室が振り返り、俺と同じように眉を顰めた。
「将生さんの嫌な予感は、嫌ですね」
そうなんだ。俺の嫌な予感は、大抵とんでもなく嫌なんだ。
慎太郎に急いでもらい、部屋には純平と鍵を取りに戻った程度ですぐに出る。そのまま三人を見送り地下の駐車場へ。
殆ど乗らないからどうしようか悩んだ挙句スタッドレスに替えておいて良かったが、積もる前に帰らなければ。山室邸に送って戻るとなると、結構時間がかかる。
何時に送れば良いか考えながら田島さんを探したが、その姿はどこにも見当たらない。苛立ちながら電話を掛けると、すぐに繋がった。
「いないじゃないですか」
「そう言えば引っ越したんだっけ」
思わずため息が漏れる。
「前のマンションですか、近いんですぐ行きます」
「ゆっくりで良いよ」
「うちの若頭をこの雪の中待たせたら、殺されますよ」
自分の立場も考えて欲しいが、俺の立場も考えて欲しい。何かあったらまた俺のせいだと騒ぎ立てられるに決まっている。
結局田島さんは本当に前のマンションにいた。やはり三島の影はない。一体何をしているんだか、こんな雪の日に。
目上の人間だから後部座席に乗せるべきだが、何故か田島さんは俺が運転する時は助手席に乗りたがる。そもそも俺の車に乗せる事なんて、一、二度あった程度だが。
「積もる前に帰ります」
うん、と小さく呟いた横顔を盗み見る。いつもより随分とおとなしいが、何かあったのだろうか。落ち合う前に阿部に聞いておくべきだった。そう悔やんでも仕方が無い。
「どこに行きたいんですか」
「将生の思い出がある所、全部」
積もる前に帰ると言っているのに。全部なんて行っていたら広島まで行かなきゃならない。
「久しぶりに見たな、眼鏡くん」
俺が無茶ぶりに苛々とナビを漁っている横で、田島さんは眼鏡をかける俺を見て微笑んでいる。確かに運転する時と長々パソコンで作業をする時しか眼鏡はかけないが、それにしても呑気なものだ。
「そうですね」
適当な返事を返し考える。思い出、と言われ、思い付く場所は殆どひとつしかない。それも、一箇所で納得させられる絶好の場所だ。
「じゃあ、一箇所だけですよ」
うん、と頷く声を聞いて、車は走り出す。
二十分ほどで目的地に着いたが、車内に殆ど会話はなかった。視力が悪いのかとか、前に乗せた時も一度した会話程度。これまでは二人でいても話しが尽きる事はなかったのに。気持ちが離れるとは、こういう事なのだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えながら社外に出て、俺は思わず目を疑った。
「何でそんな薄着で来るんですか」
田島さんは安物のスーツにペラペラのコートを羽織っただけ。慌ててマフラーを首に巻いてやるが、正直長時間外になんかいられないだろう。しかしそんな俺を田島さんは慌てて制した。
「いいよ、俺なんか」
こんなに自己肯定感が低かっただろうか。最近組長にでも絞られたのかもしれない。
「組長の話し聞いてましたか。あんたの命は重いんです。ちゃんと磨いてきたんでしょう。暴力から逃れる為に」
早口でそう捲し立てながら寒そうな首にマフラーを巻く俺を、何故か田島さんは突然抱き締めた。余りにも驚いて思わず突き飛ばしてしまった。手は離されたが、よろけもしなかった。
「待ってください、何のつもりですか」
「精一杯の感謝の気持ちを表現してみました」
そうへらへらと笑う顔はいつも通りだ。
「バカな事しないで下さい」
悪ふざけはよくしていたが、何故かやはり嫌な予感がする。
さっさと終わらせよう。そう思い歩き出しながら、気持ちとは関係なくすらすらと言葉が出て行く。
「あんたは早く良い嫁捕まえて、組長安心させてください。長男は男と養子縁組して、次男は暗殺。最後の息子の孫を楽しみにしてる顔してますよ」
「無理だろ、俺には」
慌てて俺と肩を並べ、田島さんは困ったように笑う。
「自覚ないでしょうがあんたの女になりたい奴なんか掃いて捨てるほどいるんだから、どれかで手を打ったらどうです」
「将生、いつか刺されるぞ」
「生憎、器用なもんで」
絶対刺されると連呼していたが、綺麗に別れる事に関しては再三注意を払ってきた。誰に対しても。
ふと思う。何故俺たちは、互いに惹かれ合っていると自覚している癖にこんな不毛な会話を続けるのだろう。意味のない自傷行為だ。
やがて辿り着いた広場に人影はなかった。普段はぽつぽついたと思うが、今日は積雪が予想されるから電車が止まる前に帰ったのだろう。
「ここは」
田島さんが雪が舞い散る空を見上げぽつりと問い掛ける。
「東京タワー。俺が母親に捨てられて、米倉さんに拾われこの裏社会に足を踏み入れた場所。俺の思い出の地です」
今日も東京タワーはあの頃のまま。俺と同じ、変わらずそこにある。
「米倉さんの事を、俺は愛していたのだと思います。愛情なんてほしくなくて、誰かを想う自分が気持ち悪くて、だから拒絶してきた。死ぬ前に気付いていれば、自害させる事もなかったのに」
タワーの先端を眺めていた瞳が、ゆっくりと俺を捉える。
「俺の人生は戒めです。誰が何と言おうと、米倉さんへの想いに引き摺られて生きて行くんです」
だからもう、俺を引き摺り込もうとするな。
離れていた時間と、田島さんが俺を拒絶した事実が、やはり俺にとっては大切な事だった。俺は変わらない。たった一人死ぬまで生きて行く。
突然牙を剥く俺に向かい、田島さんはふ、と微笑んだ。
「将生は、綺麗だな」
一体何を言っているんだ。やはり変わった男だ。気にしていないのなら、それで良いが。
「田島さんの思い出は、どこにあるんですか」
「親父が山菜取りに使ってる山。あとはもう、山室家だけ」
この男の中にはやはり何もない。山室秀司以外には。余りにも空虚だ。悲しくなるほどに。
そんな俺の気も知らず、田島さんは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「今日、ひとつ思い出ができたよ。ここは将生が心を開いてくれた場所だ」
「開いてない」
誰が開くか。何を勘違いしているんだか。牽制しただけだ。もう、俺からは動かないと。
不意に伸びた指先が、そっと首筋に触れる。昨晩知らぬ間に客に付けられたキスマークをマフラーで隠していた事を思い出す。
「セックスってもんは、どんなもんだ」
「分かりませんね。俺は申し訳ないくらいに動物的な人間なんで」
ただ、そう続けて、鉄塔を仰ぐ。
「きっと気持ちがいいんです。肌が触れ合うと、どうしようもなく気持ちがいいもんなんです。指先を絡め合うだけで心が満たされる。きっとそんなもんなんでしょう」
俺は知らないが、そんなもんなのかもしれない。
「何で七回も結婚して子供作らなかったの」
だから四回だ。勝手に増やすな。
「先天的な無精子症なんですよ」
田島さんは首を捻っている。
「種がないんです」
それでも分からないらしい。
「保健体育の授業ここでやりましょうか」
おかしそうに笑う顔を前にすると、全てがどうでも良くなってくる。
「子供が作れないんです。ああ、射精はできますよ」
男を絶望させるその現実は、俺にとっては幸運な事だ。
「良かったと思っています。俺みたいな愛情のない人間は、親になるべきじゃない」
俺がまともに子育てなんてできる訳がない。誰に聞いても同じだ。
「そうかね。俺は将生の事好きだけどな」
その言葉に、爆発的な怒りを覚える。
「どう言う意味ですか」
田島さんは真っ直ぐに俺を見詰めるだけ。ちらちらと舞う雪が、長いまつ毛にとまり溶けて行く。
「どう言う意味で言ってます」
再び低く吐くと、人の良さそうな笑みが溢れた。
「人間として。面白いから、将生は」
嗚呼、なんて空虚な男なんだろう。だがきっと、俺はその空虚に引き摺り込まれていたのだろう。
雪が強くなってきた気がする。もう帰らなくては。雪道は慣れないし、事故を起こしたら大変だ。
「帰りましょう。また三島が心配しますから」
そう言って歩き出そうとする俺の腕は、何故か強く掴まれ引き戻された。
「今から新居行こうよ」
「いやです、何でですか」
「いいじゃん、俺も広い家見たい」
何を突然駄々っ子モードに入ってるんだ。傍迷惑な。
「帰りますよ。連れ回して怒られるのは俺なんだから」
これで田島さんが風邪なんか引いてみろ。また俺は土下座させられるかもしれない。組長の日本刀の錆になるかもしれない。
分かっている。そんなものは詭弁だという事は。ずっと嫌な予感がするんだ。ここを離れたい。逃げ出してしまいたい。逃れられなく、なる前に。
「将生」
手を掴まれ進む事も出来ない癖に、振り返る事が出来なかった。この胸の高鳴りが、大きな勘違いでありますように。柄にもなくそんな事を願う。
深く息を吐き、ゆっくりと振り返る。掴まれていた手が柔らかく握り直される。
「いいんですか。知らないですよ」
「いいよ」
指先が絡む。頬に添えられた手が、熱い。
「本当に、いいんですね」
うん、と小さく囁いて、田島さんはどこか不安げに微笑んだ。
「いいよ」
その甘い声に引き摺られるように、うすい禁忌に触れる。触れたら最後、戻れない事を知りながら──。
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