Undergroundシリーズ

鴻上縞

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番外編

血の滲む影を踏む

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 突如鼓膜を劈いた破裂音と共に襲った激しい痛みの中、叫び声が聞こえる。崩折れた鼻先に届く硝煙の匂い。痛みの酷い箇所に当てた指先の隙間から、生暖かい血が流れる感覚。ゆっくりと白んでいく意識。

 ああ、俺は死ぬのか────そう自覚した瞬間、激しい後悔だけが胸を満たした。

 どうしてもっと向き合ってやらなかった。どうして自分本位な愛情を向けてしまった。こんな形じゃなくても、方法はあったのではないか。もっと沢山の事を教えてやりたかった。もっと色んな世界を見せてやりたかった。

 どうして俺は、兄のように人を愛せなかったのだろう────。


 山室兄弟は互いを思い合い支え合う素晴らしい兄弟────そう言われるたびに、俺は兄の影に身を顰め生きてきた。

 兄はよく出来た人間だった。虐待を受けて尚母を理解し深い愛情で許し、外に何人も女を作る親父の事も、真正面からぶつかって叱りつける。俺の事を何より大切にしてくれた。兄だけが、この世界でたった一つ、俺が信じられるものだった。

 だけど、兄は知らない。俺が何を思っていたのか。兄は知らない。あの女が俺に何をしていたのか。兄は知らない。この世界が、腐り果てている事を────。

 母は汚い女だった。酒に溺れ薬に溺れ、兄を平手で叩いた手で、兄に罵声を浴びせたその口で、幼い俺の性器を弄ぶ狂った女だった。兄は母の愛を信じていた。兄は、何も知らなかったから。

 兄は親父のせいだと信じていたが、母が首を吊ったのは、自らの行いのせいだ。父だけではない。母もまた男狂いだった。兄が小学校に行っている間に、誰にも知られず男をよく連れ込んでいた。不登校気味だった俺はよくその現場を目撃し、酒か薬かで酩酊した母の玩具にされていた。
 何故兄は暴力を受け、俺は性暴力を受けたのか、その違いは分からなかった。薬物中毒者の考えなど、分かりたくもなかったが。

 幼い頃から憎かった。兄以外の全てが。

 母がただの肉になった日に、解放された気がした。いつも恐ろしい妄想に駆られていた。いつか母の暴力が形を変え、兄を襲うような気がしていたから。兄だけは守りたかった。兄は、俺の全てだった。

 母から受けた性的虐待のお陰で、性的なもの全てに憎しみを持つようになったのは中学生になってからだった。交尾中の虫の羽を引きちぎったり、発情期の猫を追い回したり、生命の営みがとにかく気持ちが悪かった。自分の遺伝子があの母と父と同じだと思うと堪らず、よく吐いていた。

 成長するにつれそれは酷くなった。子供など、この遺伝子を繋ぐ行為など、気持ち悪くて仕方がなかった。兄だけがいればいい。そう思って生きていた。それなのに────。

「秀司、俺にもガキが出来たんだ。産もうと思う」

 その言葉を聞いた時、全てが崩れて行く音が耳元で響いていた。何故そんな顔をする。何故そんな、幸福を抱いているんだ。俺たちの遺伝子は、こんなにも腐っているのに────。

 兄への失望。それは余りにも重く胸を満たして行った。この世の全てが憎い。長年培った笑みで人を騙しながら、胸の内に燻る行き場のない憎悪は日を追うごとに俺の心を蝕んで行く。人のいない所へ行きたい。人と関わらずに生きていたい。兄のいない世界は、深い穴の底のようだ。

 だがふと顔を上げた時、俺を真っ直ぐに見詰める存在があった。何の疑いもなく腕の中へと潜り込む。無垢で、純粋で、人間の持ち得る穢れた欲を知らない。一平は、俺の全てだった。

 兄は知らない。俺が何故壊れてしまったのかを。

 幼い頃から一平は不思議な子供だった。この日本に於いて耳を疑うような特異な生い立ちがそうさせたのだと思う。壮絶なネグレクトの果てにホームレスと山で五年も暮らしていたなど、信じ難い。兄はそんな一平に怯えていたが、俺は良く生き延びたものだと感動すら覚えた。
 一平は保護されてから世話役として当てがわれた田島と言う男に乱暴されても、泣き声ひとつ上げず耐え忍んでいたと言う。
 いつもじっと人を観察し、自分にとって危険か危険ではないか、それを見極めようとしている。静かな光を放つ、野生の獣のような瞳。俺にとって一平は、どんな生き物よりも美しい子供だった。

 色んな所に連れて行った。幼い頃から変わらず表情はないが、生き物に興味を持っていたようだ。動物園や水族館がとにかく好きで、気に入ったのものの前では時間を忘れ見入っていた。沢山のものを見て、沢山吸収して欲しい。心の底からそう思っていた。
 ただひたすらに俺を見詰め、小鴨のように俺の後ろをついて回る。一平が何故か俺になつき、その空虚な心の拠り所にしたように、兄以外を憎んでいた俺にとっても、昔から一平は心の拠り所だった。

 親父もまた一平を可愛がっていたようで、知らぬうち、一平は十七歳になる頃構成員になっていた。まだ人とコミュニケーションも取れないのに、何故そんな早まった事をしたのかと随分と喧嘩をしたが、当時まだ組員ではなかった俺に口を出す権利はなかった。
 だが予想以上に兄貴衆に虐められるものだから、親父は一平を格闘技にも通わせていたが、俺はそれも気に入らなくて仕方なかった。一平にはもっと、優しい人になってほしい。誰を傷付けるでもなく生きて欲しい。

 一平は、きっと平気で人を殺せる人間だから。

 勘のいい兄が一平を避けた理由もよく分かる。この少年は危険な猛獣だ。今は静かに身を潜めているが、ひとたび何かのきっかけを与えればどうなるか。その身体能力の高さもさることながら、やはり命に対しての理解が及んでいない。人の命を何とも思わないなんて、一平にはそんな人生を歩んで欲しくはなかった。自分は全てを憎んで生きてきたくせに、俺はどこまでも勝手だ。

 けれど親父の入れ知恵か、一平はよくテレビで格闘技やボクシングの試合を見ていた。殴り合いの何が面白いのか、俺には分からない。
「暴力は嫌いだ」
 無意識に俺がそう呟くと、一平はちらりと俺に視線を投げ、徐にテレビを消した。
「一平、どうして消したの」
「暴力が嫌いだって」
 一平はそれから直ぐに格闘技をやめた。そして何故か、いつの間にか暴力は嫌いだと言う思考回路に落ち着いていた。

 またある日の夜、ふと違和感を感じ目を覚まし、背筋を悪寒が駆け抜ける。太ももに擦り付けられる硬い感触。年頃の男の子だ。生理現象だから仕方がない事はわかっている。それでも、一平まで失いたくなかった。
 乱暴に身体を起こすと、一平は寝惚けた顔で俺を見上げている。
「一平、そんな汚い事はやめるんだ」
 薄闇のなか、微かに光る瞳が揺れる。
「嫌いなんだ。そう言う汚い行為が」
 一平は二度と俺に触れようとはしなかった。そしてまた、性的な接触が汚い行為だと思い込むようになった。

 成長するにつれ俺の思い通り、俺の望む通りに一平は生きた。真っ直ぐに俺だけを見詰める瞳はやはり純粋で、俺の言う事を自分のものにし、俺だけを盲信して生きている。まるで自分を見るようで、暗い悦に浸り切りながらどこか苦しくなる。
 一平は俺のように生きるのだろうか。誰をも愛せず嘘偽りの顔で周囲を騙して────それは、悲しい事だ。

 兄が破門され服役ししばらくしてから、俺が憎んだ遺伝子は潰えた。刑務所の中で兄が憔悴しているであろう事は簡単に想像できるのに、安堵を覚える自分に吐き気がした。何故俺は、兄になれなかったのだろう。
 それでも一平は、そんな俺をただひたすらに信じてくれていた。相変わらず俺だけを見詰める瞳を前に、一平がそうなるよう、手本のような笑顔を貼り付けて、心の中は憎悪に蝕まれ悲鳴を上げる。

 俺は、壊れているんだよ。

 何度も胸の内でそう告げる。俺は壊れている。だが一平がそれに気付かずに俺の上澄みだけを真似し、優しいと言われる人になってくれればいい。一平を救いたい。こんな世界から連れ出してやりたい。いつしか俺は、そう思うようになっていた。

 成長しても甘さの残る顔立ちは、幅の広い二重瞼のせいか、鼻筋は綺麗に通っているのに、人懐こく丸みのある鼻頭のせいか。きっと優しい笑みがよく似合うだろう。いつになれば、笑顔を覚えられるだろうか。
 成長しても尚一生懸命に漢字の書き取りをする横顔を見詰める時間が、俺は好きだった。
「一平」
 何に夢中になっていても、俺の声に素早く反応を見せる。
「なに」
「一平は、優しい人になってね」
 理解出来ているのかいないのか、一平は小さく頷いて再び紙に視線を落とす。

 本当は人のいない田舎で細々と農作業をして暮らしたかった。誰とも関わらず、人を憎まず生きていきたかった。それでも兄の後を継ぐ事を決めたのは、一平を守る為だった。一平に極道者の仕事なんてさせたくない。いつか俺がこの世界から連れ出すのだから。
 親父は気に食わなかったようで、衝突も多かった。
「一平はお前のペットでも何でもねえ、良い加減にしねえか」
 ペットだなんて思った事もない。自分が女をそう思っているから、部屋住の噂話を間に受けるんだろう。誰のせいで俺がこうなったと思ってる。
「秀司。てめえが選んだ道だろうが。腹括れ」
 誰のせいで────。
「腹なんて、とっくに括ってるよ」
 こんな腐った世界に、こんな普通じゃない世界に何も知らない一平を引き摺り込んだのは誰だ。

 一平、俺は君の為に、命を賭けてもいい。

 がむしゃらに走った。組を潰す為に。一平を、この世界から救う為に。

 それでもふと不安になる時がある。これでいいのか。もっと方法があるのではないか。
 そう思う度、俺は運転席に問い掛ける。
「慎太郎は、俺が気持ち悪くないのか」
「何がですか」
「大の大人を囲っている事だよ」
 ミラー越しに視線を投げ、慎太郎は小さく笑う。
「まあ、人それぞれでしょう、そんなもの。俺だってまだまだ分からないですよ。人の愛し方なんて」
 愛し方、か。これを愛と呼ぶには、一方的過ぎるような気がする。
「俺にとって秀司さんは大恩ある人です。それだけです」

 慎太郎はこんな俺を慕ってくれる。優しい人だと信じてくれている。俺がただ一平のためだけにこの世界で生きている事を知らず、組を潰そうとしている事も知らず。
 慎太郎を前にするといつも、罪悪感が頭を擡げる。

「慎太郎は、実咲ちゃんと結婚するの」
 慎太郎は微かに眉を顰め、ハンドルを握る指先に力を込めた。
「実咲は、俺には勿体無い女です。こんな稼業に身を置いていてそんな資格があるのか、まだ覚悟が決まらないんです」
 そっか、と返事をして車窓に視線を預ける俺に、慎太郎は優しく問うた。
「秀司さん。田島さんは、嫌がっていますか」
 どうだろう。一平は、そんな思考すらもきっとない。
「お互いがそれで良いなら、俺は良いと思いますけど。そんな事を聞くって事は多少引け目を感じているんですよね。だったら、直せばいいだけなんじゃないんですかね。相手を変えるより、社会を変えるより、自分が変わる方がよっぽど簡単です」
 引け目、そう言われて苦しく思うのはやはり、自分の行動を悔いているからなのだろう。
「すみません、生意気言って」
 申し訳なさそうに頭を下げる慎太郎に優しく首を振って見せる。慎太郎まで騙している事が、堪らなくなる日もあった。慎太郎はこんな俺よりも、兄の側にいる方がいい。
「慎太郎。俺に何かあったら、兄貴の事を頼むな」
 兄はきっと、俺の過ちを許してはくれない。だから刑務所から出た後の兄に、頼れるものが欲しかった。きっと、優しい二人は良い友人になれるだろう。

 俺の憂いとは逆に、一平は刻々と俺の思想を染み込ませて行く。暴力を嫌い、性行為を憎み、人に踏み込まず、笑顔を見せない。
 これで良いのだろうか。一平の為に俺は何をすべきだ。こんな時に兄は、どうするのだろう。兄のような人になりたかった。兄の影に隠れながら、いつでも俺は兄の背中を追っていた。まるで、俺の背を追う一平のように。こんな俺が、一平に何を教えてやれたのだろうか。

 その焦りで、無茶をしすぎた。いつかこうなるとは思っていた。俺は、兄のように器用ではないから。この腐り果てた世界を渡り歩ける程、頭がキレる方でもないから。

 自分の死を実感した瞬間、ごめん、ごめん、ごめん────その言葉しか、最期には浮かばなかった。ごめんね、一平。きっと君はこの先俺のように生きるのだろう。上っ面だけ取り繕って、誰をも愛せず、虚しいとも思わず生きて行くのだろう。

 これから一平が出逢う誰かが、見抜いてくれるだろうか。一平が一平として生きる為に、手を引いてくれるだろうか。彼を救ってやって欲しい。彼に幸福を教えてやってほしい。どんな形でもいい。誰でもいい。俺が犯した間違いを、どうか正して下さい。

 一平、俺は君に、何を遺して逝くのだろうか────。





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