6 / 10
第六話 それ、矛盾してますよね?
しおりを挟む夕食後のひととき。
暖炉の薪が静かに爆ぜる音だけが、居間の静寂を彩っていた。
ソファに深く身を預け、本の世界に没頭しているカレン。
その対面でルーファスは落ち着かない様子で妻を伺っている。
しばらくの沈黙の後、意を決したように彼が口を開いた。
「カレン」
「はい」
視線は文字を追ったまま。淡々とした返事が戻る。
「私は……君のことをもっと知りたいと思っている」
ページをめくる指が止まった。
ゆっくりと顔を上げ、無表情で夫を射抜く。
「なぜですか?」
「なぜって……夫婦なんだから、当然だろう」
その言葉に、カレンの瞳がわずかに細められた。
「当然、ですか」
ぱたん、と。
静かに本が閉じられる。
丁寧だが、明確な拒絶を孕んだ動作で膝に置くと、彼女は真正面から問いかけた。
「それは契約に必要なことですか?」
「契約とかじゃなくて……」
カレンの論理的な問いかけに、ルーファスは言葉を濁す。
感情的な答えを返すことの難しさを痛感しているようだ。
「では、なぜ急に?」
「君と過ごすうちに、気になり始めたんだ。君がどんな人なのか。何を考えているのか」
「ふうん」
小首を傾げる仕草は、まるで実験結果を精査する学者のように見える。
「それ、おかしくないですか?」
「何がだ?」
「あなたには愛人がいるんですよね?」
鋭い刃物のような指摘に、夫の顔から血の気が引いた。
「……」
「心に決めた人がいるのに、妻に興味を持つ」
カレンは間を置いて、はっきりと言った。
「それ、矛盾してますよね」
ルーファスの顔がこわばった。額に冷や汗が浮かぶ。
額に冷や汗が浮かぶ。言い訳を探すように唇が動くが、適切な言葉は見つからない。
「質問を変えます。私のことを知りたいのは、なぜですか? 愛人の方への気持ちが薄れたからですか?」
「そうじゃない!」
即座に否定するも、その声に確信は宿っていなかった。
「では、愛人がいながら妻にも興味を持つと。ただの浮気性ですよね?」
「違う!」
声を荒らげ、椅子から身を乗り出すルーファスとは対照的に、カレンは微動だにしない。
「では、どう違うんですか? 論理的に説明してください」
感情の波など皆無の瞳に見つめられ、ルーファスは言葉に詰まった。
口を開閉させるだけの夫を、妻は冷徹に観察し続ける。
やがて、容赦ない追撃が再開された。
「いいでしょう。では、私からも質問させてください」
「……何をだ」
「あなたの愛人について、です」
ごくり、と唾を飲み込む音が室内に響く。
「その方とは、どこで出会ったんですか?」
「それは……社交界で……」
「社交界。貴族の令嬢ですか?」
「いや……」
「では、どういう身分の方で?」
「……商家の……」
矢継ぎ早の質問に、答えが尻すぼみになっていく。
「商家の娘。なるほど。お名前は?」
「名前は……」
メモを取るような構えを見せるカレンに対し、ルーファスの視線が床へ落ちた。
「言えないんですか?」
「彼女の名誉のために……」
「名誉? 私は他言しませんよ。夫婦の会話ですから」
「それでも……」
「では、どんな容姿の方ですか?」
質問の矛先が変わり、一瞬だけ安堵の空気が流れる。だが、それも束の間だった。
「髪の色は? 瞳は? 背丈は?」
「えっと……」
視線が泳ぐ。必死に記憶の澱をさらっても、像は結ばれない。
「……金髪で……目は青くて……」
「この国の女性の半数に該当しますね」
「っ……」
「もっと具体的な特徴はないんですか? 愛しているなら、細部まで覚えているはずですよね?」
「それは……会ったのが少し前だから……」
「少し前? 最後に会ったのはいつですか?」
一歩も引かないカレンの追求に、ルーファスの声は蚊の鳴くようになった。
「……一年ほど前……」
「一年」
眉が跳ね上がる。信じられない、といった表情だ。
「一年も会っていない相手を、まだ愛していると?」
「心は変わらない」
「手紙のやり取りは?」
「……していない」
観念したように吐き出された答えに、カレンの声色がわずかに呆れを帯びる。
「会ってもいない、手紙も書いていない。それで愛が続いていると、どうやって確認したんですか?」
「確認って……」
「愛は双方向のものですよね? あなたが一方的に想っているだけなら、それは愛ではなく執着では?」
核心を突かれ、ルーファスは黙り込んだ。
うなだれる姿は敗北した兵士そのものだ。
カレンは立ち上がり、彼を見下ろした。
その位置関係が彼女の優位性を決定づける。
「整理しましょう。
一、あなたは一年以上愛人に会っていない。
二、手紙のやり取りもない。
三、相手の気持ちを確認していない。
四、にもかかわらず、妻より愛人を優先しようとした」
指折り数えながら、淡々と事実を列挙する。
「これ、どう考えても論理的ではありません」
「私は……ただ……」
完全に論破され、ルーファスは頭を抱えた。
「……わからなくなってきた」
「何がですか?」
「自分が何を考えているのか……」
苦悩に満ちた呟き。
自分自身の感情さえ整理がつかなくなっているようだ。
カレンは小さくため息をついた。
張り詰めていた表情が、ほんの少し緩む。
「私は別に怒らせたいわけじゃないんですよ。事実を言っているだけで——」
不意に口を噤む。自身の口調の変化に気づいたのだ。
顔を上げたルーファスの瞳に、驚きの色が浮かぶ。
「……今、何か変じゃなかったか?」
「何がですか?」
即座に無表情へ戻るが、その動きには隠しきれない動揺があった。
「いや、口調が……」
「気のせいです」
カレンは本を取り上げ、顔を隠すように開く。
「いや、絶対なんか——」
「気のせいです。はい、次の話題」
ページをめくる音が早くなり、指先がせわしない。
そして、本に隠れきらない頬はわずかに赤らんでいた。
暖炉の熱のせいではないことは、誰の目にも明らかだ。
ルーファスは初めて見た。
この完璧な妻の、小さな綻びを。
人間らしい感情の揺らぎを。
「……カレン」
呼びかける声に、温かみが宿る。
「何ですか」
「君も、完璧じゃないんだな」
「完璧な人間なんていません。それこそ、論理的に考えれば自明のことです」
相変わらずの減らず口。けれど、その声は微かに震えていた。
「そうか」
ルーファスの口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「なんだか、安心した」
「……変な人ですね」
本に視線を落としたまま呟かれた言葉は、ルーファスにだけ届く大きさだった。
部屋に静寂が戻る。
だがそれは、最初の気まずいものではない。
暖炉の火がパチパチと音を立てる中、カレンはゆっくりとページをめくる。
そんな妻の赤くなった横顔を、ルーファスは静かに眺めていた。
—
「矛盾に気づいたなら、考え直すチャンスです。逃さないでくださいね」
カレン・ベルンワード侯爵夫人
160
あなたにおすすめの小説
氷の騎士と契約結婚したのですが、愛することはないと言われたので契約通り離縁します!
柚屋志宇
恋愛
「お前を愛することはない」
『氷の騎士』侯爵令息ライナスは、伯爵令嬢セルマに白い結婚を宣言した。
セルマは家同士の政略による契約結婚と割り切ってライナスの妻となり、二年後の離縁の日を待つ。
しかし結婚すると、最初は冷たかったライナスだが次第にセルマに好意的になる。
だがセルマは離縁の日が待ち遠しい。
※小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。
結婚して3年経っても子供ができないという理由で離縁されたエマは、前世の記憶を思い出して幸せになる。周りが勝手に復讐してくれました。
山田 バルス
恋愛
結婚三年目の春、エマは伯爵家の夫アンドレオから突然、側室を迎える話を告げられる。子をなせなかったことを理由に、彼女は僅かな補償のみで離縁された。妻として過ごした三年間は「無価値だった」と突きつけられ、エマは貴族社会から静かに切り捨てられる。
また実家の父母の墓参りに行くと、当主になっていた兄に離縁金を奪われてしまう。
大ピンチのエマには、秘密があった。なんと彼女は幼少期に前世の記憶を思い出していたのだ。
かつて観光地で石を磨き、アクセサリーを作り、人に喜ばれる仕事をしていた人生。何も持たない今だからこそ、もう一度「自分の手で生きる」ことを選び、あの人が住む商業国家スペイラ帝国へ向かう決意をする。
国境への道中、盗賊に襲われるが、護衛兵ロドリゲスの活躍で難を逃れる。彼の誠実な態度に、エマは「守られる価値のある存在」として扱われたことに胸を打たれた。
スペイラ帝国では身分に縛られず働ける。エマは前世の技術を活かし、石を磨いてアクセサリーを作る小さな露店を始める。石に意味を込めた腕輪やペンダントは人々の心を掴み、体験教室も開かれるようになる。伯爵夫人だった頃よりも、今の方がずっと「生きている」と実感していた。
ある朝、ロドリゲスが市場を訪れ、エマの作ったタイガーアイの腕輪を購入する。ところがその夜、彼は驚いた様子で戻り、腕輪が力を一・五倍に高める魔道具だと判明したと告げる。エマ自身は無意識だったが、彼女の作るアクセサリーには確かな力が宿っていた。
後日二人は食事に出かけ、エマは自分が貴族の妻として離縁された過去を打ち明ける。ロドリゲスは強く憤り、「最悪な貴族だ」と彼女と一緒になって怒ってくれた。その気持ちが、エマにとって何よりの救いだった。彼は次に防御力を高める腕輪を依頼し、冒険者ギルドで正式な鑑定を受けるよう勧める。
翌日、冒険者ギルドで鑑定を行った結果、エマの腕輪は高い防御効果を持つことが判明。さらに彼女自身を鑑定すると、なんと「付与特化型聖女」であることが明らかになる。聖女が付与した魔道具は現実の力として強く発現するのだ。
価値がないと切り捨てられた人生は、ここでは確かな力となった。スペイラ帝国で、聖女エマの新しい人生が、静かに、そして輝かしく始まる。
悪役令嬢と誤解され冷遇されていたのに、目覚めたら夫が豹変して求愛してくるのですが?
いりん
恋愛
初恋の人と結婚できたーー
これから幸せに2人で暮らしていける…そう思ったのに。
「私は夫としての務めを果たすつもりはない。」
「君を好きになることはない。必要以上に話し掛けないでくれ」
冷たく拒絶され、離婚届けを取り寄せた。
あと2週間で届くーーそうしたら、解放してあげよう。
ショックで熱をだし寝込むこと1週間。
目覚めると夫がなぜか豹変していて…!?
「君から話し掛けてくれないのか?」
「もう君が隣にいないのは考えられない」
無口不器用夫×優しい鈍感妻
すれ違いから始まる両片思いストーリー
勝手にしろと言ったのに、流刑地で愛人と子供たちと幸せスローライフを送ることに、なにか問題が?
赤羽夕夜
恋愛
アエノール・リンダークネッシュは新婚一日目にして、夫のエリオット・リンダークネッシュにより、リンダークネッシュ家の領地であり、滞在人の流刑地である孤島に送られることになる。
その理由が、平民の愛人であるエディットと真実の愛に満ちた生活を送る為。アエノールは二人の体裁を守る為に嫁に迎えられた駒に過ぎなかった。
――それから10年後。アエノールのことも忘れ、愛人との幸せな日々を過ごしていたエリオットの元に、アエノールによる離婚状と慰謝料の請求の紙が送られてくる。
王室と裁判所が正式に受理したことを示す紋章。事態を把握するために、アエノールが暮らしている流刑地に向かうと。
絶海孤島だった流刑地は、ひとつの島として栄えていた。10年以上前は、たしかになにもない島だったはずなのに、いつの間にか一つの町を形成していて領主屋敷と呼ばれる建物も建てられていた。
エリオットが尋ねると、その庭園部分では、十年前、追い出したはずのアエノールと、愛する人と一緒になる為に婚約者を晒し者にして国王の怒りを買って流刑地に送られた悪役王子――エドが幼い子を抱いて幸せに笑い合う姿が――。
※気が向いたら物語の補填となるような短めなお話を追加していこうかなと思うので、気長にお待ちいただければ幸いです。
【完結】本日、私の妹のことが好きな婚約者と結婚いたしました
音芽 心
恋愛
私は今日、幼い頃から大好きだった人と結婚式を挙げる。
____私の妹のことが昔から好きな婚約者と、だ。
だから私は決めている。
この白い結婚を一年で終わらせて、彼を解放してあげることを。
彼の気持ちを直接聞いたことはないけれど……きっとその方が、彼も喜ぶだろうから。
……これは、恋を諦めていた令嬢が、本当の幸せを掴むまでの物語。
毒味役の私がうっかり皇帝陛下の『呪い』を解いてしまった結果、異常な執着(物理)で迫られています
白桃
恋愛
「触れるな」――それが冷酷と噂される皇帝レオルの絶対の掟。
呪いにより誰にも触れられない孤独な彼に仕える毒味役のアリアは、ある日うっかりその呪いを解いてしまう。
初めて人の温もりを知った皇帝は、アリアに異常な執着を見せ始める。
「私のそばから離れるな」――物理的な距離感ゼロの溺愛(?)に戸惑うアリア。しかし、孤独な皇帝の心に触れるうち、二人の関係は思わぬ方向へ…? 呪いが繋いだ、凸凹主従(?)ラブファンタジー!
王妃教育の謎~婚約破棄?大歓迎です!
柚屋志宇
恋愛
王太子の婚約者となった公爵令嬢フェリシアは王妃教育を受けることになった。
厳しい王妃教育にフェリシアはすり減る。
しかしある日、フェリシアは気付いてしまった。
王妃教育の正体に。
真実に気付いたフェリシアは、王子と婚約を解消するために王子妃にふさわしくない行動をとると決めた。
※小説家になろうにも掲載しています。
婚約者が聖女を選ぶことくらい分かっていたので、先に婚約破棄します。
黒蜜きな粉
恋愛
魔王討伐を終え、王都に凱旋した英雄たち。
その中心には、異世界から来た聖女と、彼女に寄り添う王太子の姿があった。
王太子の婚約者として壇上に立ちながらも、私は自分が選ばれない側だと理解していた。
だから、泣かない。縋らない。
私は自分から婚約破棄を願い出る。
選ばれなかった人生を終わらせるために。
そして、私自身の人生を始めるために。
短いお話です。
※第19回恋愛小説大賞にエントリーしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる