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第5章

ジュンソには言いたいことがある ①

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 今年初めての受診日。はな六が身支度を終え、急な階段を半ばまで降りたとき、事務所で電話が鳴った。サイトウの姿が見えないので、はな六は電話を取ろうと急いで階段を降りようとした。ところが、慌てて一歩を踏み出した瞬間、右の膝がグキッと嫌な音を立てた。
「あ!」
 ぐらりと身体が傾ぐ。前のめりに落ちそうになり、両手をバタバタと振って体勢を整えようとしたら、今度は後ろ方向に重心が傾いた。
「あ、うあ、あひゃあ!」
 気づいた時には、一番下の段まで滑り落ちていた。
「あいたたたたた」
 強かに尻を打ち、はな六は呻いた。
「はな六! どうした!?」
 外にいたサイトウが、作業場に飛び込んできた。
「あーん、サイトーゥ、痛いよぉ」
 はな六はメソメソと泣き出した。
「階段から落ちたんきゃ? どっか怪我したか。じっとしてろ」
 サイトウはすぐにはな六のもとに駆けつけた。
「どれ、見せてみな」
 サイトウははな六の頭から順に見たり触ったりして確認していった。
「頭は打ってねぇか。背中は大丈夫か? 何? 尻が痛ぇだと? あとは……」
 サイトウはじーっと目を細めて、はな六の膝に注目した。はな六も、つられて自分の膝を見た。尻の痛さに気を引かれていたが……。
「おめぇ、膝がおかしな方向に曲がってるぞ」
「え?」
 そう言われてみれば、脚の膝から下の部分が、少し捻れているように見えた。サイトウが、膝頭に人差し指でツンと触れた。
「痛っ! いっっったっ!」
「あーあー、やっちまったな。ちとそこで待ってろ」
 サイトウははな六を跨ぎ越して二階へと上がっていった。事務所の電話が、また鳴り始めた。
「サイトウ、電話が鳴ってるよ!」
 はな六が二階に向けて叫ぶと、
「んなもんほっとけや! 大事でぇじな用なら、どーせまた、かけ直してくらぁ!」
 サイトウも二階から怒鳴り返してきた。
 電話が五月蝿く鳴り響く中、はな六は階段に腰かけたまま、傷めた膝頭をさすりながらサイトウが戻るのを待った。
「ひーん、痛いよぉ」
 こんな時はな六は、この厄介なボディに自分の魂を移植したことを、酷く後悔してしまう。このボディはあまりにも感覚が鋭敏すぎ、そして構造が繊細に出来すぎている。ちょっとの怪我で、しばらくの間、立ち直れないほどの痛みに苛まれることになる。かつて、クマともタヌキともつかないぽんぽこりんな見た目のアンドロイドだった頃のはな六は、とても打たれ強かった。小学生から碁石を投げつけられても、すれ違いざまに足を引っ掛けられて転んでも、痛みなど感じなかった。
 いつだったか、うなじのところにシャープペンシルの先で数字を掘られたことにも、はな六はしばらく気づかなかった。それはジュンソの悪戯だった。掘られた数字は“8769”。それで“はなろく”と読ませるつもりだったようだ。ジュンソとしては、ジャパニーズの数字の読みを覚えたことをはな六に褒めて貰いたくてしたことだったらしい。やられたはな六の方はというと、そんなことでひとを傷付けるなんて一体どういう感性をしているのか、と呆れるばかりだった。
(そうだ。明後日はまた、ジュンソに貸し切りされるんだ)
 しかも、今度は一泊旅行。行き先は秘密だというが、とっておきの場所に連れてってあげる、とのことだ。
(沢山歩いたり、階段や坂を昇り降りするんじゃなきゃいいけど……)
 今は、はな六とジュンソは派遣型風俗店の従業員と客の関係なので、店を介さず直接連絡を取ることは出来ない。マサユキにお願いしてジュンソに連絡してもらい、旅行の予定をはな六に合わせて変更してもらうか、いっそ中止してもらうかしないと、いけないかもしれない。
「はぁ」
 はな六はため息を吐いた。だが、旅行に行かなくても済むかもしれないと思うと、心が少し軽くなる感じもするのだった。
(たった二日間とはいえ、サイトウと離れるだなんて……)
 サイトウには既に、一泊旅行のことは告げてある。はな六が旅行のことを打ち明けたとき、サイトウはこの上なく闇の深まった目でギリリと歯軋りをしたが、はな六の肩をポンと一度叩き、
『まぁ、気ぃつけて行ってきな』
 と、案外気前よく言った。サイトウは、日頃はな六のことをベタベタに可愛がるが、仕事ではな六が余所の男とセックスをすることには寛容だ。嫉妬しないわけではないらしい。だが、はな六をセクサロイドと分かっていて“嫁”にしたのだから、はな六の性行動には口煩く言わないのが“旦那”としての義務だと、サイトウは言う。
(だからって、いいのか? おれは、こんな生活をしてても……)
 はな六は、しゅんと俯いた。すると、サイトウの、ドスドスと喧しい足音が、階段を降りてきた。
「ウェーイ! 待たせたな」
 サイトウははな六の頭上を跳び越し、はな六の前に降り立ってしゃがんだ。手にはガムテープのようなロールと鋏を持っている。
「それで何するの?」
 はな六が首を傾げると、サイトウはケケケと笑った。
「これで膝を固定すんだよ」
「ガムテープで!?」
 はな六はぎょっとしたが、サイトウは笑いながら首を横に振るのだった。
「こいつはガムテープじゃねぇ。人の怪我した手足を固定するための、専用のテープなの。まぁいいから、四の五の言わずにさっさとズボン脱げ」
「えー、ここで?……恥ずかしいよ。お客さんが来たらどうするの?」
「大丈夫だ。客だろうが何だろうが、この俺様の嫁を勝手に助平な目で見やがるヤツは、俺様がおん出してやるからよ」
 はな六はしぶしぶその場でズボンを脱いだ。右脚をズボンから抜く時は、サイトウに手伝ってもらわなければならなかった。ほんの少し膝が動くだけで、激痛が走ったからだ。
「あーやっぱり右脚がおかしい具合に捻れてんな」
 サイトウの熱い掌が、はな六の膝からふくらはぎを、そっと撫でた。痛いのに、触れられたところは何故か心地よい。
「ちょっと我慢しろよ」
「ふぎゃっ!」
 はな六にうんと答える間も与えず、サイトウははな六の脚を捻った。ゴキゴキッと関節が鳴った。脚をいじられている間、はな六はぎゅっと目をつぶり、身体をこわばらせていた。
 ビッとテープを引き伸ばす音に、はな六は恐る恐る薄目を開けた。サイトウは迷いない手付きで、はな六の膝にテーピングをほどこしていった。まず、膝の両サイドを、縦方向に、膝を少し包み込むように貼った。それだけでもだいぶ痛みが軽減された。同様に、数枚のテープを少しずらして貼ったあと、今度は膝の上下を横方向にぐるぐると巻いていく。
「どうだ? 立ってみな」
 サイトウに促され、はな六はゆっくりと立ち上がってみた。まだ痛むものの、
「すごい、ぐらぐらしない……」
 はな六は感嘆した。
 階段から落ちる前から、そもそもはな六の両膝はパーツの磨耗により常にぐらついていた。それがテーピングのお陰で安定した。脚を曲げるのには勿論不便だが、これだけしっかりしていれば、何もない所で盛大に転ぶことはないはずだ。
「いいだろ?」
「うん!」
「じゃ、左もやってやるから座れ」
 はな六は階段に座り直し、左脚を軽く伸ばした。サイトウははな六の脚に先ほどと同じように、器用にテーピングをほどこしていった。
 テーピングが完了して、ズボンを履き、サイトウに手伝ってもらって靴を履いた。作業場の中を試しに歩き回ってみた。
「すごい。みてみて、サイトウ! 全然ぐらぐらしない。ちゃんと真っ直ぐに歩けるよ、ほら!」
 いつもは千鳥足でしか歩けないのに、足を真っ直ぐ前に踏み出せる。すると腰や背中や肩も楽に感じた。膝の不具合を放置してきたことによって、これまでどれだけ全身に余分な負担をかけてきたのか、はな六は初めて気づいた。
 サイトウは、靴脱ぎ場に腰掛けて、はな六をしげしげと見詰めていた。
「どうしたの、サイトウ?」
「いんや。おめぇはそんな風に笑うんだなって思ってな」
「え? おれ、笑うじゃない? 楽しければ、いつでも」
 サイトウはうつむき、くっくっと喉を鳴らした。そしてゆっくりと立ちあがり、はな六のもとに歩み寄った。
「こんな事でいいんなら、もっと前からしてやったのによ。……さて。駅まで送ってやろうか?」
 はな六は首を傾げ、サイトウを見上げた。闇に黒く塗り潰された、サイトウの両目。その漆黒が、ノイズのように掠れ、揺らいで見えた。
「ううん。大丈夫、バスで行ける」
「ほっか。じゃあ気ぃつけてな。膝、ただ支えてあるだけで、治った訳じゃねぇからよ」
「うん、わかってる。行ってきます」
 はな六は背伸びをしてサイトウの首に両腕を回した。サイトウもはな六の腰に腕を回し、持ち上げた。チュッと口付け、そしてゆっくりとはな六の身体は下ろされ、足先がコンクリートの床に着いた。
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