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悪気の無い
しおりを挟む他のニンゲンギツネから大事な用事を頼まれていて、どうしても人間の世界に行かないといけなくなった。
だから、今日は墓掃除は無しだ、留守番をしていて欲しい、と嘘を伝えると、アオイはすぐに「うん、わかった」と返事をした。
「一人で留守番するのが不安ならヒナタを呼んでやってもいいけど……」
「ううん。大丈夫だよ。本を読んでホタルを待ってる」
雨が降りそうだよ、ホタル気を付けてね、と見送るアオイのことを抱き締めていたら、家を出るまでにずいぶん時間がかかってしまった。
ホタル、どうしたの?とアオイは不思議そうにしていて、俺は「なんでもないよ」ともう一度嘘をついてから、人間の暮らす世界へ向かった。
アオイがいないからなのか、その日はほら穴を通り抜ける間も墓掃除中も妙に静かに感じられた。
墓の掃除が終わり、いよいよ出発する直前。俺は名前も知らない誰かの墓の前にしゃがみ込んで、「どうかこれから俺がすることを許してください」と祈りなのか誓いなのか、自分でもよくわからないことを心の中で何度も繰り返し唱え続けた。
「絶対絶対内緒で俺の記憶を消して」と言っていたアオイの過去を探り回ることに対して、不吉な予感が心の中では常にぐるぐると渦巻いている。
ニンゲンギツネは神も仏も信じない。それなのに、会ったこともない死んだ誰かに対して、不安を打ち明けずにはいられなかった。
アオイの住んでいた家へ向かうために、寺から出て行く時には、特に美しくもなければ、みすぼらし過ぎることもない、どこにでもいるありふれた中年の女に化けた。
最近の人間は妙に用心深くなっていて、若い男がウロウロしていると、ただそれだけで不審に思われるからだ。
女の姿で人間の世界へ出かけて行く俺を見ても、住職はほんの一瞬「おや」という顔をしたくらいで、特に何も言わなかった。
□
アオイの家までは歩いて30分近くかかった。
ニンゲンギツネは鼻がききすぎるせいで、電車やバスといった乗り物には乗れない。人間の世界をうろつく時には鼻がバカになる薬を飲む、というニンゲンギツネもいるくらいだ。
今日はアオイの匂いを辿らないといけなかったから、時々すれ違う若い女の髪の匂いに顔をしかめながら地道に歩いて家を探した。
アオイの匂いがする方へ近付けば近付くほど、カビと、食べ物が腐ったような臭いもどんどん強くなっていった。
吐き気をもよおすような悪臭に手で鼻と口を押さえながら、必死で歩き続けた。
なぜ誰も気が付かないのだろう?と思わずすれ違う人間の顔をジロジロと眺めてしまう程、本当に酷い臭いだった。
ここだ、とようやく辿り着いた古い木造アパートは、本当にここでアオイが生活していたのだろうか、と目を疑いたくなるような酷い場所だった。
八つある郵便受けはどれも満杯だった。
郵便受けどころか、その真下にも、誰からも必要とされていない広告が大量に捨てられていた。
階段の手すりにはクモの巣と蛾の卵。外廊下には数えきれない程の、鳥の糞。
壁には赤のスプレーで「バカ」と書き殴られていた。
そして、何よりも酷いのが悪臭だった。ドアはピタリと閉まっているはずなのに、八つある部屋から少しずつ漏れ出す、生臭い何かが腐って発酵したような臭い……。
臭いを嗅いでいるだけで吐き気が込み上げてきて、口の中はとても嫌な味がする。
単純に部屋の中や建物自体が古くて汚い、というのもあるのだろうが、それとは別の……ここで生活する住人達の日常だとか生活にこびり付いただらしなさや、ズルさ、それゆえの孤独……そう言ったものが混ざり合って、すさまじい臭いを放っていた。
「うっ……」
未熟な体と心で、ここにこれ以上いるのはどう考えてもマズイ。すでに、ひどい頭痛がするし、足元がふらつく。
それでも、何度も吐きそうになるのを堪えながら、ほんの一瞬鼻を掠める、アオイの清潔な匂いを探した。
二階の左奥の部屋がアオイのかつて暮らしていた場所だった。
□
ごく稀に「呪い」というものが一切通じない人間が存在する。何か特別な力を持っていて、心が人一倍強いから呪いを跳ね除けてしまう……というわけではない。
そういう人間は本当にただただ自分以外のことに「気が付かない」のだ。
自分以外の人間が何を感じているか、自分が相手からどう思われているか、そう言ったことに一切関心を持たない人間はいくら人から恨まれようと、ビクともしない。
アオイの母親はそのタイプの人間だった。
外からでも部屋の中にアオイの母親がいるのはわかっていた。ほんの少し中の様子を探ろうと、ドアに手を当てて目を閉じる。
……部屋はひどく殺風景で、枯れた花をいつまでもいけている花瓶を思わせた。カーテンも壁も何もかもが薄茶色か灰色に汚れていた。
アオイが着ていたと思われる衣類はひとかたまりになって部屋の隅に追いやられている。
アオイの母親はただその中心でボーッとしていた。……一見すると、攻撃的なところは微塵も感じさせない、おとなしそうな女だったが、意識を集中させてじっと観察させていると、いろいろなことが読み取れる。
アオイの母親は「かわいそう」を生業にして、散々人を騙していた。騙している……と言うよりは嘘をつくことを何とも思っていない、が正しいのかもしれない。
バカなようで自分が楽をするために人をどう利用すればいいか、という知恵はあるし嗅覚も鋭い。
厄介なのは本人がそれに対して一切悪気が無いことだった。
のほほんと生きているようで、周囲のあらゆるものを食い尽くしてしまう。けれど、いくらそのことを人から咎められようと責められようと、アオイの母親には何も響かない。
混じりけのない、と言えばいいのか、ある意味一番厄介な悪意を抱えている人間だった。
……一応、長いこと家に戻って来ないアオイのことを気にしてはいるようではあった。
ただ、息子の身を案じているとかそういうわけではなくて、アオイがいないと入ってこなくなる金について「困ったなあ。いないことがバレたらどうなるんだろう」とぼんやりしていた。
「うっ……」
酷い臭いに耐えられず、吐きそうになっていると、研ぎ澄ませた意識が乱れて手のひらから部屋の中に残っていたアオイの思いが俺の中にどんどん流れ込んでくる。
お腹が空いた、寂しい、寒い……。お父さんがいたらこんな思いをしないですんだのかな、お父さんがいたらなんとかしてくれるんだろうか。お父さん。お父さんに会いたい……。
戸に触れている指の先が震えて、カリカリと微かな音をたてる。
いない父親がこの暮らしを変えてくれる、ということを心の拠り所にして、お腹いっぱい食べさせて貰えず、子供らしく過ごすことも出来ず、ずっとここにいたのか、とアオイのことを思うと、立っていることすら辛い。
ハー、ハー、という自分の荒い呼吸がひどく耳障りだった。
「ううっ……」
目から勝手にボロボロと涙が溢れる。
このまま顔が溶けてしまうと思うほど、涙はどんどん流れていった。
ニンゲンギツネは人間よりも全ての感覚が鋭くて敏感だ。
ここにいると、アオイの子供時代の記憶の欠片から漂う深い悲しみと、アオイの母親の放つ悪気の無い悪意に、身も心も蝕まれてしまう。
耐え難い悲しみから身を守ろうと、意思とは関係無く、俺の心はアオイのことを探し求めた。
アオイを二度とここに帰してはいけない、一生手離してはいけない、と呪いのように強く強く念じていないと、きっと自分を保っていられなかった。
早く、早くアオイの元に、と気持ちばかりが焦って、寺へ戻るまでの間に何度も転び、悪臭による激しい頭痛に耐えられず一度嘔吐した。
狐の里へと続くほら穴では、一度狐の姿に戻ってうずくまったまま、しばらくの間、動けなかった。
アオイの育った場所で「見なければ良かった」としか言い様のない記憶を覗き、アオイの母親への激しい憎しみと怒りで、心も身体もすり減っている。
……アオイの母親も同じように育てられた女だということも、一目見た瞬間に俺にはすぐわかってしまった。
人間はあらゆることを見つけ名前をつける。
きっとアオイやアオイの母親のような子供やその状況にも名前はついているに違いない。
存在に気付き、名前を付けていても、どうすることも出来ない何かが人間の世界には山程あるのだろうか。
アオイを救ったのは「どこにも行くところがない」と、狐の里へ連れていって欲しい、と俺へせがんだアオイ自身の勇気だった。
俺はアオイがお供え物に手を付けていることに気が付いていたのに、何もしてやることが出来なかった。
今だって、人間らしく生きることで得られる幸福のほとんどを知らないアオイに「ずっと狐の里で俺と一緒に暮らそう」と言うことしか出来ない。
悲しみとふがいなさに身を滅ぼされてしまいそうになりながら、アオイの待つ家へ向かった。
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