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春
春の壱 花山葵醤油漬け
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『駒井さん、山葵食べて大丈夫なんですか!?』
ビクターが奈々子にそう言われたのは、この世界で暮らして数年過ぎたあたりだった。
なんでも犬に山葵を与えると下痢や嘔吐するらしい。
しかし、落ちてきてからそう言われるまでの数年にビクターは山葵をかなりの量食べており、調子が悪くなることすらなかった。
前の世界にはなかった食材だが、むしろ好んで食べていた。
さすがにその時は一瞬だけ『犬と一緒にするな』と狼男のプライドを刺激されたが、笑顔で流したのだった。
そんな訳で、ビクターは山葵を普通に食べられる。
チューブ山葵や練り山葵も食べるし、生山葵の風味は好きだ。山葵漬けをカマボコや竹輪に付けて食べるのも好きだ。
そして、めったに手に入らないが、葉山葵や花山葵の醤油漬けは好物だった。
「よし、もうすぐだ」
春というには少し寒いくらいの時期、ビクターは車で出かけていた。
場所はおいなり荘から車で一時間くらいところで、以前に牛筋などを買い出しに行った精肉店の近くだ。
目的地は山葵農家の直売所で、山葵園のすぐ近くにある。
以前にその近くまで行ったときに偶然存在を知り、電話で問い合わせて事前予約しておけば葉山葵や花山葵が手に入ることを知ったのだった。
葉山葵は都心などの商店街の大きな八百屋に行けば手に入ることがあるが、花山葵は今のシーズンしか手に入らず近年はその機会も減って値段も高くなっている。
それが産地直売ということで、安く新鮮な状態で手に入るのだから予約して買いに行かない理由がない。
「おーーー。本当に住宅街の中にあるんだなぁ」
その山葵園は住宅街の中にあった。
川の上流の清流にあるような普通の山葵園と違い、湧水を利用して山葵を育てているらしい。
しかも育てている品種は真妻という味が濃く辛みが強い品種限定らしい。
「ハウス栽培なのか。直売所は本当に育てているところの真横なんだな。見学……できないよなぁ?」
山葵田のすぐ横に小さな店舗が立っている。
駐車場も車三台程度しか停められないくらいだ。
「いらっしゃいませ!」
車を降りると、店の入り口まで普段着の女性店員がビクターを出迎えてくれた。たぶん、農家の人がそまま接客しているのだろう。
店内は四畳ほどのスペースしかなく、カウンターがあるだけだ。
その上に山葵ドレッシングなどの加工商品が並んでいた。
「ここは初めてですか?」
「あ、ハイ。でも、花山葵を電話で予約させてもらったんですが……。駒井です」
「はい!少しお待ちください」
慌てて奥に引っ込んでいった。
数分待って、色々な物が乗ったお盆と、紙袋を持って帰ってくる。
「まず、花山葵です」
紙袋を広げると、大量の花山葵が入っていた。ビクターの予想の倍くらいの量がある。
電話した時に色々聞いていて何となくで頼んだのだが、予想が間違っていたらしい。量を考えると、たぶん街中で売られている半値くらいになるんじゃないだろうか?
「おお!」
ビクターは思わず喜びの声を漏らした。
「うちで扱ってる品種は他の品種より軸が固めでして、えと、下処理のときにお塩とかお砂糖で揉みますよね?それをしっかりしてもらわないと固いと思います」
「え、ああ、はい。わかりました」
他に軸の隙間に泥や砂が入ってる可能性があるとかの説明を受けた。
「あと、うちで作ってる加工製品なんですが、ぜひお味見していってください」
「ありがとうございます!」
味見を進められ、その流れでついついビクターは山葵漬けと山葵ドレッシングを買ってしまう。
これは普段お世話になっている人の分も買ったので、けっこうな量になった。
最後に掃除したばかりの採りたての生山葵があったので、それも購入。
予想外に結構な量の買い物をして、ほくほくしながらビクターは帰路についたのだった。
帰宅して。
「せっかく新鮮なんだから早い目に処理しないとな」
早速、準備に取り掛かる。
まずは湯を沸かし、密閉できる保存瓶にぶっかけて消毒した。
保存瓶は余裕をもって大きいものを準備しておかないといけない。
花山葵は本当に採りたてで、切り目が瑞々しい。八百屋などで売ってるものだと切り目が茶色くなっていることがあってそういう部分は切り落とすのだが、そういう必要もない。
花山葵は選別されたものと違って根元で複数の枝が付いているものも混ざっていたので、きれいにバラシて隙間に砂などが入ってないか確認しながら洗う。
「おお、すでに香りが!」
洗っただけなのに、山葵の香りがすでにする。
適当な大きさに切り、湯を沸かす。
茹でる理想の温度は八十度くらいらしいので、沸騰する前に火を止めてしまう。
「よし!」
気合を入れて一気にお湯に花山葵を入れて、十秒以内ですぐにザルにあけて湯を切る。
茹でるというよりは、湯通しするくらいの時間だ。ザルに広げた花山葵に湯をぶっかける程度でもいいくらいだ。
湯気が上がると同時に、ふわっと山葵のいい香りが立ち昇った。
すぐにボウルに移し、少量の塩を振る。
そこから一気に混ぜて馴染ませ、花が落ちたり枝が折れない程度に軽く揉んでいく。
しんなりしたら終了だ。
時間が経つほど香りが抜けていくので、慌てて保存便に詰め込む。
まだしっかりと詰め込まずに、ふわりと入れる感じで。
あくまでまだ下処理の段階だ。密閉容器の中で空気にさらすことで辛みと香りを引き出すのだ。
そして、約三時間そのままで放置。
これでしっかりとした辛みと香りが引き出される。
山葵系の食材を取り扱うときは、とにかく香りと辛みを引き出すことと、密閉が大事だ。
密閉容器がないなら調理しない方がいいと思えるくらいだ。
とにかく密閉。
密閉しないと保存している間に引き出した辛みも香りも抜けていく。
「さて、漬け込む醤油を作らないとな」
漬け込むための醤油は冷えた状態で使うので、先に作って冷やしておかないといけない。
花山葵に対して多めに準備しておいた方がいい。
使うのは濃い口醤油と酒。
それを一対一で混ぜて煮切ってアルコールを飛ばすだけだ。
好みで砂糖やミリンを入れてもいいが、ビクターは入れない方が好きだ。
適当な量で、醤油と酒を鍋に入れ、過熱していく。
ふつふつと沸き立ってきたら弱火にして数分したら火を止める。
あとは冷まして、三時間後に花山葵を漬け込むだけだ。漬け込むときの花山葵はみっちり詰め込んでもいい。
漬け込んだものは、だいたい一週間後から食べられる。
冷蔵庫に入れれば保存は効くが、辛みと香りが抜けない内に食べきった方がいい。
そして一週間後。
「よしよし、良い感じに浸かってるな」
保存瓶の中の醤油色に染まった花山葵を見て、ビクターは満足げにほほ笑む。
「とりあえず、味見」
きれいな乾燥した箸で一つ摘まみ出すと、そのまま口に入れた。
「くーーーー。すごくきいてる!」
辛みと香りが鼻に突き抜ける。
ビクターにとっては、爽やかな春の味だ。
「今夜は日本酒だな。メインは刺身にしよう」
そのまま日本酒の肴として食べるのもいいが、花わさび醤油漬けを白身の魚やイカなどの刺身で巻いて食べても美味い。
刺身のツマと混ぜて食べてもいい。
その味を思い浮かべると口に唾が溜まってくるビクターだった。
ビクターが奈々子にそう言われたのは、この世界で暮らして数年過ぎたあたりだった。
なんでも犬に山葵を与えると下痢や嘔吐するらしい。
しかし、落ちてきてからそう言われるまでの数年にビクターは山葵をかなりの量食べており、調子が悪くなることすらなかった。
前の世界にはなかった食材だが、むしろ好んで食べていた。
さすがにその時は一瞬だけ『犬と一緒にするな』と狼男のプライドを刺激されたが、笑顔で流したのだった。
そんな訳で、ビクターは山葵を普通に食べられる。
チューブ山葵や練り山葵も食べるし、生山葵の風味は好きだ。山葵漬けをカマボコや竹輪に付けて食べるのも好きだ。
そして、めったに手に入らないが、葉山葵や花山葵の醤油漬けは好物だった。
「よし、もうすぐだ」
春というには少し寒いくらいの時期、ビクターは車で出かけていた。
場所はおいなり荘から車で一時間くらいところで、以前に牛筋などを買い出しに行った精肉店の近くだ。
目的地は山葵農家の直売所で、山葵園のすぐ近くにある。
以前にその近くまで行ったときに偶然存在を知り、電話で問い合わせて事前予約しておけば葉山葵や花山葵が手に入ることを知ったのだった。
葉山葵は都心などの商店街の大きな八百屋に行けば手に入ることがあるが、花山葵は今のシーズンしか手に入らず近年はその機会も減って値段も高くなっている。
それが産地直売ということで、安く新鮮な状態で手に入るのだから予約して買いに行かない理由がない。
「おーーー。本当に住宅街の中にあるんだなぁ」
その山葵園は住宅街の中にあった。
川の上流の清流にあるような普通の山葵園と違い、湧水を利用して山葵を育てているらしい。
しかも育てている品種は真妻という味が濃く辛みが強い品種限定らしい。
「ハウス栽培なのか。直売所は本当に育てているところの真横なんだな。見学……できないよなぁ?」
山葵田のすぐ横に小さな店舗が立っている。
駐車場も車三台程度しか停められないくらいだ。
「いらっしゃいませ!」
車を降りると、店の入り口まで普段着の女性店員がビクターを出迎えてくれた。たぶん、農家の人がそまま接客しているのだろう。
店内は四畳ほどのスペースしかなく、カウンターがあるだけだ。
その上に山葵ドレッシングなどの加工商品が並んでいた。
「ここは初めてですか?」
「あ、ハイ。でも、花山葵を電話で予約させてもらったんですが……。駒井です」
「はい!少しお待ちください」
慌てて奥に引っ込んでいった。
数分待って、色々な物が乗ったお盆と、紙袋を持って帰ってくる。
「まず、花山葵です」
紙袋を広げると、大量の花山葵が入っていた。ビクターの予想の倍くらいの量がある。
電話した時に色々聞いていて何となくで頼んだのだが、予想が間違っていたらしい。量を考えると、たぶん街中で売られている半値くらいになるんじゃないだろうか?
「おお!」
ビクターは思わず喜びの声を漏らした。
「うちで扱ってる品種は他の品種より軸が固めでして、えと、下処理のときにお塩とかお砂糖で揉みますよね?それをしっかりしてもらわないと固いと思います」
「え、ああ、はい。わかりました」
他に軸の隙間に泥や砂が入ってる可能性があるとかの説明を受けた。
「あと、うちで作ってる加工製品なんですが、ぜひお味見していってください」
「ありがとうございます!」
味見を進められ、その流れでついついビクターは山葵漬けと山葵ドレッシングを買ってしまう。
これは普段お世話になっている人の分も買ったので、けっこうな量になった。
最後に掃除したばかりの採りたての生山葵があったので、それも購入。
予想外に結構な量の買い物をして、ほくほくしながらビクターは帰路についたのだった。
帰宅して。
「せっかく新鮮なんだから早い目に処理しないとな」
早速、準備に取り掛かる。
まずは湯を沸かし、密閉できる保存瓶にぶっかけて消毒した。
保存瓶は余裕をもって大きいものを準備しておかないといけない。
花山葵は本当に採りたてで、切り目が瑞々しい。八百屋などで売ってるものだと切り目が茶色くなっていることがあってそういう部分は切り落とすのだが、そういう必要もない。
花山葵は選別されたものと違って根元で複数の枝が付いているものも混ざっていたので、きれいにバラシて隙間に砂などが入ってないか確認しながら洗う。
「おお、すでに香りが!」
洗っただけなのに、山葵の香りがすでにする。
適当な大きさに切り、湯を沸かす。
茹でる理想の温度は八十度くらいらしいので、沸騰する前に火を止めてしまう。
「よし!」
気合を入れて一気にお湯に花山葵を入れて、十秒以内ですぐにザルにあけて湯を切る。
茹でるというよりは、湯通しするくらいの時間だ。ザルに広げた花山葵に湯をぶっかける程度でもいいくらいだ。
湯気が上がると同時に、ふわっと山葵のいい香りが立ち昇った。
すぐにボウルに移し、少量の塩を振る。
そこから一気に混ぜて馴染ませ、花が落ちたり枝が折れない程度に軽く揉んでいく。
しんなりしたら終了だ。
時間が経つほど香りが抜けていくので、慌てて保存便に詰め込む。
まだしっかりと詰め込まずに、ふわりと入れる感じで。
あくまでまだ下処理の段階だ。密閉容器の中で空気にさらすことで辛みと香りを引き出すのだ。
そして、約三時間そのままで放置。
これでしっかりとした辛みと香りが引き出される。
山葵系の食材を取り扱うときは、とにかく香りと辛みを引き出すことと、密閉が大事だ。
密閉容器がないなら調理しない方がいいと思えるくらいだ。
とにかく密閉。
密閉しないと保存している間に引き出した辛みも香りも抜けていく。
「さて、漬け込む醤油を作らないとな」
漬け込むための醤油は冷えた状態で使うので、先に作って冷やしておかないといけない。
花山葵に対して多めに準備しておいた方がいい。
使うのは濃い口醤油と酒。
それを一対一で混ぜて煮切ってアルコールを飛ばすだけだ。
好みで砂糖やミリンを入れてもいいが、ビクターは入れない方が好きだ。
適当な量で、醤油と酒を鍋に入れ、過熱していく。
ふつふつと沸き立ってきたら弱火にして数分したら火を止める。
あとは冷まして、三時間後に花山葵を漬け込むだけだ。漬け込むときの花山葵はみっちり詰め込んでもいい。
漬け込んだものは、だいたい一週間後から食べられる。
冷蔵庫に入れれば保存は効くが、辛みと香りが抜けない内に食べきった方がいい。
そして一週間後。
「よしよし、良い感じに浸かってるな」
保存瓶の中の醤油色に染まった花山葵を見て、ビクターは満足げにほほ笑む。
「とりあえず、味見」
きれいな乾燥した箸で一つ摘まみ出すと、そのまま口に入れた。
「くーーーー。すごくきいてる!」
辛みと香りが鼻に突き抜ける。
ビクターにとっては、爽やかな春の味だ。
「今夜は日本酒だな。メインは刺身にしよう」
そのまま日本酒の肴として食べるのもいいが、花わさび醤油漬けを白身の魚やイカなどの刺身で巻いて食べても美味い。
刺身のツマと混ぜて食べてもいい。
その味を思い浮かべると口に唾が溜まってくるビクターだった。
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