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しおりを挟む「す、すみませんっ!」
我に返った僕は赤い顔のまま、全力疾走で自宅へ走った。
玄関の鍵を閉め、扉を背にする。そうして耳を澄まし、追ってきてないのを確認してから大きく息を吐いた。
「なんてことしちゃったんだろ」
肉体的疲労と精神的疲労、それと羞恥と後悔が渦を巻いて全身を襲う。
「明日からどんな顔して会えばいいの?」
事故とはいえ、キス。
しかも僕はファーストキスだ。ううう、とうめき声を上げ、それから顔を覆った。
彼がどう思っているか怖い。
最悪の場合、嫌悪されている可能性がある。そうなるとどう動いていくべきか。考えれば考えるほど、悪い未来だけが頭の中を占領する。
「モブで、いたかったのにぃ……」
僕の嘆きが玄関に溶ける。
何であんなところで転ぶのか。
自分への苛立ちが止まらない。
――そこへ、
外からバタバタと誰かが走る音がした。
まさかと思い、身を強張らせていたところ、案の定それは僕の部屋近くで足を止めた。
扉一枚隔てて聞こえてくる彼の息遣い。
僕は生唾を飲み込みながら必死に息を殺した。そして立ち去ってくれと祈ったその時、無情にもインターフォンが鳴る。
「――ナツ。そこに居るよね?」
3度目のコールの後、久貫君が尋ねる。
僕はそれに応える事が出来なかった。突然の出来事に、思考回路がパンクしていた。
「その、さっきは急にごめんね」
彼の謝罪に、肩が盛大に揺れる。
「あれはその、事故だから。あ、あと道中に学生証落としてたみたいだから」
「っ、」
僕は慌ててポケットを確認する。
後でリュックに戻そうと一時置きしていた筈のそれが無かった。
これはマズい。その時、僕の頭からはファーストキス事件が完全に抜けていた。
慌てて鍵を外し、扉を突き飛ばすような勢いで開いて、見事久貫君に攻撃を当てる。
「~~っう」
「あ、ごめ、ごめんなさい!」
「いや、うん。大丈夫」
全然大丈夫そうに見えなかったが、蹲った彼に手を伸ばしかけて、その手を引っ込める。あのキスを思い出したからだ。
再度訪れる不安と後悔と羞恥と罪悪感が一緒くたになって、体の機能を制限される。そんな中で、どうにか痛みを散らした久貫君が立ち上がり、学生証を差し出す。
「あ、りがと」
「じゃあこれで痛み分けって事にしよ」
まだ少し痛そうにしながらも微笑む久貫君。
僕の鼻腔に、仄かな汗の香りに混じって森林浴をした時のような落ち着く匂いが、くすぐった。
朝も感じたその香りにぼんやりとしていた思考がゆっくりと戻ってくる。
「あ、はっ、はい」
彼の少し潤んだ瞳に見惚れ、つい頷いてしまう。
我に返った時にはもう遅かった。普段通り笑う彼に心がきゅう、と揺さぶられる。
そしてこの後どうすべきか困った。
用があるからと断りを入れればいいのに、その言葉が喉につかえて上手く出てこない。
「ナツ?」
「あ、いえ。学生証ありがとうございま」
ぐ~。
大きな腹の音が響き渡る。
もちろん俺のものではない。となると、
「……ごめん」
「あ、いえ」
「今日の昼飯、パンだけだったから」
「そ、そうなんだ」
「じゃあ俺行くな」
「え――ま、待って」
相変わらず腹の音を鳴らしたまま、自らの部屋を通り過ぎようとした彼を慌てて呼びとめる。
「ナツ?」
「よ、よければご飯食べていきますか? あり合わせのものしかない、けど」
「! いいの!?」
「……学生証拾ってもらったお礼。あ、もちろん無理にとは」
「食べるっ! 今すげー腹減って死にそう!」
喜色満面の久貫君とは正反対に、僕は自分の失態を後悔する。けど今更嫌だとは言えない。僕はこれは人として当たり前の行動だと自らに言い聞かせ、玄関を開けた。
「そのあんまり綺麗じゃないから」
「全然気にしない。じゃお邪魔します、って綺麗じゃん。俺の部屋と雲泥の差だよ」
「えと、適当に座っててください。あの、苦手なものとか食べられないものってありますか?」
「ないよ」
彼が座ったのを確認し、僕は冷蔵庫から食材を取り出した。平静を装っているが、心臓は相変わらずバクバクだ。
冷蔵庫から出したご飯を温め、朝の残りのオムレツと作り置きの筑前煮、ぬか漬け、それから今日の夜に食べようと思っていたネギトロを取り出す。
今日の主役はネギトロ丼だ。
ケトルで沸かした湯で味噌玉を解き、温めたそれらを久貫君の前に置く。
「あの、お口に合わなかったらすみません。どっ、どうぞ」
目の前に並んだそれに久貫君は感嘆の息を漏らし、「いただきます」と手を合わせて一気にかきこんだ。
「うっ!」
「えっ!?」
「旨いっ!」
力いっぱい叫ぶ久貫君。
「味噌汁も筑前煮もオムレツも全部美味しい。ナツ、料理上手なんだね」
「あ、いえ。あのぬか漬け、美味しくなかったら残して大丈夫ですから」
「全然。寧ろ俺このぬか漬け一番好き」
屈託のない笑顔と心からの賛辞に、胸が高鳴る。
「そ、れは良かったです」
「もしかしてこれも」
「はい。僕が漬けてます」
「凄っ!」
「そんなに凄くないです。野菜入れて毎日二、三回かき混ぜるだけですから」
「いやいやそれでも凄いよ」
よほど口にあったのか、久貫君は他のおかずよりも先にぬか漬けを完食してしまった。それが少しだけ嬉しい。
「ふぅ~、食べた食べた」
「お粗末様でした」
「あ、片付け手伝うよ」
「いえ、大丈夫です」
「いいから、いいから」
笑みながらも絶対に譲らないという雰囲気に負け、結局僕が洗った食器を拭いてもらうことにした。
2人並んで家事をする。
まるで同棲しているみたいだな、と考えて僕はすぐに頭を振った。そんな都合のいい妄想、絶対にありえない。
「ナツ?」
「あ、いえ。何でもないです」
「なんかこうしてると、ガキの時の調理実習思い出すな。あ、ナツは覚えてないか。魚を捌くやつ。あれで他の奴がふざけて、首元に魚くっつけてきてさ」
「そ、うなんですか」
もちろん覚えている。
捌き終わった魚の頭を服の襟に入れられて大泣きした、僕にとっては苦い思い出だ。
「そうそう。それで俺がその魚取ったんだよね。こういう風に」
「ひゃっ」
彼の少し水分を含んだ指先が触れ、びくつく。少し距離が近すぎではなかろうか。
「あの」
「ナツ。首の後ろちょっと赤いけど、虫にでも刺された?」
「虫? いえ痒くはないですけど」
はて?と首を傾げた途端、久貫君の顔が僅かに歪んだ。
「あ、あの」
「あ。ごめん。よく見たら俺の見間違いだった。ちょっとトイレ借りていいかな」
「あ、はい。どうぞ」
足早に去っていく久貫君を見送り、僕はまた首を傾げる。それと同時だろうか。定位置に置いていた携帯が一度鳴った。
「誰だろ。――あ、先輩か」
そこには仕事終わりに弁当箱を返しに来る旨が記されていた。
別に今日じゃなくてもいいのに。
――いや、今朝方の真意を問い質さねば。
敬礼する猫のスタンプを押し、その直ぐ後に夕食は食べていくのかと打つ。
すると一秒も経たない間に親指を立てたゴリラのスタンプが返される。
続けてまた泊めてとの文字。
「手土産はケーキがいいです、っと」
ポチポチと操作していると、用を足した久貫君が戻ってきた。
「トイレ、ありがとう。――今、手土産って聞こえたけど、どうしたの?」
「あ、いえ。先輩が泊まりに来るので、その宿賃代わりの要求です」
「先輩って、もしかして今朝の?」
「はい、そうですが」
僕の答えを聞いた久貫君が、また顔をしかめた。もしかして先輩が嫌いなのだろうか。
「ナツ」
「はい」
「その人少し気をつけた方がいいかも」
「? どうしてですか?」
「それはっ……なんでもない」
不思議がる僕に、久貫君は何かを言いかけて口を閉ざす。
「えっと、僕これからちょっとスーパー行ってくるので。すみませんが」
「あ、うん。ご飯美味しかったよ」
煮え切らないようだったが、久貫君はそれ以上は何も言わなかった。
玄関先まで彼を見送り、隣のドアが閉まる音を聞き届け、肩の力を抜く。
「は~……緊張したぁ」
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