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1巻
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声のする方に向かうと、驚いたことに父親はまだエントランスにいた。鬼のような形相でね。
「お前のせいで‼」
叩かれる!と身構える前に頬に痛みが……十二歳のガリガリの子供が大人の男の力に耐えられるわけもなく勢いよく転がった。
「立て!」
バシッ!
バシッ!
バシッ!
立ち上がる度に手を振り下ろされる。少し立ち上がるのが遅れると今度は蹴られる。
いつまで続くんだ……
もうこのまま殺されるのではないかと死を覚悟した。
バシッ
今日何度目かも分からない痛みに頬を押さえる。
蹴られたお腹も背中も痣だらけだろう。
「この邸から出て行け!」
こうして話は冒頭に戻る。
◇ ◇ ◇
フローラのいなくなったフォネス伯爵邸では、フォネス伯爵が肩で息をしながらニヤリとほくそ笑んでいた。
やっと、やっと忌々しいあの女の子供を追い出せた。せっかく使用人として使えるところまで置いてやったのに、王家から婚約者候補の打診がアイツに来たせいで予定が狂った。
いつか金持ちのジジイか、我が家の利益になる家に嫁がせようと思っていた。だがどうだろう、今日の王妃は俺と妻を非難と軽蔑の目を向けていたではないか。このままアイツをここには置いておけない。
王妃とアイツに面識があったのは予想外だ。
あの王妃は次はアイツだけを王宮に呼ぶだろう。
ここでの扱いを知られるわけにはいかない。
その前にアイツを始末しないと……
フォネス伯爵はフローラを殴っても蹴っても罪悪感を抱いたことはなかった。だが、自分の手で息の根を止めるのはさすがに躊躇してしまった。あれだけ痛めつけたら自分がトドメを刺さなくてもどこかで野垂れ死んでくれるだろう、そう思った。
「お父様ぁ~ロイド様の婚約者にわたくしが選ばれるわよね?」
「ああ、お前とロイド殿下は相性が良さそうだったし、きっと選ばれるだろう」
このままエリザベスが王子の婚約者になれば王家とも繋がりが出来る。
我が娘が王子妃か……さすがに第三王子では国王になることはないだろうが我が家は安泰だ。
フォネス伯爵のニヤけ顔が止まらない。
「あなたぁ~王家からいつ婚約の申し込みが来てもいいように新しくドレスを作りましょうよ!」
「それがいいわ! お父様ぁ~いいでしょう?」
「はははっ、そうだな。いいぞ~」
疫病神は追い出した。
エリザベスは我が家の幸運の女神だ。
ついに私にも運がむいてきた! 最高だ!
フォネス伯爵にとって、今がまさに絶頂の時であった。
◇ ◇ ◇
静けさを取り戻した王宮の庭園では、王妃と第三王子ロイドが今日の目通りについて話していた。
「ロイド、今日の素直な感想を聞かせてくれるかしら」
「はい! 僕はエリザベスと婚約したいです!」
元気に答えるロイドに反して、王妃の表情は暗い。
「……どうして?」
「だってエリザベスはとても可愛かったですし、とても優しい子でしたから」
「どう優しいの?」
「はい! 異母姉がお菓子を食べようとしていたのをアレルギーだからと止めてあげていました。まるで異母妹のエリザベスの方が姉のようでしたよ」
「……そう。本当にエリザベスでいいのね」
「はい! 僕の婚約者はエリザベスに決めました」
「わかったわ。下がりなさい」
「はい!」
ふぅ~と、王妃は深いため息をついた。
末っ子だからとロイドを甘やかせすぎたのね。見極める力が足りない。今からでも再教育は間に合うかしら? いえ、王族を名乗るなら今のままではダメね。
ロイドはまだ若い。フローラのあの姿を見ても何も分からない。プロフィールは先に教えたはずなのに。
ガリガリに痩せて腫れた頬を隠すための厚化粧。最後まで伏せられた目。フローラより先に生まれたクセに妹のフリをする異母姉のエリザベス。それを否定もしない両親。それらを見れば歴然のことだというのに。
王妃は過ぎ去りし日のことを思い出す。それはまだフローラが無邪気な幼女だった頃。ぴょんぴょんとウサギのように駆け回っていた笑顔の可愛い子だったのに……
「ごめんなさい。シルフィーナ」
王妃はフローラの亡き母――シルフィーナに向かって呟いた。こんなになるまで気づかなかったなんて……
「可愛いウサギちゃんだったのに面影もありませんでしたね。ロイドには婚約は早すぎたのではありませんか?」
「キースクリフ、見ていたの?」
第一王子キースクリフが、そしてその後ろから第二王子フェリクスが姿を現した。
「はい、あれは誰が見ても虐げられている子だと気づくと思いますよ」
キースクリフが眉間に皺を寄せながら言う。
「フローラは俺の婚約者にします!」
険しい表情をしたフェリクスが前のめりになって叫んだ。
「フェリクス……分かっているでしょう? 同じ家から王家には嫁げないと……それに貴方には婚約者がいるでしょう?」
「……俺は、俺の婚約は国の結び付きのためで俺の気持ちは……」
フェリクスごめんなさい。王妃は心の中で詫びた。王族の婚姻に個人の気持ちを押し殺さなければならないこともある。
頭では分かっていても悔しいわよね。王妃はフェリクスの内心を察した。
「でも! 俺ならあの子を、フローラを大切にします。もうあの家にフローラを置いてはおけません! 俺の婚約を解消して下さい! 一日も早くフローラをあの家から助け出して下さい」
「ダメよ。たとえ王家でも他家の内情に口出しは出来ないわ」
「フェリクス、今は諦めろ」
「クソっ!」
フェリクスは感情を抑えることなく悪態をついた。王妃は分かっている。口は悪くてもフェリクスは穏やかな子だということを。
今はただ、心の中でフェリクスに謝るしかない。王妃は怒りに震えるフェリクスを見守りながらそう思った。
第三章 明かされるフローラの出自
もう何時間歩いているんだろう? 目的地まで道は真っ直ぐだから間違えてはいないはずだ。
もう日は沈んでしまったけれど貴族の邸宅街だからか街灯に照らされて夜道でも明るい。
変な人に声をかけられることもなく歩き続けているけれど、もう足が鉛のように重たい。
あとどれくらい歩けばいいのだろう。もう無理かもしれない……心が折れそうだ。
このままあの男の言った通り野垂れ死ぬなんて悔しいし嫌だ。
まだ歩ける。まだ諦めない。心を強く持て! 一歩一歩前に進め! と自分に言い聞かせる。
ガラガラと馬車が近づく音が聞こえる。
……もう前もよく見えない。もう無理……なのかな? ……意識が……誰か……助けて……
意識を失う瞬間、温かい何かに包まれた気がした。
もう、目覚めることはないんだろうな。私、頑張ったんだよ。
「お、お母様……」
天国に行ったらお母様に会えるかな……頑張ったねって褒めてくれるかな……
◇ ◇ ◇
「お帰りなさいませ。旦那様」
「今すぐ! 今すぐ侍医を呼ぶんだ!」
「そ、そのお方は?」
「いいから早く呼べ!」
「は、はい!」
ローレンス・スティアート公爵は邸に帰るなり声を荒らげ、侍女たちを急かす。
なんてことだ。この子が姉上の産んだ娘なのか? こんなに痩せて傷だらけで……
腕に抱いた少女の顔を真剣な眼差しで覗き込む。姉上の子に違いない。確信はある。その髪の色はくすんでいるがスティアート家の色だった。
大切にされて幸せに暮らしていたんじゃないのか?
ローレンスが何度手紙を送っても、姉――シルフィーナからの返事はなかった。姉が亡くなったことも葬式が終わった後に伝えられただけだった。
姉の忘れ形見に会わせてくれと何度も何度も面会を申し込んだ。だが毎回フォネス伯爵は『娘が会いたくないと言っている』『領地に行っている』と言って会わせようとしなかった。
「僕の唯一の姪だというのにだ!」
怒りが込み上げてくる。姪の名前と誕生日は貴族名鑑で知った。
「フローラ」
……許さない。絶対に許さない。フォネス伯爵も、嫌がる姉上を無理やり嫁がせた父上も、絶対に許さない。ローレンスは込み上げる怒りを抑えるのに必死であった。
診察の間、ローレンスは部屋から追い出された。
間違いがなければ、フローラは十二歳になったところだ。十二歳とはあんなに軽いものなのか? いや、そんなはずがない。フローラはガリガリに痩せ細っていた。ロクに食べさせてもらっていなかったのだろうか。貴族の令嬢だというのに使用人の服を着ていた。すべてが有り得なかった。
「どうなんだ? フローラは大丈夫なのか?」
たまりかねて、フローラを診察中の部屋の中を覗く。ちょうど診察が終わったところだった。
「はい公爵様。過度な疲れと栄養失調ですね。栄養のある物を食べさせてゆっくり休めば大丈夫です。……ただ問題は身体中の痣です。日常的に暴力を受けていたのでしょう」
「は?」
こんな小さな身体に日常的に暴力が施されていたという。ローレンスの全身に怒りが込み上げた。
「フローラ……もう大丈夫だ。ずっと僕とここで暮らそう? フローラ……僕が君を守るから。二度と辛い思いはさせないから……本当だよ、だから安心してゆっくりおやすみ」
ローレンスは傷だらけの小さな手を握って誓った。
「う、う~ん」
しばらくして、フローラがみじろぎ、薄く目を開いた。
「フローラ! 気がついたのか?」
「お、かあ……さま?」
「フローラ!」
どうやら寝言を言ったようだった。もしかしたらローレンスを母だと思ったのかもしれない。
安心したのか、うっすらと目を開けたと思ったら微笑んでまた眠ってしまった。
「……可愛いな。血を分けた姪というものは。初めて会ったはずなのに可愛くて愛しさが込み上げてくる」
トントンッ
ドアをノックする音がし、使用人のマヤが入ってきた。
「旦那様、私が代わりますのでお食事をお取りください」
「いい、今はフローラの側にいたいんだ」
「……シルフィーナ様の小さい頃にそっくりですね」
マヤは部屋に入ってきた時から悲痛な表情をしていた。
「そうか、マヤは姉上の乳母だったね」
「はい。……こんな、こんな……酷い」
ぽろぽろと涙を流すマヤ。ここまでマヤが泣くのはシルフィーナが亡くなったと聞いた時以来であった。フローラの状態が目に見えている分、さらに辛いものがあるのかもしれない。
「あの家にフローラは二度と返さない。ずっとここで暮らす。フローラの面倒はマヤが見てくれるだろ?」
「はいっ、はい、ありがとうございます。ありがとうございます。誠心誠意お仕えさせていただきます」
「だからもう泣くな。フローラが起きた時に驚くぞ」
「は、はい!」
「起きるまでは僕が側にいるからマヤには明日から頼むな」
「わかりました。……では失礼します」
ドアが静かに閉じられる。
明日は起きてくれるだろうか? 起きるよな?
フローラがどんな生活をしていたのか僕に教えてくれ。そして姉上のことも。
◇ ◇ ◇
うん?
温かいしそれに柔らかい? ここは天国なのかな? 確認したいけれど、まだこの感覚を感じたい。
「フローラ‼ 起きたのかい?」
近くで優しい声がする。
「痛むところはないかい?」
「だ、誰?」
見知らぬベッドの横、私の表情を覗き込む男の人がいた。
さらりとした銀髪を綺麗に整え、緑色の目をした男性。すっ、凄くカッコイイ。
「僕はローレンス。フローラの叔父さんだよ」
「お、叔父様?」
この人がお母様の弟で、私の叔父様。……叔父様っていうよりお兄様だよ。
本当にそうなのだろうか? でもお母様によく似ている。
「そうだよ。昨日、僕が仕事から帰ってきた時に門の前でフローラを見つけたんだ」
そっか。私、ちゃんとここまで来られたんだ。
「あ、ありがとうございます……」
「痛みは?」
「だ、大丈夫。慣れているから……」
そんなつらそうな顔をしないで叔父様。
「フローラ、そんな痛みに慣れてはダメだよ」
「は、はぃ」
「お腹が空いただろ? すぐに用意させるね」
「い、いいの?」
「もちろんだよ。お腹いっぱい食べたらいいよ」
うぐぐっ、お腹が空いているのに口の中が切れていて痛い。食べづらい。
「ゆっくりお食べ。時間はたっぷりあるからね。痛むのだろう?」
「はい……」
ローレンス叔父様はマヤというお母様の乳母だった人を紹介してくれた。
「フローラ、何があったかは君の状態で大体察しはつく。だからもうあの家には二度と帰らなくていい。だから僕とずっとここで一緒に暮らそう?」
「こ、ここに、居てもいいの? 私、あなたの姪じゃないかもしれないのよ。それでも私を受け入れてくれるの?」
「当たり前じゃないか! 君は姉上にそっくりだ。間違いない。君は姉上の忘れ形見で、僕のたった一人の姪なんだよ?」
お母様の実家に辿り着けても、叔父様に受け入れてもらえるかは正直不安だった。もしかしたらフォネス家と同様の扱いを受けるかもしれない。だから凄く、嬉しくて……
「あ、ありがとう……ご、ざいます」
「ああ、泣かないでフローラ!」
慌てた叔父様が頭を撫でてくれる。
こんな優しい温もりが久しぶりすぎて嬉しくて涙が止まらない。
泣いちゃってごめんなさい。でも、本当に嬉しいの。
「叔父様、ありがとう」
思わず叔父様の胸に飛び込んでしまった!
「か、可愛いすぎるだろ!」
よ、喜んでいるみたいだからいいよね?
◇ ◇ ◇
「ふふっ、よく眠っていますね」
「ああ、お腹いっぱい食べて、風呂に入ったからな」
フローラが寝入った後、ローレンスとマヤはその寝顔を眺めていた。
「……お坊っちゃま。コレを隠すようにフローラお嬢様の下着のポケットから出てきたのですが」
マヤ……もう僕は成人した大人なんだけどな。そう思いながらも、マヤが差し出してきたものが何か、覗き込む。
マヤが見せたものは見覚えのある石のついたネックレスだった。それは姉が大切にしていた、大きなアメジストがついたネックレスだった。見つからないように肌身離さず隠していたのだろう。
フローラが起きたら渡してあげることにした。
ローレンスが懐かしさを覚え、手の中でアメジストを転がしていると、何か仕掛けがあることに気が付いた。石をはめた土台が開くようになっている。固いが開けられそうだ。
中から出てきた物は小さく折りたたんだ紙だった。フローラに悪いと思いながらローレンスはそれを読んだ。そこに書かれていたのは、シルフィーナの、決して語られてはいけない「秘密」であった。
「……そういうことだったのか」
――だから姉上は学園を卒業することなく嫁がされたのか……
ローレンスはおもむろに立ち上がり、
「マヤ、フローラを任せてもいいかな?」
「はい、もちろんです」
「僕は今から少し出てくるよ。フローラが起きたらすぐに帰ってくると伝えてくれ」
「わかりました。行ってらっしゃいませ」
急ぎ邸を後にした。
ローレンスが向かった先は王宮だった。ローレンスは、フローラの瞳を見た時から思っていた。
――僕の知る限りこの国に紫色の瞳はフローラ以外に一人しかいない。
優秀なくせに野心もなく無愛想で口数が少なく、何かを諦めたような生気のない目をしたローレンスの上司・ブラッディ王弟殿下だ。
何がなんでも、脅してでも、引き摺ってでもフローラのもとに連れて行かねばならない。
「待っていて。フローラ。……君に会わせたい人がいるんだ」
「……コレがシルフィーナの産んだ子なのか?」
フローラを見下ろしているローレンスの上司……ブラッディ王弟殿下の目は、いつも通りの冷めた目だった。
「そうです、閣下」
「……なぜこんなに痩せて傷だらけなんだ?」
「フローラが落ち着いてから聞くつもりですが想像はつきます」
「……そうだな。……フィーナによく似ている」
やはり気になるのか、ブラッディ王弟殿下はフローラから視線を外さない。
「可愛いでしょう?」
「……なぜ俺をここに呼んだ?」
「フローラが目を覚ませば分かりますよ」
驚くか? 怒るか? いつも無愛想な彼はどんな反応をするだろうか? いつも生気のない目はどんな色に変わるだろうか?
真実を知った上司の様子を想像するだけで、不謹慎にもワクワクしてしまう自分がいることに、ローレンスは気付いていた。
ああ、そろそろ起きそうだ。モゾモゾ動き出した。その動きすら可愛いとローレンスは思う。
「起きますよ。覗き込んで下さい」
「……何で俺が」
ブラッディ王弟殿下がローレンスを睨んだ。その顔でどんな人も黙らせてきた。
それでも気になるのかフローラから視線を外さないようだ。
「う、う~ん」
「ほら! よく見ていて下さい」
フローラの瞼が徐々に開かれ、目の前の男と視線が合った。大きな瞳がさらに大きくなった。
「なっ、なんで‼」
ブラッディ王弟殿下が思わず唸る。
「驚きましたか? 瞳の色が貴方と同じ紫色です。貴方の瞳をフローラが受け継いだのですよ」
「俺の瞳? 受け継ぐ?」
「そうです。ね! 可愛いでしょう? 僕の姪で貴方の娘です」
「お、俺の? お、俺とシル、フィーナの娘?」
動揺を隠せないブラッディ王弟殿下の目の前に、先ほどのアメジストを差し出す。
「このネックレスに見覚えはありませんか? 姉上にコレを渡したのは貴方でしょう?」
「あ、ああ」
「裏の仕掛けにコレが」
仕掛けの中の手紙の内容はこうだった。
~愛するディへ~
ずっと待っていると約束したのにごめんなさい。
貴方が国を出てすぐにお腹にあなたの子がいることに気付いたの。
私の妊娠を知った父に無理やりフォネス伯爵に嫁がされました。
でも安心して。愛する貴方が帰ってくるまでの契約結婚ですから。指一本触れさせていません。
生まれた子は貴方と同じ瞳の色よ。
フローラは私の宝物なの。
もし、もし私の身に何かがあって残されたフローラが不幸だったら助けてあげて下さい。
私の最後のお願いです。
会いたいな。最後にひと目でもいいから貴方に会いたい。
もう二度と会えなくても貴方だけを愛しています。
シルフィーナより
「フィーナ……」
「え?」
先ほどの冷めた目から一転し、悲しみの表情を浮かべたブラッディ王弟殿下がフローラを見つめる。フローラは何がなんだか分からないといった表情だ。
ローレンスもこの手紙を読むまで、姉が誰の子を妊娠したのかを知らなかった。
しかも、相手が上司のブラッディ王弟殿下だとは……きっとローレンスの父も相手は知らなかったのだろう。知っていたらきっと、ソレを利用していたに違いない。
◇ ◇ ◇
お、驚いた。
お昼寝から目覚めたら目の前に鋭い目つきの知らない男の人が覗き込んでいたから。
叔父様よりも年上なのかな? 艶やかな黒髪が整えられていて、威厳がある感じ。
でも、私と同じ紫の瞳の色だ。だからなのか親近感が湧いてきた。目が離せない。
知らない男の人も驚いた顔をして固まっている。
そして叔父様が私の持っていたネックレスから紙? を取り出したことを聞かされた。その内容は想像もつかないものだった。
「え?」
お母様はフォネス伯爵と結婚する前に私を妊娠していて、私の本当の父親が目の前にいるこの人ってこと? 目の前の人は声も出さずに震えて涙を流していた。そして私だけに聞こえたのは小さな、とても小さな声で……懺悔と愛を囁く言葉だった。
「信じてやれなくてごめん。……俺もフィーナだけを今も愛している」
え? 本当にこの人が私の? 喜ぶべき? うん、娘に野垂れ死ねって言うような男が父親じゃなくてよかったと素直に喜ぶべきだと思うけど……
でも、この人のことは何も知らない。鋭い目の……でもそれはそれで、よく見ると見た目だけなら叔父様レベルでカッコイイと思う。
ただ、この人は突然現れた私を娘だと信じられるのだろうか?
あ! 信じてもらえなくても私には叔父様がいる! それに、ずっとここに住んでもいいって言ってくれたから今さら本当の父親が現れたところで変わらないな。
うんうん、こんなに居心地がいいところは手放せない。
「フ、フローラ? フローラって言うのか?」
「え? は、はい」
突然抱きしめられたら痛いッ! 痛い! 痛い! でも、泣いているんだよ。それに温かい。お母様が亡くなってから抱きしめられることなんてなかった。
「……俺の、俺の娘なのか?」
「た、たぶん」
「ははっ、ローレンスの言った通りだ。可愛い、存在が愛おしい。で? その、可愛い俺の娘がなんでこんな姿になっているのか説明しろ!」
こ、怖っ! いきなり雰囲気が変わったよ。
「それを今から聞きたいと思いますが、フローラ? 話せるかな? 体調は大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
そこから本当の父親?に抱かれソファに移動した。したのはいい。でもそのまま膝の上なんですけど! それも後ろから抱きしめられた形で。私は背中に温もりを感じながらこれまでのことを話した。
最初はお母様との十年間。お母様が亡くなるまでは幸せだったこと。その頃によく初恋の人の話を聞かせてくれたこと。その間、お父様?は私の肩に顔を埋めて泣いていた。
あの男――フォネス伯爵はお母様の葬式にも出なかったこと。その二日後には義母と私より早く生まれた異母姉が来たこと。
その日から私の扱いが変わったこと。父親だけではなく義母にまで暴力を受けるようになったこと。ロクに食べさせてもらっていなかったこと。使用人以下の生活だったこと。
王家から私に第三王子の婚約者候補にと打診があったこと。そして、邸から追い出されたこと。
もちろん『野垂れ死ね』と言われたこと等、されたことは包み隠さず話した。
「「殺す」」
話し終えたところで叔父様とお父様?は不穏な言葉を発していた。
「ひ、人殺しはダメですよ! それで叔父様が罰せられていなくなったら私はどうすればいいの? ……もう一人になるのは嫌なの」
あの人たちには絶対に涙を見せなかったのに、一度温もりを知ったら失うのが怖くて涙がとめどなく出てしまった。
「この後は大人の僕たちに任せて、悪いようにはしないよ」
「そうだ。俺の可愛いフローラは何も心配しなくていい」
そんなこんなで長い話は終わったんだけれど、お父様?が帰る間際に困ったことになった。
私を連れて帰ろうとするお父様?と、渡さないと言い張る叔父様とで、どちらも譲らないから言い争いになったのだ。
「閣下はフローラをどこに連れて帰るつもりですか!」
「王宮だが?」
なぜ王宮が出てくるの?
「ダメですよ! 王宮ではフローラが心を休めることができないでしょう!」
「……なら、ここに俺も引っ越してくる」
え? 私のお父様?って結構無茶苦茶な人なの?
「お前のせいで‼」
叩かれる!と身構える前に頬に痛みが……十二歳のガリガリの子供が大人の男の力に耐えられるわけもなく勢いよく転がった。
「立て!」
バシッ!
バシッ!
バシッ!
立ち上がる度に手を振り下ろされる。少し立ち上がるのが遅れると今度は蹴られる。
いつまで続くんだ……
もうこのまま殺されるのではないかと死を覚悟した。
バシッ
今日何度目かも分からない痛みに頬を押さえる。
蹴られたお腹も背中も痣だらけだろう。
「この邸から出て行け!」
こうして話は冒頭に戻る。
◇ ◇ ◇
フローラのいなくなったフォネス伯爵邸では、フォネス伯爵が肩で息をしながらニヤリとほくそ笑んでいた。
やっと、やっと忌々しいあの女の子供を追い出せた。せっかく使用人として使えるところまで置いてやったのに、王家から婚約者候補の打診がアイツに来たせいで予定が狂った。
いつか金持ちのジジイか、我が家の利益になる家に嫁がせようと思っていた。だがどうだろう、今日の王妃は俺と妻を非難と軽蔑の目を向けていたではないか。このままアイツをここには置いておけない。
王妃とアイツに面識があったのは予想外だ。
あの王妃は次はアイツだけを王宮に呼ぶだろう。
ここでの扱いを知られるわけにはいかない。
その前にアイツを始末しないと……
フォネス伯爵はフローラを殴っても蹴っても罪悪感を抱いたことはなかった。だが、自分の手で息の根を止めるのはさすがに躊躇してしまった。あれだけ痛めつけたら自分がトドメを刺さなくてもどこかで野垂れ死んでくれるだろう、そう思った。
「お父様ぁ~ロイド様の婚約者にわたくしが選ばれるわよね?」
「ああ、お前とロイド殿下は相性が良さそうだったし、きっと選ばれるだろう」
このままエリザベスが王子の婚約者になれば王家とも繋がりが出来る。
我が娘が王子妃か……さすがに第三王子では国王になることはないだろうが我が家は安泰だ。
フォネス伯爵のニヤけ顔が止まらない。
「あなたぁ~王家からいつ婚約の申し込みが来てもいいように新しくドレスを作りましょうよ!」
「それがいいわ! お父様ぁ~いいでしょう?」
「はははっ、そうだな。いいぞ~」
疫病神は追い出した。
エリザベスは我が家の幸運の女神だ。
ついに私にも運がむいてきた! 最高だ!
フォネス伯爵にとって、今がまさに絶頂の時であった。
◇ ◇ ◇
静けさを取り戻した王宮の庭園では、王妃と第三王子ロイドが今日の目通りについて話していた。
「ロイド、今日の素直な感想を聞かせてくれるかしら」
「はい! 僕はエリザベスと婚約したいです!」
元気に答えるロイドに反して、王妃の表情は暗い。
「……どうして?」
「だってエリザベスはとても可愛かったですし、とても優しい子でしたから」
「どう優しいの?」
「はい! 異母姉がお菓子を食べようとしていたのをアレルギーだからと止めてあげていました。まるで異母妹のエリザベスの方が姉のようでしたよ」
「……そう。本当にエリザベスでいいのね」
「はい! 僕の婚約者はエリザベスに決めました」
「わかったわ。下がりなさい」
「はい!」
ふぅ~と、王妃は深いため息をついた。
末っ子だからとロイドを甘やかせすぎたのね。見極める力が足りない。今からでも再教育は間に合うかしら? いえ、王族を名乗るなら今のままではダメね。
ロイドはまだ若い。フローラのあの姿を見ても何も分からない。プロフィールは先に教えたはずなのに。
ガリガリに痩せて腫れた頬を隠すための厚化粧。最後まで伏せられた目。フローラより先に生まれたクセに妹のフリをする異母姉のエリザベス。それを否定もしない両親。それらを見れば歴然のことだというのに。
王妃は過ぎ去りし日のことを思い出す。それはまだフローラが無邪気な幼女だった頃。ぴょんぴょんとウサギのように駆け回っていた笑顔の可愛い子だったのに……
「ごめんなさい。シルフィーナ」
王妃はフローラの亡き母――シルフィーナに向かって呟いた。こんなになるまで気づかなかったなんて……
「可愛いウサギちゃんだったのに面影もありませんでしたね。ロイドには婚約は早すぎたのではありませんか?」
「キースクリフ、見ていたの?」
第一王子キースクリフが、そしてその後ろから第二王子フェリクスが姿を現した。
「はい、あれは誰が見ても虐げられている子だと気づくと思いますよ」
キースクリフが眉間に皺を寄せながら言う。
「フローラは俺の婚約者にします!」
険しい表情をしたフェリクスが前のめりになって叫んだ。
「フェリクス……分かっているでしょう? 同じ家から王家には嫁げないと……それに貴方には婚約者がいるでしょう?」
「……俺は、俺の婚約は国の結び付きのためで俺の気持ちは……」
フェリクスごめんなさい。王妃は心の中で詫びた。王族の婚姻に個人の気持ちを押し殺さなければならないこともある。
頭では分かっていても悔しいわよね。王妃はフェリクスの内心を察した。
「でも! 俺ならあの子を、フローラを大切にします。もうあの家にフローラを置いてはおけません! 俺の婚約を解消して下さい! 一日も早くフローラをあの家から助け出して下さい」
「ダメよ。たとえ王家でも他家の内情に口出しは出来ないわ」
「フェリクス、今は諦めろ」
「クソっ!」
フェリクスは感情を抑えることなく悪態をついた。王妃は分かっている。口は悪くてもフェリクスは穏やかな子だということを。
今はただ、心の中でフェリクスに謝るしかない。王妃は怒りに震えるフェリクスを見守りながらそう思った。
第三章 明かされるフローラの出自
もう何時間歩いているんだろう? 目的地まで道は真っ直ぐだから間違えてはいないはずだ。
もう日は沈んでしまったけれど貴族の邸宅街だからか街灯に照らされて夜道でも明るい。
変な人に声をかけられることもなく歩き続けているけれど、もう足が鉛のように重たい。
あとどれくらい歩けばいいのだろう。もう無理かもしれない……心が折れそうだ。
このままあの男の言った通り野垂れ死ぬなんて悔しいし嫌だ。
まだ歩ける。まだ諦めない。心を強く持て! 一歩一歩前に進め! と自分に言い聞かせる。
ガラガラと馬車が近づく音が聞こえる。
……もう前もよく見えない。もう無理……なのかな? ……意識が……誰か……助けて……
意識を失う瞬間、温かい何かに包まれた気がした。
もう、目覚めることはないんだろうな。私、頑張ったんだよ。
「お、お母様……」
天国に行ったらお母様に会えるかな……頑張ったねって褒めてくれるかな……
◇ ◇ ◇
「お帰りなさいませ。旦那様」
「今すぐ! 今すぐ侍医を呼ぶんだ!」
「そ、そのお方は?」
「いいから早く呼べ!」
「は、はい!」
ローレンス・スティアート公爵は邸に帰るなり声を荒らげ、侍女たちを急かす。
なんてことだ。この子が姉上の産んだ娘なのか? こんなに痩せて傷だらけで……
腕に抱いた少女の顔を真剣な眼差しで覗き込む。姉上の子に違いない。確信はある。その髪の色はくすんでいるがスティアート家の色だった。
大切にされて幸せに暮らしていたんじゃないのか?
ローレンスが何度手紙を送っても、姉――シルフィーナからの返事はなかった。姉が亡くなったことも葬式が終わった後に伝えられただけだった。
姉の忘れ形見に会わせてくれと何度も何度も面会を申し込んだ。だが毎回フォネス伯爵は『娘が会いたくないと言っている』『領地に行っている』と言って会わせようとしなかった。
「僕の唯一の姪だというのにだ!」
怒りが込み上げてくる。姪の名前と誕生日は貴族名鑑で知った。
「フローラ」
……許さない。絶対に許さない。フォネス伯爵も、嫌がる姉上を無理やり嫁がせた父上も、絶対に許さない。ローレンスは込み上げる怒りを抑えるのに必死であった。
診察の間、ローレンスは部屋から追い出された。
間違いがなければ、フローラは十二歳になったところだ。十二歳とはあんなに軽いものなのか? いや、そんなはずがない。フローラはガリガリに痩せ細っていた。ロクに食べさせてもらっていなかったのだろうか。貴族の令嬢だというのに使用人の服を着ていた。すべてが有り得なかった。
「どうなんだ? フローラは大丈夫なのか?」
たまりかねて、フローラを診察中の部屋の中を覗く。ちょうど診察が終わったところだった。
「はい公爵様。過度な疲れと栄養失調ですね。栄養のある物を食べさせてゆっくり休めば大丈夫です。……ただ問題は身体中の痣です。日常的に暴力を受けていたのでしょう」
「は?」
こんな小さな身体に日常的に暴力が施されていたという。ローレンスの全身に怒りが込み上げた。
「フローラ……もう大丈夫だ。ずっと僕とここで暮らそう? フローラ……僕が君を守るから。二度と辛い思いはさせないから……本当だよ、だから安心してゆっくりおやすみ」
ローレンスは傷だらけの小さな手を握って誓った。
「う、う~ん」
しばらくして、フローラがみじろぎ、薄く目を開いた。
「フローラ! 気がついたのか?」
「お、かあ……さま?」
「フローラ!」
どうやら寝言を言ったようだった。もしかしたらローレンスを母だと思ったのかもしれない。
安心したのか、うっすらと目を開けたと思ったら微笑んでまた眠ってしまった。
「……可愛いな。血を分けた姪というものは。初めて会ったはずなのに可愛くて愛しさが込み上げてくる」
トントンッ
ドアをノックする音がし、使用人のマヤが入ってきた。
「旦那様、私が代わりますのでお食事をお取りください」
「いい、今はフローラの側にいたいんだ」
「……シルフィーナ様の小さい頃にそっくりですね」
マヤは部屋に入ってきた時から悲痛な表情をしていた。
「そうか、マヤは姉上の乳母だったね」
「はい。……こんな、こんな……酷い」
ぽろぽろと涙を流すマヤ。ここまでマヤが泣くのはシルフィーナが亡くなったと聞いた時以来であった。フローラの状態が目に見えている分、さらに辛いものがあるのかもしれない。
「あの家にフローラは二度と返さない。ずっとここで暮らす。フローラの面倒はマヤが見てくれるだろ?」
「はいっ、はい、ありがとうございます。ありがとうございます。誠心誠意お仕えさせていただきます」
「だからもう泣くな。フローラが起きた時に驚くぞ」
「は、はい!」
「起きるまでは僕が側にいるからマヤには明日から頼むな」
「わかりました。……では失礼します」
ドアが静かに閉じられる。
明日は起きてくれるだろうか? 起きるよな?
フローラがどんな生活をしていたのか僕に教えてくれ。そして姉上のことも。
◇ ◇ ◇
うん?
温かいしそれに柔らかい? ここは天国なのかな? 確認したいけれど、まだこの感覚を感じたい。
「フローラ‼ 起きたのかい?」
近くで優しい声がする。
「痛むところはないかい?」
「だ、誰?」
見知らぬベッドの横、私の表情を覗き込む男の人がいた。
さらりとした銀髪を綺麗に整え、緑色の目をした男性。すっ、凄くカッコイイ。
「僕はローレンス。フローラの叔父さんだよ」
「お、叔父様?」
この人がお母様の弟で、私の叔父様。……叔父様っていうよりお兄様だよ。
本当にそうなのだろうか? でもお母様によく似ている。
「そうだよ。昨日、僕が仕事から帰ってきた時に門の前でフローラを見つけたんだ」
そっか。私、ちゃんとここまで来られたんだ。
「あ、ありがとうございます……」
「痛みは?」
「だ、大丈夫。慣れているから……」
そんなつらそうな顔をしないで叔父様。
「フローラ、そんな痛みに慣れてはダメだよ」
「は、はぃ」
「お腹が空いただろ? すぐに用意させるね」
「い、いいの?」
「もちろんだよ。お腹いっぱい食べたらいいよ」
うぐぐっ、お腹が空いているのに口の中が切れていて痛い。食べづらい。
「ゆっくりお食べ。時間はたっぷりあるからね。痛むのだろう?」
「はい……」
ローレンス叔父様はマヤというお母様の乳母だった人を紹介してくれた。
「フローラ、何があったかは君の状態で大体察しはつく。だからもうあの家には二度と帰らなくていい。だから僕とずっとここで一緒に暮らそう?」
「こ、ここに、居てもいいの? 私、あなたの姪じゃないかもしれないのよ。それでも私を受け入れてくれるの?」
「当たり前じゃないか! 君は姉上にそっくりだ。間違いない。君は姉上の忘れ形見で、僕のたった一人の姪なんだよ?」
お母様の実家に辿り着けても、叔父様に受け入れてもらえるかは正直不安だった。もしかしたらフォネス家と同様の扱いを受けるかもしれない。だから凄く、嬉しくて……
「あ、ありがとう……ご、ざいます」
「ああ、泣かないでフローラ!」
慌てた叔父様が頭を撫でてくれる。
こんな優しい温もりが久しぶりすぎて嬉しくて涙が止まらない。
泣いちゃってごめんなさい。でも、本当に嬉しいの。
「叔父様、ありがとう」
思わず叔父様の胸に飛び込んでしまった!
「か、可愛いすぎるだろ!」
よ、喜んでいるみたいだからいいよね?
◇ ◇ ◇
「ふふっ、よく眠っていますね」
「ああ、お腹いっぱい食べて、風呂に入ったからな」
フローラが寝入った後、ローレンスとマヤはその寝顔を眺めていた。
「……お坊っちゃま。コレを隠すようにフローラお嬢様の下着のポケットから出てきたのですが」
マヤ……もう僕は成人した大人なんだけどな。そう思いながらも、マヤが差し出してきたものが何か、覗き込む。
マヤが見せたものは見覚えのある石のついたネックレスだった。それは姉が大切にしていた、大きなアメジストがついたネックレスだった。見つからないように肌身離さず隠していたのだろう。
フローラが起きたら渡してあげることにした。
ローレンスが懐かしさを覚え、手の中でアメジストを転がしていると、何か仕掛けがあることに気が付いた。石をはめた土台が開くようになっている。固いが開けられそうだ。
中から出てきた物は小さく折りたたんだ紙だった。フローラに悪いと思いながらローレンスはそれを読んだ。そこに書かれていたのは、シルフィーナの、決して語られてはいけない「秘密」であった。
「……そういうことだったのか」
――だから姉上は学園を卒業することなく嫁がされたのか……
ローレンスはおもむろに立ち上がり、
「マヤ、フローラを任せてもいいかな?」
「はい、もちろんです」
「僕は今から少し出てくるよ。フローラが起きたらすぐに帰ってくると伝えてくれ」
「わかりました。行ってらっしゃいませ」
急ぎ邸を後にした。
ローレンスが向かった先は王宮だった。ローレンスは、フローラの瞳を見た時から思っていた。
――僕の知る限りこの国に紫色の瞳はフローラ以外に一人しかいない。
優秀なくせに野心もなく無愛想で口数が少なく、何かを諦めたような生気のない目をしたローレンスの上司・ブラッディ王弟殿下だ。
何がなんでも、脅してでも、引き摺ってでもフローラのもとに連れて行かねばならない。
「待っていて。フローラ。……君に会わせたい人がいるんだ」
「……コレがシルフィーナの産んだ子なのか?」
フローラを見下ろしているローレンスの上司……ブラッディ王弟殿下の目は、いつも通りの冷めた目だった。
「そうです、閣下」
「……なぜこんなに痩せて傷だらけなんだ?」
「フローラが落ち着いてから聞くつもりですが想像はつきます」
「……そうだな。……フィーナによく似ている」
やはり気になるのか、ブラッディ王弟殿下はフローラから視線を外さない。
「可愛いでしょう?」
「……なぜ俺をここに呼んだ?」
「フローラが目を覚ませば分かりますよ」
驚くか? 怒るか? いつも無愛想な彼はどんな反応をするだろうか? いつも生気のない目はどんな色に変わるだろうか?
真実を知った上司の様子を想像するだけで、不謹慎にもワクワクしてしまう自分がいることに、ローレンスは気付いていた。
ああ、そろそろ起きそうだ。モゾモゾ動き出した。その動きすら可愛いとローレンスは思う。
「起きますよ。覗き込んで下さい」
「……何で俺が」
ブラッディ王弟殿下がローレンスを睨んだ。その顔でどんな人も黙らせてきた。
それでも気になるのかフローラから視線を外さないようだ。
「う、う~ん」
「ほら! よく見ていて下さい」
フローラの瞼が徐々に開かれ、目の前の男と視線が合った。大きな瞳がさらに大きくなった。
「なっ、なんで‼」
ブラッディ王弟殿下が思わず唸る。
「驚きましたか? 瞳の色が貴方と同じ紫色です。貴方の瞳をフローラが受け継いだのですよ」
「俺の瞳? 受け継ぐ?」
「そうです。ね! 可愛いでしょう? 僕の姪で貴方の娘です」
「お、俺の? お、俺とシル、フィーナの娘?」
動揺を隠せないブラッディ王弟殿下の目の前に、先ほどのアメジストを差し出す。
「このネックレスに見覚えはありませんか? 姉上にコレを渡したのは貴方でしょう?」
「あ、ああ」
「裏の仕掛けにコレが」
仕掛けの中の手紙の内容はこうだった。
~愛するディへ~
ずっと待っていると約束したのにごめんなさい。
貴方が国を出てすぐにお腹にあなたの子がいることに気付いたの。
私の妊娠を知った父に無理やりフォネス伯爵に嫁がされました。
でも安心して。愛する貴方が帰ってくるまでの契約結婚ですから。指一本触れさせていません。
生まれた子は貴方と同じ瞳の色よ。
フローラは私の宝物なの。
もし、もし私の身に何かがあって残されたフローラが不幸だったら助けてあげて下さい。
私の最後のお願いです。
会いたいな。最後にひと目でもいいから貴方に会いたい。
もう二度と会えなくても貴方だけを愛しています。
シルフィーナより
「フィーナ……」
「え?」
先ほどの冷めた目から一転し、悲しみの表情を浮かべたブラッディ王弟殿下がフローラを見つめる。フローラは何がなんだか分からないといった表情だ。
ローレンスもこの手紙を読むまで、姉が誰の子を妊娠したのかを知らなかった。
しかも、相手が上司のブラッディ王弟殿下だとは……きっとローレンスの父も相手は知らなかったのだろう。知っていたらきっと、ソレを利用していたに違いない。
◇ ◇ ◇
お、驚いた。
お昼寝から目覚めたら目の前に鋭い目つきの知らない男の人が覗き込んでいたから。
叔父様よりも年上なのかな? 艶やかな黒髪が整えられていて、威厳がある感じ。
でも、私と同じ紫の瞳の色だ。だからなのか親近感が湧いてきた。目が離せない。
知らない男の人も驚いた顔をして固まっている。
そして叔父様が私の持っていたネックレスから紙? を取り出したことを聞かされた。その内容は想像もつかないものだった。
「え?」
お母様はフォネス伯爵と結婚する前に私を妊娠していて、私の本当の父親が目の前にいるこの人ってこと? 目の前の人は声も出さずに震えて涙を流していた。そして私だけに聞こえたのは小さな、とても小さな声で……懺悔と愛を囁く言葉だった。
「信じてやれなくてごめん。……俺もフィーナだけを今も愛している」
え? 本当にこの人が私の? 喜ぶべき? うん、娘に野垂れ死ねって言うような男が父親じゃなくてよかったと素直に喜ぶべきだと思うけど……
でも、この人のことは何も知らない。鋭い目の……でもそれはそれで、よく見ると見た目だけなら叔父様レベルでカッコイイと思う。
ただ、この人は突然現れた私を娘だと信じられるのだろうか?
あ! 信じてもらえなくても私には叔父様がいる! それに、ずっとここに住んでもいいって言ってくれたから今さら本当の父親が現れたところで変わらないな。
うんうん、こんなに居心地がいいところは手放せない。
「フ、フローラ? フローラって言うのか?」
「え? は、はい」
突然抱きしめられたら痛いッ! 痛い! 痛い! でも、泣いているんだよ。それに温かい。お母様が亡くなってから抱きしめられることなんてなかった。
「……俺の、俺の娘なのか?」
「た、たぶん」
「ははっ、ローレンスの言った通りだ。可愛い、存在が愛おしい。で? その、可愛い俺の娘がなんでこんな姿になっているのか説明しろ!」
こ、怖っ! いきなり雰囲気が変わったよ。
「それを今から聞きたいと思いますが、フローラ? 話せるかな? 体調は大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
そこから本当の父親?に抱かれソファに移動した。したのはいい。でもそのまま膝の上なんですけど! それも後ろから抱きしめられた形で。私は背中に温もりを感じながらこれまでのことを話した。
最初はお母様との十年間。お母様が亡くなるまでは幸せだったこと。その頃によく初恋の人の話を聞かせてくれたこと。その間、お父様?は私の肩に顔を埋めて泣いていた。
あの男――フォネス伯爵はお母様の葬式にも出なかったこと。その二日後には義母と私より早く生まれた異母姉が来たこと。
その日から私の扱いが変わったこと。父親だけではなく義母にまで暴力を受けるようになったこと。ロクに食べさせてもらっていなかったこと。使用人以下の生活だったこと。
王家から私に第三王子の婚約者候補にと打診があったこと。そして、邸から追い出されたこと。
もちろん『野垂れ死ね』と言われたこと等、されたことは包み隠さず話した。
「「殺す」」
話し終えたところで叔父様とお父様?は不穏な言葉を発していた。
「ひ、人殺しはダメですよ! それで叔父様が罰せられていなくなったら私はどうすればいいの? ……もう一人になるのは嫌なの」
あの人たちには絶対に涙を見せなかったのに、一度温もりを知ったら失うのが怖くて涙がとめどなく出てしまった。
「この後は大人の僕たちに任せて、悪いようにはしないよ」
「そうだ。俺の可愛いフローラは何も心配しなくていい」
そんなこんなで長い話は終わったんだけれど、お父様?が帰る間際に困ったことになった。
私を連れて帰ろうとするお父様?と、渡さないと言い張る叔父様とで、どちらも譲らないから言い争いになったのだ。
「閣下はフローラをどこに連れて帰るつもりですか!」
「王宮だが?」
なぜ王宮が出てくるの?
「ダメですよ! 王宮ではフローラが心を休めることができないでしょう!」
「……なら、ここに俺も引っ越してくる」
え? 私のお父様?って結構無茶苦茶な人なの?
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