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第四章
身体の変化
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入院生活は忙しい。学校が終わったら病室で宿題をして、おやつを食べて、その後リハビリがある。
最近、僕は歩行訓練を始めた。手すりを掴み、ゆっくりではあるものの少しずつ歩けるようになってきた。
踵を床につけることだってできる。まだ慣れないけれど、つま先を引きずらないで前に進めるんだ。
意識しないとすぐにいつもの癖は出てしまう。だけど──自分の身体が、確実に変わってきているのを僕は実感していた。
「コウキ君、だいぶ上手に歩けるようになってきたわねぇ。来週からは、手すりから手を放して立ってみましょうね。上手くいけば自力で歩けるようになるといいかな」
午後四時。理学療法室で、PT担当の岩野先生と僕は今日もリハビリをこなす。
「自力でって、それはつまり……杖なしで歩くってこと?」
「そうよ。退院までに手放せるといいわよね」
「ええっ!」
思わず変な声が漏れた。手すりを両手でギュッと握り、僕は興奮のあまり身体が震えた。
岩野先生は、至って真剣な顔をしている。どうやら本気のようだ。
「僕、今まで杖や手すりなしで歩いたことなんてないよ」
「そうね。手術前のコウキ君ならね。でも、君はもう変われるのよ。この脚の柔らかさなら、きっと自立できる」
「本当……?」
たしかに、筋肉の緊張が術前よりもやわらいでいることも感じている。杖なしで歩きたいと、自分の中で目標も掲げた。
いざそれが現実になるかもしれないと思うと、嬉しい反面驚きも隠せなくなる。
テンパり気味の僕を見ながら、先生はクスッと笑った。
「大丈夫よ、自分を信じて。コウキ君は一日一日、力がついてきているんだから。目標は大きくね!」
前向きな先生の考えに、僕の胸がじんわりあたたかくなる。
──あの、約束を思い出した。ユナと交わした、大切な約束。
退院したら、二人で町の中を散歩する。些細なことかもしれないけど、僕にとっては大きな望みであり、楽しみでもあるんだ。
もしもロフストランド杖なしで歩けるようになったら。ユナと歩幅を合わせて、どこへでも行ける気がしたんだ。
「分かった」
先生の目をじっと見つめ、僕は頷いた。
「もっともっと頑張るよ!」
一回のリハビリでも、とても体力を使う。療育センターに比べても断然、病院でのPTの方が大変だけど、明確な目標があるとやる気があふれて止まらない。
僕は手を抜くことなく、その日も四十分間の集中訓練を続けた。
──リハビリを終えた後、僕は看護師さんに手伝ってもらいながら病室へと向かった。
はあ、疲れた。普段は全く使わない筋肉を動かしたから、余計に体力の消耗が激しい。汗もかいたし、早くシャワーを浴びたいな。
部屋に戻ると、リョウはまだ帰ってきていなかった。たぶん、別室でリハビリを続けているんだろう。
その代わり、違う人が僕のことを待ち構えていた。
「コウキ、おかえり!」
父さんだ。少し額に汗が滲んでいて、スーツ姿で面会用の椅子に腰かけていた。
「あれ、父さん。今日はずいぶん早いね? まだ五時前だよ」
「明日は休みだから、早めに仕事を終えてきたんだよ。ほら、週半ばはなかなかお前と会えないだろう? 週末くらいはゆっくりしたくてな!」
上機嫌に、父さんは笑いながらジャケットを脱いで荷物を整理した。
たしかに、平日は会いに来てもらっても三〇分くらいで帰っちゃうもんな。しかも、そのほとんどは僕の手伝いをして終わりだ。
「コウキ君のお父さん、ちょうど良かったです。来てもらったばかりで申し訳ないのですが、シャワー室が空いてるので利用されますか?」
「はい、もちろん」
父さんは腕まくりをし、棚から僕の入浴セットを取り出した。
僕は一人でシャワーを浴びられない。本当は看護師さんに手伝ってもらうことになっている。だけど、女の人に裸を見られるのは恥ずかしいし嫌だった。男の看護師さんも数人いるけど、お休みの日だってある。
だからシャワーは基本的に父さんが手伝ってくれるんだ。
「では、よろしくお願いしますね。何かありましたらシャワー室内の呼び出しコールを押してください」
「分かりました。よし、コウキ。汗を流しに行こうか!」
父さんは鼻歌を口ずさみながら、車椅子を押す。
シャワーを浴びるなんていつものルーティーンに過ぎない。だけど、入院中は貴重なひとときでもあった。
病院に来てから、一ヶ月が経とうとしている。家族と離れる時間は、とても長く感じた。
仕事で忙しくても父さんはほぼ毎日来てくれる。でも、やっぱり家にいるときよりも顔を合わせる時間が極端に少ないんだ。
だから僕は、なにげないことであっても父さんとのひとときを大切にしたい。
シャワールームに到着すると、父さんは車椅子のストッパーを止めた。
だだっ広い室内の端っこに介護用の椅子があって、そこに座らせてもらった。
ドアを閉めてから、父さんは素早く僕の服を脱がしていく。
最初は僕も父さんも手探りだったけれど、今では慣れたものだ。ズボンを脱ぐときは手すりに掴まり、少し腰を浮かす。その隙に父さんがサッとズボンと下着を下ろしてくれた。
上半身を固定するコルセットは一番最後に、と、看護師さんたちに何度も言われてる。上半身を固定させるものだから、脱いでる時間はできるだけ短い方がいいらしい。だから、シャワーも素早く済ませなければならない。
あたたかいお湯を浴び、僕は座ったまま身体を洗ってもらう。リハビリでたくさんかいた汗が、泡と共に流れていく。
気持ちがいい。
「……ん?」
鏡越しに、僕の背中に手を添えながら父さんが首を傾げているのが映った。
「父さん、どうかしたの?」
「……コウキ、傷口は痛まないか?」
「え?」
眉を曇らせ、父さんは僕の背中をじっと見つめるんだ。
「痛くないよ。でも、ちょっとだけ痒い感じはするかな?」
「痒いだけか? 傷口が昨日よりも赤くなっているぞ!」
なんだ、どうしたんだよ。
急に、父さんは慌て始めた。
後ろが見えない僕は、ただただ首を傾げるだけ。なんとなく痒い気はしていたんだけど、術後のあの激痛に比べたらどうでもいい。
父さんはお湯を止めて僕の全身にバスタオルをかける。それから、焦ったようにシャワールーム内のナースコールを押した。
「看護師さん呼ぶのか?」
「やっぱり心配だ。傷がこんなに腫れているんだぞ!」
──こんなにって、そんなに?
いや、また心配性が発症してるだけかも。いつも以上に慌てているみたいだけど……そんなに、僕の背中は大変なことになっているのかよ?
しばらくもしないうちに、男の看護師さんがシャワールームにやって来た。
「丘島さん、どうされましたか?」
「看護師さん、見てください。傷口が、真っ赤になってます。とくにほら、この上の部分。腫れてますよね? 大丈夫なのでしょうか? 菌が入ってしまったのですか? 息子は助かるのでしょうか!?」
「お、お父さん落ち着いてください」
父さんに矢継ぎ早にまくしたてられるものだから、看護師さんは明らかに困惑している。
マジで……冷静になれよ、父さん。
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