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第四章

父さんの想い

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 看護師さんは僕の背中をじっと見ながら、穏やかな声になる。

「ばい菌が入ってしまったのかもしれません。傷口はまだ完全に塞がっていませんし、たまにこうやって腫れてしまうことがあるんですよ。先生に診てもらいましょうか。お父さんはボディソープで傷口をしっかり洗ってくださいね」
「えっ、大丈夫なのですか? 染みないですか?」
「清潔に保つことが大切です。優しく洗ってあげてください。この後、病室まで先生に来てもらうようにしますから」
「……は、はい」

「それでは失礼します」と言って、看護師さんは落ち着いた様子でシャワールームを後にした。
 先生に診てもらわなきゃいけないくらい、腫れているのか。
 父さんはしばらく僕の背中を眺めながらぼんやりと立ち尽くしていた。

 ……また、なんか考えてるなぁ。とりあえず身体を洗ってほしいんだけど。

「父さん」
「……うん?」
「そろそろ寒くなってきたから、お湯出してくれない?」
「ああ! すまん」

 慌てたように、父さんはすぐさまシャワーヘッドを手に取ってお湯を浴びせてくれた。ボディソープを手に取り、泡を立てて僕の背中をゆっくり洗い始める。
 鏡越しに映る父さんの顔は真剣だ。なんか、いつになく静かだし……。

「あのさ、父さん」

 僕はそっと声をかける。

「入院前にも言ったけど、そんなに心配しすぎないでよ」
「えっ」
「傷が腫れたくらいで、そこまで慌てなくてもいいだろ」
「ああ……すまない」

 切ない声で父さんは小さく頷き、僕の背中から泡を丁寧に洗い流していく。
 水のしたたる音が、壁と壁の間を反響した。
 深く息を吐き、父さんは苦い顔をする。

「分かってはいるんだ。こんなことで気が動転して、情けない父親だということは」

 僕の肩にそっと手を乗せ、父さんは暗い口調で続けた。

「だが、どうしても気になってしまってな。……手術後のお前を見て、思い出してしまったから」
「思い出したって……何を?」
「生まれたときのことだ」

 このとき、父さんの声が微かに震えた。

「コウキが生まれたあの日──なかなか産声を上げずに青白くなっていく姿を、今でもはっきりと覚えている。あのまま死んでしまったらどうしようと、すごく怖くなったよ」
「……え」
「手術を終えたばかりのコウキも、全身麻酔の影響でぐったりしていた。いつもはあんなに元気なお前が、力なくしているのを見て、生まれたばかりのときと重なってしまったよ」
「……父さん」

 いつもの心配性、とは違う気がした。これは父親としての、心の声なんだと僕は思った。
 あたたかいお湯に包まれながら、僕の心がじんわりとする。

「だからコウキは……本当に、奇跡の子なんだぞ?」
「奇跡の子って。母さんにも同じこと言われたよ」

 僕はふっと笑みを溢す。夫婦そろって自分の子を奇跡と呼ぶなんて。二人とも親バカだよな。
 胸中で密かに笑う僕とは裏腹に、父さんはいたって真剣だった。

「お前は本当に強い。手術を終えて数週間でこんなにも回復したんだ。だからこそ、コウキにはこれからも元気でいてほしい。些細なことで心配してしまうのは……本当に悪いと思ってるよ。お前の方がしっかりしているな」

 お湯を止め、父さんはシャワーヘッドを元に戻した。バスタオルで僕の身体を素早く拭き、要領よく肌着を着させてくれてコルセットを僕の上半身に巻きつける。

 顔が向かい合ったとき、僕は父さんの瞳をじっと見つめた。

「父さん」
「うん?」
「……ありがと、本当に」

 普段はちょっとしたことで大袈裟に慌てて心配されて、鬱陶しいな、と思っていた。けれど──それは父さんが僕を想ってのことなんだ。心のどこかで分かっていたつもりだったけど、改めて面と向かって話したら嬉しくなった。

 父さんは不安な表情を消し去り、優しく微笑んだ。

「父さんこそありがとう。頑張るコウキを見て、いつも励まされているんだぞ」

 そんな風に言われると、なんか、ちょっと心がくすぐったい。

 入院してから毎日が忙しくて、大変な検査や痛い想いもたくさんしてきて、めげそうになった。でもその分、大切なものに気づかせてくれるきっかけもあるんだ。
 こういった経験が、僕の中で大きな力になっている。心からそう思った。

 ──その後、着替えを終えて病室に戻ると、井原先生が来てくれた。
 相変わらず無表情だけど、どことなく優しい目をしていた。

「コウキ君、背中の傷が腫れちゃったんだって?」
「ええっと。そうみたいです」
「ちょっと見せてね」
「はい」

 ベッド周りのカーテンを閉め、僕の体からコルセットを外すと、先生は後ろに回った。

「ああ、本当だ。ばい菌が入っちゃったんだねぇ。痛くない?」
「大丈夫です」
「分かった。でも放置しておくとよくないから、軟膏を出しておこう。シャワーの後に、しばらくは毎日薬を塗ってね」
「はーい」

 先生はもう一度僕の前に来て、ふっと微笑んだ。

「コウキ君」
「うん?」
「前よりも逞しくなったね」
「えっ?」

 眼鏡を整えてから、井原先生は頬を緩ませた。

「手術前の君は、不安な顔をしていた。だけど今はキリッとしている。リハビリは大変そうだけど、頑張ってるみたいじゃないか。本当に偉いよ」

 えっと。これは……もしかして褒められてる?
 なんだか恥ずかしくなり、僕はぎこちなく頷いた。

「お父さん、コウキ君は立派ですね。心配しなくても大丈夫ですよ」

 井原先生にそう言われると、今まで口を結っていた父さんの顔がパッと明るくなる。

「はい。息子は立派です。父親であるわたしなんかよりも、ずっと逞しいです」

 決して否定しない父さんの言葉に、僕はまた胸が熱くなった。

 そうか。僕は立派で逞しいのか。

 ただ単に自分の力で歩きたい、という目標に向かって頑張って来ただけだった。先生や父さんの言葉は、そんな僕に自信をくれた。

 ──その後軟膏を塗ってもらい、数日後には傷の腫れはすっかり治まったようだ。
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