【完結】君と国境を越えて

朱村びすりん

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第四章

あなたのため

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 俺はハッとした。
 机の隅に放置された、一本のボロボロの折り畳み傘。彼女の視線は、たしかにそれに向けられている。
 彼女が傘をなくしたと言って困っていたあの雨の日、俺が帰りに横浜駅で見つけたもの。
 それの存在に気づいてしまった彼女が、なぜ泣いてるのかわからない。

 ──いや、違う。俺はその訳を知っている。どうしても受け入れたくなくて、事実から目を逸らしているだけだ。

 俺は無言で彼女の目元をハンカチで拭き取った。彼女から借りたパンダのハンカチは、溢れる涙をしっかりと拭き取ってくれた。

「……どこかで、拾ったのよね?」

 まるで確信を持っているような口調だった。
 そんな悲しい顔をされたら、どうしていいのかわからなくなってしまう。イエスともノーとも言えなくなってしまう。

 俺の様子を察したのか、彼女は目を伏せて呟いた。

「この傘、私のなの」
「……間違いないのか?」
「ええ。長年使っていたからわかる。でも、もういらない。捨ててくれても構わないわ」

 言葉とは裏腹に、彼女の声は暗い。なんて強がりなのだろう。

「誰に、やられたんだよ」
「えっ」
「あの日、朝に横浜駅で会ったときにサエさんは傘をなくしたと言った。実際は違うんだろ? 本当は誰かに盗られた。それで、壊されたんだ!」

 思わず、大きな声を出してしまう。
 彼女は目を見開いて俺を見つめた。

 ふつふつと、俺の中で怒りが沸き上がる。それは彼女に対してでなく、彼女をさいなめようとする知らない誰かに対してだった。

 実際は、気づいていたんだ。この赤い傘は、彼女のものなんだと。だけど壊れかたが異常で、明らかに人の手で破壊されたとしか考えられなかった。
 もしも事実だったとしたら、誰がそんな酷いことを。彼女のものだとわかってやったのか。誰のものでもいいからやったのか。見当がつかないが、考えるほど怒りと悲しみが込み上がってくる。
 だから俺は、この傘が彼女のものではないと盲信しようとした。そうすれば幾分かは気が楽になると思った。
 それなのに、いつまでも捨てられずに保管していたのは、自分の中で整理しきれなかったからだ。
 早く、処分していればよかった。彼女に見られるべきじゃなかった。

 俺が胸中で悔やんでいると、彼女は静かに口を開く。

「誰にやられたかは、わからないわ」
「さっき会ったあのチア部の女たちは違うか? もしくは二年六組の奴らとか」
「やめて、イヴァン」

 小さく首を横に振ると、彼女はそっと俺の左手を握ってきた。ありえないほど冷たくなっていて、俺が握り返してもぬくもりを伝えるのが難しい。

「犯人捜しなんてしたくない。私が我慢すればいいだけ」
「そういう問題じゃない。人のものを勝手に盗って、壊した奴がいるかもしれないんだぞ?」
「そうだしても、気にしない。私が悪いから。入学してからずっと、私はみんなを避けてる。話しかけられても、無視しているの。だから、みんなが私を気味悪がるのは仕方ない。嫌われるのも自業自得。そうでしょ?」

 その話を聞いて、俺は全身が痺れるような衝撃を受けた。

 彼女が、みんなを避けている……? アカネが言っていたことは、本当だったのか? そんな。ありえない。
 胸の奥が締めつけられる感覚がした。
 気持ち悪い。苦しい。辛い。

「サエさんが、みんなを無視するだなんて……冗談だろ。理由はなんなんだよ。俺とは仲良くしてくれるじゃないか」
「勘違いしないで、イヴァン。言ったでしょ? 私とあなたは、他人よ。あなたがしつこく話しかけてくるから、私はそれに答えてるだけ」
「それ、本気で言ってるのか?」
「……ええ。本気よ」

 彼女は冷たい声で、はっきりと言い放った。

「だからもう、私と関わらないで」

 冷淡な言葉の数々を聞いた瞬間、俺は息が止まりそうになった。

 何度も言われてきた。「私と関わらないで」と。それは彼女の照れ隠しなんだと思って俺は受け流していた。
 だが、今は違う。
 彼女の目は、本気だった。

「邪魔して悪かったわね。もう帰るわ」
「は……? なにを言い出す? 今は帰れないんだろ?」
「風邪を引いたって電話して、親に迎えに来てもらうわ。あなたと出掛けたことを言わなければいいだけだし」
「……そんな。服も濡れたままなのに」
「だから早く迎えに来てもらうの」

 彼女は俺の手を振りほどくと、おもむろに立ち上がった。力なく立つ彼女は、さっきよりも体調が悪そうだ。

「待ってくれ」

 部屋を出ていこうとする彼女のあとを追い、俺もさっと立ち上がる。だけど、彼女はそそくさと玄関まで行ってしまう。

「せめて、休んでから帰らないか」
「お願い。これ以上、私に構わないで。優しくしようとしないで」
「だから、なんでだよ!」

 俺が止めようとしても、彼女は聞く耳を持ってくれない。靴を履き、一度こちらを向いて、こう囁いた。

「あなたのためなの。わかって……イヴァン」

 あまりにも真剣な口調だった。俺はそれ以上、なにも言えなくなってしまった。

 彼女はドアノブに手をかけると、無言で扉を開ける。外はまだ、雨が降っていた。戸惑うこともなく、彼女は外へ出ていってしまう。
 扉が閉められた瞬間、俺は孤独に支配された。

 なにも、教えてくれなかった。なぜ彼女がクラスメイトたちを避けているのか。なぜ俺に関わるなと言うのか。なにひとつ説明してもらえなかった。
 俺はこんなに、彼女を想っているのに。彼女にとって、俺はなんだったのか。所詮、他人だったのだろうか。

「どうしてなんだ、サエさん……」

 俺が嘆いたところで、彼女から返事がもらえることはない。
 膝から崩れ落ち、俺はしばらくその場から動けなくなった。
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