32 / 53
第四章
あなたのため
しおりを挟む
俺はハッとした。
机の隅に放置された、一本のボロボロの折り畳み傘。彼女の視線は、たしかにそれに向けられている。
彼女が傘をなくしたと言って困っていたあの雨の日、俺が帰りに横浜駅で見つけたもの。
それの存在に気づいてしまった彼女が、なぜ泣いてるのかわからない。
──いや、違う。俺はその訳を知っている。どうしても受け入れたくなくて、事実から目を逸らしているだけだ。
俺は無言で彼女の目元をハンカチで拭き取った。彼女から借りたパンダのハンカチは、溢れる涙をしっかりと拭き取ってくれた。
「……どこかで、拾ったのよね?」
まるで確信を持っているような口調だった。
そんな悲しい顔をされたら、どうしていいのかわからなくなってしまう。イエスともノーとも言えなくなってしまう。
俺の様子を察したのか、彼女は目を伏せて呟いた。
「この傘、私のなの」
「……間違いないのか?」
「ええ。長年使っていたからわかる。でも、もういらない。捨ててくれても構わないわ」
言葉とは裏腹に、彼女の声は暗い。なんて強がりなのだろう。
「誰に、やられたんだよ」
「えっ」
「あの日、朝に横浜駅で会ったときにサエさんは傘をなくしたと言った。実際は違うんだろ? 本当は誰かに盗られた。それで、壊されたんだ!」
思わず、大きな声を出してしまう。
彼女は目を見開いて俺を見つめた。
ふつふつと、俺の中で怒りが沸き上がる。それは彼女に対してでなく、彼女を苛めようとする知らない誰かに対してだった。
実際は、気づいていたんだ。この赤い傘は、彼女のものなんだと。だけど壊れかたが異常で、明らかに人の手で破壊されたとしか考えられなかった。
もしも事実だったとしたら、誰がそんな酷いことを。彼女のものだとわかってやったのか。誰のものでもいいからやったのか。見当がつかないが、考えるほど怒りと悲しみが込み上がってくる。
だから俺は、この傘が彼女のものではないと盲信しようとした。そうすれば幾分かは気が楽になると思った。
それなのに、いつまでも捨てられずに保管していたのは、自分の中で整理しきれなかったからだ。
早く、処分していればよかった。彼女に見られるべきじゃなかった。
俺が胸中で悔やんでいると、彼女は静かに口を開く。
「誰にやられたかは、わからないわ」
「さっき会ったあのチア部の女たちは違うか? もしくは二年六組の奴らとか」
「やめて、イヴァン」
小さく首を横に振ると、彼女はそっと俺の左手を握ってきた。ありえないほど冷たくなっていて、俺が握り返してもぬくもりを伝えるのが難しい。
「犯人捜しなんてしたくない。私が我慢すればいいだけ」
「そういう問題じゃない。人のものを勝手に盗って、壊した奴がいるかもしれないんだぞ?」
「そうだしても、気にしない。私が悪いから。入学してからずっと、私はみんなを避けてる。話しかけられても、無視しているの。だから、みんなが私を気味悪がるのは仕方ない。嫌われるのも自業自得。そうでしょ?」
その話を聞いて、俺は全身が痺れるような衝撃を受けた。
彼女が、みんなを避けている……? アカネが言っていたことは、本当だったのか? そんな。ありえない。
胸の奥が締めつけられる感覚がした。
気持ち悪い。苦しい。辛い。
「サエさんが、みんなを無視するだなんて……冗談だろ。理由はなんなんだよ。俺とは仲良くしてくれるじゃないか」
「勘違いしないで、イヴァン。言ったでしょ? 私とあなたは、他人よ。あなたがしつこく話しかけてくるから、私はそれに答えてるだけ」
「それ、本気で言ってるのか?」
「……ええ。本気よ」
彼女は冷たい声で、はっきりと言い放った。
「だからもう、私と関わらないで」
冷淡な言葉の数々を聞いた瞬間、俺は息が止まりそうになった。
何度も言われてきた。「私と関わらないで」と。それは彼女の照れ隠しなんだと思って俺は受け流していた。
だが、今は違う。
彼女の目は、本気だった。
「邪魔して悪かったわね。もう帰るわ」
「は……? なにを言い出す? 今は帰れないんだろ?」
「風邪を引いたって電話して、親に迎えに来てもらうわ。あなたと出掛けたことを言わなければいいだけだし」
「……そんな。服も濡れたままなのに」
「だから早く迎えに来てもらうの」
彼女は俺の手を振りほどくと、おもむろに立ち上がった。力なく立つ彼女は、さっきよりも体調が悪そうだ。
「待ってくれ」
部屋を出ていこうとする彼女のあとを追い、俺もさっと立ち上がる。だけど、彼女はそそくさと玄関まで行ってしまう。
「せめて、休んでから帰らないか」
「お願い。これ以上、私に構わないで。優しくしようとしないで」
「だから、なんでだよ!」
俺が止めようとしても、彼女は聞く耳を持ってくれない。靴を履き、一度こちらを向いて、こう囁いた。
「あなたのためなの。わかって……イヴァン」
あまりにも真剣な口調だった。俺はそれ以上、なにも言えなくなってしまった。
彼女はドアノブに手をかけると、無言で扉を開ける。外はまだ、雨が降っていた。戸惑うこともなく、彼女は外へ出ていってしまう。
扉が閉められた瞬間、俺は孤独に支配された。
なにも、教えてくれなかった。なぜ彼女がクラスメイトたちを避けているのか。なぜ俺に関わるなと言うのか。なにひとつ説明してもらえなかった。
俺はこんなに、彼女を想っているのに。彼女にとって、俺はなんだったのか。所詮、他人だったのだろうか。
「どうしてなんだ、サエさん……」
俺が嘆いたところで、彼女から返事がもらえることはない。
膝から崩れ落ち、俺はしばらくその場から動けなくなった。
机の隅に放置された、一本のボロボロの折り畳み傘。彼女の視線は、たしかにそれに向けられている。
彼女が傘をなくしたと言って困っていたあの雨の日、俺が帰りに横浜駅で見つけたもの。
それの存在に気づいてしまった彼女が、なぜ泣いてるのかわからない。
──いや、違う。俺はその訳を知っている。どうしても受け入れたくなくて、事実から目を逸らしているだけだ。
俺は無言で彼女の目元をハンカチで拭き取った。彼女から借りたパンダのハンカチは、溢れる涙をしっかりと拭き取ってくれた。
「……どこかで、拾ったのよね?」
まるで確信を持っているような口調だった。
そんな悲しい顔をされたら、どうしていいのかわからなくなってしまう。イエスともノーとも言えなくなってしまう。
俺の様子を察したのか、彼女は目を伏せて呟いた。
「この傘、私のなの」
「……間違いないのか?」
「ええ。長年使っていたからわかる。でも、もういらない。捨ててくれても構わないわ」
言葉とは裏腹に、彼女の声は暗い。なんて強がりなのだろう。
「誰に、やられたんだよ」
「えっ」
「あの日、朝に横浜駅で会ったときにサエさんは傘をなくしたと言った。実際は違うんだろ? 本当は誰かに盗られた。それで、壊されたんだ!」
思わず、大きな声を出してしまう。
彼女は目を見開いて俺を見つめた。
ふつふつと、俺の中で怒りが沸き上がる。それは彼女に対してでなく、彼女を苛めようとする知らない誰かに対してだった。
実際は、気づいていたんだ。この赤い傘は、彼女のものなんだと。だけど壊れかたが異常で、明らかに人の手で破壊されたとしか考えられなかった。
もしも事実だったとしたら、誰がそんな酷いことを。彼女のものだとわかってやったのか。誰のものでもいいからやったのか。見当がつかないが、考えるほど怒りと悲しみが込み上がってくる。
だから俺は、この傘が彼女のものではないと盲信しようとした。そうすれば幾分かは気が楽になると思った。
それなのに、いつまでも捨てられずに保管していたのは、自分の中で整理しきれなかったからだ。
早く、処分していればよかった。彼女に見られるべきじゃなかった。
俺が胸中で悔やんでいると、彼女は静かに口を開く。
「誰にやられたかは、わからないわ」
「さっき会ったあのチア部の女たちは違うか? もしくは二年六組の奴らとか」
「やめて、イヴァン」
小さく首を横に振ると、彼女はそっと俺の左手を握ってきた。ありえないほど冷たくなっていて、俺が握り返してもぬくもりを伝えるのが難しい。
「犯人捜しなんてしたくない。私が我慢すればいいだけ」
「そういう問題じゃない。人のものを勝手に盗って、壊した奴がいるかもしれないんだぞ?」
「そうだしても、気にしない。私が悪いから。入学してからずっと、私はみんなを避けてる。話しかけられても、無視しているの。だから、みんなが私を気味悪がるのは仕方ない。嫌われるのも自業自得。そうでしょ?」
その話を聞いて、俺は全身が痺れるような衝撃を受けた。
彼女が、みんなを避けている……? アカネが言っていたことは、本当だったのか? そんな。ありえない。
胸の奥が締めつけられる感覚がした。
気持ち悪い。苦しい。辛い。
「サエさんが、みんなを無視するだなんて……冗談だろ。理由はなんなんだよ。俺とは仲良くしてくれるじゃないか」
「勘違いしないで、イヴァン。言ったでしょ? 私とあなたは、他人よ。あなたがしつこく話しかけてくるから、私はそれに答えてるだけ」
「それ、本気で言ってるのか?」
「……ええ。本気よ」
彼女は冷たい声で、はっきりと言い放った。
「だからもう、私と関わらないで」
冷淡な言葉の数々を聞いた瞬間、俺は息が止まりそうになった。
何度も言われてきた。「私と関わらないで」と。それは彼女の照れ隠しなんだと思って俺は受け流していた。
だが、今は違う。
彼女の目は、本気だった。
「邪魔して悪かったわね。もう帰るわ」
「は……? なにを言い出す? 今は帰れないんだろ?」
「風邪を引いたって電話して、親に迎えに来てもらうわ。あなたと出掛けたことを言わなければいいだけだし」
「……そんな。服も濡れたままなのに」
「だから早く迎えに来てもらうの」
彼女は俺の手を振りほどくと、おもむろに立ち上がった。力なく立つ彼女は、さっきよりも体調が悪そうだ。
「待ってくれ」
部屋を出ていこうとする彼女のあとを追い、俺もさっと立ち上がる。だけど、彼女はそそくさと玄関まで行ってしまう。
「せめて、休んでから帰らないか」
「お願い。これ以上、私に構わないで。優しくしようとしないで」
「だから、なんでだよ!」
俺が止めようとしても、彼女は聞く耳を持ってくれない。靴を履き、一度こちらを向いて、こう囁いた。
「あなたのためなの。わかって……イヴァン」
あまりにも真剣な口調だった。俺はそれ以上、なにも言えなくなってしまった。
彼女はドアノブに手をかけると、無言で扉を開ける。外はまだ、雨が降っていた。戸惑うこともなく、彼女は外へ出ていってしまう。
扉が閉められた瞬間、俺は孤独に支配された。
なにも、教えてくれなかった。なぜ彼女がクラスメイトたちを避けているのか。なぜ俺に関わるなと言うのか。なにひとつ説明してもらえなかった。
俺はこんなに、彼女を想っているのに。彼女にとって、俺はなんだったのか。所詮、他人だったのだろうか。
「どうしてなんだ、サエさん……」
俺が嘆いたところで、彼女から返事がもらえることはない。
膝から崩れ落ち、俺はしばらくその場から動けなくなった。
1
あなたにおすすめの小説
30日後に巨大隕石が衝突すると知らされた世界で、本当に大切なものを見つけた
てるぽに中将
SF
20××年、突然に世界中で同時に「30日後に恐竜を絶滅させた隕石よりも何倍も大きいものが衝突する予測」があり、「この隕石によって地球上のすべての人間が消滅する」との発表があった。
最初は誰もが半信半疑だった。映画の中の世界だと思った。だが、徐々に秩序を失い周りが変化していくうちに自らもその世界の変化に対応しなくてはいかなくなっていくのだった――。
読者の皆さんも「一番大切なもの」は何か? それもついでに考えていただければと思います。
※小説家になろう にて「中将」の名前で同じ作品を投稿しています。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
フラレたばかりのダメヒロインを応援したら修羅場が発生してしまった件
遊馬友仁
青春
校内ぼっちの立花宗重は、クラス委員の上坂部葉月が幼馴染にフラれる場面を目撃してしまう。さらに、葉月の恋敵である転校生・名和リッカの思惑を知った宗重は、葉月に想いを諦めるな、と助言し、叔母のワカ姉やクラスメートの大島睦月たちの協力を得ながら、葉月と幼馴染との仲を取りもつべく行動しはじめる。
一方、宗重と葉月の行動に気付いたリッカは、「私から彼を奪えるもの奪ってみれば?」と、挑発してきた!
宗重の前では、態度を豹変させる転校生の真意は、はたして―――!?
※本作は、2024年に投稿した『負けヒロインに花束を』を大幅にリニューアルした作品です。
幼馴染が家出したので、僕と同居生活することになったのだが。
四乃森ゆいな
青春
とある事情で一人暮らしをしている僕──和泉湊はある日、幼馴染でクラスメイト、更には『女神様』と崇められている美少女、真城美桜を拾うことに……?
どうやら何か事情があるらしく、頑なに喋ろうとしない美桜。普段は無愛想で、人との距離感が異常に遠い彼女だが、何故か僕にだけは世話焼きになり……挙句には、
「私と同棲してください!」
「要求が増えてますよ!」
意味のわからない同棲宣言をされてしまう。
とりあえず同居するという形で、居候することになった美桜は、家事から僕の宿題を見たりと、高校生らしい生活をしていくこととなる。
中学生の頃から疎遠気味だったために、空いていた互いの時間が徐々に埋まっていき、お互いに知らない自分を曝け出していく中──女神様は何でもない『日常』を、僕の隣で歩んでいく。
無愛想だけど僕にだけ本性をみせる女神様 × ワケあり陰キャぼっちの幼馴染が送る、半同棲な同居生活ラブコメ。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
白衣の下 第一章 悪魔的破天荒な医者と超真面目な女子大生の愛情物語り。先生無茶振りはやめてください‼️
高野マキ
ライト文芸
弟の主治医と女子大生の甘くて切ない愛情物語り。こんなに溺愛する相手にめぐり会う事は二度と無い。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる