無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

めぐみ

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蓮野に降る雪⑦

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

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 いつか一度だけ、ポツリとそんなことを呟いたことがあった。
 自分の思惑をたとえ実の娘とはいえ、普段ならけして見せない人がちらりと覗かせた本音だけに、サヨンの記憶に強く残っていた。
「人がこの世に生まれてくるのには、必ず何らかの意味がある、つまり、何かの役目を果たすために生まれてくるのだと幼い頃から繰り返し言い聞かされてきたわ」
「いかにも旦那さまらしいお言葉ですね」
 トンジュが神妙に頷いたので、サヨンはふと興味を引かれた。父はひそかにトンジュという男を気にかけ評価していたが、果たして、トンジュの方はどうなのだろう。
「あなたは父をどう思う?」
 サヨンの意に反して、トンジュはすぐには応えなかった。かなりの刻を経て、彼は一つ一つの言葉を吟味するようにゆっくりと喋り始めた。
「素晴らしい人だと尊敬しています。何て言ったら良いのか、知力、行動力、計算力をお持ちで、しかも人を惹きつける人望までお持ちだ。商人として漢陽、いえ、朝鮮中を探しても、あれほどのお方はおられないでしょう。同じ男として憧れますよ。もっとも、俺なんて、足下にも寄れないですけど」
「あなたが父をそんな風に見ているとは思わなかったわ」
 それは素直な気持ちから発した言葉であった。やはり、娘として父を褒められて悪い気はしない。
 トンジュは笑んだ。
「俺が読み書きができるのは、大行首さまのお陰ですから」
「トンジュは読み書きができるのね?」
 これも愕きだ。下働きの下男で読み書きのできる者は珍しい。中にはできる者がいないわけではないが、それは当人に向学心があって独学で習ったりした場合に限る。
 そんな者であっても、簡単な文章なら読めるが、書くことはできないといった程度で、所詮は賤民の会得できる知識といえば、その範囲が限界だったのだ。
「大行首さまがおん自ら教えて下さったんですよ」
 トンジュが懐かしむような口調で語った。
 彼がこの屋敷に来て、半年ほどを経たある日のこと。七歳の少年は朝から晩まで雑用にこき使われていたが、ある日、水くみのために井戸端にいたときのことだ。
 言われたようにすべての水瓶を一杯にした後、トンジュは側に転がっていた木ぎれで地面に字を書いていた。
 もちろん習ったことなどないから、見よう見真似だ。数日前、この屋敷の主である大行首さまの居室の掃除をした際、偶然、文机の上に置かれている書物に眼をとめたのだ。
 分厚い書物は開かれたままの状態で、なにやら難しげな文字が並んでいた。トンジュにはさっぱり判らない記号の羅列だったが、彼は一瞬の中に開かれたページに並んだ文字を記憶したのだ。
 トンジュはそれが字であるとは知らず、憶えた字を一つ一つ記憶を辿りながら地面に書いていった。そこに偶然、大行首が庭を通りかかった。
 大行首さまは、しばらくトンジュの書いた地面の文字を眺めていた。仕事をサボッていたことを叱責されるかと一瞬身を縮めたものの、大行首は怒るどころか、
―そんなに文字を書きたいか?
 と、問うてきたのだ。
 トンジュはもう愕きのあまり返事もできず、ただコクコクと頷くだけだった。
 その夜からというもの、トンジュは夜更けに大行首さまの居室に伺い文字を習うことになった。まず知っている字を書いてごらんと言われ、トンジュは紙に先日、この部屋で見た難しげな漢字をすべて書いた。
―お前はこれをどこで憶えたのだ?
 怒らないから正直に言いなさいと囁かれ、トンジュは泣きながら正直に打ち明けた。
 大行首からしばらく言葉はなかったが、やがて、子ども向けの優しい本を渡してくれた。それは漢字ではなく、ハングル文字の初歩学本だった。
 トンジュは乾いた砂が水を吸い取るように何でも貪欲に吸収し、ハングル文字を一年で使いこなし、難しい漢字ばかりの書物も三年で難なく読解できるようになった。
 大行首は文字だけではない、計算まで手ほどきしてくれた。一日の仕事が終わってからの勉強だったため、幼いトンジュは、時に途中で机にうとうと突っ伏して眠ってしまうこともあったけれど、大行首は怒りもせず、トンジュが目を覚ますまで寝かせてくれた。
 滅多にはないことだったが、勉強の合間に珍しい菓子をくれたこともあったのだ。
「そんなことがあっただなんて、全然知らなかった」
 サヨンは首を振りながら、今更ながらに愕いていた。父とこの男の間に、そこまでの交流があったとは―。
 道理で、父がトンジュを気にとめていたはずだ。あのときは、たかだか下男をいささか過大評価しすぎると思っていたが、トンジュ本人から真相を聞いた今では、父の言葉が満更嘘ではないのだと納得できる。
 本当に、トンジュという男は底の知れない深い湖のようだ。サヨンはこの時、思った。
 屋敷で見せていた寡黙で穏やかな若者、己れの目的を遂げるためには手段を選ばない―初めて見せた酷薄ともいえる全く別の面、更に商人としての優れた器と次々に思いもかけぬ面を見せてゆく。
「あなたは私という人間があなたの予想を裏切ったと言うけれど、私から見たら、あなたの方こそ、よく判らないわ」
 つい本音を吐露すると、トンジュが少しだけ眉をつり上げた。
「お嬢さまは俺をどんな男だと思っていたんです?」
「そうね」
 今度は、サヨンが慎重に言葉を紡ぎ出してゆく番だった。
「大人しくて無口で、陰ひなたなくよく働く人。そんな印象かしら」
「それじゃあ、全くの良い人ですね。俺はお嬢さまにとって、人畜無害の印象にも残らない、ただの平凡な男だったというわけですか」
 しまいの台詞は自嘲めいて言う。
「別にそんな意味で言ったのではないわ。あなたは誠実だし、他の人が嫌がるような仕事でもいつも進んでやっていた。私は、そう言いたかっただけなのよ」
 トンジュの声が尖った。
「それが何なんです? ただ良い人っていうだけじゃないですか。俺は、お屋敷に来てからというもの、ずっとお嬢さまだけを見てきたというのに、お嬢さまはやっぱり、俺をただの下男としか見てなかったんだ!」
 激したその様子に、サヨンは気圧された。到底、先刻の意味深な台詞について考えている暇はなかった。
「もう、止めましょう。こんな話」
 サヨンの提案にトンジュも敢えて反対しようとはせず、二人はしばらく気づまりな雰囲気のまま、その場に佇んでいた。
 氷の花たちは静寂を纏いつかせ、なお凜として眼の前にあった。

 氷の花を後にすると、周囲の風景はまた一転する。平坦な地形から、標高が高くなってゆくのだ。それまでは、はるか遠方に臨んでいた山々が次第に手前に迫ってくる。
 この辺りは四方を山に囲まれている。トンジュは少し歩くと、また立ち止まった。
「ここから先は山道になるので、傾斜が大きくなります。お嬢さまは脚を痛めているので、少し厳しいかもしれません。もし途中で休みたくなったら休憩を取ります。我慢せずに言って下さい」
 トンジュの視線の先には、確かに細い道がうねりながら続いている。これまでは広かった道は急に人ひとりがやっと通れるほどに狭まっていた。その両脇には鬱蒼と茂る樹木が続いており、かなりの急坂だと遠目にも知れた。
「山に入るの?」
 サヨンが躊躇いを隠せずに問うと、トンジュは当然だと言わんばかりに頷いた。
「ここまで来れば、とりあえず大丈夫だとは思いますが、まだ安心はできません。山に入ってしまえば、追っ手ももう容易くは見つけられないでしょう。この山そのものはそう高くはないが、頂上は深い森になっています。一度迷い込んだら、よほど森のことを熟知している者でない限り、二度と生きて出られないともいわれているほどですから」
「そんな恐ろしいところに入って、大丈夫なの?」
 サヨンが悲鳴じみた声を上げるのに、トンジュは微笑む。
「心配は無用ですよ。俺は森だけでなく、この周囲の地理には詳しいんです。たとえ眼隠しをされたって、無事に森を抜け出られる自信があります」
「でも、私は」
 サヨンが口ごもる。
 トンジュは探るように上目遣いにサヨンを見た。
「それこそ、お嬢さまが俺から逃げようなんて思わない限り、大丈夫。俺が側にいれば、迷うことはないです」
 隙を見て、この男から逃げ出そうと思っているのを見抜かれているようだった。
「どうやら図星だったようですね」
 黙り込んだサヨンを見て、トンジュが口の端を引き上げる。皮肉げな微笑を浮かべた彼を見ると、半ば自分を騙すようにして屋敷から連れ出した男の底知れぬ怖ろしさを今更ながらに思い出すのだった。
 実際に登ってみると、山道は想像以上に険しかった。既に右足首にかなりの損傷を受けているサヨンは、四半刻も歩かない中に音を上げてしまった。
 この男の前では弱音を吐きたくないのは山々であったが、幾ら脚を前に出そうとしてもも言うことをきかない。自分の身体でありながら、まるで他人の身体になってしまったかのように意思通りに動かせなかった。
 これだけ狭まった道では二人並んで進むことはできす、トンジュのすぐ後ろをついて歩く格好になっていたのに、いつのまにか二人の距離はかなり離れていた。
 サヨンがその場に蹲ると、トンジュはすぐに引き返してきた。
「もう歩けませんか?」
 顔を覗き込まれ、サヨンは頷いた。もう話す元気もない。
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