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蓮野に降る雪⑨
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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夏になると、池にはあまたの蓮が咲き誇り、さながら天上の楽園、極楽浄土もかくありなんと思えるほどの絶景が出現する。この辺りの人々はいつしか、その池を〝天上苑〟と呼ぶようになった。
「それは本当にあった話なの?」
サヨンが訊ねると、トンジュは頷いた。
「古い言い伝えではありますが、現実に起こった話で、作り話ではないそうです」
「哀しい話ね」
呟き、はるか昔に自ら生命を絶った薄幸な佳人に想いを馳せてみる。二人の男の恋の鞘当ての板挟みになり、どちらも選べなくて死を選んだとは、あまりに壮絶で哀しい選択だった。
「もし―」
トンジュが口ごもった。
「もし、お嬢さまが話の中の女人の立場だったら、どうすると思いますか?」
「判らないわ」
サヨンは正直に応えた。そして、少し考えて、ゆっくりと付け足す。
「でも、多分だけれど、彼女みたいに死は選ばないと思うの。だって、死んでしまったら、それですべてが終わりでしょ。だから、自分から死のうとするのは最後の最後ね」
「死んでしまえば、すべてが終わりですか。いかにもあなたらしい応えですね」
トンジュの声が笑みを含んでいる。サヨンはそれに気づき、頬を膨らませた。
「どうも褒められているわけではないわよね」
「いいえ、前向きで現実的な考え方だと思いますよ。あなたがどちらかを選んだがために、二人の男たちの間が険悪になったら、どうします?」
予期せぬ問いに、サヨンは戸惑った。
「それは―難しい問題だわよね。でも、本当にその男を慕っていて、きちんと自分で考えて出した結果なら、仕方ないでしょう。諍いが起こったら哀しいことだけど、自分が誰かを選んだことが原因なら、結果というか現実として受け止めるしかないでしょうね」
「お嬢さまは強い女なんですね」
「別に、強くなんかないわ」
もし自分が本当に強かったら、李トクパルとの結婚から逃げたりせず、父に最初から正々堂々と〝この結婚はいやだ〟と告げていただろう。
そうすれば、今、トンジュの背に負われていることもなかったはずだ。屋敷を黙って出ることもなく、トンジュにうまく唆されて、こんな遠方まで来る状況にもならなかった―。
いかにしても、それを口にできるはずがなかった。
現実から眼を背けて逃げ出したばかりに、サヨンは余計に追い詰められ、苦境に立たされている。これもすべて自分の弱さが因で起こったことだった。
やはり、現実ときちんと向き合って、正面から解決法を見つけるべきだったのだ。
「ね、そろそろ降ろして」
そんなことを考えていると、居たたまれなくなった。この男には指一本だって、触れられたくない。
トンジュはあっさりと言うことをきき、サヨンを降ろしてくれた。まるで壊れ物を扱うように丁重に降ろされ、かえってますます居心地が悪くなる。
「そろそろ着きましたよ」
トンジュの声に、サヨンは周囲を見回した。
樹々が林立する森の中に、突如としてぽっかりとそこだけ拓けた場所がある。それはかなりの広さがあり、小さな家なら十数戸くらいは並んで建つのではないかと思うほどだ。
「ここに家を建てましょう」
「家? ここに住むつもりなの?」
またしても悲鳴じみた声を上げてしまった。
「俺たちがこれから暮らす家です。漢陽であなたが暮らしていた屋敷のような豪勢な生活はできませんが、不自由はさせないつもりです」
トンジュは淡々と述べる。
「ねえ、トンジュ。怒らないで聞いて欲しいの。あなたはずっと〝俺たち〟という言葉を使っているけれど、それは止めて」
「何故?」
気を悪くする風もなくさり気なく問われ、サヨンは彼と眼を合わせていられなくなって、うつむいた。
「私の方こそ、あなたに訊きたい。私を屋敷から連れ出してくれたことには感謝するべきかもしれない。でも、だからといって、私があなたにずっと付いてゆかなければならないわけではないでしょう。あなたは何故、私を拘束しようとするの? 何度も言うけれど、私は自分の道を歩きたいの」
「俺があなたを拘束する理由? さあ、何ででしょうね」
トンジュは肩をすくめて見せ、立ち上がった。
「はぐらかさないで!」
サヨンがカッとなって叫ぶと、トンジュは薄く笑った。
「今に判りますよ」
刹那、トンジュの双眸に妖しい光が煌めいた。まるで蛇が捕らえた獲物を遠巻きに眺めているような冷たい光。
サヨンはその冷たい光が閃く眼(まなこ)に見つめられた途端、全身が総毛立った。
この男は一体、何者なの?
またしても、こんな男にのこのこと付いてきた我が身の愚かさを呪わずにはいられない。
「少し薪を拾ってきます。もうとっくに夜は明けているはずですが、何しろ、これだけ深い森の中ですから、昼間でもあまり明るくはならないんですよ。それに、寒さも堪えるでしょう?」
トンジュは手近にあった木の枝の中でも特に太くて頑丈そうなものを選び、急ごしらえの天幕を張った。どうやら、彼が持参した袋の中にはかなり役立つものが入っているらしい。
いずれも、酒場の女将が用意してくれたものばかりである。見ただけでも、かなり重そうな袋だ。トンジュはその袋を肩にかけ、険しい山道をサヨンを背負って登ったのだ。
天幕を作るのに使った布も袋の中から出てきた。枝を地面に立て、天井と両脇だけを布で覆った至って簡略なものだが、それでも雨露や寒さを幾ばくかは凌いでくれるはずだ。
天幕の真正面は布がなく、そこから出入りすれば良い。
トンジュは手際よく天幕を張り終えると、手に付いた泥を払い落とした。
「すぐに帰ってくるので、絶対にここを動かないで。もし逃げ出して迷ってしまったら、冗談ではなく大変なことになりますからね」
言い残し去ってゆこうとし、ふいに彼が立ち止まった。そのままの体勢で首だけねじ曲げるようにして振り向く。
「そうそう、一つ言い忘れてました。天上苑伝説の娘の話ですが、今、あの池に毎年咲く蓮は実は父親が植えさせたものではなく、娘の涙だという逸話があるんですよ」
「蓮の花が娘の涙?」
思わず訊き返してしまう。
トンジュが感情を宿さぬ瞳で見返し、頷いた。
「娘の流した幾千もの涙の滴が蓮の花となったと。まあ、こちらは単なる伝説でしょうが」
トンジュは言うだけ言うと、今度こそ踵を返して歩いていった。
「それは本当にあった話なの?」
サヨンが訊ねると、トンジュは頷いた。
「古い言い伝えではありますが、現実に起こった話で、作り話ではないそうです」
「哀しい話ね」
呟き、はるか昔に自ら生命を絶った薄幸な佳人に想いを馳せてみる。二人の男の恋の鞘当ての板挟みになり、どちらも選べなくて死を選んだとは、あまりに壮絶で哀しい選択だった。
「もし―」
トンジュが口ごもった。
「もし、お嬢さまが話の中の女人の立場だったら、どうすると思いますか?」
「判らないわ」
サヨンは正直に応えた。そして、少し考えて、ゆっくりと付け足す。
「でも、多分だけれど、彼女みたいに死は選ばないと思うの。だって、死んでしまったら、それですべてが終わりでしょ。だから、自分から死のうとするのは最後の最後ね」
「死んでしまえば、すべてが終わりですか。いかにもあなたらしい応えですね」
トンジュの声が笑みを含んでいる。サヨンはそれに気づき、頬を膨らませた。
「どうも褒められているわけではないわよね」
「いいえ、前向きで現実的な考え方だと思いますよ。あなたがどちらかを選んだがために、二人の男たちの間が険悪になったら、どうします?」
予期せぬ問いに、サヨンは戸惑った。
「それは―難しい問題だわよね。でも、本当にその男を慕っていて、きちんと自分で考えて出した結果なら、仕方ないでしょう。諍いが起こったら哀しいことだけど、自分が誰かを選んだことが原因なら、結果というか現実として受け止めるしかないでしょうね」
「お嬢さまは強い女なんですね」
「別に、強くなんかないわ」
もし自分が本当に強かったら、李トクパルとの結婚から逃げたりせず、父に最初から正々堂々と〝この結婚はいやだ〟と告げていただろう。
そうすれば、今、トンジュの背に負われていることもなかったはずだ。屋敷を黙って出ることもなく、トンジュにうまく唆されて、こんな遠方まで来る状況にもならなかった―。
いかにしても、それを口にできるはずがなかった。
現実から眼を背けて逃げ出したばかりに、サヨンは余計に追い詰められ、苦境に立たされている。これもすべて自分の弱さが因で起こったことだった。
やはり、現実ときちんと向き合って、正面から解決法を見つけるべきだったのだ。
「ね、そろそろ降ろして」
そんなことを考えていると、居たたまれなくなった。この男には指一本だって、触れられたくない。
トンジュはあっさりと言うことをきき、サヨンを降ろしてくれた。まるで壊れ物を扱うように丁重に降ろされ、かえってますます居心地が悪くなる。
「そろそろ着きましたよ」
トンジュの声に、サヨンは周囲を見回した。
樹々が林立する森の中に、突如としてぽっかりとそこだけ拓けた場所がある。それはかなりの広さがあり、小さな家なら十数戸くらいは並んで建つのではないかと思うほどだ。
「ここに家を建てましょう」
「家? ここに住むつもりなの?」
またしても悲鳴じみた声を上げてしまった。
「俺たちがこれから暮らす家です。漢陽であなたが暮らしていた屋敷のような豪勢な生活はできませんが、不自由はさせないつもりです」
トンジュは淡々と述べる。
「ねえ、トンジュ。怒らないで聞いて欲しいの。あなたはずっと〝俺たち〟という言葉を使っているけれど、それは止めて」
「何故?」
気を悪くする風もなくさり気なく問われ、サヨンは彼と眼を合わせていられなくなって、うつむいた。
「私の方こそ、あなたに訊きたい。私を屋敷から連れ出してくれたことには感謝するべきかもしれない。でも、だからといって、私があなたにずっと付いてゆかなければならないわけではないでしょう。あなたは何故、私を拘束しようとするの? 何度も言うけれど、私は自分の道を歩きたいの」
「俺があなたを拘束する理由? さあ、何ででしょうね」
トンジュは肩をすくめて見せ、立ち上がった。
「はぐらかさないで!」
サヨンがカッとなって叫ぶと、トンジュは薄く笑った。
「今に判りますよ」
刹那、トンジュの双眸に妖しい光が煌めいた。まるで蛇が捕らえた獲物を遠巻きに眺めているような冷たい光。
サヨンはその冷たい光が閃く眼(まなこ)に見つめられた途端、全身が総毛立った。
この男は一体、何者なの?
またしても、こんな男にのこのこと付いてきた我が身の愚かさを呪わずにはいられない。
「少し薪を拾ってきます。もうとっくに夜は明けているはずですが、何しろ、これだけ深い森の中ですから、昼間でもあまり明るくはならないんですよ。それに、寒さも堪えるでしょう?」
トンジュは手近にあった木の枝の中でも特に太くて頑丈そうなものを選び、急ごしらえの天幕を張った。どうやら、彼が持参した袋の中にはかなり役立つものが入っているらしい。
いずれも、酒場の女将が用意してくれたものばかりである。見ただけでも、かなり重そうな袋だ。トンジュはその袋を肩にかけ、険しい山道をサヨンを背負って登ったのだ。
天幕を作るのに使った布も袋の中から出てきた。枝を地面に立て、天井と両脇だけを布で覆った至って簡略なものだが、それでも雨露や寒さを幾ばくかは凌いでくれるはずだ。
天幕の真正面は布がなく、そこから出入りすれば良い。
トンジュは手際よく天幕を張り終えると、手に付いた泥を払い落とした。
「すぐに帰ってくるので、絶対にここを動かないで。もし逃げ出して迷ってしまったら、冗談ではなく大変なことになりますからね」
言い残し去ってゆこうとし、ふいに彼が立ち止まった。そのままの体勢で首だけねじ曲げるようにして振り向く。
「そうそう、一つ言い忘れてました。天上苑伝説の娘の話ですが、今、あの池に毎年咲く蓮は実は父親が植えさせたものではなく、娘の涙だという逸話があるんですよ」
「蓮の花が娘の涙?」
思わず訊き返してしまう。
トンジュが感情を宿さぬ瞳で見返し、頷いた。
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