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彷徨う二つの心②
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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トンジュが眼を覚ましたのは、サヨンが出ていってから四半刻後のことである。
いつになく満ち足りた気持ちで眼を覚まし、隣に手を伸ばしてみたら、家はもぬけの殻であった。またサヨンが欲しくなったので、本格的に起き出す前にもう一度、抱こうと思ったのだ。
「サヨン、サヨン?」
大声で呼ばわっても、返事はなかった。
「畜生、あいつ、あれほど一人で森に行ってはならないと言ったのに」
トンジュはサヨンが側にいたら必ず眉をひそめるであろう悪態をつきながら、全裸の身体に夜着を引っかけて家を飛び出した。
サヨンは大きな大きな息を吐いた。後ろを振り返ってみると、緑の葉をつけた巨木がそびえている。前を見ても同じ樹が並んでいる。
前後左右、どちらを見ても同じ樹が鬱蒼と生い茂っていて、同じ場所に見える。先刻から前だけを見て進んできたつもりだったが、もしかしたら、同じ場所をぐるぐると回っているだけのような気もしてきた。
一陣の風が吹き抜け、緑の葉が一斉にざわめく。サヨンは手のひらで眼をこすった。
今、手前の樹が動いたように見えたのだ。いや、手前だけではない、あそこの樹もここの樹もふらふらとまるで今にも折れそうな花が風にそよぐように揺れている。
馬鹿なと、サヨンは自分を嗤った。樹齢何百年という巨木があんな風にゆらゆらと揺れるはずがないではないか。
その中に、今度は右側の樹の幹が人の貌に見えてくる。丁度幹が顔、四方に張り出ている緑の葉を付けた枝が手足のように見えるのだ。
―何なの、あれは。
サヨンはギュッと眼を瞑り、しばらくしてから、開いてみた。
大丈夫、やはり眼の錯覚だった。だが、ほどなくまた周囲の樹はふらふらと揺れ始め、人の貌をした樹が出現した。
その時、サヨンは悟ったのだ。本来、巨木が動き、樹が人の貌をしているわけがない。その現実にあり得ないことが起きているというのは、サヨンがありもしないこと即ち幻影を見ているからだ。
多分、この森で迷った人は、この幻影に惑わされて遭難してしまうのではないか。サヨンは固く眼を瞑り、自分に言い聞かせた。
大丈夫、これは幻、所詮、現実ではない。強く何度も己れに言い聞かせ、これから自分が眼にする光景はすべて幻なのだと信じようとした。
再び眼を開けると、今度は、いつまで経っても樹は揺れなかったし、人の貌にもならなかった。やはり、幻だったのだ。
サヨンはゆっくりと周囲を見回す。
「こっちだわ」
思わず歓びの声が上がった。左手前方が本来進むべき道筋だ。落ち着いてよくよく見れば、後ろは確かについ先刻、通ってきたばかりの道ではないか。
―人は本能的に自分が見たいと思うものを見、見たくないと思うものは見ないものだ。だから、行き詰まったときには、眼を瞑って心を平静にして、もう一度、眼を開けてごらん。その時、サヨンの眼に真実が―ものの本来あるべき姿が見えてくる。即ち、それが〝心の眼〟なんだ。
いつか、父がそんなことを言っていた。
やはり、父は偉大な人だ。もし無事に漢陽にまで辿り着けたなら、屋敷に戻り父に詫びよう。許してくれなくても、心から詫びるのだ。
その時、サヨンは自分の進むべき道がほんの少し見えた気がした。自分は誰かの妻となるのではなく、商売をしたい。父を手伝い、父祖代々、大切に守り通してきたコ氏の家門とコ商団を守りたい。女の自分が大の男たちに混じって商人としてやってゆくのは並大抵ではなかろう。が、父ならば、サヨンのやりたいこと、意思を理解してくれるのではという予感があった。
不思議なもので、希望を持つと、人は強くなれる。疲れ切っていたはずの身体と心に俄に力が漲ってきたのを感じ、サヨンは大きく深呼吸した。
前へ、ひたすら前だけを見て進むのだ。サヨンの求めるものは他のどこでもない故郷の漢陽にあるのだから。
自分は何て愚かな娘だったのだろう。大切なことに何故もっと早く気づかなかったのだろう。
そのときだった。聞き慣れている―けれど、最も今、聞きたくない人の声が背後から追いかけてきた。
「流石だな。これまで誰もこの森を踏破した者はいなかったのに、お前は森の秘密をいとも容易く見抜いたか」
いつになく満ち足りた気持ちで眼を覚まし、隣に手を伸ばしてみたら、家はもぬけの殻であった。またサヨンが欲しくなったので、本格的に起き出す前にもう一度、抱こうと思ったのだ。
「サヨン、サヨン?」
大声で呼ばわっても、返事はなかった。
「畜生、あいつ、あれほど一人で森に行ってはならないと言ったのに」
トンジュはサヨンが側にいたら必ず眉をひそめるであろう悪態をつきながら、全裸の身体に夜着を引っかけて家を飛び出した。
サヨンは大きな大きな息を吐いた。後ろを振り返ってみると、緑の葉をつけた巨木がそびえている。前を見ても同じ樹が並んでいる。
前後左右、どちらを見ても同じ樹が鬱蒼と生い茂っていて、同じ場所に見える。先刻から前だけを見て進んできたつもりだったが、もしかしたら、同じ場所をぐるぐると回っているだけのような気もしてきた。
一陣の風が吹き抜け、緑の葉が一斉にざわめく。サヨンは手のひらで眼をこすった。
今、手前の樹が動いたように見えたのだ。いや、手前だけではない、あそこの樹もここの樹もふらふらとまるで今にも折れそうな花が風にそよぐように揺れている。
馬鹿なと、サヨンは自分を嗤った。樹齢何百年という巨木があんな風にゆらゆらと揺れるはずがないではないか。
その中に、今度は右側の樹の幹が人の貌に見えてくる。丁度幹が顔、四方に張り出ている緑の葉を付けた枝が手足のように見えるのだ。
―何なの、あれは。
サヨンはギュッと眼を瞑り、しばらくしてから、開いてみた。
大丈夫、やはり眼の錯覚だった。だが、ほどなくまた周囲の樹はふらふらと揺れ始め、人の貌をした樹が出現した。
その時、サヨンは悟ったのだ。本来、巨木が動き、樹が人の貌をしているわけがない。その現実にあり得ないことが起きているというのは、サヨンがありもしないこと即ち幻影を見ているからだ。
多分、この森で迷った人は、この幻影に惑わされて遭難してしまうのではないか。サヨンは固く眼を瞑り、自分に言い聞かせた。
大丈夫、これは幻、所詮、現実ではない。強く何度も己れに言い聞かせ、これから自分が眼にする光景はすべて幻なのだと信じようとした。
再び眼を開けると、今度は、いつまで経っても樹は揺れなかったし、人の貌にもならなかった。やはり、幻だったのだ。
サヨンはゆっくりと周囲を見回す。
「こっちだわ」
思わず歓びの声が上がった。左手前方が本来進むべき道筋だ。落ち着いてよくよく見れば、後ろは確かについ先刻、通ってきたばかりの道ではないか。
―人は本能的に自分が見たいと思うものを見、見たくないと思うものは見ないものだ。だから、行き詰まったときには、眼を瞑って心を平静にして、もう一度、眼を開けてごらん。その時、サヨンの眼に真実が―ものの本来あるべき姿が見えてくる。即ち、それが〝心の眼〟なんだ。
いつか、父がそんなことを言っていた。
やはり、父は偉大な人だ。もし無事に漢陽にまで辿り着けたなら、屋敷に戻り父に詫びよう。許してくれなくても、心から詫びるのだ。
その時、サヨンは自分の進むべき道がほんの少し見えた気がした。自分は誰かの妻となるのではなく、商売をしたい。父を手伝い、父祖代々、大切に守り通してきたコ氏の家門とコ商団を守りたい。女の自分が大の男たちに混じって商人としてやってゆくのは並大抵ではなかろう。が、父ならば、サヨンのやりたいこと、意思を理解してくれるのではという予感があった。
不思議なもので、希望を持つと、人は強くなれる。疲れ切っていたはずの身体と心に俄に力が漲ってきたのを感じ、サヨンは大きく深呼吸した。
前へ、ひたすら前だけを見て進むのだ。サヨンの求めるものは他のどこでもない故郷の漢陽にあるのだから。
自分は何て愚かな娘だったのだろう。大切なことに何故もっと早く気づかなかったのだろう。
そのときだった。聞き慣れている―けれど、最も今、聞きたくない人の声が背後から追いかけてきた。
「流石だな。これまで誰もこの森を踏破した者はいなかったのに、お前は森の秘密をいとも容易く見抜いたか」
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