その筆で描かれた絵は女の匂いがした

志貴野ハル

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第1章

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 それから数枚の書類に目を通してサインをし、佐々木さんと連絡先を交換して次に会う日を決めた。このタイミングで私が露崎涼成の超近所に住んでいることが露呈した。キモがられると震えていたら、彼は意外にも友好的だった。

「なんだ、ささやき荘ってうちの近くじゃんか。あのボロアパートでしょ」
「は、はい……六畳ワンルームです」
「ははっ、そうなの? それは知らなかった」

 私たちの横でスマホを見ていた佐々木さんが「あぁ、ここか」とつぶやいた。

「これなら通いで大丈夫そうですね」
「え?」
「遠方なら住み込みでと考えていたので。でもこれだけ近いなら通いで大丈夫そうだ」
「え? え?」

 住み込みという夢のような選択肢があった事実が飲み込めず、何度も「え?」を繰り返す。遠方に住んでいたらそんなことになっていたのか。早まった。

「では、今日はもう遅いので次回は来週にでも。場所はなるべく近いところをこちらが指定します。よろしいですか?」
「あっ、はい、よろしくお願いします」

 頭を下げて顔を上げた瞬間、露崎涼成と目が合う。途端に心臓がギュッと収縮して押し出された血液が一気に顔に集まる。

「よろしく」
「……は、はい」

 蚊の泣くような返事をする。ダメだ、三秒も見ていられない。
 閉館後の照明の絞られた美術館を佐々木さんに見送られながら出るまで足元がふわふわした。帰宅の道中、露崎涼成のアトリエ前を通る。街灯に照らされた真っ黒な門を見ながら、近いうちにここをくぐるのかと考えたらまた動悸がした。
 そんな夢心地な気分も、自宅に戻ればさあっとはけていく。
 適当な夕食と入浴を済ませ、改めて雇用契約書を眺める。週に二回、三時間から五時間(要相談)。時給三千円。こんな田舎には絶対にない破格の給料。
 これに今の勤め先である司書の給料を足すと、もっと露崎涼成の展覧会に足を運べる。手が届かなかった油彩も小さいものなら買えるかもしれない……と、捕らぬ狸の皮算用をして、はたと気づく。
 ——うち、副業禁止だ。

「あ、ど、どうしよう……」

 慌ててスマホに佐々木さんの連絡先を表示させる。二十一時過ぎ。今電話をかけるのはさすがに非常識だ。サイン会は明日もある。佐々木さんは当然、露崎涼成の隣につくだろう。
 通勤バッグの中から手帳を取り出し、生活費をまとめていたメモページを開く。家賃三万円、通信費八千円、光熱費約二万円。その他にも生命保険料や定期代がかかる。都市部に比べたら何もかも安いけど、その分、給与も安い。
 仮に今の仕事を辞めて露崎涼成のマネージャー一本にしたらどうだろうかと電卓を叩く。時給三千円を最低三時間。月に八回だとして七万二千円。五時間なら十二万円。……この生活を維持するなら今の仕事の方がいい。いやでも。
 諦めきれずにネットバンクの口座残高を開く。食費を切り詰めながら貯金を崩していけば一年くらいは大丈夫な気がしてきた。
 週に二回、露崎涼成に会える喜びと今の生活を天秤にかける。一年だけならと思いつつ露崎涼成の世話を終えた後、再就職するとなると果たして今ほどの給料をもらえるだろうか。

「…………」

 少しだけど目を見て話せた。名前も呼んでもらった。近所に住んでいると知ってもキモがられなかった。ファンならこれで十分じゃないか。そう思いたいけど欲が出てくる。
 とりあえず、次に佐々木さんと会うときに色々聞こう。仕事内容も詳しくはまだ聞けていないし、図々しいけど勤務時間や日数を伸ばしてもらえるかもしれない。今と同じくらいもらえれば図書館は辞める。

 手帳と電卓をバッグにしまって念入りに手を洗う。
 美術館のロゴが入った紙袋から買った図録を取り出し、外装のフィルムをそっと剥がした。
 背表紙側を捲ると露崎涼成の近影があった。キャンバスに向かう海外の彫刻を思わせる精悍な横顔。濡れたカラスの羽のような艶やかな黒髪。シャツの襟元から覗く固そうな喉仏。
 箔押しの表紙を指でなぞりながら今日の出来事を反芻する。露崎涼成は実在した。目の前で息をして動いていた。ずっと前から知ってくれていて、出した手紙も読んでくれていた。名前を呼ばれたことが、まだ夢みたいだ。


 次に佐々木さんと会ったのは展覧会初日から二週間後、町から離れた市街地の駅前にあるカフェだった。
 それまでの間、職場のパソコンで就労規則を見てみたけどやっぱり副業は禁止で、今の生活を維持するためには佐々木さんの申し出を断るしかない。ちゃんと考えずにサインしたのがまずかった。
 到着したホットコーヒーの向こう側にいる佐々木さんに頭を下げる。

「あ、あぁ、そうか。副業禁止でしたか。そうですよね、そういうところもありますよね」
「舞い上がって引き受けてしまった私の落ち度です。すみません」
「いえ、高山さんが謝ることでは。うーん、涼成さん、結構楽しみにしてたんだけどなぁ。……ちなみに、差し支えなければですが、月々これくらいあれば生活できるというのはありますか?」

 そう聞かれて、素直に今現在の手取りを伝える。佐々木さんの表情が明るくなった。

「それなら今の仕事を辞めてうちで働きませんか?」
「え、いいんですか」
「はい。週二回と書きましたが本当は毎日でも通って欲しいくらいですし、高山さんの時間が許すなら何時間でもいて欲しいんです」
「それは、露崎さんの生活能力がないからですか」

 佐々木さんの熱量に気を緩めて笑う。てっきり一緒になって笑い飛ばしてくれると思ったのに、佐々木さんの表情が曇った。

「それもありますが、……高山さん、あの日、涼成さんを見てどう思いましたか」
「えっと、意外によく笑う人だなぁと。芸術家の人なのでもっと神経質かと思ってたんですけど、あ、偏見ですね、すみません」
「いえ、合ってます。あの人は繊細で神経質です。気分の浮き沈みが激しいんです。前からそうでしたけど四、五年前からは特に」
「……この町に来たときからですか?」
「いえ、その前から。あまりにも日によって、最悪なときは時間時間で性格が変わるもんだから、涼成さんのそばにいるスタッフは僕一人になりました。性格が変わるといっても怒鳴ったり暴力を振るうことではないです。ただ一人になりたがるくらいで。高山さんにはそれを阻止して欲しいんです」
「え、でもそれは露崎さんの邪魔になりませんか。一人になりたいっていうならそっとしてあげたほうが」

 私の言葉を遮るように「それじゃダメなんです」と佐々木さんは首を振った。

「一人になりたがるっていうのは、そういうことじゃないんです」
「え……」
「涼成さん、もうずっと前から死にたがってるんです」
「…………」

 佐々木さんから発せられる言葉の中で薄々感じていたその空気を、わずか数秒で直接的なものに言い換えられて私は絶句した。
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