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第1章
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沈黙が長い。挨拶だと言って手ぶらできてしまったことに今さらながら気づいてしまった。無礼を誤魔化すように声を上げる。
「あぁああの、私、正式に露崎さんのお世話係を拝命いたしました」
「うん、この前聞いた」
「じ、時間も延びてですね、えぇと」
肩にかけたハンドバッグから手帳を取り出す。修正版の雇用契約書は後日受け取ることになったけど、とりあえず変更したところをメモに残していた。
「勤務時間が九時から十七時。月曜から木曜と土日のいずれか一日、週に五日ですね、こちらでお世話になります。よろしくお願いいたします」
「はい」
表情が無のまま露崎涼成が頷いた。会話が続かないし、黙ってられると無言の圧のように感じてしまう。帰った方がいいのはわかっている。でもそれだと私はただ急に押しかけてジュースをもらっただけになってしまう。何か、できることはないか。
「露崎さん、そうだ、好きな食べ物や嫌いな食べ物はありますか?」
「え? ……わかんない、特にないかも」
「この後、夕食は佐々木さんと一緒に食べられるんですか?」
「いや、そういう予定はないな」
「……じゃあ、今晩は何を」
「食べないんじゃない」
「お腹空かないですか?」
「うん」
「さ、差し出がましいかもしれませんが、私が今日ここでご飯を作ったら食べていただけますか?」
「……それが紬の仕事なんでしょ? だったら食べるよ」
あぁ、面倒くさそうだ。だけどここで日和っていたら、これから一年お世話をするなんて到底無理だ。図々しいと思われてもいい。それで露崎涼成が生きていられるなら。
「わかりました。では、少々お待ちください。買い物に行ってきます」
「はい」
今度はテーブルの角にぶつけないよう立ち上がる。露崎涼成も「よいしょ」と言いながら腰を上げた。一緒に居間を出る直前、キッチンのシンクやコンロが目に入る。
「その前に、キッチンの中を見させていただいてもよろしいでしょうか。調理器具や調味料などを把握したいので」
「どうぞ。でも何もないよ。俺、ここに来て一回も料理したことないから」
許可をもらってシンクとコンロ下の収納を開けてみる。ものの見事に空っぽだった。
「普段はどんな食事を」
「いつも洸太が買ってきてくれるやつを適当に食べてる」
「…………」
調理器具は自分の部屋から持ってきた方が良さそうだ。問題は食材だ。ここからスーパーに行くなら、今の時間ならタクシーになる。行って買い物して帰ってくるだけでも一時間かかるとして、それから作るとなると二時間は欲しい。
使われた形跡のないコンロの前で思案していると、真後ろにあるダイニングテーブルからバイブ音がした。驚いて振り向いたのを同時に露崎涼成が動く。
「お、洸太から電話だ。——はい」
まずい。佐々木さんには今日、私がここに来ることを言っていない。
勤務開始はあくまで退職してからで、今ここに私がいるのはおかしい。
「……今日? 今、紬にも聞かれたけど別にない。あーでもタバコ買ってきてほしい。紬? いるよ、目の前に。いや、家。今、飯作ろうとしてくれてる」
露崎涼成がこちらを見た。まだ何も言われてないのに、ほとんど無表情の目で見られて肩がビクッと跳ねる。
「洸太が代われって」
「……はい……」
差し出されたスマホを受け取ると、露崎涼成はキッチンから出て行った。居間ではなく左に曲がっていったのを見て慌てて追いかけると、玄関ではなく今度は右に曲がっていった。長い廊下とその左側に大きな掃き出し窓があって、露崎涼成がそこを開けて外に出ていく。
「もしもし、お電話代わりました、高山です……」
『高山さん、お疲れ様です。今、涼成さんの家にいるんだって? ごめん、俺があの話をしたからだよね、怖くなった?』
「い、いえ、……すみません、不安になってしまって、まだ仕事も辞めてないのに行きました」
『いや、全然謝ることじゃないですよ。どうですか、この前会ったときと少し違う感じしない?』
廊下から嗅ぎ慣れたタバコの匂いが漂ってくる。
「あ……そうですね、大人しいと言いますか、口数が少ないと言いますか、笑ってくれなくなっちゃいました」
『でしょう。サイン会とかインタビューとか、愛想が必要な仕事が諸々終わって疲れてるんだよ。でも会話してくれるから今日はまだいい方かな。最悪なときは電話に出ないし、話しかけても反応ないし、ずっと部屋に篭っちゃって出てきてくれないから。それでも僕は勝手に入っちゃうんだけど』
「そ、そうなんですね、疲れてるところ押しかけてしまいました……」
『でも入れてくれたでしょう? 大丈夫ですよ。涼成さん、高山さんのこと気に入ってますから』
前にも聞いたけど、一体それは何をもってして出てきた評価なのだろう。
私がしたことといえば、ファンレターを書いたり展覧会にしつこいくらい何度も足を運んだり、お金が続く限りグッズを買い集めたりするくらいだ。きっとそんなのは手作り強要女だってしているはずで、何も特別なことはない。
『そこ、まだ料理できる環境じゃないから今日は僕が弁当か何か買って行きますよ。高山さんは何が食べたい? って急に聞かれても困るか。色々買って行きますね』
「私もいいんですか?」
『はい、涼成さんと一緒に食べてやってください』
佐々木さんがまるで親のような口調で笑った。『それでは後ほど』と、通話が切られる。
私が仕事でもないのに急に訪ねてきたと知って露崎涼成はきっと嫌な思いをしただろう。怒られるのを覚悟で廊下を進む。それにしても広い家だ。右手側には掃き出し窓と同じく障子扉が何枚も並んでいる。
「露崎さん、スマホ、ありがとうございました」
露崎涼成は砂利の敷き詰められた庭先に立っていた。くるりと振り向いて、指に挟んでいたタバコを唇に咥えると右手を差し出された。そこにスマホを乗せる。
「洸太、来るって?」
「はい、お弁当を買ってきてくれるそうです」
「なんだ、じゃあ紬は作らないのか。残念、ちょっと楽しみだった」
薄く微笑まれる。お世辞だとわかっていても嬉しくて舞い上がってしまう。
「ざ、材料も、包丁もお鍋もないですから、また今度、きっちり準備してから作りますね」
そう伝えると、露崎涼成が「うん」と頷いた。
「あぁああの、私、正式に露崎さんのお世話係を拝命いたしました」
「うん、この前聞いた」
「じ、時間も延びてですね、えぇと」
肩にかけたハンドバッグから手帳を取り出す。修正版の雇用契約書は後日受け取ることになったけど、とりあえず変更したところをメモに残していた。
「勤務時間が九時から十七時。月曜から木曜と土日のいずれか一日、週に五日ですね、こちらでお世話になります。よろしくお願いいたします」
「はい」
表情が無のまま露崎涼成が頷いた。会話が続かないし、黙ってられると無言の圧のように感じてしまう。帰った方がいいのはわかっている。でもそれだと私はただ急に押しかけてジュースをもらっただけになってしまう。何か、できることはないか。
「露崎さん、そうだ、好きな食べ物や嫌いな食べ物はありますか?」
「え? ……わかんない、特にないかも」
「この後、夕食は佐々木さんと一緒に食べられるんですか?」
「いや、そういう予定はないな」
「……じゃあ、今晩は何を」
「食べないんじゃない」
「お腹空かないですか?」
「うん」
「さ、差し出がましいかもしれませんが、私が今日ここでご飯を作ったら食べていただけますか?」
「……それが紬の仕事なんでしょ? だったら食べるよ」
あぁ、面倒くさそうだ。だけどここで日和っていたら、これから一年お世話をするなんて到底無理だ。図々しいと思われてもいい。それで露崎涼成が生きていられるなら。
「わかりました。では、少々お待ちください。買い物に行ってきます」
「はい」
今度はテーブルの角にぶつけないよう立ち上がる。露崎涼成も「よいしょ」と言いながら腰を上げた。一緒に居間を出る直前、キッチンのシンクやコンロが目に入る。
「その前に、キッチンの中を見させていただいてもよろしいでしょうか。調理器具や調味料などを把握したいので」
「どうぞ。でも何もないよ。俺、ここに来て一回も料理したことないから」
許可をもらってシンクとコンロ下の収納を開けてみる。ものの見事に空っぽだった。
「普段はどんな食事を」
「いつも洸太が買ってきてくれるやつを適当に食べてる」
「…………」
調理器具は自分の部屋から持ってきた方が良さそうだ。問題は食材だ。ここからスーパーに行くなら、今の時間ならタクシーになる。行って買い物して帰ってくるだけでも一時間かかるとして、それから作るとなると二時間は欲しい。
使われた形跡のないコンロの前で思案していると、真後ろにあるダイニングテーブルからバイブ音がした。驚いて振り向いたのを同時に露崎涼成が動く。
「お、洸太から電話だ。——はい」
まずい。佐々木さんには今日、私がここに来ることを言っていない。
勤務開始はあくまで退職してからで、今ここに私がいるのはおかしい。
「……今日? 今、紬にも聞かれたけど別にない。あーでもタバコ買ってきてほしい。紬? いるよ、目の前に。いや、家。今、飯作ろうとしてくれてる」
露崎涼成がこちらを見た。まだ何も言われてないのに、ほとんど無表情の目で見られて肩がビクッと跳ねる。
「洸太が代われって」
「……はい……」
差し出されたスマホを受け取ると、露崎涼成はキッチンから出て行った。居間ではなく左に曲がっていったのを見て慌てて追いかけると、玄関ではなく今度は右に曲がっていった。長い廊下とその左側に大きな掃き出し窓があって、露崎涼成がそこを開けて外に出ていく。
「もしもし、お電話代わりました、高山です……」
『高山さん、お疲れ様です。今、涼成さんの家にいるんだって? ごめん、俺があの話をしたからだよね、怖くなった?』
「い、いえ、……すみません、不安になってしまって、まだ仕事も辞めてないのに行きました」
『いや、全然謝ることじゃないですよ。どうですか、この前会ったときと少し違う感じしない?』
廊下から嗅ぎ慣れたタバコの匂いが漂ってくる。
「あ……そうですね、大人しいと言いますか、口数が少ないと言いますか、笑ってくれなくなっちゃいました」
『でしょう。サイン会とかインタビューとか、愛想が必要な仕事が諸々終わって疲れてるんだよ。でも会話してくれるから今日はまだいい方かな。最悪なときは電話に出ないし、話しかけても反応ないし、ずっと部屋に篭っちゃって出てきてくれないから。それでも僕は勝手に入っちゃうんだけど』
「そ、そうなんですね、疲れてるところ押しかけてしまいました……」
『でも入れてくれたでしょう? 大丈夫ですよ。涼成さん、高山さんのこと気に入ってますから』
前にも聞いたけど、一体それは何をもってして出てきた評価なのだろう。
私がしたことといえば、ファンレターを書いたり展覧会にしつこいくらい何度も足を運んだり、お金が続く限りグッズを買い集めたりするくらいだ。きっとそんなのは手作り強要女だってしているはずで、何も特別なことはない。
『そこ、まだ料理できる環境じゃないから今日は僕が弁当か何か買って行きますよ。高山さんは何が食べたい? って急に聞かれても困るか。色々買って行きますね』
「私もいいんですか?」
『はい、涼成さんと一緒に食べてやってください』
佐々木さんがまるで親のような口調で笑った。『それでは後ほど』と、通話が切られる。
私が仕事でもないのに急に訪ねてきたと知って露崎涼成はきっと嫌な思いをしただろう。怒られるのを覚悟で廊下を進む。それにしても広い家だ。右手側には掃き出し窓と同じく障子扉が何枚も並んでいる。
「露崎さん、スマホ、ありがとうございました」
露崎涼成は砂利の敷き詰められた庭先に立っていた。くるりと振り向いて、指に挟んでいたタバコを唇に咥えると右手を差し出された。そこにスマホを乗せる。
「洸太、来るって?」
「はい、お弁当を買ってきてくれるそうです」
「なんだ、じゃあ紬は作らないのか。残念、ちょっと楽しみだった」
薄く微笑まれる。お世辞だとわかっていても嬉しくて舞い上がってしまう。
「ざ、材料も、包丁もお鍋もないですから、また今度、きっちり準備してから作りますね」
そう伝えると、露崎涼成が「うん」と頷いた。
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