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5.優しい夜
優しい夜①
しおりを挟むカジョウ、御曹司、kajo…………なに?
楠木君のこと?
なんか、聞き捨てならない事を言われた気がするが、頭は回らず何も考えられなかった。
今はそれどころじゃない、逃げなければ。
「──腕を、退けてください」
「うるさい」
「退けないと、今すぐ警察を呼びます」
「……は、ケーサツ? どうやって?」
態度は強気だが、動揺した南澤さんの手が一瞬緩んだ。
自分が私に何をしているのか、わかっていなかったのだろうか、破れたシャツの一部を見て、もう一度私を見て、我に返ったかのように驚いた様子で、顔を顰める。
「放してください」
「…………」
次の瞬間、
階段へ続く扉が勢いよく開く音がして、焦り急いでいるような、人の足音が聞こえた。
「────沢北さんっ!!」
押さえ付けられているから姿は見えなくて、でも、その声が誰なのかわかった瞬間、我慢していた涙がぼろりと零れ落ちた。
河上さんだ、
来てくれた──。
「……おまえ、南澤、何をやっている」
「…………チッ」
男はわざとらしく舌打ちをして、目の前にいる私を、ドアに向かって突き飛ばした。
そして非常階段のあるエレベーターの方へと走り出す。
「沢北さん!」
河上さんが玄関と通路の隙間でへたり込んでいる私を見つけ、手を差し伸べようとするが、引き裂かれたシャツ姿の私が酷い状態であることに気付き、動きを止めた。
いつも飄々としている河上さんが、焦りか怒りか、見たことのない形相で、逃げていく男の後ろ姿を捕らえた。殺気を感じるほど。
その横顔に、胸を突かれる。
「大丈夫です、私まだ何もされていない」
「……遅くなってごめん」
自分が着ていたジャケットを私に被せ、「南澤……」と逃げる男を追いかけるために立ち上がろうとした。
ところが、走り出そうとしたその腕に縋りつき、河上さんの腕を、着ているシャツを掴んで離そうとしなかったのは、私だった。
「い、行かないで、ここにいて」
「…………」
全身の震えが止まらない。
南澤さんが何処に逃げようがどうでもいい、今はここに、私の傍にいて欲しい、
お願い。
非常階段へ向かう男の前に、タイミングよくエレベーターが到着し扉が開いた。スマホ片手に中から出てきたのは、楠木君だった。
「──鉄平! そいつ捕まえて」
「は!? え? あっ! こいつ!」
素早く構えの姿勢になり、いつもは動きが鈍いと言われている職場の彼と同一人物とは思えないスピードで、人など殴れないと言っていたその手で、首下の急所へ一発、怯んだところに思いっきり下突きを入れ、逃げようとする男の動きを封じた。その場に踞る。
く、楠木君、すご……。めちゃくちゃ強いんじゃない。型しかできない、人は殴れないとか言いながら、なにあれ。
「……ぅぐぬうううぅ……」
「うわ やっちゃった。〝また、つまらぬ物を殴ってしまった──〟」
そんなことを呟きながら、踞る南澤さんを冷酷な表情で睨み付け、ごろりと横に転がした。惨い。
でもその、つまらぬ物云々のくだり、この緊迫した場面でまさか、石川五右衛門の決め台詞を使ってませんよね? 言い方も。
止めてよもう、笑いたくなるから!
「だ、大丈夫かな、死んでませんか?」
「大丈夫でしょう。むしろ殺したいぐらいですが」
緊張の糸がぷつりと切れて力が抜け、倒れ込む私を河上さんが抱き留めてくれた。
一日働いた後の、河上さんの匂いがする。
いい匂い、知っている匂い、安心する。
安堵のせいか止めどなく涙が溢れ出して、河上さんの胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
怖かった、最悪だった、勝手なことをしてごめんなさい、でも、
来てくれると信じていた。
◇
「──ずっと会話が繋がっていたんです」
出れずに切れたと思っていた二回目の電話は、私の誤操作により、通話状態になっていた。
「話、聞こえてた?」
「ぼそぼそとですが、大体は。スピーカーで二人で聞いてましたから、それで透弥さんがもっと早くもっと急げって、無茶言うから」
「……ごめんなさい、心配かけて」
楠木君との最初の電話を、たまたま近くにいた河上さんが耳にして、有無を言わさず『行くぞ』と、仕事を全て他の社員に任せ、二人で会場を飛び出したそうだ。
「僕一人では判断できませんでしたからね、本当に良かった。透弥さんの勘とか判断は、かなりの確率で正しいですから」
本当に、時間が数分ずれていたらと思うと、震える。
それにしても二人、ずい分仲良くなったのね。さっきなんて名前で呼ばれてたし。
その河上さんだが、今はここにはいない。
河上さんにしがみつきながら散々泣いた私は、一先ず部屋の中に入るよう促された。
顔も衣服も何もかもぐちゃぐちゃに乱れて悲惨な状態だったから、一度離れたら途端に恥ずかしくなり、会わせる顔がなくなり、後退りするように室内へと逃げた。
楠木君にノックアウトされた南澤さんは、私が部屋に入るのと同時にやって来た〝河上さんの知り合いの弁護士〟という人物に別の場所に連行されてしまった。そして河上さんもそれについていったまま、戻ってこない。
『楠木君、少しの間、沢北さんを頼むね』
『はい』
『ど、どこに行くんですか!? なんで?』
『……うん、すぐに戻るから。話を付けてくるだけ』
『だ、ダメだから! 南澤さんと話すのは! あの人どういうわけか、河上さんに相当恨みを持っていて、』
『わかってる。だからだよ、ごめんね』
『え?』
何がごめんね?
こんな事態に陥ったのは、自分が甘かったせいだと、またわからない事ばかり言う。
ごめんねは、私の台詞だよ。
「河上さんの言ってた事、意味わかった?」
「……さあ、僕は何も全然わかりません」
「ねえ楠木君、河上さん遅くない? 変だよね、危険な目に遭ったりしていないかな」
「透弥さんが? ないない、大丈夫ですよ」
「何を根拠にそんな」
「えーと、あの人はほら、強そうだから! 何と無く……」
「適当なこと言わないで、怖いよ」
「怖いんですね……。でももう大丈夫です。それにまだそんなに時間は経っていませんし。それより七渚さん、こんな目に遭っているのに、本当に警察に突き出さなくていいんですか?」
「……」
冷静になると、南澤さんが突然現れた時の驚きと衝撃、迫ってくる時のギラついた異常な目、声、腕を思いっきり引っ張られ押さえ付けられた時の恐怖や痛み等々のせいでショックが大きく、心身の緊張状態がまだ抜けない。
人の負の感情に引きずられ、気が重い。
安心したとはいえ息苦しさがあり、また思い出してしまう。私はこれから一人で、待ち伏せされたこのマンションで、怯えずに生活できるのだろうか、はたして。
「いい。警察はいい」
「でも、」
「もういい、もう関わりたくないってさっき河上さんにも言った!」
「…………そうですか」
「私が何か言ったせいで、カッとなったみたい。服が破けたのも部屋に逃げられないようにって勢い余っただけで。腹立たしいけど、私を襲う程の気持ちは無かったと思うし」
「襲う気が有るか無いかの問題ではないですからね、あの状況は。僕は許せません」
それでも、首を横に振る。
河上さんにも聞かれたけれど、警察沙汰にはしたくないと伝えてある。
二度と関わらない、私の前に姿を見せない、それだけは絶対に必ず約束してもらい、後は終わりにしたかった。
大した事のない罪状のために大ごとにして、また逆恨みされるのは勘弁だし、南澤さんの事をこれ以上考えたくはない。
河上さんは難しい顔をしていたけれど、わかったと頷いて、そのまま行ってしまった。
「どうぞ。温まるので飲んでください」
「……あ、どうもありがとう」
楠木君が、腰の抜けた状態で座り込む私を見かねて台所に立ち、ケトルで沸かした湯でお茶を淹れてくれた。優しい。
「……楠木君、これ何茶? 色が薄い……」
「お湯です」
「お湯? お茶を淹れますって言わなかった?」
「玉露が見当たらなくて、小さな袋に入った茶色いやつしか」
「小さな袋の茶色いやつ……? ああ、焙じ茶のティーバッグのことか。それもお茶だよ。玉露はうちには無いなぁ」
「ティーバック……え」
「え? ああ、ティーbackじゃなくて、ティーbagね。意味合い全然違ってくるから。……まあいいや、お湯ありがとう」
楠木君は相変わらずで拍子抜けするが、のほほんとした空気に少しだけ気が和らぐ。
彼にはひとつ聞いておきたいことがあり、話を切り出した。
「……カジョウの御曹司って、なにかな」
「あ」
「ん? 話聞こえてた? お前なんか本気で相手にする訳ないとか言われたけど、あれはどういう意味だろ、何言ってんのかなって。カジョウって、《kajoコーポレーション》のことかな、うちの親会社の」
「……kajo、コーポレーション」
「それしかピンと来なくて。他にある?」
「さあ、それはどうなんでしょうか! 僕は何も全然わかりませんが!?」
「なに楠木君、突然テンション高くして」
kajoコーポレーションといえば、我が社のグループ企業トップにいる親会社で、日本の一流企業ランキングにも名前が載るような、誰もが知っている大企業だ。
巨大グループの傘下にいるだけのうちとは、規模も業種も全然違う。ほとんど関りはなく、あまりわかっていない。
楠木君だって十分過ぎるほど雲の上の人物だが、kajoグループのトップの人達なんて、更にもっと上の上、一生会うことは無いと思う。
「言ってることが滅茶苦茶だから気にしなくていいとは思うんだけどね、楠木君なら何かわかるかと思って。いずれにしても、私とは何の関係も無いのにね。あ、もしかして面識ある?」
「kajoの御曹司とですか?」
「御曹司っていうか、うん」
社長が結構なお歳だと思うから、年齢的には40代、若くても30代位だろうか。
「ありますよ、会ったこと」
「へえ、さすがだ、すごい」
「萎びていても楠木の次男坊、ですから」
「いいえ萎びてません、とても格好良かったです。あの一撃は痺れましたから」
楠木君は苦笑しながら、いつ暴漢に襲われるかもしれないから、身を守る術はあった方がいいと、お兄さんに無理やり護身術を叩き込まれたと言う。やはり一般人とは違うのだろうか、危険度が。
「いえそんな事はありません、兄が過保護なだけです」
「兄弟仲が良いんだね」
「はい。兄はブラコンなので、僕に対して」
「あ、なんとなくわかる。楠木君は年上に好かれるもの、放って置けないって。……私にも教えてくれないかな護身術、今日みたいな事があるとね」
ああ、ダメだわ。やっぱり映像で出てきてしまう。また全身がザワザワと寒くなる。
「僕も大概鈍いと言われますが、あなたも相当ですね、清らかなのか」
「清らかとは何が? また何の話か」
「……兄の、友人なんです」
「誰が?」
「あ、えーと、kajoの、社長のご子息が」
「ええっ、そういう繋がりがあるのね」
話している最中にドアが開き、遅いと心配していた人が戻って来た。
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