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5.優しい夜
優しい夜②
しおりを挟む私以外は父しか入ったことのないこの部屋に、河上さんと楠木君がいる。
奇妙な光景。身長の高い大人の男が二人も。部屋が狭く感じる。
「透弥さん、早かったですね」
「いや、まだ続いてる。俺がいると感情的になって危ないからって、追い出された」
「ああ、なるほど。そうでしょうね」
「……」
河上さんにいつもの軽やかさはなく、疲労感漂うやや気怠い雰囲気で、何となくいつもとは違う人に見える。
気持ちを切り替えるように深く息を吐き、部屋の端に小さく座っている私の方を見た。
「沢北さん、大丈夫……ではないと思うけど、どう? 少し落ち着いた?」
「……はい」
声が掠れた。
さっきは感情が昂り、遠慮もせず河上さんに抱き着き、子どものように泣いてしまった。
恥ずかしい。ただただ恥ずかしい。あんな状況あり得ない。河上さんのシャツを鼻水で汚したかもしれない。それなのに河上さんの姿を見るとまた気弱になり、泣きたくなり、ぐずぐずになり俯く。
ご迷惑をお掛けして申し訳ありません、と頭を下げると、沢北さんが謝ることは何もないからと、力なく笑う。
私が軽率な行動を取ったせいで、相当疲れさせてしまった。申し訳なさすぎる。
「それで、あいつはどうなったんですか?」と、楠木君が切り出し、私の反応を気にしてこちらを見る河上さんに、私も教えて欲しいとお願いした。
*
「結論から言うと、警察には通報しません、が、実家のある九州に帰ることになりました。仕事も辞めて」
「仕事を、辞めて?」
「ええ。でもこちらから辞めるように言ったわけではありません、自分からそうすると。母親が一人で飲食店をやっていて、その店を手伝うと。まあ、今後沢北さんと俺の視界には絶対に入るな、本州の地は二度と踏むな、少しでも姿が見えたらどこまでも追いかけて社会的に抹殺してやる必ず。くらいのことは言いましたが」
「うわ……透弥さんのそれは、本気で恐ろしいです。僕でも帰りますよ、九州」
感情的になって危ないって、どんな交渉をしてきたのか。想像できない。
恐ろしいイメージなど全く無いもの。
南澤さんは、婚活の場では良い印象を持たれそうな優良企業にお勤めだが、実際のところは職場でもトラブルが絶えず、浮いた存在だったらしい。
私生活でも、婚活中に出会った意中の女性がいたものの全く相手にされず、理由を聞けば、どこぞの御曹司、実家がお金持ちの男性で想う人ができたと、きっぱりお断りされたそうだ。
おそらくそれだけが理由ではないと思うが、劣等感が高まり憎悪を抱く一因となったと。想像した通りだ。
「仕事もプライベートも、何もかもうまくいかない状態で、鬱憤が溜まっていたんでしょう。全て自業自得なのに、誰かを恨む事でバランスを取って」
意中のその女性以外にも、婚活中に数々の女性から散々拒否され弱っている時に、私と再会してしまった。〝そういえばこいつなら思い通りになる〟とでも思ったのだろう。
それなのに自分とは真逆の、愛されオーラ全開のイケメンが現れたものだから。
「あなただけが、彼にまともに接して優しかったからです」
「いえ、嘗められていましたから。それなら演技は逆効果だったというわけか」
「かえって煽るようなことになり、火をつけてしまいました。俺が余計なことをしたからです……ごめん」
「違います、そんなことありません」
謝らないで、違うのに。
庇ってもらって、良い事を言ってもらって、嘘でも優しく扱われて、あれは本当に嬉しかったから。
「あの、河上さんのご実家ってもしかして、お金持ちだったりしますか?」
「え?」
「実家が裕福とか、生まれながらに恵まれた環境にいる人に対する僻みがすごかったですから。楠木君のことも調べていましたし」
河上さんは、ああ……と、微妙な表情で首を傾げる。
「まあ、はい。貧乏ではないかな」
「やっぱり。それで逆恨みされたんです」
隣で静かに話を聞いていた楠木君が、なぜか咳き込むように吹き出した。
「どうしたの楠木君、大丈夫?」
「無意識に息を止めて聞いてました」
「なんでよ、息はしてください」
楠木君はもう一度ゴホゴホと咳き込んだ後、気を取り直したように、私の顔を真剣な表情で覗き込んだ。
「七渚さん、どうしますか? これから」
「え?」
自分の事ばかりで気が回らなかったが、時計を見ると、かなり遅い時間になっていた。
「す、すみません! こんな時間までお引き留めして。ごめん、お二人とも仕事帰りで夕食もまだなのに、うっかりして」
作りかけの八宝菜はあるけれど、さすがにどうぞ召し上がってと言える空気ではない。
たしか河上さんは明日は休みだが、私も楠木君も通常通り仕事で、いつまでもこんなことに付き合わせるわけにはいかない。
「お世話になりました。ありがとうございます。もう大丈夫なので えっと……」
「そうではなくて、怖い思いをしたこの場所に、今後も一人で住み続けるのは、難しいのではないかと」
「ああ、そういう……」
顔を上げて玄関の方を見ると、先ほど頭を打ち付けられたドアの内側の青色が、とても不気味に見えて、今までとは違うと感じた。
ハイツ・インディゴブルー、就職してからずっと住み続けていたお気に入りの私の城だというのに、こんなことで、こんな気持ちに。
今は、平気とは言い難い。
夜、一人でここに帰ってくることを考えると、もう誰も潜んでなどいないとわかっていても、不安で憂鬱。恐怖心はしばらくこびりついて頭から離れないかもしれない。
「デザイナーズマンションというのか、ちょっとお洒落で懐かしいような建物ですけどね、レトロっぽくて。でもセキュリティーの面では甘いかもしれません」
「怖い事を言わないでよ。そのマンションに私何年も住んでいたんだから。もし無理そうなら……明日以降ちゃんと考えます」
今は何も考えられないと、遠回しに伝えたつもりが、楠木君はうんとは言わない。
「じゃあ、とりあえず今夜はどうします?」
「今夜?」
「七渚さん、ここで一人でいられますか? 眠れそうですか?」
「勿論眠れるよ。ここで寝るしかないもの。うん、鍵を閉めれば平気、大丈夫」
「本当に?」
「本当に。お二人もほらもうこんな遅い時間ですし、ありがとうございました。後は自宅に帰ってどうかゆっくり過ごしてください。楠木君もお腹空いたでしょう?」
立ったまま腕組みをして様子を伺っていた河上さんも、口を挟む。
「誰か近くで頼れる人は? 今夜泊めてくれそうな人、親戚とか友達とか」
「泊めてくれる人……急に泊めてとか、突然行ってOKな人は、いませんね……親戚も」
改めて思う。何かあった時に近くに頼れる人が一人もいないって、どうなのって話。
怪我や病気で入院するなどしたら……まあその時はさすがに父を呼ぶしかないけれど、今日のこれは無駄に心配を掛けるだけだから言いたくない。連絡するつもりもない。
大学時代の友人はいるにはいるが、連絡も取り合っていないし、関係は薄いもんな。
頼る当ては全然ないですとか、そんな事を堂々と言うのも気が引けるのだが。
困っていると、
「わかりました。七渚さん、今日はひとまずここから移動しましょう」
「移動? どこに? もう大丈夫って」
「大丈夫じゃないでしょ?」
「……明日は仕事だし。楠木君もだよね?」
「それはそうですけど、今これ非常事態じゃないですか、無理しないでください」
「無理なんかしてない、もう平気。お二人ももうお家に帰らなくちゃ。ありがとうね」
「はい。平気なのはわかりましたが、あなた一人をここに置いていけないですよ、僕も、透弥さんも」
「……」
心配してもらっているというのに、なにがなんだか自分でもさっぱりわからないけれど、悲しくて悔しくて泣けてきた。
またこれだ、最悪。
溢れ出した涙をティッシュで拭う。
情けない、不甲斐ない、この歳になっても自分一人でシャンと立てないなんて。親しい友人もいなければ、一人でも役立たずで。
何のためにここで頑張ってきたのか。
「不安になるに決まってるじゃないですか、つい今しがた、怖い思いをしたのですから。パニクって当然です」
楠木君は最初から決めていたかのように、シレッとした顔でとんでもない提案をする。
「七渚さん、僕の家に来ますか?」
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