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溶ける背徳
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しおりを挟む──そして、現在。
十六歳で初めて触れた唇の温度も、あの秋の夕暮れも、もうとっくに、遠い記憶の底に沈んでいるはずだった。
七月の中旬。午後の日差しが教室の窓ガラスをやわらかく照らしていた。
新学期が始まって数ヶ月。三者面談週間の空気が、校内に落ち着かないざわめきを運んでくる。
あまねは、高校の国語教師として勤務して三年目を迎えていた。
きちんと感のあるスーツに身を包み、授業も丁寧で真面目。外から見れば落ち着いた印象だろう。けれどその実、あまねの胸の内には常に小さな緊張が根を張っていた。
失敗は許されないという思いが抜けず、どこか肩に力が入ったまま過ごすことが多い。今年からは二年生の担任も任され、更に気が抜けない毎日だ。
この仕事にまだ慣れるには遠く、必死さだけは手放せずにいる。
そんな中、面談カードを確認しながら、あまねは次の生徒の名前に目を落とす。
「……次は眞壁くん、か」
ぽつりと小さくつぶやいたあまねの指先が、ふと止まった。
懐かしい──甘酸っぱくも痛みを伴うような、そんな感覚がかすめる。けれど、すぐに頭を振った。
眞壁なんて、よくある名前だ。なのにこうして同じ苗字に触れるたび、似たような名前を耳にするたび、あの日の感覚が蘇る。
夕暮れの自室、触れた唇の温度。今もなお、鮮明に残る初恋の記憶。
(……だめだ、今はそんな、くだらない過去に気を取られている場合じゃない)
感傷を振り払うように、あまねは小さく息をつき、面談カードへと視線を戻した。
そこには、今、担任として向き合うべき生徒の名前。
彼は物静かで、まじめな生徒だ。提出物もきちんと出して、授業中も素直にノートを取っていて、教師として接してきた中でも特に手のかからない部類の子だった。
──今回は、あまり神経を使わずに済みそうだ。
そんな気持ちが、ほんの少し胸の奥にぬるく灯る。気を張り詰める必要のない面談。新米教師としては、そういう時間は正直有難い。
あまねは穏やかな気持ちのまま、面談資料を整理しながら机に座っていた。
やがて、ドアがノックされる音。
「どうぞ」
反射的にそう返したあまねは、次の瞬間、胸の奥が凍るような感覚に襲われた。
扉が開き、ゆっくりと顔を見せたのは生徒である眞壁霧翔。そしてそれに続くように入ってきたのは──眞壁清澄だった。
落ち着いた紺色のスーツ。整えられた髪。やわらかな笑みと、変わらぬ目元の涼しさ。
記憶の中に沈めたはずの姿が、十年という時を超えて、現実の輪郭をもってそこに立っていた。
一瞬、呼吸が止まる。声をかけられるより先に、激しい心臓の音が耳を打ちつけた。
「はじめまして。篠宮先生」
低くて穏やかな声。その響きは、あの秋の夕方と同じだった。
あまねは、なんとか表情を崩さずに口を開いた。
「……はじめまして。…眞壁くんの、保護者の方ですね」
「ええ。弟が、いつもお世話になってます」
まるで初めて出会ったかのような、ていねいな口ぶり。けれどその視線には、どこか懐かしさのようなものが滲んでいた。
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