溶ける背徳、秘め事の灯

春夏冬

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溶ける背徳

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あまねのことを覚えているのか、それともただの勘違いでそう見えるだけなのか。確かめるすべもないまま、ただ笑顔を向けられていた。

(なんで、こんなときに……)

そこからは頭が真っ白になって、何を話していたかはっきりと覚えていない。資料を読み上げ、本人の生活態度について触れ、志望校の話をする。

形式的なやり取りの中で、清澄は頷きながら穏やかな笑みをたたえていた。

生徒の話をするあまねの声も、形だけは落ち着いていた。そこにはまるで、あの日のことなんて初めからなかったかのような空気だけが、存在していた。


「……以上が、現在の霧翔さんの状況です。今の成績を維持できれば、第一志望への進学も問題ないと考えています」

一通り話し終えたあまねが顔を上げると、清澄は変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。

「丁寧にありがとうございます。先生の授業もお人柄も、弟はとても好きみたいで。担任が篠宮先生で良かったと、いつも言ってるんですよ」

「!?ちょ、兄ちゃん!余計な事言わなくていいから!」

突然の割り込みに、思わずあまねは瞬きをした。一瞬目が合うと、霧翔は赤くなりながら顔を伏せる。

担任の前で兄にからかわれたのが、よほど恥ずかしいらしい。

「……そうですか。良かったです」

ほんの少しだけ喉の奥が詰まりそうになるのをこらえながら、あまねは笑顔をつくった。

「では、また何かありましたらいつでもご相談ください」

「はい。今後も弟をよろしくお願いします」

清澄は立ち上がり、椅子を音もなく引いた。彼らがドアに向かう間も、あまねの心臓は鳴り続けていた。

そして、ドアの前で一瞬だけ清澄の足が止まる。振り返った視線が、ふたたびあまねに向けられた。

「先生。……それじゃあ、また」

笑顔のままそう言った彼は、今度こそ扉の向こうへ消えていった。



教室に静寂が戻る。夏の光だけが、さっきと変わらず机を照らしていた。

本当に、“あの日”は夢だったのかもしれない。そんなふうに思えるくらい、彼をまとう空気はすべてが静かで、穏やかで、そして現実味がなかった。

けれど──その余韻は、胸の奥に静かに残っていた。

声の低さも、話し方の穏やかさも、陰りを帯びた目元も。十年前のあの日と何ひとつ変わっていなかった。

まるで記憶の中からそのまま抜け出してきたみたいに、時間だけが巻き戻ったような感覚が胸の奥に静かに広がっていた。

「……っ」

ふと視線を落とす。気づけば面談資料の端を、無意識に強く握っていた。

まるで、身体のどこかが自分の気持ちを代弁してしまったみたいだった。



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