14 / 192
《第2章》 西新宿のエウリュディケ
新宿西口の本屋さん
しおりを挟む
四月も月末に近づくと、どこもかしこもゴールデンウィークの気配が立ちこめている。すれ違うすべての人が連休を待ちわびて、活気づいているようだ。
金曜日の夕方一七時、JR新宿駅におりた瞳子は、複雑怪奇な駅の構造に惑わされず、スムーズに都庁方面の地下街へと向かった。
――西口なんて久しぶり。昔は新宿に来たら、まず南口のバレエショップでいろいろ見てたな。
もう二度と立ち寄ることのない場所だ。そして新宿といえば、京王線に乗りかえて一駅の初台のオペラシティに行くことが多かった。
彼女にとっては、新宿駅、バレエショップ、オペラシティの新国立劇場までがワンセットだった。なんとなく気になって直近の公演を調べると、五月の連休に「オルフェウスとエウリュディケ」がかかっていることが分かった。
しばらく前に亡くなったドイツの有名な女性振付家の作品だ。瞳子は映像でしか観たことがない。おそらく、日本で公演するのは初めてだろう。昔の自分だったら、半年以上前から楽しみにしていたに違いない。
「あ、これは観たい」
ぽつりと瞳子はつぶやいた。今の彼女も、まだそちらの世界に未練がある。恋焦がれている。
いけない、いけない、足を洗ったんだから。そう思いなおして、待ちあわせに指定された地下街の書店へと足どりをはやめた。
飛豪から連絡が来たのは、昨日木曜の夜だった。近所にあるパン工場のライン作業のアルバイトを終えてスマートフォンを開くと、ショートメールが届いていた。
金曜夜は大抵、時給のいい夜勤ラインにはいっている。今週もそのつもりだったが、瞳子はすぐにキャンセルをした。彼のお陰で首がつながったのだから、彼の予定を最優先にしよう。今後、どのくらいのペースになるのかは今日話をして、上手く調整しておきたい。
書店に到着したのは、待ち合わせよりも三〇分ほど早い時間だった。
本や雑誌を読むのは好きだけれど、この数年、もっぱら図書館ばかりだ。大学のテキストだって中古で買っているくらいなのだ。新刊などとても手が出せない。そんな余裕があったら、食費か返済にあてる。
ファッション誌や映画雑誌のピカピカのカバーを眺めていると、心が浮きたった。気の向くまま、旅行ガイドのコーナーに足をはこぶ。最初に手にとったのは、台湾の旅行ガイドだった。
今日の二限後、ゼミの友達二人と学食でお昼を食べていた時、彼女らがゴールデンウィークに台湾に行く、と話していた。台湾はところどころで日本語が通じるし、食べ物もおいしく、雰囲気も素敵なカフェが多いようだ。
コンクールやワークショップでヨーロッパには行ったことがあるが、アジア圏はない。魯肉飯、豆花、日本とは違う色彩のテキスタイルや小物がカラーページに溢れていた。
「いいなぁ」
つい、羨望の声が漏れてしまっていた。
「何が?」突然ぬっと真横にあらわれた大きな人影に、ページが暗がりとなった。
「きゃっ」
至近距離の他者の気配に、瞳子は小さく悲鳴をあげ、勢いよく本をとじる。
薄いクリーム色のTシャツに、いかにも穿きつぶした感のある古びたデニムと、ダークカラーのウィンブレを着た大男――李飛豪――が隣に立っていた。
金曜日の夕方一七時、JR新宿駅におりた瞳子は、複雑怪奇な駅の構造に惑わされず、スムーズに都庁方面の地下街へと向かった。
――西口なんて久しぶり。昔は新宿に来たら、まず南口のバレエショップでいろいろ見てたな。
もう二度と立ち寄ることのない場所だ。そして新宿といえば、京王線に乗りかえて一駅の初台のオペラシティに行くことが多かった。
彼女にとっては、新宿駅、バレエショップ、オペラシティの新国立劇場までがワンセットだった。なんとなく気になって直近の公演を調べると、五月の連休に「オルフェウスとエウリュディケ」がかかっていることが分かった。
しばらく前に亡くなったドイツの有名な女性振付家の作品だ。瞳子は映像でしか観たことがない。おそらく、日本で公演するのは初めてだろう。昔の自分だったら、半年以上前から楽しみにしていたに違いない。
「あ、これは観たい」
ぽつりと瞳子はつぶやいた。今の彼女も、まだそちらの世界に未練がある。恋焦がれている。
いけない、いけない、足を洗ったんだから。そう思いなおして、待ちあわせに指定された地下街の書店へと足どりをはやめた。
飛豪から連絡が来たのは、昨日木曜の夜だった。近所にあるパン工場のライン作業のアルバイトを終えてスマートフォンを開くと、ショートメールが届いていた。
金曜夜は大抵、時給のいい夜勤ラインにはいっている。今週もそのつもりだったが、瞳子はすぐにキャンセルをした。彼のお陰で首がつながったのだから、彼の予定を最優先にしよう。今後、どのくらいのペースになるのかは今日話をして、上手く調整しておきたい。
書店に到着したのは、待ち合わせよりも三〇分ほど早い時間だった。
本や雑誌を読むのは好きだけれど、この数年、もっぱら図書館ばかりだ。大学のテキストだって中古で買っているくらいなのだ。新刊などとても手が出せない。そんな余裕があったら、食費か返済にあてる。
ファッション誌や映画雑誌のピカピカのカバーを眺めていると、心が浮きたった。気の向くまま、旅行ガイドのコーナーに足をはこぶ。最初に手にとったのは、台湾の旅行ガイドだった。
今日の二限後、ゼミの友達二人と学食でお昼を食べていた時、彼女らがゴールデンウィークに台湾に行く、と話していた。台湾はところどころで日本語が通じるし、食べ物もおいしく、雰囲気も素敵なカフェが多いようだ。
コンクールやワークショップでヨーロッパには行ったことがあるが、アジア圏はない。魯肉飯、豆花、日本とは違う色彩のテキスタイルや小物がカラーページに溢れていた。
「いいなぁ」
つい、羨望の声が漏れてしまっていた。
「何が?」突然ぬっと真横にあらわれた大きな人影に、ページが暗がりとなった。
「きゃっ」
至近距離の他者の気配に、瞳子は小さく悲鳴をあげ、勢いよく本をとじる。
薄いクリーム色のTシャツに、いかにも穿きつぶした感のある古びたデニムと、ダークカラーのウィンブレを着た大男――李飛豪――が隣に立っていた。
10
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。
楠ノ木雫
恋愛
蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる