青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第1章》 午前二時のジゼル

それぞれの夜

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 ――やっと来てくれた。

 安堵の息をついたとたん、膝から下が小刻みに震えはじめた。壁に半身をあずけて、瞳子はやっとの思いで体を支えた。

 この場に警察が登場したのは、朝のタクシーでの思いついた機転を実行に移したからだった。

 六時一五分前に一一〇番して、「隣室の住人がケンカをしている。物凄い音がして悲鳴も聞こえた」とでっち上げ通報をしていた。「すぐ向かいます」と言ってくれたが、予想していたよりも幾分か遅かった。しかしとにかく、間に合った。

 二人の男は降参するように両手を上げて、彼女のドアから離れた。山根はぎこちない動作で、ゆっくりと警官たちへと向き直る。

「ご迷惑かけてすみません。私どもは、知人……こちらの女性から、預けていた物を返してもらいに来ただけです」

「間違いないですか?」
 と、警官たちも、胡乱うろんなまなざしを二人に送りながら彼女に確認してきた。到着したときの状況からしても、絵面からしても、反社会的勢力がかよわい一般人を脅しつけているようにしか見えない。

 瞳子は、「事実です」と頷いた。三人とも氏名生年月日と身分証明書を求められる。山根と刺青の男は、縮こまってこそいないものの、ひたすら苦い顔つきで歯切れの悪い言葉で応対していた。

 ――警察さん、ありがとう。ちゃんと税金払います。

 一刻も早く一人になりたかったが、聴取にはきちんと答えた。三〇分ほどかけて事のあらましを説明した末、警官たちは二人の来訪者をつれて退出していった。

 去り際に「しばらくはこの付近を警邏でよく回るようにしますので、何かあったらいつでも連絡してください」とピーポくんの絵柄いりの名刺を、これ見よがしに瞳子の手に握らせていった。

 警官たちの言葉がどこまで真実かは分からない。しかし、山根と刺青男への牽制となったのは事実だった。

 一人になった途端、がらんとした畳敷きの部屋に、彼女は体をなげだした。冷えた藺草いぐさが、緊張で火照った体を冷ましていく。

 ――よかった。生きてる。まだ、生きてる。でも、いつまでこんな気持ちで生きていかなきゃいけないんだろう。みんな、いつになったら桐島瞳子を忘れてくれるんだろう。

 整体の予約も忘れて、瞳子は眠りに引きこまれていった。

 ――この世はドブだ。光を掴まなければ、ドブさらいをするだけ。

 転落した自分は、ドブの中でもがき続けている。ひょっとしたら李飛豪リ・フェイハオも、山根たちと大差ないことを要求してくるかもしれない。でも今日はとりあえず、生きのびた。それでいい――。

     *     *     *

 飛豪が家につくと最初にするのは、グラスに赤ワインを注ぎ、晩酌をちびちびやりながらツマミをつくることだ。

 五年前にこの家に戻ってきたときに適当にそろえたデュラレックスのピカルディが、ワイングラスとウィスキーグラスを兼ねている。

 いつだったか、用事があった高瀬がこの家に立ち寄ったとき、ピカルディでワインを出したら、「ワイングラス持ってないの?」と露骨に眉をひそめられた。「扱いが厄介だから、自宅に置きたくない」と答えると、同僚は「そういう奴だったよな」とため息をついたきり、興ざめしていた。

 飛豪はその反応を見て、さらに以前はファイヤーキングのマグカップ一つですべて済ませていた、という事実は伏せておくことにした。

 身のまわりの物にこだわるのは嫌いではないが、この生活もいつまで続くかわからない。決めたときにすぐ移動できるようにしておきたい、という考え方がすっかり染みついていた。動くのは来年か再来年のつもりだが、状況次第では早めてもいい。

 おかげで彼の自宅は、すぐに処分できるものばかりだ。

 家電・家具類はすべてレンタルで、ワードローブも最低限、手ばなさずに持ち歩いているのは数冊の本と父親の形見の万年筆だけ。普段使いで吟味して選ぶのはモバイルPCのみ。スマートフォンもタブレットも長時間動きさえすれば良く、最近は高瀬が使っているものを真似しておけばいい、ぐらいにしか考えていない。

 いつか大型犬と暮らす生活をしたい。そう思いつづけて、もう何年になるだろう。

 今のままでは、犬なんて永遠に無理だ。一度死んで生き方を悔いあらためでもしない限り難しい。

 犬の寿命は一五年をこえるかこえないか。長い年月、大切に愛しつづける自信はあるけれど、振り回してストレスをかけない自信はない。全くない。

 この一〇年、年単位でつづいた恋人さえいないというのに。

 なのに、昨晩の自分ときたら。犬どころか人間と長期契約を結んでしまった。

 飛豪は、茹でたブロッコリーにごま油とカツオ節、ゆずポン酢をかけながら、昨晩の女の姿を脳裏に描いていた。

 顔立ちが好みだとか、可愛いかどうかは、全く考えていなかった。印象に残ったのは、立ち姿が抜群に美しかったことだ。

 すっきりとして過不足のないスタイルと、歩くときや、ちょっとした仕草にもただよう気品のような、ある種の滑らかさは、飛豪だけではなく高瀬も目にとめていた。

 会場に呼ばれていた他の女性たちもモデル事務所からの派遣なので、かなり磨かれている部類だ。しかし、彼女たちとも更に一線を画する何かがアオヤギトーコにはあった。

 それと、アンバランスなあの性格。

 五〇〇万を「家賃滞納」の言い草で押しきろうとしたのは、強心臓の極みだと飛豪は思う。ひたすら押しが強かったくせに、怯えたときの顔つきや翳りのさした虚無の目つきがいちいちリアルで、鮮明に記憶に残った。

 ――変なヤツ。

 少なくとも、過去も現在も自分の身のまわりにいたタイプではなかった。大体、一〇歳ほども年下の女となど、付き合ったこともない。

 本当のところ、五〇〇万円を回収できる見込みなど、かぎりなくゼロに低いと思っていた。

 あの場で彼女は「利息をつけて六〇〇万円返済する」と言っていたが、飛豪は財政状況の悪い慈善団体への寄付のようなつもりで振りこんでいる。

 物珍しい人種に遭遇した驚きと、何回かこちらに付き合ってもらえればいい、程度のノリだ。こちらから電話をかけて無視されたところで、肩をすくめて終わるだけの関係だ。

 ――あと何回か適当に会って、発散するのに役立ってもらったら、適当にフェードアウトしてくんだろうな。

 ブロッコリーを食べつくしたところで、まだ胃が落ちつかない。バゲットをカットしてサラミとチーズでものせて続きをするか、と飛豪がソファを立ったところで、スマートフォンが小さく震えた。

 藤原からの連絡だった。朝に依頼していたアオヤギトーコの調査を終えたらしい。テーブルに置いていたノートPCを膝にのせて、レポートを開く。

 二〇代初めの大学生にしては、情報量がやけに多かった。

 スクロールをつづける彼は膝に頬杖をつき、じっと文面に集中した。知らない単語ばかりだったからだ。かつての彼女が生きていたのは、自分とはまるでかけはなれた世界だった。

 まとまった金額を必要としていた直截の理由は、藤原のレポートに書かれていなかった。しかし、幾ばくかの関連情報を収集すれば、推察することはできる。

「……なるほどね」

 飛豪はワインの最後の一口を啜った。ある程度のことは、納得がいった。

 少なくともこちらには、次会うためのモチベーションができた。その時、「知っている」前提で話すか、何も知らないていを装うかは、しばらく決めかねたままにしておこう。

 いつ彼女が言いだすか、それとも言わずに関係が終わりになるか、観察してみるのも面白い。

 彼は大きく伸びをして、ソファの背もたれに寄りかかった。
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