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《第2章》 西新宿のエウリュディケ
青の妖精
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六年前のそのCMは、「青の妖精」というタイトルだった。
飛豪が瞳子の映像を観たのは、出張中のホテルだった。深夜、寝つけないままに動画サイトを開く。藤原のレポートにあった企業名と、彼女の名前を入力する。
知りあってから二週間以上たつのに、こうして動画をみるのは初めてのことだった。素性を知って、いくつかの写真や過去の記事も読んだが、動画をひらく気が起きなかったのはどうしてだろう。
――面倒くさいということだ。動いてる実物なんて、連絡すればいつでも会えるんだし。別に、俺はバレエになんて興味ない。
クリックをすると、あらわれたのは黒を背景にした画面だった。次の瞬間、青みがかったライトが中央にあたり、純白のドレスを着た青柳瞳子の輪郭が浮かびあがった。
――うっわ……。今よりもっと細い。
飛豪は思わず息をのんだ。
ズームで映しだされた彼女の横顔は、儚げで、無垢そのものだった。
透きとおった眼ざしや、吐息をもらすように開かれた口元の繊細さは、子供のころに美術館でみた宗教画の天使を思いおこさせた。
月光のような、氷の破片のような薄青の光にとりまかれて、画面のなか、彼女は静かに踊っていた。
目をはなすことができない。関節の動きのしなやかさや、衣装のドレープまで計算されつくされた、芸術そのものの全身の動き。
一つひとつの跳躍や、腕や足のえがく優美なカーブは、磨きぬかれている。
美しさと同時に張りつめた緊張感が押しよせてきて、三〇秒間、呼吸を失ってしまった。
憂いを含んだ悲しげな表情には、狂気と紙一重の純粋さがあった。
この時、彼女は一六歳になったばかり。確かに「妖精」と称されるにふさわしい、この世のものならぬ気配があった。十代の少女にしか出せない透明感だった。
動画ページの下に、オンエアされた頃から現在にいたるまで、四桁に届こうとする賞賛のコメントが連なっていた。アルファベットで書かれたものも少なくない。
「天才」という言葉がやたらと目につく。そして、「怪我」と「失踪」という言葉も。
「なるほどね……」
飛豪は頬に手をあて、吐息まじりに呟く。
彼女の圧倒的な才能は、分かった。彼が今まで漠然とイメージしていたバレエと、別次元の高みにある才能だった。その彼女が偶然にしろ何にしろ、いまは自分の手のなかにいる。
――この才能が、今は借金まみれでパン工場のライン作業で生計をたててるのか。……参ったな。
彼女と出会った時に、性格にしろ佇まいにしろ、なにか特殊なところのある人間だとは気づいていた。
藤原のレポートで納得はいったが、飛豪はバレエという世界を低く見積もっていた。踊っている姿を見てしまうと、引きかえせないような、記憶に彼女が永遠にこびりついてしまったような気さえする。
テレビ用に加工された映像とはいえ、それほどまでに鮮烈だった。
CMに使われたバレエの場面は、「ジゼル」の第二幕だった。
「ジゼル」とは、瞳子がセーフワードに選んだ言葉である。自分との性行為で、彼女が身の危険を覚えたときに口にする言葉。その言葉を言いさえすれば、飛豪は彼女から離れると約束している。
バレエ「ジゼル」のあらすじは、一口で言うと悲恋モノだった。
貴族の男アルブレヒトと、村娘ジゼルが恋をする。しかしアルブレヒトには、身分の高い婚約者がいた。アルブレヒトは婚約者がいることを伏せて、ジゼルに誘いかけていた。
元々体の弱かった彼女は、ことが露見して、騙されていたショックで死亡する。後悔にくれたアルブレヒトは、ジゼルを弔い、許しを請うためにある夜、森の墓場をおとずれる。
処女のまま死んだ精霊たちにあやつられ、アルブレヒトは死ぬまで踊らされる罰に処せられる。しかし、精霊たちのなかからジゼルがあらわれ、彼を守って消えていく――。
そういえば、彼女が留学直前にケガをした舞台も「ジゼル」だった。
死んだ少女の役を演じて、バレエ生命が絶たれた彼女。めぐりあわせの残酷さには、飛豪でも感じいるものがあった。
飛豪が瞳子の映像を観たのは、出張中のホテルだった。深夜、寝つけないままに動画サイトを開く。藤原のレポートにあった企業名と、彼女の名前を入力する。
知りあってから二週間以上たつのに、こうして動画をみるのは初めてのことだった。素性を知って、いくつかの写真や過去の記事も読んだが、動画をひらく気が起きなかったのはどうしてだろう。
――面倒くさいということだ。動いてる実物なんて、連絡すればいつでも会えるんだし。別に、俺はバレエになんて興味ない。
クリックをすると、あらわれたのは黒を背景にした画面だった。次の瞬間、青みがかったライトが中央にあたり、純白のドレスを着た青柳瞳子の輪郭が浮かびあがった。
――うっわ……。今よりもっと細い。
飛豪は思わず息をのんだ。
ズームで映しだされた彼女の横顔は、儚げで、無垢そのものだった。
透きとおった眼ざしや、吐息をもらすように開かれた口元の繊細さは、子供のころに美術館でみた宗教画の天使を思いおこさせた。
月光のような、氷の破片のような薄青の光にとりまかれて、画面のなか、彼女は静かに踊っていた。
目をはなすことができない。関節の動きのしなやかさや、衣装のドレープまで計算されつくされた、芸術そのものの全身の動き。
一つひとつの跳躍や、腕や足のえがく優美なカーブは、磨きぬかれている。
美しさと同時に張りつめた緊張感が押しよせてきて、三〇秒間、呼吸を失ってしまった。
憂いを含んだ悲しげな表情には、狂気と紙一重の純粋さがあった。
この時、彼女は一六歳になったばかり。確かに「妖精」と称されるにふさわしい、この世のものならぬ気配があった。十代の少女にしか出せない透明感だった。
動画ページの下に、オンエアされた頃から現在にいたるまで、四桁に届こうとする賞賛のコメントが連なっていた。アルファベットで書かれたものも少なくない。
「天才」という言葉がやたらと目につく。そして、「怪我」と「失踪」という言葉も。
「なるほどね……」
飛豪は頬に手をあて、吐息まじりに呟く。
彼女の圧倒的な才能は、分かった。彼が今まで漠然とイメージしていたバレエと、別次元の高みにある才能だった。その彼女が偶然にしろ何にしろ、いまは自分の手のなかにいる。
――この才能が、今は借金まみれでパン工場のライン作業で生計をたててるのか。……参ったな。
彼女と出会った時に、性格にしろ佇まいにしろ、なにか特殊なところのある人間だとは気づいていた。
藤原のレポートで納得はいったが、飛豪はバレエという世界を低く見積もっていた。踊っている姿を見てしまうと、引きかえせないような、記憶に彼女が永遠にこびりついてしまったような気さえする。
テレビ用に加工された映像とはいえ、それほどまでに鮮烈だった。
CMに使われたバレエの場面は、「ジゼル」の第二幕だった。
「ジゼル」とは、瞳子がセーフワードに選んだ言葉である。自分との性行為で、彼女が身の危険を覚えたときに口にする言葉。その言葉を言いさえすれば、飛豪は彼女から離れると約束している。
バレエ「ジゼル」のあらすじは、一口で言うと悲恋モノだった。
貴族の男アルブレヒトと、村娘ジゼルが恋をする。しかしアルブレヒトには、身分の高い婚約者がいた。アルブレヒトは婚約者がいることを伏せて、ジゼルに誘いかけていた。
元々体の弱かった彼女は、ことが露見して、騙されていたショックで死亡する。後悔にくれたアルブレヒトは、ジゼルを弔い、許しを請うためにある夜、森の墓場をおとずれる。
処女のまま死んだ精霊たちにあやつられ、アルブレヒトは死ぬまで踊らされる罰に処せられる。しかし、精霊たちのなかからジゼルがあらわれ、彼を守って消えていく――。
そういえば、彼女が留学直前にケガをした舞台も「ジゼル」だった。
死んだ少女の役を演じて、バレエ生命が絶たれた彼女。めぐりあわせの残酷さには、飛豪でも感じいるものがあった。
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