青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第2章》 西新宿のエウリュディケ

嫌がらせ

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 ――眠れない。どこに行ったらきちんと休めるのか、もうよく分かんない。横になりたい……。

 ゴールデンウィーク週に飛び石ではいった平日の午後、瞳子は足を引きずるようにして大学構内をさまよっていた。気分的には墓場から這いだしてきたゾンビである。

 カレンダー上は平日である以上、今日も今日とて講義はあるので、自転車で一五分の距離にあるキャンパスに来ていた。今日は二限のフランス語上級と四限の国際開発論のゼミがある。

 昼休み直後の三限の時間帯は、瞳子にとっては空きコマだ。普段なら、図書館に立ち寄って二限のフランス語の課題をサクっと終わらせ、次回の予習に手をつけるところなのだが――今日はどうしても図書館へと足がむかなかった。

 先週の土曜日から、かれこれ四日間、自宅でマトモに眠れていない。

 ファミリーレストランでの別れぎわの脅迫は、すぐに現実のものとなった。

 その日の夜は工場でのアルバイトがあったので、翌朝七時すぎ、充血した目をこすりながら帰宅すると、玄関ドアに蛍光スプレーで落書きをされていた。

 男性器らしき卑猥な図像に、「ビッチ」「アバズレ」などの罵詈雑言。

 目にした瞬間、「うわ、頭悪い……」と思った。次の瞬間に襲ってきたのは、肩がドサリと落ちるようはげしい脱力感と、虚しさだ。

 ――眠かったのに。日曜日だから眠りたかったのに。まず、これを何とかしなきゃ。

 警察に通報し、被害届をだす。管轄の交番では済まず、市の中央警察署まで行くことになった。

 待ち時間のあいだに、近所の清掃業者を調べて電話をする。警察をでて、夕方業者に綺麗にしてもらった時には、昨晩のバイト代がすべて吹きとび、疲労感だけが残っていた。

 どう考えても、犯人は山根とその周辺である。警察にも前日のファミレスでのやり取りを伝えた。二週間前に五〇〇万を支払ったときのいざこざも、記録が残っていたので話は早く進んだ。

 しかし、彼らを逮捕できるかというと難しいという。警察サイドでも、山根の所属する八田トータルソリューションズが、いわゆるヤクザのフロント企業だということは把握していたが、彼らが直接手をくだしている可能性はかぎりなくゼロに近いと、瞳子に応対した警察官が言っていた。

 実行犯をつかまえ、八田や山根とのつながりを立証するのは、相当に難しいことだそうだ。警察署では、暴力団対策課の組織犯罪を専門としている捜査員とも話をしなければならなかった。

 警察でやりとりをすると、その都度、時系列で自分の過去と借金の理由について言及せざるをえなくなる。

 数年前のCMの評判が良かっただけに、話をきいた大抵の人間は瞳子を知っていて、あの時のバレエ少女の転落ぶりに言葉を失う。同情して接してくれる者も多いが、好奇心のままに捜査とは関係のない詮索めいたことまで訊いてくる警官もいた。

 自分の過去を話すこともそうだが、相手の反応の一つひとつが、彼女を小さく傷つけ、気力を奪っていく。

 対応に出てくれた警察官たちは前回と同じように、瞳子の行動範囲や住居周辺をよく巡回するようにする、と言ってくれたが、果たしてどれほどの効果があるのか。

 その苦痛を嘲笑うようなタイミングで起こったのが、翌日深夜の事件だった。

 月曜の夜――未明の二時半すぎ――自宅で眠っていると、玄関扉が突然、ドンっと激しい音をあげた。安普請の部屋全体が大きく振動するほどの衝撃だった。

 地震かと思った彼女は、目覚める。

 続けざまにもう二度、同じ激震がドアごしに走った。薄ぼんやりした頭のなかで、「あぁ、これは嫌がらせだ」と、ようやく認識した。

 ――どうしよう。警察……呼ぶ?

 枕元に置いたスマートフォンで時間を確認する。しかし、この時間に警察に駆けつけてもらえば、朝までコースになる。翌日は一限の授業があるので、それは避けたい。

 給付奨学金で授業料をまかなっているということは、成績もかなりシビアに査定されるということを意味する。基準を下まわれば、全額給付から半額給付に引き下げられかねない。だから授業には、睡眠不足の状態で行きたくなかった。

 結局、眠気に逆らえず、もうろうとした意識で通報しないことを決め、そのまま眠りつづけた。

 翌日の朝、洗顔のためキッチンの流しに立ったとき、なにげなく流し横の玄関扉の鍵の向きが目にとまった。

 ――鍵が、あいてる。……嘘、わたし、昨晩きちんと戸締まりしたよね。だって、ドアチェーンはちゃんと掛かってるし。

 一瞬にして血の気がひいていく。

 ということは、昨晩、ドアを蹴られるか何かする前に、すでに開錠されていたのだ。おそらく、彼女に「いつでも部屋に侵入することができる」と無言で圧力をかけるために。

 ドアチェーンをかけられるのは、在宅している時だけだ。

 外出していてドアチェーンをかけられない時間帯は、事実上、出入り自由となってしまう。チェーンもちゃちな作りなので、眠っている時に壊されて襲われることもあり得る。

 ――盗撮? 盗聴? 次は何をされるの。もうひょっとして始まってる? どうしよう。

 膨れあがる不安に蓋をして一限の授業には出たが、講義の内容は、なに一つ頭に入ってこなかった。

 授業が終わってから警察に電話をして、昨夜の件を話す。警官からは、すぐに通報しなかったことをまず怒られた。瞳子が山根に電話をかけて苦情を言うつもりだと伝えると、それも危険だからしないように、と説得された。

 ――じゃあ、どうすればいいの?

 鍵を頑丈なものに交換するのに、二万円以上かかる。鍵を換えたとしても、玄関ドアそのものの耐久性が疑わしい。

 警察には、「誰か、ご親戚か友達で、しばらく泊めてくれる人はいないの?」と訊かれた。

 大学の友達は、近所に何人かいる。ただ、借金とりにストーカーまがいのことをされている、と打ち明けてまで、頼れるかどうか。場合によっては、自分が彼女たちを危険にさらしてしまうかもしれないのに。

 ――警察も、信頼はできるけど一〇〇パーセントではない。

 最終的に選んだのは、大学に入りびたって空き教室で眠ることだった。

 瞳子が通っている大学は私立の女子大である。門の守衛のチェックも厳しいし、男性来訪者には必ず身分証の提示が求められる。キャンバス内であれば、身の安全が守られる。

 大学のロッカーに当面のあいだ必要となる私物をおき、シャワーは友人の所属している運動部のシャワールームを借りる。夜間の安全はアルバイトをすることで確保して、睡眠は、図書館や空き教室で何とかしのいでいた。

 しかし、それも数日ともなると疲労が無視できないほど蓄積していた。体が、自宅の布団で眠りたいと全力で訴えかけてくる。だが、状況が落ちつくまで我慢するしかない。

 ――でも、いつまで?

 自宅に荷物を取りに行くときや、外を出歩くときは、必ず防犯ブザーを手首に巻いている。防犯ブザーを、見えない誰かに見せつけるようにして。

 細切れの睡眠のせいで、体が泥のつまった袋のように重い。自分のとった対策が対処療法的であることにも気づいていた。山根の件を根本的に解決しないと、家には安心して戻れない。

 ――警察にも、これ以上のことは頼めないし。親戚もいない。バレエしてた時の先生たち……ムリムリムリ、もうお教室にさえ何年も顔出してないのに。小百合ちゃんは今ごろ公演だから、連絡さえ遠慮しなきゃ。……これ、どうにもならないヤツじゃない。クソ山根のやつ、わたしが道端で行き倒れるの待ってるんじゃない?

 貧すれば鈍する。経験で、窮地のときほど判断を間違えやすいのは知っている。

 瞳子はスマートフォンのアドレス帳を開いて、頼れそうな人がいないか、もう一度確認してみた。スクロールの最後で、「李飛豪」という名前に行きあたる。

 ――飛豪さん。

 「眠い」と「疲れた」しか考えられなくなってきた消耗戦のこの二日間、彼のことはあえて考えないようにしていた。

 先週金曜日の夜、山根から電話がかかってきたとき、飛豪が隣にいた。雲行きがあやしい会話をしていたのを察知したのだろう。「弁護士を紹介する?」と通話後に訊いてきた。

 だが、それをねつけたのは瞳子自身だ。親切ぶって付けこんでくる人間には、両手で足りないくらい出会ってきた。

 だから、どこまで信頼していいのかが、分からない。測りかねる。

 彼の身近には弁護士がいるようだった。

 瞳子の知っている弁護士といえば、法テラスの三〇分三回まで無料のランダム弁護士だ。担当は毎回変わるし、的外れなコメントをされたこともある。かかりつけ医のように、一貫して依頼できる弁護士の知り合いは、喉から手がでて縋りついてしまいたいくらいほしい。

 でも、あの人に自分の事情は話したくない。大学の友人にも言っていないのに。でも、もうそんなことを言っている場合ではないのかもしれない。

 ――考えれば考えるほど、よく分かんない。とりあえず、あと一時間寝る。

 あてのない彷徨の末に辿りついた学食で、瞳子は無料のお茶をぐびりと一杯飲みほすと、バッグを枕がわりに突っ伏して、眠りはじめた。

 昼食を終えた女子大生たちのお喋りが動物園の鳥類舎のようなかしましさだが、この騒がしさが盾になってくれていると思うと安心できた。
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