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《第2章》 西新宿のエウリュディケ
ナコちゃんと彼女
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まどろんだ頭のなか、ゆるい思考がとりとめもなく流れていく。
――茶道同好会とか、絶対和室だよね。横になれそう。英語とフランス語の課題とか引き受けるから、誰か部員が鍵貸してくれないかな……。
三限終了のチャイムが鳴って、瞳子が眠りたりずに欠伸をしながら顔をあげると、向かいの席に、見慣れた人物がかけていた。
彼女は日焼けした肌をしていて、どんぐり眼の大きな瞳が凛々しげな光を放っている。そして、引き締まった体つき。彼女と出会う誰しもが現役で運動をしていると見抜くとおり、体育会系ソフトボール部のキャプテン、ショートをしていた。
瞳子が身じろぎしたのに気づくと、彼女はスマートフォンを机に置いた。
「起きた?」
「ナコちゃん。久しぶり」
「瞳子も三限空きだったんだ。知ってたらご飯誘ってたよー。だって最後に会ったのいつだっけ?」
「二月末の後期試験。やっぱ三年になって専門授業が多くなると、会わなくなるね」
ナコちゃんこと塚田奈津子は、学部一年の語学クラスで一緒だった友人だ。
一般教養の授業でも同じ講義をとっていたことや、瞳子と同じ一人暮らし組なのもあって親しくなった。おっとりとしているようで譲らないところを持っている瞳子と、明るく人好きする気質の奈津子は、足りないところを補いあってるようで、一緒にいると居心地がいい。
春休みはソフトボール部の合宿で忙しいと聞いていたし、新学期に入ってからはお互いに授業やゼミのガイダンスでスケジュールが変則的だ。そうこうしているうちにお金まわりのトラブルが大きくなって、すっかり連絡が途絶えていた。
「瞳子、四限は?」
「国際開発論のゼミ。ナコちゃんは?」
「私は五限のゼミ待ち。偏微分方程式のほう」
「ヘンビブン……」
脳内で漢字変換ができず、瞳子は戸惑う。奈津子は、特に気にした様子もなく「水を流したときの運動とか、自然界の動きを数学的に分析するってこと」と、さらりと説明をいれた。
「瞳子、今日バイトある? 合宿後に長野の実家に帰省してたから、お土産渡したいんだけど」
これは……ご飯のお誘いだ。沈んでいた彼女の心は、一気に浮上した。
奈津子の実家の祖父母は農協の偉い人だとかで、定期的に米と野菜がアパートに届いている。
昨年までは瞳子もよく部屋にお呼ばれしていて、二人で鍋をつつきながら課題をしたり、肉の入っていない野菜炒めを食べながら、グルメ番組や海外ドラマのゴージャスな食卓にはしゃいでいた。試験シーズンを乗りきった後の泊まりがけのピザ会は、二人の恒例イベントだった。
その日バイトの入っていなかった瞳子は「行く行く!」と言いかけ、ふつりと口を閉ざした。途中まで出てきた言葉を吞みくだして、「今日の夜はバイト」と言いなおす。
「残念。部活もあるけど明日から四連休だし、せっかくだから一緒にダラダラナイトしたかったのに」
「ごめん。連休で生活費ためておきたくて、ついシフト入れすぎちゃったの」
奈津子には、両親が他界していて、給付奨学金で大学に通っているところまでは伝えている。そして、過去にバレエをしていて、怪我で断念したということも。
ただ、「桐島」時代の話やテレビCMの話はしていない。
彼女だけではない。桐島瞳子としての経歴をふせて三年間学生生活を送ってきたが、今のところ誰にも気づかれていない。今は化粧もほとんどしていなければ、髪型もかえた。
シニョンを作らず、前髪も後ろもおろしていれば似ているとさえ思われない。
この一か月間お金に非常に困っていることも、飛豪とのいきさつも、誰にも話していなかった。
――ここで、ご飯を食べに行ったりしたら、山根にナコちゃんまで目をつけられる。
瞳子は涙をのんで、「ゴールデンウィーク明けにまた、ランチしようよ」と学食での約束をとりつけた。
そのまま五限まで時間をつぶすという友人を残して、彼女は席を立った。講義棟の階段をのぼりながら、ふと脈絡もなく思いだす。
――あ、ナコちゃんに茶道同好会の知り合いいるか、聞けばよかった。友達多いから、絶対一人は引っかかったはず。
明日からの四連休は、大学構内に立ち入りはできるが、講義棟は閉鎖されてしまう。サークル棟や部室は空いているが、瞳子はどこの団体にも所属していないので居場所がない。
――自宅は……無理だな。どこか街に出て、マンガ喫茶をはしごして眠ろう。
憂鬱な連休のプランニングをしながら、ゼミ室の扉を開いた。
――茶道同好会とか、絶対和室だよね。横になれそう。英語とフランス語の課題とか引き受けるから、誰か部員が鍵貸してくれないかな……。
三限終了のチャイムが鳴って、瞳子が眠りたりずに欠伸をしながら顔をあげると、向かいの席に、見慣れた人物がかけていた。
彼女は日焼けした肌をしていて、どんぐり眼の大きな瞳が凛々しげな光を放っている。そして、引き締まった体つき。彼女と出会う誰しもが現役で運動をしていると見抜くとおり、体育会系ソフトボール部のキャプテン、ショートをしていた。
瞳子が身じろぎしたのに気づくと、彼女はスマートフォンを机に置いた。
「起きた?」
「ナコちゃん。久しぶり」
「瞳子も三限空きだったんだ。知ってたらご飯誘ってたよー。だって最後に会ったのいつだっけ?」
「二月末の後期試験。やっぱ三年になって専門授業が多くなると、会わなくなるね」
ナコちゃんこと塚田奈津子は、学部一年の語学クラスで一緒だった友人だ。
一般教養の授業でも同じ講義をとっていたことや、瞳子と同じ一人暮らし組なのもあって親しくなった。おっとりとしているようで譲らないところを持っている瞳子と、明るく人好きする気質の奈津子は、足りないところを補いあってるようで、一緒にいると居心地がいい。
春休みはソフトボール部の合宿で忙しいと聞いていたし、新学期に入ってからはお互いに授業やゼミのガイダンスでスケジュールが変則的だ。そうこうしているうちにお金まわりのトラブルが大きくなって、すっかり連絡が途絶えていた。
「瞳子、四限は?」
「国際開発論のゼミ。ナコちゃんは?」
「私は五限のゼミ待ち。偏微分方程式のほう」
「ヘンビブン……」
脳内で漢字変換ができず、瞳子は戸惑う。奈津子は、特に気にした様子もなく「水を流したときの運動とか、自然界の動きを数学的に分析するってこと」と、さらりと説明をいれた。
「瞳子、今日バイトある? 合宿後に長野の実家に帰省してたから、お土産渡したいんだけど」
これは……ご飯のお誘いだ。沈んでいた彼女の心は、一気に浮上した。
奈津子の実家の祖父母は農協の偉い人だとかで、定期的に米と野菜がアパートに届いている。
昨年までは瞳子もよく部屋にお呼ばれしていて、二人で鍋をつつきながら課題をしたり、肉の入っていない野菜炒めを食べながら、グルメ番組や海外ドラマのゴージャスな食卓にはしゃいでいた。試験シーズンを乗りきった後の泊まりがけのピザ会は、二人の恒例イベントだった。
その日バイトの入っていなかった瞳子は「行く行く!」と言いかけ、ふつりと口を閉ざした。途中まで出てきた言葉を吞みくだして、「今日の夜はバイト」と言いなおす。
「残念。部活もあるけど明日から四連休だし、せっかくだから一緒にダラダラナイトしたかったのに」
「ごめん。連休で生活費ためておきたくて、ついシフト入れすぎちゃったの」
奈津子には、両親が他界していて、給付奨学金で大学に通っているところまでは伝えている。そして、過去にバレエをしていて、怪我で断念したということも。
ただ、「桐島」時代の話やテレビCMの話はしていない。
彼女だけではない。桐島瞳子としての経歴をふせて三年間学生生活を送ってきたが、今のところ誰にも気づかれていない。今は化粧もほとんどしていなければ、髪型もかえた。
シニョンを作らず、前髪も後ろもおろしていれば似ているとさえ思われない。
この一か月間お金に非常に困っていることも、飛豪とのいきさつも、誰にも話していなかった。
――ここで、ご飯を食べに行ったりしたら、山根にナコちゃんまで目をつけられる。
瞳子は涙をのんで、「ゴールデンウィーク明けにまた、ランチしようよ」と学食での約束をとりつけた。
そのまま五限まで時間をつぶすという友人を残して、彼女は席を立った。講義棟の階段をのぼりながら、ふと脈絡もなく思いだす。
――あ、ナコちゃんに茶道同好会の知り合いいるか、聞けばよかった。友達多いから、絶対一人は引っかかったはず。
明日からの四連休は、大学構内に立ち入りはできるが、講義棟は閉鎖されてしまう。サークル棟や部室は空いているが、瞳子はどこの団体にも所属していないので居場所がない。
――自宅は……無理だな。どこか街に出て、マンガ喫茶をはしごして眠ろう。
憂鬱な連休のプランニングをしながら、ゼミ室の扉を開いた。
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