青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第3章》 ロミオ at 玉川上水

戦艦とバレエシューズ

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 駅前からタクシーを拾ったので、二〇分もかからずに彼女の自宅についた。

 位置情報はつかんでいたが足を運ぶのは初めてだった。手すりは錆びきっていて、階段に足をのせただけで建物全体が揺れる老朽アパート。

 その隣に、だだっぴろく広がっている墓地がある。卒塔婆の周りを、モンシロチョウたちがふわふわと飛びかうさまが春らしく長閑である。

「縁起悪い……しかも古すぎる……ありえない……」

 飛豪がブツブツ呟いているのを背後にして、瞳子は自宅の鍵をあけた。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 五〇センチ四方の玄関は、彼の大きなスニーカーだけで占拠されてしまった。

 それを彼女が、不思議なものを目にしたようにじっと見つめている。三〇センチの、戦艦のように巨大なミッドカット・スニーカーの隣に、モスグリーンの細く平べったいバレエシューズが並んだ。

「足デカくて、ごめん」アウェイな気分になって、飛豪は謝った。

「ううん。なんか新鮮で」

「新鮮?」

「うち、母子家庭だったから、玄関先に男の人の靴があるのって、見慣れなくて。へぇ、こういう気分なんだって思ってました」

 ――それも、知ってた。

 彼女の父親と、名字についての背景事情も、飛豪は仕入れている。

 彼女のプライベートについて既に知りすぎてしまっていることを、これから話さなければいけないかと思うと、気が重かった。瞳子はほぼ一〇〇パーセント、余計な人間に自分のあれこれを知られたくないタイプだ。

 一口コンロと、手洗い場も兼ねている狭い流し、まな板がかろうじて置けるだけの調理スペースは、彼が初めて体験する極小さだった。

 仕切りのガラス扉を開くと、六畳の和室間があった。日焼けで黄ばんだ畳はずいぶんと年季ものである。家具といえば勉強机と椅子が一つずつで、隅に書籍類が積みあげられている。本棚もテレビもない部屋だった。

「座布団もなくて申し訳ないんですけど、好きなとこ座っちゃってください」

 窓を開けながら瞳子が振りむく。入ってきた風を受けて、白のレースのカーテンが大きく膨らんだ。

 カーテンに隠された彼女の姿がそのまま消えてしまいそうな気がして、飛豪は目をしばたたく。次の瞬間、彼女はリラックスした表情で彼の前を突っ切っていった。

「コーヒー淹れますね」

「あぁ、うん」

 窓の向こうでは、墓石のあいだを子供たちが騒ぎながら走りまわっている。また別の場所では、墓石の上で猫が二匹、気持ちよさげに微睡んで昼寝をしていた。彼の住んでいる牛込神楽坂も、都心にしては静かな住宅地なのだが、ここには昔懐かしい穏やかさが漂っていた。

 ふと思いついて、彼はスマートフォンを取りだした。音楽アプリを開いて曲を探す。

 再生したのは、二〇世紀初めのアルゼンチン・タンゴだった。カルロス・ガルデルの「Por Una Cabezaポール・ウナ・カベッサ」。音源も古いのか、音がところどころひび割れている。だけどそれがノスタルジックで、セピア色の旋律がやさしく時を流れていく。

 晴れた休日の午後、ゆるやかに移ろってゆく陽射しをながめながら過ごす時間に、とても相応しい選曲だった。

 曲の最後の盛り上がりのころ、瞳子が湯気のたつマグカップを二つ手にして現れた。手首にかかった白いレジ袋には、先刻、駅前のコンビニで買ったロールケーキが入っていた。

「お待たせしました」

「ありがと。くつろがせて貰ってます」彼は足を伸ばしたままの姿勢で、小さくペコリと頭を下げた。

「飛豪さんが神妙にしてると、ちょっと可笑しい」彼女はクスクス笑いながら、正面に座った。「この曲素敵……聴いたことある気がするけど、何? タイトルまでは知らない」

「一〇〇年前のアルゼンチン・タンゴ。映画とかでも使われてる有名な曲」

「そういうの聴くんだ。うん……JPOP聴いてるイメージはなかった」

「瞳子は、どういう音楽聴くの?」

「わたし? 『くるみ』が一番好きかな……あ、普通に洋楽聴いたり流行りの曲も聴くよ。大学一年のときは、語学クラスでカラオケは時々行ってたし」

 ――「くるみ」って何だ?

 確かに「くるみ」と言ったような気がするのに、彼女自身がそれを流した。

 聞かなかったふりをして、飛豪も最近気にいっている曲をあげていく。オフィスでは大抵FMラジオがかかっているし、地方出張があると運転中は音楽がないと続かない。

 最近イギリス人歌手がリリースした「Time After Timeタイム・アフター・タイム」のカバーは良かったよね、と意見が一致したところで、話がひと段落した。瞳子は少しずつ味わうようにしてロールケーキを口に運んでいる。

 自宅にいる彼女は、外で会っている時より格段に幼く、あどけなく見えた。

 声さえ違った。落ちついた低い声だと思っていた彼女は、もうワントーン高い声が素のようで、のんびりとした間合いで喋る。

 どこにでも売っている粉末インスタントコーヒーと、一個一九八円のコンビニスイーツなのに、いつもより数倍美味しく感じたのはどうしてだろう。この日この瞬間の記憶が、いつまでも残っていそうな気がした。
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