青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第3章》 ロミオ at 玉川上水

おうちデート2

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 西陽が部屋を真っ赤に染めあげるころ、言葉少なになっていた彼女がことりと眠りにおちた。

 やはり疲れていたのだろう。瞳子の姿勢が自分のほうに傾いてきたので、飛豪は慎重に、ゆっくりと誘導するように動いて、畳に接地させた。人の肩にもたれるより、横になったほうが回復がはやい。

 ――バイトが九時からって言ってたな。あと一時間は寝かせられるか。

 彼女はかすかに寝息をたてて、眠っている。

 口元にかかっている髪の束が気になって、眠りをおびやかさないよう、彼はそっと動かした。

 黄昏色をうつしているその寝顔は、睫毛がやけに長いことをのぞいては、ありふれた若い女性の健やかさだった。飛豪はじっと見下ろした。

 普通の子だと思う。しかし、なにかが普通でない。

 その普通でない「なにか」があの夜、飛豪の琴線にふれた。少なくても、むざむざ危機に放置しておけない程度には既に囚われてしまっている。

 飲みっぱなしになっていたコーヒーカップを洗ってしまい、ゴミの処分をすると、手持ちぶさたになった。

 ボリュームをおさえていた音楽をようやく止めると、何通かショートメッセージが入っていたことに気づいた。すべて藤原からだった。

《お前ら待ち合わせしてたんなら、事前に言えよこの野郎》これは吉祥寺のファッションショップの時間帯だ。

《俺は酒が飲みたい》単なるアル中のボヤき。

《ひょっとして玉川上水向かってる?》タクシーに乗ったあたりのメール。

《おうちデート中悪いけど、返信くれないか。俺は墓地の向こうで適当に昼寝してる》最後のメールは、一時間前のものだった。

 和室とキッチンのあいだのガラス戸を、音を立てないようゆっくりと閉めた。キッチンの隅っこに腰を下ろし、藤原に電話をかけた。寝ているといったくせに、彼はワンコールで電話をとった。

「ったくよ。先に言ってくれよ」しかし、声はどうしようもなく眠たげで、睡魔が喉にからまっている。

「悪かったけど、まったくの偶然。吉祥寺のネットカフェで一晩過ごしたところまでは知ってたけど、あそこで出会うとは思わなかった」

「貸しイチな」

「貸しって、俺、オッサンに代金払ってるけど。仕事だろ」

 飛豪が醒めた声で抗議すると、藤原は「まぁいいや」と軽く受け流した。

「彼女、今日は夜バイト?」

「うん、さっき言ってた。八時すぎに自転車で行くだろうから、俺はここで別れる。そこから先は頼む」

「OK。じゃあ、俺ももうちょい寝かせてもらうよ。先に言っとくけど、八田らしき人間がこの数時間で二、三人、アパートの前うろついてるからな。お前も帰り、しっかりけよ」

「了解」

「で、にはセキュリティがついてること、もう言ったか?」

「まだ言えてない」

「しっかりしてくれよ。早ければ早いほどいいって言ってるだろ」

「分かってる。……でもさ、こっちも難しいんだ。やっと少しずつ心開いてきてる人間に、いきなり『お前のこと全部知ってる。調べあげた』って、なかなか言えないだろ。信頼関係がゼロになるどころかマイナスだ」

 飛豪が躊躇をにじませると、藤原は声色を変えた。

「坊ちゃんが、女絡むとお馬鹿さんになるっつうのは、オジさん知らなかったわ。お前はさ、恋愛ゴッコがしたいのか? それとも、利息つきでキッチシ金の回収したいのか? どっちだ。話聞いてるかぎり、嬢ちゃんのほうが余程シビアに物事考えてる風だけどな。少なくとも彼女は今んトコロ、同情抜きで六〇〇万返すつもりで動いてるように俺には見える。本質を見ろ。人動かしといて、今更こんなこと言わせんじゃねぇよ、アホガキっ!」

「あ? アル中が言いたい放題言ってんじゃねぇよ」

 低く返した声の凄みに迫力がともなっていないのは、自分でも気づいていた。

 仕事に徹すると、必然的に傷つけてしまう。二週間前までは型落ちのパソコンなみにどうでも良かった彼女が、今はそうではなかった。

 通話が切れてしまったスマートフォンを片手に、飛豪は目をつぶった。

 藤原の意図は明確だ。こちらに発破をかけて、非情な選択肢をとれる人間にさせたい、というある種の親心だ。

 ――普通なら、ギリギリまで喋らないで済ませるんだろうな。

 しかし、飛豪は藤原に仕事をさせてしまっている。それは、美芳メイファン叔母が関知している、ということも意味する。

 もう言うしかないところまで来ている。

 だとしたら、自分の軸足があの組織に置かれている以上、身内や社員としての立場をおろそかにはできない。結果的にそれが、彼女の身を守ることにもつながる。

 彼が立ち上がったところで、ガラスの仕切り戸の向こうで身動きする気配があった。やがて、夕闇が立ちこめた暗がりから扉がひらき、瞳子がひょっこりと顔をのぞかせた。

「飛豪さん……。もう帰る? それとも、コーヒーおかわり?」

 顔に畳のあとがついているのにも気づいてなく、髪はくしゃくしゃに寝乱れたままの彼女の姿に、飛豪はプッと噴きだした。

「ちょ……先に鏡見てきたほうがいい。俺が電話してたから起きたんだよな? 悪かった」

「ん、大丈夫」

 屈託なくにこりとしてみせた彼女は寝起きそのもので、化粧もはげていて、なんなら口の端に乾いた涎痕まで残っている。

 なのに、なぜか今までで一番、最高に、めちゃくちゃに、かわいいと彼には思えた。

 ――なにこいつ。ちょっと、意味不明なくらい抱きしめたいんだけど!

 自分の脳天に直撃してきた欲望が、性欲からはピントがズレているものであることに、飛豪はまだ気づいていない。しかし、今しか話すタイミングがないことだけは、強く自覚していた。

「あのさ、話したいことがあるから、もう一杯コーヒー飲んでいい?」

 時間は七時前だ。いつの間にかソックスを脱いでいた瞳子は、ひたひたと軽い足音をたてて、キッチンの片隅に置いてある電気ポットを手にとった。
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