青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第5章》 ロットバルトの憂鬱

彼女の知っている、彼

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 瞳子は隅っこの席で、音に耳を傾けながら店の古い音楽雑誌を開いていた。

 四半世紀前のニューヨークの新興ジャズクラブの特集ページも目がすべっていくだけで、文字が頭にはいってこない。

 腕時計の短針は、一〇時をさそうとしていた。

 ――九時に来るって言ってたのに。なんで遅いの……? わたしに言ったわけじゃないから、遅刻もわたしに言う必要ないってことかな。

 むくれた気分で、頬杖をついていると気分も落ちこんでくる。

 ――飛豪さんが来てくれたところで、わたし、一緒に帰っていいのかな? この前、嫌な態度とっちゃったし。でも……悪魔ロットバルトのとき、本当に別の人と入れ替わっているみたいで、されていることよりも、あの雰囲気に鳥肌が立つ……。

 彼とのセックスがなにか恐ろしい深み――奈落――に直結しているのは、最初から気づいている。問題はなんの深みなのか目隠しされていることだ。一度訊いたが、拒まれてしまった。

 麻布の夜は他にオプションがなかったし、それでもいいと契約をかわしたが、彼と体を重ねるたびに知りたいと思う。

 暗い人格に移行するたび血を流しているように見える彼の、奥深いところに触れたい。

 安易な好奇心ではない。彼が傷ついているのなら何かしてあげたいのだ。彼が、自分を救ってくれたように。

 食い散らかされる時のセックスは、いつも終わった後にしばらく、心象風景が真っ暗になる。

 小さな箱に鍵をかけて閉じこめられ、暗くて、寒くて、湿った場所に一人でじっと座っている。ベッドの中にいても、その薄ら寒さからは逃れられない。

 精神が、闇にむしばまれていく。

 真っ暗な小箱はきっと、飛豪の心の部屋だと瞳子は思う。彼も一人、あの場所でうずくまっている気がする。

 今週は毎日、入浴するたびに自分の体についた無残な爪痕を目にしている。痛みは消えたが、もう一週間は醜い斑点が体に残りつづけるだろう。

 昨年とった人類学の講義で、動物と人間の関係についての回があった。

 教授は鷹匠を例にあげて、日本だけではなく、世界の他の地域でも人間は鷹のような猛禽類を使役して狩りをしてきた、と説明をした。鷹は、捕らえた獲物を絶命させる前に、獲物の小鳥の羽をむしったり、くちばしでこづきまわしていたぶって遊ぶのが好きだという。

 暗闇の部屋にいる飛豪と行為をしていると、自分がまるで彼の獲物になったかのように感じる。その時の彼は、生かさず殺さず、残虐に痛めつけてきて、彼女の苦痛を歓びとしている。

 何かきっかけがあってあの暗い小箱が生まれたとしたら、悪魔ロットバルトの正体も関係しているはず。

 ――やみくもに怖いままだと、わたしまで引きずりこまれる。二人一緒に沈むのは、絶対にいけない気がする。どうしようもなくなった時には、藤原さんに訊いてみよう。でも、あの人のことはあの人の口から聞きたい。

 とりあえずの対策をたてて、瞳子はひと息ついた。二杯目の、トパーズ色のマッカランを一口啜る。

 ――普通のときの飛豪さんは、一緒にいるのも、そういうことするのも、わたしは結構好きなんだけど……。

 話をしていても、食事をしていても、車で出かけていても、彼が近くにいると、言いようもなく安心する。

 彼の気配がこちらを向いているとなお嬉しい。真冬に陽だまりを転々とする猫のように、無意識に彼をさがしている自分に、瞳子は気づいている。

 温かくて、ときどきトゲトゲもしていて、無条件に笑いかけてくれる彼は、傍にいて満たされる。

 悪魔ロットバルトではない時の彼とときの、耳元近くの呼吸や、余裕がないときの鋭い目線、厚みのある筋肉の質感や、大きな骨格の重い体にがんじがらめにされる窮屈な心地よさ、肌がこすれるときに生まれる熱……そういった一つひとつも、脳裏に灼きついている。

 声や、彼が体に触れてくるときの指先や手のひらの感触も、入浴中や眠るまえに反芻してしまう。それに彼が内側にいて、胎内を押し広げていく感覚も、痺れるように気持ちいい。

 優しい方の彼は、瞳子がじわじわと高められていくのに弱いと、とっくに気づいている。丁寧に、執拗に、時に焦らしながら、弱いところをじっくりと責めたてて啼かせるのだ。「お願い、もっと」と。

 彼女がそう言ってねだるのが、飛豪にはこの上なく愉しいらしい。

 彼女が懇願すると、満足したようにうっそりと目を細めて、胸を愛撫しながら、ゆっくりと体を動かしていく。口づけを落としながら。瞳子はなすすべもなく喘がされて、自分が快楽だけの生き物になってしまったのを感じる。

 硬く重い体にのしかかられても、いつもの彼ならば怖くはない。

 むしろ、期待と予感が高まって焦がれてしまう。それだけで濡れてしまう。二人の汗が溶けあって、熱のなかに独特の香りが立ち昇ってくるのも好きだ。その香りに包まれていると理性など瞬時に失われていく。

 ――わたし、セックスは嫌いじゃない。むしろ……好き。飛豪さんとなら、好き。

 今日の午後、奈津子には「瞳子が! まさかの! カラダ目当て!」と爆笑されたが、麻布の夜に彼を選んだとき、彼の肉体も選びとっていた。男性バレリーナとはまったく違うタイプの体つきに触ってみたい、と出来心もあった。

 自分は経済的にも物理的にも弱い人間だ。だけど彼が自分の体で喜ぶのなら、その弱さも少しは許すことができる。

 普段、必要以上の会話を避け、ローテンションで飛豪と接するよう心掛けているのは、この感情を知られたくないからだ。債務者から不必要な好意をよせられても、迷惑でしかないだろう。

 ――あの人はわたしのこと、お金で買っているだけ。だからわたしも、体を貸してるだけ。

 瞳子はグラスのなかの氷を揺らして、複雑な心境を響かせた。ウイスキーの植物めいた苦みが、だんだんと病みつきになってくる。

 唐突に隣の椅子がひかれ、埃を巻きあげそうな勢いで大きな体躯が着地した。飛豪だった。

 驚きのあまり、瞳子は「きゃうっ‼」と変な悲鳴をあげた。つい一〇秒前まで彼の裸体を思いだしていたので、罪悪感でいっぱいだ。

「すごい声だしてんな。一体なに考えてたんだよ」

 呆れたようにこちらを一瞥すると、彼は「オッサン、ロック一つ」と声を張りあげた。
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