青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第5章》 ロットバルトの憂鬱

ダグラスMで

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 飴色にみがかれたカウンター席についた瞳子は、天井から吊ってあるレトロな電球型の照明にグラスをかざした。

 琥珀色の液体がたぷんたぷんと揺れている。よし、と決意してグラスを大きく傾けた。グレンリベットが喉を流れてゆく。苦い。それに、食道が熱い。慌ててチェイサーのグラスをとって水で中和した。

「飲みっぷりは良いが、ウイスキーはそういう楽しみ方するもんじゃない。香りと苦さを味わえ。最初はチビチビ舐めて、味を覚えてみたらどうだ」

 見かねて口をはさんできた藤原も、手元にダブルのグラスを置いている。飛豪がいつかこの店を、「酒飲みによる、酒飲みのための、酒を飲む店」と評していたのを瞳子は思いだした。

「ウイスキーなんて、初めて飲みました」

「あいつと一緒に家で飲まないの?」

「飛豪さん、だいたい赤ワインです。キャンティとマルベック」

 彼女は最近おぼえた固有名詞を披露してみた。どちらも、彼と暮らしはじめてから知った言葉だ。

「そりゃ庶民的なこって! でもまぁ、あいつアルゼンチンいたもんな。そりゃ赤だよな。ここだとウイスキー一択だが」

 彼は、耳慣れないアイラ島のウイスキーの名前を挙げていった。

 午後七時、瞳子は新宿歌舞伎町のはずれにある、藤原が経営するジャズバー・ダグラスMにいた。開店まもないので、客はまだ自分一人だ。

「今週飛豪さん、ここに来ました?」

「いや。今日は待ち合わせじゃないのか?」

「……そうです」

 少し引きつったものの、彼女はにっこりとして答えた。結果的に待ち合わせになれば問題ない。

 ――待ってても来ないなら、向こうから追いかけさせればいいじゃん。

 奈津子の計略は、保護者の飛豪が瞳子のところに来るよう仕向けることだった。あまり安全ではない界隈を出歩いていれば、自動的に彼の方から心配して迎えにやってくる、と。

 ――そこまで暇かなぁ? 歌舞伎町とはいえ、ここだったら一〇〇パーセント安心だし……。

 バレエと学業しか知らない彼女が、都内の夜遊びスポットに詳しいはずがない。結局、これを機に藤原の店に足を運んでみることにした。無論、飛豪も知った店である。友人の入れ知恵も効果半減な気がする。

《今日、遅くまでダグラスMで飲むんです。迎えにきてくれませんか?》

 とだけ送ってみたが、返信はない。

 バーに一人で飲みにきても、何をしていいのか分からない。これでは時間を持て余すだけだ。瞳子は席をたって、壁面にぎっしりと並んでいる古いアナログレコードのジャケットを眺めはじめた。

「お嬢ちゃん、聴きたいのがあればかける。言ってくれ」

「藤原さん。わたし、『お嬢ちゃん』って呼ばれるのはちょっと恥ずかしい……」

「坊ちゃんの連れなんだから、嬢ちゃんでいいだろう。俺はあいつ、ガキの時分から知ってるからな」

 妙に説得力のある言葉だった。それ以外の呼称は認めないらしい。飛豪の口ぶりから二人がかなり気安いのは感じとっていたが、それほど長いとは。

「それで、リクエストは?」

「聴きたいのっていうか、そもそもジャズで名前覚えてるの一曲しかなくて。……ユセフ・ラティーフの『スパルタクス、愛のテーマ』なんですけど」

 その唯一の曲でさえも、好きだからというよりバレエの「スパルタクス」つながりで覚えたくらいだ。藤原はどこに何が置かれているかを完璧に把握しているのだろう。壁面のある一角に近づくと、迷いのない手つきでくすんだ紙ジャケットのLPをとりだした。

「ということは、映画の『スパルタクス』も観たのか?」

「はい」

「その若さで『スパルタクス』を観てるっていうことは、嬢ちゃん、相当映画好きだろ?」

 彼女は、迷子のような途方もない顔つきで藤原を見かえした。

「さぁ、よく分からない。昔バレエやってた時、映画や小説はたくさん触れてたんです。まだ十代で感情や経験のストックがなかったから、『表情や表現が稚拙だ』ってよく言われてて。ほとんど義務感でした。正直、半分も身についてなかったと思う。でも、好きな作品は何度も繰りかえしました」

「なるほどね」

 藤原は皺のよった目尻をよせ、優しい眼ざしをしていた。

「前のわたし、バレエマシーンだったんです。人間らしい感情を覚えるために映画や本を読んでた」

 飛豪にもこんなことは話したことはない。友人の奈津子にも。ニコチンで黄ばんだ歯をむきだしにして磊落らいらくな口ぶりで話すこの男には、なぜか打ちあけていいと思えた。

「今は? 今の嬢ちゃんは、どういうのが好きなんだ?」

「旅行雑誌とか、写真集。世界のいろんなところの写真眺めながら、陽射しの強さとか、風のにおいとか、その土地で話されてる言葉の抑揚とか、ぼんやり想像してる時間が好き。わたし、飛豪さんからお金だけじゃなくて時間ももらったんです。今までそんな時間なかったから。すごく感謝してるんです」

 心のかさぶたをつついてみると、まだちくちくと痛む。そんな彼女に、藤原は自分のスマートフォンを掲げてみせた。

「それをそのまま言えばいいんじゃないか。あいつは九時に立ち寄るって言ってる。ケンカしたなら和解すればいい」

 瞳子は引っかかりを覚えて、「ん?」と小首をかしげた。

「やだ……ケンカしたって、飛豪さんが言ったんですか?」

「いや、あいつはただ、『飲ませすぎるな』と『変な客からは遠ざけろ』って言ってきただけだよ。あとは……ま、矛盾があるさな。待ち合わせって言ってるのに、坊ちゃんが俺のほうに来店時間言ってくるのは」

 藤原はさっと背をむけてカウンターの内側へと戻っていった。重いタバコとアルコール、そして得体のしれない病の香りが彼女の嗅覚を刺激していく。

 ――不思議な人。そして、哀しい人。

 立ち枯れた樹木のような人だと、いつも会うたびに思う。

 すさんだ雰囲気といい、色濃くただよう澱んだ気配といい、藤原は、人から避けられる側の人間だと思う。しかし、彼女にとっては居心地のいい人だった。人を食ったようなスタンスも、気づかいのない乾いた言葉遣いも、まったく気にならない。むしろ、この人は本当のことしか言わない、という安心感がある。

 今日は別の仕事をしているという黒川が藤原を慕っているのは、自分と同じ理由だからなのかもしれない。スピーカーから流れはじめたユセフ・ラティーフの銀色の音色に耳をすませた。

 程なくして、ドアベルが鳴って別の客が入ってきた。常連客なのだろう。藤原と談笑しながら、酒を手にナッツをつまんでいた。
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