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《第7章》 元カレは、王子様
渋谷のカフェで5
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五月の雨の日に踊って以来、瞳子は自宅で一人きりのときに体を動かすことが増えていた。
関節や筋肉をなめらかにするためのストレッチは、毎日欠かしていない。
それとは別に、歩いている時、授業をうけている時、入浴している時のようなふとした時に、一つのシークエンスとしてバレエのような、そうでないような、踊りに近いなにかが皮膚の内側から体を揺さぶってくる。魂に棲みついているバレエが、むずむずと動いているようだった。
衝動に近い欲求で、頭で動きをイメージしようとしても上手くいかない。
集中して意識を研ぎすませることによってのみ、上手く出力させることができる。
音楽をかけると、より自然に体が動くことが分かったので、近頃はいろんなジャンルの音をかけて試している。藤原から薦めてもらったジャズピアノや、映画音楽もよく聴いていた。
彼の家のリビングはダイニングと接続していて、二〇畳はゆうに超えている。
普段は自室でヘッドフォンをつけて踊っているが、彼がいないときはリビングで気兼ねなく音楽をかけることができる。好きなだけ音と体の対話に没頭できる。気がつくと一時間以上集中していることもあった。
つい一か月前、映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の”I’ve seen it all”を聴きながら、両脚を前後に一八〇度ひらく縦スプリッツの姿勢でゆるやかにヘッドバンギングしていたら、ちょうど飛豪が帰宅してきた。
メランコリックな呪い女と化していた瞳子にぎょっとしたのか、彼にしてはめずらしく「ぃう”わぁっ!」と動揺して叫んだ。以来、彼に踊っている姿を見られないように、少し神経質になっていた。
最近の楽しみは、タンゴやフラメンコのような他ジャンルや、空手やジークンドーのような格闘技を動画で研究することだ。
他人から評価されることを考えず、自分の体と直感で表現をつきつめていく。感性と肉体をやすりにかけて磨きあげるプロセスは時に呼吸を失いそうなほど苦しい。だが、一度ぴたりと音と動きがハマると、コンクールの課題曲をパーフェクトに踊るときに似たアドレナリンが全身にまわって、中毒のような快感をおぼえる。
――下半身に安定感が出て、膝まわりやポワントを自在に使えたらな。もっと面白い動きができるんだけど。
無心で汗を流すささやかな気分転換のはずなのに、自分がだんだん本気になってきているのが分かる。
だからこそ、肉体の不自由について考えはじめると暗くなってしまう。できる範囲で楽しむのが趣味として続けるコツなのかもしれない。
そんな個人的な葛藤など微塵もみせず、瞳子は「わたし今でも、普通の人よりは体柔らかいんですよ。頭の高さまで足上がりますし」と、自慢めかせて言ってみた。ヒガチカとスミレの二人は「流石だね」と褒めてくれる。
相手と仲良くなるための、予定調和のお定まりの会話。ちょっと前までは、こんな会話からも逃げまわっていた。バレエを過去形で語るのも辛かったし、桐島瞳子と結びつけられるのではないか、といつも恐れていた。
時間がたってほど良い距離が生まれたからなのか。最近はまた少しずつバレエと、踊ることと仲良くなれてきている気がする。
バレエと言えばもう一件、それがらみのアポイントメントがあった。
八月の最終週、瞳子は東京駅向かいの丸ビルのレストランフロアにいた。
平日のランチタイムなので、近隣オフィスからの勤め人でどこもいっぱいである。
客の回転が一番はやそうなハワイ系ハンバーガー店を覗いてみたが、店内は満席だ。外テーブルに座っていた二人づれが席をたったタイミングで、急いで日傘をおいてテーブルを確保した。
――小百合ちゃん、「行けなくなりそうだから、要件だけ渡すね」って、なんだろう? メールの意味がよく分からない。わたし、今日は早く家に帰って夕食つくりたいんだけどな。
そう思いながら、小百合に席をとった店の名前を送った。今日は、バレリーナ時代の友人の牧村小百合と一年ぶりに会うことになっていた。美芳の家に行った夜に、「渡したいものあるんだけど、久しぶりにランチしない?」と誘われていたのだ。
ヒガチカやスミレと会った日から十日近くがたっていて、その間にもう一つのインターンは終わっている。今日は、彼が帰国する日だった。
元々の帰国日は二日前だったのだが、仕事が長引いたのでフライトを遅らせた、と連絡が入っていた。
今日の昼前に起きたとき、「成田に到着した。オフィスに立ち寄ってから帰る」とメッセージが届いたので、もう日本にはついている。
週末のあいだに掃除も洗濯も終わらせ、買いだしも済ませていたので日中の数時間外出しても特に問題はない。しかし、先週半ばにインターンが終了してからというもの、瞳子はずっとそわそわしていた。
関節や筋肉をなめらかにするためのストレッチは、毎日欠かしていない。
それとは別に、歩いている時、授業をうけている時、入浴している時のようなふとした時に、一つのシークエンスとしてバレエのような、そうでないような、踊りに近いなにかが皮膚の内側から体を揺さぶってくる。魂に棲みついているバレエが、むずむずと動いているようだった。
衝動に近い欲求で、頭で動きをイメージしようとしても上手くいかない。
集中して意識を研ぎすませることによってのみ、上手く出力させることができる。
音楽をかけると、より自然に体が動くことが分かったので、近頃はいろんなジャンルの音をかけて試している。藤原から薦めてもらったジャズピアノや、映画音楽もよく聴いていた。
彼の家のリビングはダイニングと接続していて、二〇畳はゆうに超えている。
普段は自室でヘッドフォンをつけて踊っているが、彼がいないときはリビングで気兼ねなく音楽をかけることができる。好きなだけ音と体の対話に没頭できる。気がつくと一時間以上集中していることもあった。
つい一か月前、映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の”I’ve seen it all”を聴きながら、両脚を前後に一八〇度ひらく縦スプリッツの姿勢でゆるやかにヘッドバンギングしていたら、ちょうど飛豪が帰宅してきた。
メランコリックな呪い女と化していた瞳子にぎょっとしたのか、彼にしてはめずらしく「ぃう”わぁっ!」と動揺して叫んだ。以来、彼に踊っている姿を見られないように、少し神経質になっていた。
最近の楽しみは、タンゴやフラメンコのような他ジャンルや、空手やジークンドーのような格闘技を動画で研究することだ。
他人から評価されることを考えず、自分の体と直感で表現をつきつめていく。感性と肉体をやすりにかけて磨きあげるプロセスは時に呼吸を失いそうなほど苦しい。だが、一度ぴたりと音と動きがハマると、コンクールの課題曲をパーフェクトに踊るときに似たアドレナリンが全身にまわって、中毒のような快感をおぼえる。
――下半身に安定感が出て、膝まわりやポワントを自在に使えたらな。もっと面白い動きができるんだけど。
無心で汗を流すささやかな気分転換のはずなのに、自分がだんだん本気になってきているのが分かる。
だからこそ、肉体の不自由について考えはじめると暗くなってしまう。できる範囲で楽しむのが趣味として続けるコツなのかもしれない。
そんな個人的な葛藤など微塵もみせず、瞳子は「わたし今でも、普通の人よりは体柔らかいんですよ。頭の高さまで足上がりますし」と、自慢めかせて言ってみた。ヒガチカとスミレの二人は「流石だね」と褒めてくれる。
相手と仲良くなるための、予定調和のお定まりの会話。ちょっと前までは、こんな会話からも逃げまわっていた。バレエを過去形で語るのも辛かったし、桐島瞳子と結びつけられるのではないか、といつも恐れていた。
時間がたってほど良い距離が生まれたからなのか。最近はまた少しずつバレエと、踊ることと仲良くなれてきている気がする。
バレエと言えばもう一件、それがらみのアポイントメントがあった。
八月の最終週、瞳子は東京駅向かいの丸ビルのレストランフロアにいた。
平日のランチタイムなので、近隣オフィスからの勤め人でどこもいっぱいである。
客の回転が一番はやそうなハワイ系ハンバーガー店を覗いてみたが、店内は満席だ。外テーブルに座っていた二人づれが席をたったタイミングで、急いで日傘をおいてテーブルを確保した。
――小百合ちゃん、「行けなくなりそうだから、要件だけ渡すね」って、なんだろう? メールの意味がよく分からない。わたし、今日は早く家に帰って夕食つくりたいんだけどな。
そう思いながら、小百合に席をとった店の名前を送った。今日は、バレリーナ時代の友人の牧村小百合と一年ぶりに会うことになっていた。美芳の家に行った夜に、「渡したいものあるんだけど、久しぶりにランチしない?」と誘われていたのだ。
ヒガチカやスミレと会った日から十日近くがたっていて、その間にもう一つのインターンは終わっている。今日は、彼が帰国する日だった。
元々の帰国日は二日前だったのだが、仕事が長引いたのでフライトを遅らせた、と連絡が入っていた。
今日の昼前に起きたとき、「成田に到着した。オフィスに立ち寄ってから帰る」とメッセージが届いたので、もう日本にはついている。
週末のあいだに掃除も洗濯も終わらせ、買いだしも済ませていたので日中の数時間外出しても特に問題はない。しかし、先週半ばにインターンが終了してからというもの、瞳子はずっとそわそわしていた。
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