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《第8章》 叛逆のデスデモーナ

誘惑

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 金曜日の夕食後、瞳子は片づけたダイニングテーブルに陣取って小説を読んでいた。

 普段、雑誌は共用スペースのリビングで広げるが読書は集中したいから自室で、と使い分けている。なのに、自分のルールに反してまでダイニングで居残りしていたのは、彼との接点がほしいという、あざとくもいじましい下心だった。

 罠をはって待ちかまえている猟師のようなつもりで、家庭内片思いにドキドキしながら文庫本のページに視線を落とす。内容なんて頭に入ってくるわけがない。

 果たして、獲物はあらわれた。

 二三時半、欠伸をしながら部屋から出てきた飛豪は、「あれ、珍しいトコにいるじゃん」と彼女に声をかけて、浴室にはいっていった。

 十数分後、シャワーを終えた彼はいつもどおりダイニングを抜けて冷蔵庫の扉をひらいた。

 紙パックの牛乳に直接口をつけ、無頓着にゴッゴッゴッと喉をならして飲みはじめる。この飲み方は実は、「衛生的に問題だから直飲みやめてください!」「どうせ二日で無くなるんだからいいよ」という数か月来のケンカ案件なのだが、今日は構っていられない。

 瞳子も席をたつ。

 冷蔵庫の隣のシンク脇においていたグラスに水をいれ、彼のTシャツの裾をつまんだ。気づいてこちらを向いた彼に、上目遣いをした。この時のために、わざわざアイメイクとリップを夕食後にやり直している。

「飛豪さん」

「んー?」

 いざ、勝負。彼女はもう一歩近づき、彼の体に自分の体を密着させた。

 どう頑張って寄せてもDカップに届かないCカップの胸をグイと押しつける。色仕掛けそのものだ。

 バレエの女性キャラクターは清純派ぞろいなので、今夜はまったく参考にならない。悩殺系ヒロインとして峰不二子を脳裏にえがきながら、「今日は、一緒に寝ませんか?」と、誘うように彼の胸元に手をそえた。

 自分の胸のボリュームが峰不二子に全然足りないのは分かっている。キャラが似合っていないことにも。だが、戦わずして負けを認めるのは主義に反する。

 一方飛豪はといえば、瞳子がしなだれかかった瞬間、何が起きているのか分からない、といった様子で、顔から表情が抜け落ちた。しかし次に浮かんだ表情は、穏やかな拒絶だった。

 気分を害した様子こそないが、迷いのない手つきで彼女の手をゆっくりと外していく。

「目もくらむような話だな。君からそう言って貰えるなんて」おどけてみせる彼の声が痛い。「実は明日も出社なんだ。悪いけど、今日は遠慮しとく」

 申し訳程度にこちらの髪をさらりと撫ぜると、飛豪は立ち去っていった。

 完敗だ。

 みじめな敗北感に包まれて、瞳子はよろよろとキッチンに手をついて体を支えた。

 翌日が仕事でも、夜一二時をまわってても、自分がそういう気分の時は関係なく押し倒してくるくせに。徹夜しても響かないほど、体力なんて有りあまってるくせに。要するに、仕事を口実に拒否されたわけだ。

 とうとう立っていられず、床にへたりこんだ。

 ――嫌い。大嫌い。あの三十路みそじのオジサン大っ嫌い……。わたしはもう、好きになってるのに。せめて理由くらい言ってくれたらいいのに。こんなの、家出されるより辛い。

 涙腺に熱い涙がこみ上げてきて、はたと気づく。あぁ、今の自分はずいぶん泣くようになってしまったな、と。

 前は――一人のときは――そうじゃなかった。泣いても誰も助けてくれない。戦うのも負けるのも一人だった。

 泣いている暇があったら、どうやって借金を返すか、違法スレスレに詰め寄ってくる借金取りをどう撃退するか考えなければならない。一時間でも多くアルバイトをして、一円でも多く稼がなくては。

 バレエだって同じだった。コンクールで負けたとき、相性や審査員のせいにせず、瞳子はいつも自分が下手だから負けたのだと思った。責任はすべて自分にある。愚痴を言ったり落ちこむ時間があったら、練習すべきだ。

 そうやって一人で強く生きてきたのに、二人で暮らすことに慣れてしまうと心が弱くなってしまった。たった四か月で。

 ――前の自分だったら、こんなことで泣かない。悲しくならない。

 自分の心の色あいが、彼の言葉や態度で移ろっていく。これが、好きな人ができることの意味なのだろうか。

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