青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第8章》 叛逆のデスデモーナ

その言葉

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 彼女が何をしようとしているか察知した瞬間、反射的に飛豪は動いていた。いま自分がどちらの人格なのか、それを意識する間もなかった。

「瞳子、やめろッ‼」

 だが、伸ばした手が包丁に届くよりも先に、先端が彼女の左胸に着地して柔らかい肌をえぐった。

「……ッはぅ…」

 あまりの痛みに、彼女は喉の奥から悲鳴をほとばしらせる。

 ようやく、彼の手が刃物に届いた。無我夢中で払いのける。

 刃先は先端を体に埋めたまま無理やりに軌道をそらされて、一センチ強の深さで胸部を削りとっていったのちに抜け落ちた。落下した包丁は、飛豪の足に直撃して跳ねかえり、床に転がった。

 しかし瞳子はそれでも止まらなかった。

 彼の手を振りはらいながら「放して!」と絶叫し、食器棚の抽斗をあけてナイフを掴もうとした。ナイフを彼が叩きおとすと、フォークを。それも奪われると、スプーンを。けたたましい金属音が間断なく響く。

 錯乱したように暴れる彼女の腕を、飛豪はまず封じこめた。そのままキッチンから引きずりだして、リビングのソファまで強制連行する。瞳子を全力で抱きしめて、ソファに倒れこんだ。

 彼女は唸り声のような、獣の咆哮のような声を低くあげて、力のかぎり抗ってくる。体重をかけ、羽交はがいじめにして、彼は瞳子を下に押さえつけた。

「……ジゼル」

 その言葉を口にしたのは、飛豪だった。

 彼女を全身で拘束したまま、耳元で何度も囁きかける。彼女が自分を取り戻すまで。

「ジゼル、ジゼル、ジゼル、ジゼル……。瞳子、お願いだからやめてくれ。止まってくれ。君を失いたくないんだ。もういい、もういいから」

 ジゼル。

 それは麻布で知りあった最初の夜、ホテルで体を重ねる前に決めたセーフワードだった。

 瞳子が「ジゼル」と口にすれば、飛豪はなにをしていても動きを止め、彼女から離れる。そう約束をした。

 彼女を守るための言葉だ。だが、瞳子は最後までその言葉を使おうとしなかった。だから彼が言うしかなかった。

 低い声でゆっくりと、何度もその言葉を繰りかえす。彼女を落ちつかせるように。宥めるように。しばらくすると、腕の中で彼女が嗚咽してしゃくり上げていることに飛豪は気づいた。

 泣いてはいるものの、自分の腕のなかで、彼女の昂奮が徐々に鎮まっていくのを感じる。

 手足のばたつきがおさまり、肩で呼吸するようにしていた息がなめらかになっていく。首筋にそよいでゆく、彼女のゆるやかな呼気が心地よかった。

 頭痛はまだ続いているが、きっと引いてゆく。だしぬけに、そんな予感がおとずれた。

 なによりも、頭の中から黒い霧が薄らいできている。水深二メートルのプールの底から、ようやく水面に顔をだせたような解放感があった。長い雨の日々のあとに、ようやく太陽の光をあびたような心地がした。

 腕の拘束をゆるめて、飛豪は鼻先を彼女の髪にうずめた。

「瞳子、もう大丈夫か?」

「『大丈夫?』って、こっちのセリフだよ……。飛豪さん、今どっち?」

 まだ事態に混乱したままの状態で、彼女は不安げに訊いてくる。

「どっちもいる。だけどもう一人の方、君にすごくビビってる。いるのに出てこれなくなってる。そんな感じがする」

「なんで?」

「…………」

 彼は答えに窮した。間違いなく、彼女のあの狂気なのか本気なのか分からない行動のせいだ。

 あの時――瞳子が自分の胸に刃をつき立てたとき――全身の血液が逆流しはじめた。脳の血管が膨張して、石化していた心臓に激しく血が流れこんでいった。

 ただ、「危ない」と思ったのだ。

 制止しないと、瞳子は全力で自分自身を殺す、彼よりも先に。その瞬間、意識の奥深くで、堅固に彼を縛りあげていた鎖が砕けた。

 ――お前、あの恐ろしさ、分かってないのかよ。本気で自分の心臓に刃物を向ける人間、こっちは初めて遭遇したっていうのに。

 それは言わなくてもいいことだ。とにかく、飛豪の内側に巣食っていたもう一人が、萎縮して表に出てこれなくなっているのは事実だった。

 存在はしている。だがそいつは、今まで自在に出入りしていた扉に背をむけた。

 生煮えで黒焦げのまま、意識の片隅にしがみついている。今も息をひそめて、こちらの隙を眈々たんたんと狙っている。だが一方で、飛豪は抑圧されていた元の自分が足枷から解き放たれたことにも気づいていた。

 ――これでようやく五〇・五〇フィフティ・フィフティか。いや、形勢的には逆転して、七・三くらいで勝ってる。今後、あっちの暴力欲求をどこまで押さえこめるか……。

 彼の様子を下からおそるおそる窺っている瞳子に気づいて、飛豪は「ごめん」と謝った。体をずらして彼女を自由にする。二人の胸に、腕に、彼女の血がぬるりとべたついて付着していた。

「その傷、相当痛いだろ。まず病院行こう」

 左腕と胸の上部から、音もなく出血がつづいていた。致命傷ではないと目算はしていたが、猶予のある傷でもない。一刻もはやく処置する必要がある。

 彼は床に落ちていた自分のTシャツを拾うと、壊れ物にふれるような慎重な手つきで、まず彼女に着せた。だが、これだけでは足りない。

「ちょっと待ってな」

 この子の体を冷やさないように、なにか羽織るものを持ってこないと。あと、車のキーか――飛豪はスウェットの下だけはいて自室に服を探しにいこうとした。だが、「待って!」とか細い声で呼びとめられる。半身を起こした彼女は真っ黒な瞳で縋りつくようにこちらを見ていた。

「飛豪さん、置いてかないで」

「すぐ戻る。病院に行くための服、取りにいくだけ」
「それでもやだ! 一緒に行く」

 瞳子は少女のような頑是ない仕草で、首を振る。体から血を滴らせたまま、無理に立ちあがろうとした彼女を押しとどめて、飛豪は横抱きにした。

 ――やれやれ。置いてかれるのが怖いのは、もう俺の方だっていうのに。

 首に腕がまわってくる。彼女から顔が寄せられて、彼は思わず勘違いした。

「瞳子、俺はそういうのやぶさかではないけれど。ただ、今は先に怪我を……」

「違う。一つだけ」

「なに?」いぶかしげに問いかける。

「飛豪さん、お誕生日おめでとう。もう日付まわったから、今日だよ。一緒にお祝いしたかったの」

 瞳子は鼻のあたりに大きく皺をよせて、泣きながら笑った。

 踊っている時には絶対に見せないような、気取りのない大輪の笑顔。だけど、彼が一番好きなファニーフェイスの彼女だった。
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