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獣人の国編
獣たちの進軍歌――①
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夜の色がほどけ、東雲が紙の裏から滲むように軍議室の障子を白く押し上げた。
低い卓を囲むのは六つの影――バニッシュ、グラド、リュシア、セレスティナ、そしてツヅラに灰毛。
壁には毛筆で描かれた地図が掛かり、東西南の外周に黒い豆粒が散らばっている。
豆粒は群れ、帯を成し、街を締め上げる縄のように取り巻いていた。
「……来よったな」
扇を畳んだツヅラが静かに口を開く。
金の瞳に夜明けの光が映り、あどけなさのない艶やかな横顔へ鋼の色を差した。
「始めよか。――まず、うちらは東・西・南に兵を分けて当たる」
バニッシュは卓上の木札をひとつ手に取り、東の端へ置いた。
黒の印に触れる指先に、乾いた墨の感触がつたう。
「質問していいか。こちらの兵力は、どれくらいだ」
短く問うと、灰毛が姿勢を正し、低く通る声で即答する。
「動かせる兵、計八千。内訳は歩兵六千、弓二千」
「一万五千に、八千か」
グラドが頬の古傷を指で掻き、渋面で唸った。
「正面三つに割ったら、倍差どころじゃねぇ。押し潰しに来られたら厳しいぜ」
バニッシュも唇を引き結ぶ。
「分散は避けられないとして……数で押されれば陣がもたない。士気の波次第だ」
灰毛は首肯し、毛並を逆立てるように耳を立てた。
「だが我らには、獣人固有の身体能力とスキルがある。地の利もある。そうそうに遅れは取らん」
「ふん、だったら一番早いのは――」
腕を組んだリュシアが、唇の片端を吊り上げた。
「全部、焼き払えばいいのよ。東も西も南も、まとめて焼き払ってあげるわ!」
「リュシア」
セレスティナが柔らかくも強い調子で名を呼ぶ。
「こちらは数が少ない。派手に過ぎれば、あなたの魔力が先に尽きるわ。疲弊した瞬間に押し込まれてしまうわ」
「う、うぅ……」
リュシアは頬を膨らませ、視線を逸らす。が、反駁しきれず肩を落とした。
そこでツヅラが、息を溶かすように言葉を置いた。
「囲まれとる以上、兵を割くのは避けられへん。せやから“牙”を三枚に見せて相手の踏み込みを鈍らせる。――その代わり、ただ守っててもじり貧や。小隊を組み、裏から将を断つ」
金の刃がバニッシュへ向く。扇の先、視線の芯は揺れない。
「任せてええか」
「ああ」
短い返事に、迷いはなかった。胸奥の拍が静かに早まる。
「布陣を詰める」
灰毛が木札を滑らせる。
東に赤の札、西に青、南に白。
ツヅラは扇の縁でそれぞれの線を引き、要となる丘と浅瀬、林の切れ目に印を置いた。
「東は、リュシア。獣王国の“筋”の戦士を付ける。脳まで筋肉の、正面突破が十八番の連中や」
「上等」リュシアが口角を上げる。
「うるさいくらい火を食らわせてやるわ」
「兵は二千。弓五百、歩兵千五百。盾は軽め。火線に合わせて押し引きし」
「わかったわ」
「西はセレスティナ。影走りの部隊――口数は少ないけど仕事は速い“忍”を付ける。エルフの弓術は一級品と聞く、うまく合わせておくれやす」
セレスティナは静かに頷いた。
「矢と術を通す道を作るわ。二千でいいのね」
「二千。山風を掴める位置に、抜け道は二筋。囮を一つ」
「承知したわ」
「南はうちが指揮に立つ。グラドはん、前衛を任す。四千で受け止めて、折り返しで噛みつく」
「任せな!俺の槌で薙ぎ払ってやるわ」
ツヅラは最後の木札を手に取り、静かに卓の中央に置いた。
「そして小隊は――バニッシュ、灰毛、それに灰毛の部下数人。狙いは相手の将や。頭を断てば兵は崩れる。ましてや相手は寄せ集めやさかい脆いはずや」
「ああ、大丈夫だ」
灰毛の耳が小さく動いた。
「合図は?」
「太鼓三つ、間を置いて二つ――“折り返し”。鐘一打、長く――“道が開いた”。狼煙は青が安全、赤が危険、白は撤退。……それと」
バニッシュは地図の空白に小さく印を二つ打った。
「各戦線の後方に“救護班”を設ける。とにかく、こちらは数が少ない。数が減るほど不利になる」
作戦図は、少しずつ、しかし確かな肉を得ていく。
矢倉の目、堀の深さ、杭の間隔、火の筋、風の道、退き口の幅。
各所の“間”が、呼吸のように伸び縮みする絵になった。
「正午前に最初の波が来る」灰毛が目を細める。
「東が厚い。南は牽制、西は回り込み」
「この戦は籠城戦となる。深い追いは厳禁や」ツヅラが扇で拍を取る。
「小隊は、迅速に潜る。――バニッシュはん」
名を呼ばれ、彼は地図から顔を上げる。
「将を断っても払えん憎しみが残ることがある。うちは国やから、それを受ける覚悟がいる。あんたは“戻す”言うた。なら、戻らんかった時の剣、もう一度確かめとき」
「……わかってる」
胸の奥で、冷たく、しかし澄んだ刃が鳴る。
救えないものがある。
だから、救えるものに迷わない。
「他に」
ツヅラの問いに、リュシアが手を上げた。
「閃光の合図、もう一つ欲しい。空に目印立てる。あたしの火でやる」
「なら白霞を混ぜる。弓目が焼けんように」
灰毛が頷く。
やがて、各人の役割と時刻、合図、退き際の基準が細やかに決まっていった。
沈黙が一度、軍議室を満たす。外では太鼓が一打、遠い空気を震わせた。
「――決まりや」
ツヅラが扇を閉じ、立ち上がる。
裾がすべり、足音は砂の上に落ちる雪のように軽い。
「東の“筋”の者ら、ここでリュシアに付け。西の“忍”、セレスティナに従え。南の前衛はグラドはんの指示に従う。小隊は……うちの手印を受けとき」
彼女は指先を軽く組み、掌に金の細紋を走らせた。
触れられた者の胸の奥で、拍が一瞬、静かに揃う。
バニッシュは自身の呼吸が、見えない指で撫でられたように滑らかになるのを感じた。
東門の上で翻る幟は、夜明けの風を孕みながらも一線の緊張を解かない。
配置命令は既に下りた。
東にはリュシアと“筋”の戦士たち。
西にはセレスティナと“忍”の影走り。
南ではグラドが四千を抱え、前衛として海のような軍勢を受け止める。
城心の籠城郭には老幼が集められ、二つの救護拠点に治癒隊が配されていた。
紙札の道標は風に揺れ、その先で静かな灯がいくつも呼吸をしている。
バニッシュの小隊は、城壁の裏腹――苔むした石段のさらに下、かつて薬草師が使ったという隠し通路の闇に潜んでいた。
灰毛が先頭、背に六の影。
鼻の利く若者二、足の速い斥候二、結び縄の巧者一、鈴を胸に下げた心具使いが一。
最後尾にバニッシュ。
通路の空気は土の匂いが濃く、湿り気が舌にまとわりつく。
遠い地面の鼓動が壁越しに伝わり、心臓の内側を指先でなぞられるような奇妙なざわめきを残した。
歩を止めるたびに、外界の音が薄く重なってくる。
革の擦れる気配。太鼓の皮を指で叩いて確かめるような乾いた練習の音。誰かが祈る低い声。
「……深く吸って、三つ数えて吐け。息をそろえる」
囁きは火を使わずとも広がる。
灰毛の耳がわずかに動き、部下たちの肩の上下が少しずつ揃っていく。
緊張は消えない。だが、緊張は凍えではない。絞れば刃になる。
地上からの光は、通路の裂け目を通って細く降りてきた。
そこには外へ抜ける木戸があり、錆びた閂は灰毛の手で油を含ませた布で丁寧に押さえられている。
いつでも静かに開くために。
東の空がわずかに白み、土の匂いに火の素が混じりはじめた頃だ。
丘の上で狼煙が上がった。
赤でも青でもない、合図の前触れ――「見た」。
灰毛の若い部下が、抑えきれない脚力で一歩前へ出る。
「行きましょう、今なら背に――」
「待て」
短い制止。バニッシュの掌が空気を押し、拍が一度だけ引き絞られる。
彼は木戸の隙間に片眼を寄せ、外の呼吸を聴く。
まだ始まりではない。風の流れに、遠く連ねられた甲冑の擦れが乗ってくる。
砂を噛む靴の列。太鼓は鳴らない。まだ、息を合わせている最中だ。
隠し通路は、城の腹から森の根へと抜ける一本の毛細血管だ。
焦りの熱は、そこを破る。だからこそ、待つ。
拍を逸らさないために。
数呼吸置いて、地が震えた。
東から、空を裂く轟き。
リュシアの爆炎だ。
熱の筋は遠いはずなのに、隙間から流れ込む空気が一瞬だけ乾く。
続いて、鋼のぶつかり合う連打。
喉を割る咆哮。狼煙は白霞を帯び、風に引き延ばされて消えた。
「始まった」
ほぼ同時に、西の方角から風鳴りの音が押し寄せ、南では低い角笛が三度、腹の底をとんとんと叩いた。
セレスティナが矢を放ち、グラドが槌を奮わせている。
バニッシュは顎を引き、灰毛へ短く合図した。
「行こう」
閂が音もなく外れ、木戸が呼吸の幅だけ開く。
冷たい朝の風が通路をひと撫でしていった。
小隊は一人ずつ、影の糸を辿るように外へと抜ける。
陽はまだ低く、森の縁には長い影が寝ている。
足裏は土の沈みを計り、草の露を踏む角度までも揃えた。
最初の一歩は地の“間”を見るための一歩。
次の二歩目は気配を消すための一歩。
三歩目からは走る。
灰毛の尾が一度だけ揺れ、鼻先がわずかに左をさす。
風下に油と鉄、紙と墨の匂い。そこが“頭”のいる方角だ。
森は若い楢と古い樅が混じり合って、その根が地表を這っている。
苔は濃く、踏むと水気を含んだ音が微かに鳴る。
鳥は恐れを知って沈黙し、代わりに遠い戦の響きが木々を伝って流れてきた。
折り重なる声のうねり。規則正しく刻まれた脚の地鳴り。叫びが弾け、すぐに飲み込まれる。
灰毛が掌を下ろす。
その合図に、小隊は身を低くし、地のくぼみに身を滑らせる。
前方の視界が開け、低い稜線の向こうに布の影がいくつか揺れているのが見えた。
赤黒い印の入った天幕。
「――行くぞ」
囁きが、土の中へ吸い込まれた。
小隊は影のまま、敵将の布陣へと向けて、無駄の一つもなく、走り出した。
背後の城内では、別の拍が刻まれている。
籠城郭へと続く板道を、年老いた鹿角の翁が荷車を押し、母は背に幼子を負い、年少の者は互いの尾を握って列を崩さぬように歩く。
救護拠点のひとつでは、治癒隊が水を温め、清めの塩と薬草を並べ、血の匂いを吸う灰を袋から少しずつ撒いていた。
鈴を短く振って祈りを閉じる若い女の手は震えていたが、震えを止めようとはせず、震えのまま丁寧に結び目を作っていく。
東の丘の向こう、リュシアは火の衣をまとい、筋の戦士の隊長と肩を並べているはずだ。
彼女の炎は無軌道ではない。
怒りに燃える熱であっても、彼女はいつも誰かの背を焦がさないように風を読む。
西では、セレスティナが古い言葉で風に梳りをかけ、忍の戦士が枝と影の間を一枚の紙のように滑っているだろう。
南の塁では、グラドが前衛として兵の恐怖を刻み替えているに違いない。
バニッシュは右の掌で鳴心環を一度だけ撫で、左の鞘口に軽く触れた。
破邪の剣は薄く光を返し、刃の内側で目に見えない祈りが鳴る。
リュシアとセレスティナの声、グラドの笑い、ザイロ、メイラ、ライラ、フォルの温かな空気が、遠いのに近い。
失えば二度と戻らないものの重さは知っている。
だからこそ、今は刃を抜かない。
抜くのは、刻が熟した瞬間だけでいい。
低い卓を囲むのは六つの影――バニッシュ、グラド、リュシア、セレスティナ、そしてツヅラに灰毛。
壁には毛筆で描かれた地図が掛かり、東西南の外周に黒い豆粒が散らばっている。
豆粒は群れ、帯を成し、街を締め上げる縄のように取り巻いていた。
「……来よったな」
扇を畳んだツヅラが静かに口を開く。
金の瞳に夜明けの光が映り、あどけなさのない艶やかな横顔へ鋼の色を差した。
「始めよか。――まず、うちらは東・西・南に兵を分けて当たる」
バニッシュは卓上の木札をひとつ手に取り、東の端へ置いた。
黒の印に触れる指先に、乾いた墨の感触がつたう。
「質問していいか。こちらの兵力は、どれくらいだ」
短く問うと、灰毛が姿勢を正し、低く通る声で即答する。
「動かせる兵、計八千。内訳は歩兵六千、弓二千」
「一万五千に、八千か」
グラドが頬の古傷を指で掻き、渋面で唸った。
「正面三つに割ったら、倍差どころじゃねぇ。押し潰しに来られたら厳しいぜ」
バニッシュも唇を引き結ぶ。
「分散は避けられないとして……数で押されれば陣がもたない。士気の波次第だ」
灰毛は首肯し、毛並を逆立てるように耳を立てた。
「だが我らには、獣人固有の身体能力とスキルがある。地の利もある。そうそうに遅れは取らん」
「ふん、だったら一番早いのは――」
腕を組んだリュシアが、唇の片端を吊り上げた。
「全部、焼き払えばいいのよ。東も西も南も、まとめて焼き払ってあげるわ!」
「リュシア」
セレスティナが柔らかくも強い調子で名を呼ぶ。
「こちらは数が少ない。派手に過ぎれば、あなたの魔力が先に尽きるわ。疲弊した瞬間に押し込まれてしまうわ」
「う、うぅ……」
リュシアは頬を膨らませ、視線を逸らす。が、反駁しきれず肩を落とした。
そこでツヅラが、息を溶かすように言葉を置いた。
「囲まれとる以上、兵を割くのは避けられへん。せやから“牙”を三枚に見せて相手の踏み込みを鈍らせる。――その代わり、ただ守っててもじり貧や。小隊を組み、裏から将を断つ」
金の刃がバニッシュへ向く。扇の先、視線の芯は揺れない。
「任せてええか」
「ああ」
短い返事に、迷いはなかった。胸奥の拍が静かに早まる。
「布陣を詰める」
灰毛が木札を滑らせる。
東に赤の札、西に青、南に白。
ツヅラは扇の縁でそれぞれの線を引き、要となる丘と浅瀬、林の切れ目に印を置いた。
「東は、リュシア。獣王国の“筋”の戦士を付ける。脳まで筋肉の、正面突破が十八番の連中や」
「上等」リュシアが口角を上げる。
「うるさいくらい火を食らわせてやるわ」
「兵は二千。弓五百、歩兵千五百。盾は軽め。火線に合わせて押し引きし」
「わかったわ」
「西はセレスティナ。影走りの部隊――口数は少ないけど仕事は速い“忍”を付ける。エルフの弓術は一級品と聞く、うまく合わせておくれやす」
セレスティナは静かに頷いた。
「矢と術を通す道を作るわ。二千でいいのね」
「二千。山風を掴める位置に、抜け道は二筋。囮を一つ」
「承知したわ」
「南はうちが指揮に立つ。グラドはん、前衛を任す。四千で受け止めて、折り返しで噛みつく」
「任せな!俺の槌で薙ぎ払ってやるわ」
ツヅラは最後の木札を手に取り、静かに卓の中央に置いた。
「そして小隊は――バニッシュ、灰毛、それに灰毛の部下数人。狙いは相手の将や。頭を断てば兵は崩れる。ましてや相手は寄せ集めやさかい脆いはずや」
「ああ、大丈夫だ」
灰毛の耳が小さく動いた。
「合図は?」
「太鼓三つ、間を置いて二つ――“折り返し”。鐘一打、長く――“道が開いた”。狼煙は青が安全、赤が危険、白は撤退。……それと」
バニッシュは地図の空白に小さく印を二つ打った。
「各戦線の後方に“救護班”を設ける。とにかく、こちらは数が少ない。数が減るほど不利になる」
作戦図は、少しずつ、しかし確かな肉を得ていく。
矢倉の目、堀の深さ、杭の間隔、火の筋、風の道、退き口の幅。
各所の“間”が、呼吸のように伸び縮みする絵になった。
「正午前に最初の波が来る」灰毛が目を細める。
「東が厚い。南は牽制、西は回り込み」
「この戦は籠城戦となる。深い追いは厳禁や」ツヅラが扇で拍を取る。
「小隊は、迅速に潜る。――バニッシュはん」
名を呼ばれ、彼は地図から顔を上げる。
「将を断っても払えん憎しみが残ることがある。うちは国やから、それを受ける覚悟がいる。あんたは“戻す”言うた。なら、戻らんかった時の剣、もう一度確かめとき」
「……わかってる」
胸の奥で、冷たく、しかし澄んだ刃が鳴る。
救えないものがある。
だから、救えるものに迷わない。
「他に」
ツヅラの問いに、リュシアが手を上げた。
「閃光の合図、もう一つ欲しい。空に目印立てる。あたしの火でやる」
「なら白霞を混ぜる。弓目が焼けんように」
灰毛が頷く。
やがて、各人の役割と時刻、合図、退き際の基準が細やかに決まっていった。
沈黙が一度、軍議室を満たす。外では太鼓が一打、遠い空気を震わせた。
「――決まりや」
ツヅラが扇を閉じ、立ち上がる。
裾がすべり、足音は砂の上に落ちる雪のように軽い。
「東の“筋”の者ら、ここでリュシアに付け。西の“忍”、セレスティナに従え。南の前衛はグラドはんの指示に従う。小隊は……うちの手印を受けとき」
彼女は指先を軽く組み、掌に金の細紋を走らせた。
触れられた者の胸の奥で、拍が一瞬、静かに揃う。
バニッシュは自身の呼吸が、見えない指で撫でられたように滑らかになるのを感じた。
東門の上で翻る幟は、夜明けの風を孕みながらも一線の緊張を解かない。
配置命令は既に下りた。
東にはリュシアと“筋”の戦士たち。
西にはセレスティナと“忍”の影走り。
南ではグラドが四千を抱え、前衛として海のような軍勢を受け止める。
城心の籠城郭には老幼が集められ、二つの救護拠点に治癒隊が配されていた。
紙札の道標は風に揺れ、その先で静かな灯がいくつも呼吸をしている。
バニッシュの小隊は、城壁の裏腹――苔むした石段のさらに下、かつて薬草師が使ったという隠し通路の闇に潜んでいた。
灰毛が先頭、背に六の影。
鼻の利く若者二、足の速い斥候二、結び縄の巧者一、鈴を胸に下げた心具使いが一。
最後尾にバニッシュ。
通路の空気は土の匂いが濃く、湿り気が舌にまとわりつく。
遠い地面の鼓動が壁越しに伝わり、心臓の内側を指先でなぞられるような奇妙なざわめきを残した。
歩を止めるたびに、外界の音が薄く重なってくる。
革の擦れる気配。太鼓の皮を指で叩いて確かめるような乾いた練習の音。誰かが祈る低い声。
「……深く吸って、三つ数えて吐け。息をそろえる」
囁きは火を使わずとも広がる。
灰毛の耳がわずかに動き、部下たちの肩の上下が少しずつ揃っていく。
緊張は消えない。だが、緊張は凍えではない。絞れば刃になる。
地上からの光は、通路の裂け目を通って細く降りてきた。
そこには外へ抜ける木戸があり、錆びた閂は灰毛の手で油を含ませた布で丁寧に押さえられている。
いつでも静かに開くために。
東の空がわずかに白み、土の匂いに火の素が混じりはじめた頃だ。
丘の上で狼煙が上がった。
赤でも青でもない、合図の前触れ――「見た」。
灰毛の若い部下が、抑えきれない脚力で一歩前へ出る。
「行きましょう、今なら背に――」
「待て」
短い制止。バニッシュの掌が空気を押し、拍が一度だけ引き絞られる。
彼は木戸の隙間に片眼を寄せ、外の呼吸を聴く。
まだ始まりではない。風の流れに、遠く連ねられた甲冑の擦れが乗ってくる。
砂を噛む靴の列。太鼓は鳴らない。まだ、息を合わせている最中だ。
隠し通路は、城の腹から森の根へと抜ける一本の毛細血管だ。
焦りの熱は、そこを破る。だからこそ、待つ。
拍を逸らさないために。
数呼吸置いて、地が震えた。
東から、空を裂く轟き。
リュシアの爆炎だ。
熱の筋は遠いはずなのに、隙間から流れ込む空気が一瞬だけ乾く。
続いて、鋼のぶつかり合う連打。
喉を割る咆哮。狼煙は白霞を帯び、風に引き延ばされて消えた。
「始まった」
ほぼ同時に、西の方角から風鳴りの音が押し寄せ、南では低い角笛が三度、腹の底をとんとんと叩いた。
セレスティナが矢を放ち、グラドが槌を奮わせている。
バニッシュは顎を引き、灰毛へ短く合図した。
「行こう」
閂が音もなく外れ、木戸が呼吸の幅だけ開く。
冷たい朝の風が通路をひと撫でしていった。
小隊は一人ずつ、影の糸を辿るように外へと抜ける。
陽はまだ低く、森の縁には長い影が寝ている。
足裏は土の沈みを計り、草の露を踏む角度までも揃えた。
最初の一歩は地の“間”を見るための一歩。
次の二歩目は気配を消すための一歩。
三歩目からは走る。
灰毛の尾が一度だけ揺れ、鼻先がわずかに左をさす。
風下に油と鉄、紙と墨の匂い。そこが“頭”のいる方角だ。
森は若い楢と古い樅が混じり合って、その根が地表を這っている。
苔は濃く、踏むと水気を含んだ音が微かに鳴る。
鳥は恐れを知って沈黙し、代わりに遠い戦の響きが木々を伝って流れてきた。
折り重なる声のうねり。規則正しく刻まれた脚の地鳴り。叫びが弾け、すぐに飲み込まれる。
灰毛が掌を下ろす。
その合図に、小隊は身を低くし、地のくぼみに身を滑らせる。
前方の視界が開け、低い稜線の向こうに布の影がいくつか揺れているのが見えた。
赤黒い印の入った天幕。
「――行くぞ」
囁きが、土の中へ吸い込まれた。
小隊は影のまま、敵将の布陣へと向けて、無駄の一つもなく、走り出した。
背後の城内では、別の拍が刻まれている。
籠城郭へと続く板道を、年老いた鹿角の翁が荷車を押し、母は背に幼子を負い、年少の者は互いの尾を握って列を崩さぬように歩く。
救護拠点のひとつでは、治癒隊が水を温め、清めの塩と薬草を並べ、血の匂いを吸う灰を袋から少しずつ撒いていた。
鈴を短く振って祈りを閉じる若い女の手は震えていたが、震えを止めようとはせず、震えのまま丁寧に結び目を作っていく。
東の丘の向こう、リュシアは火の衣をまとい、筋の戦士の隊長と肩を並べているはずだ。
彼女の炎は無軌道ではない。
怒りに燃える熱であっても、彼女はいつも誰かの背を焦がさないように風を読む。
西では、セレスティナが古い言葉で風に梳りをかけ、忍の戦士が枝と影の間を一枚の紙のように滑っているだろう。
南の塁では、グラドが前衛として兵の恐怖を刻み替えているに違いない。
バニッシュは右の掌で鳴心環を一度だけ撫で、左の鞘口に軽く触れた。
破邪の剣は薄く光を返し、刃の内側で目に見えない祈りが鳴る。
リュシアとセレスティナの声、グラドの笑い、ザイロ、メイラ、ライラ、フォルの温かな空気が、遠いのに近い。
失えば二度と戻らないものの重さは知っている。
だからこそ、今は刃を抜かない。
抜くのは、刻が熟した瞬間だけでいい。
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行くあてもなく田舎の村へ流れ着いた彼は、鍬を振るい畑を耕し、のんびり暮らすつもりだった。
――だが、誰も知らなかった。
ジルには“世界を覆すほどのチートスキル”が隠されていたのだ。
襲いかかる魔物を一撃で粉砕し、村を脅かす街の圧力をはねのけ、いつしか彼は「英雄」と呼ばれる存在に。
「戻ってきてくれ」と泣きつく元仲間? もう遅い。
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無能扱いされたおっさんが、実は最強チートで世界を揺るがす!?
のんびり田舎暮らし×無双ファンタジー、ここに開幕!
クラス全員で転移したけど俺のステータスは使役スキルが異常で出会った人全員を使役してしまいました
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「クラス全員で転移したけど俺のステータスは使役スキルが異常で出会った人全員を使役してしまいました」
気がつけば、クラスごと異世界に転移していた――。
しかし俺のステータスは“雑魚”と判定され、クラスメイトからは置き去りにされる。
「どうせ役立たずだろ」と笑われ、迫害され、孤独になった俺。
だが……一人きりになったとき、俺は気づく。
唯一与えられた“使役スキル”が 異常すぎる力 を秘めていることに。
出会った人間も、魔物も、精霊すら――すべて俺の配下になってしまう。
雑魚と蔑まれたはずの俺は、気づけば誰よりも強大な軍勢を率いる存在へ。
これは、クラスで孤立していた少年が「異常な使役スキル」で異世界を歩む物語。
裏切ったクラスメイトを見返すのか、それとも新たな仲間とスローライフを選ぶのか――
運命を決めるのは、すべて“使役”の先にある。
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怒りが頂点に達した他の勇者は、胸ぐらを掴まれた後壁に投げつけた。
いつものことだと、流して終わりにしようと思っていた。
だがなんと、邪魔なライを始末してしまおうと話が進んでしまい、次々に攻撃を仕掛けられることとなった。
ハーシュはライを守ろうとするが、他の勇者に気絶させられてしまう。
勇者達は、ただ痛ぶるように攻撃を加えていき、瀕死の状態で洞窟に置いていってしまった。
自分の弱さを呪い、本当に死を覚悟した瞬間、視界に突如文字が現れてスキル《神族召喚》と書かれていた。
今頃そんなスキル手を入れてどうするんだと、心の中でつぶやくライ。
だが、死ぬ記念に使ってやろうじゃないかと考え、スキルを発動した。
その時だった。
目の前が眩く光り出し、気付けば一人の女が立っていた。
その女は、瀕死状態のライを最も簡単に回復させ、ライの命を救って。
ライはそのあと、その女が神達を統一する三大神の一人であることを知った。
そして、このスキルを発動すれば神を自由に召喚出来るらしく、他の三大神も召喚するがうまく進むわけもなく......。
これは、雑魚と呼ばれ続けた勇者が、強き勇者へとなる物語である。
※小説家になろうにて掲載中
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