59 / 171
星降る収穫祭編
祈りが見えなくなった日
しおりを挟む
セリナは膝の上で小瓶を握りしめていた。
淡く青紫に光る液体が、月明かりを浴びて妖しく揺らめく。
(……あの男を、信じられない……)
胸の奥で必死にそう呟く。
だが同時に、この城に留まり続けることの限界も痛感していた。
勇者は狂い、仲間は死に、そして自分はただ恐怖に震えているだけ――。
「これは……毒かもしれない……。でも……」
唇を噛む。血の味が広がる。
もし毒なら、今ここで終わるだけ。
だが、このままここにいれば……いずれ、あの狂気に呑まれたカイルに殺される。
――なら。
セリナは震える指で、小瓶の栓を外した。
カチリと乾いた音が響く。
異様に不気味な香りが鼻を刺した。
「……っ……」
喉が凍りつきそうなほどの恐怖を押し殺し、目を固く閉じる。
そして一気に、液体を喉へと流し込んだ。
――ドロリとした不快な感触。
薬ではない。
水でもない。
ただ「異物」。それ以上でも以下でもなかった。
「――――っ!!」
次の瞬間、身体の奥底から灼けるような熱が走る。
胃から胸へ、胸から全身へと火が広がる。
皮膚の下で血が煮え滾るような錯覚。
「や、ああああああああああああああああああっ!!!」
絶叫が部屋を震わせた。
汗が滝のように吹き出し、髪が乱れ、手足が痙攣する。
爪先から頭の天辺まで、すべての神経が焼かれる。
祈りも、希望も、言葉さえも吹き飛ぶ。
あるのはただ――理性を喰らい尽くすほどの灼熱。
セリナは床に爪を立て、喉が裂けるほどの悲鳴を上げ続けた。
――絶叫が途切れた。
「セリナ様!? 大丈夫ですか!?」
外で見回りの兵が叫ぶ声が聞こえる。
だがセリナには返事をすることができなかった。
全身を焼き尽くすような痛みは収まり、荒い呼吸だけが残っていた。
――はぁ、はぁ……。
額から滴る汗を拭う余裕もなく、セリナは膝を抱え込みながら震えていた。
そのうち、外で兵が焦ったように叫び声を上げる。
「返事がない……! 破れ!」
次の瞬間、扉が体当たりで破られ、兵士が雪崩れ込む。
だが――兵士の視線は部屋の中を忙しく彷徨うばかりで、セリナを見つけることはなかった。
「どういうことだ……!? 絶叫が聞こえたのに……セリナ様がいない……?」
セリナの目が大きく見開かれる。
――見えていない。
兵士には、自分の姿が見えていないのだ。
(……薬は、本物……!?)
ふと、脳裏にフードの男の言葉がよぎる。
――「一時の間、姿を見えなくする薬」――。
ならば今が唯一の機会。
この地獄から抜け出すための、たった一度きりの道。
「……っ!」
セリナは歯を食いしばり、立ち上がった。
兵の肩を突き飛ばす。
「ぐっ!? な、何だ……風か!?」
兵は不可解そうに辺りを見回す。
その隙に、セリナは廊下を駆け出した。
石畳を叩く足音が自分だけに響く。
誰にも気づかれず、誰にも追われず――。
ただ、恐怖と焦りが背中を押す。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
長い廊下を抜け、暗い城門をくぐり抜ける。
夜風が頬を打つ。
初めて「自由」の匂いを感じた。
(とにかく……遠くへ逃げなくちゃ……!)
セリナは振り返らない。
ただひたすらに、城から遠ざかるように走り続けた。
――どれほど走ったのだろうか。
セリナはただ前だけを見つめ、息が切れ、呼吸が苦しくても足を止めなかった。
胸は焼けるように痛み、喉は枯れ、何度も地面に倒れそうになる。
枝に躓き、茨に腕を裂かれ、草で擦り傷を負いながらも、それでも必死に走り続けた。
行く当てもない。
バニッシュの居場所など知らない。
それでも――ただ、カイルの手の届かぬ場所へ。
「はぁ……はぁ……っ……!」
足元の段差に気づくことはなかった。
ガクンと身体が落ち、一メートルほどの高さから滑り落ちる。
「きゃ……っ!」
背中を打ちつけ、視界が揺らぐ。
もう立ち上がる体力も気力も残っていなかった。
霞む視界の中で、セリナはかすかに唇を動かす。
「……バニッシュ……」
その名を呟いた瞬間、意識は途切れた。
――夢を見た。
赤い炎が夜空を舐める。
恐怖に駆られた悲鳴が、怒号が、村全体を覆っていた。
人々は必死に抵抗しようとするが、次々と斃れていく。
(……ここは……村? いや、里……?)
焼け落ちる家屋の間を走り抜ける影――。
倒れる者たち。
よく見ると、その人々の耳は異様に長い。
「……エルフ……?」
火の海に沈む里の中央に、影が佇んでいた。
その影はゆっくりと振り返る。
――赤く輝く双眸。
光を失った瞳ではない。
燃えるような紅の眼光。
「……カイル……? それとも……」
その存在が誰なのか、判別する前に――
「っ――!」
セリナは飛び起きた。
冷や汗に濡れた体を抱きしめ、荒い息を吐く。
夢の中で見た光景が頭にこびりつき、震えが止まらない。
――あれは、予兆なのか。
それともただの悪夢なのか。
森の冷たい空気の中、セリナは一人、答えの出ない恐怖と共に身を縮めた。
耳にかすかなせせらぎが届いた。
近くに、小川が流れている。
セリナはよろめく身体を引きずりながら、その水辺へと歩み寄った。
手を伸ばし、指先で掬った冷たい水を口へ。
「……っ……」
ひび割れた唇を潤すように、一口、二口――やがて飢えた獣のように両手で水を掬い、必死に喉へと流し込んだ。
あの灼けるような感覚が、まだ身体の奥底に残っていた。
燃え盛る火を鎮火させるかのように、必死で水を飲む。
やがて喉も腹も冷たい水で満たされ、セリナはようやく顔を上げた。
小川の水面が揺れる。
そこには――擦り傷だらけで、恐怖に支配された自分の顔が映っていた。
「……ひどい顔……」
呟きは風に消えた。
指で頬をなぞると、そこには乾ききらない血と泥の感触が残る。
それは勇者の仲間として共に戦った頃の姿ではない。
ただ、逃げ惑い、震えるだけの、ひとりの女の姿。
セリナは震える足で立ち上がった。
もはや帰る場所も、頼るべき仲間もいない。
それでも――歩かなければならない。
どこへ向かうのかも分からず、ただ彷徨うように、一歩、また一歩。
その背を押すのは、恐怖か、それとも希望か。
セリナの足音だけが、森の静寂に吸い込まれていった。
自分が賞金首になっていることを、セリナはすでに知っている。
だから人里も、街道も――徹底的に避ける。
途中で拾った薄汚れた布を頭から被り、顔を隠すように歩く。
乾いた喉を潤すために立ち寄った小さな村では、極力言葉を発さず、最低限の食料だけを買い求めた。
会話を避け、視線を避け、ただ影のように。
再び街道を外れ、森を縫うように移動する。
やがて日は傾き、空は茜色から群青へと変わっていく。
見つけた洞穴に身を滑り込ませ、震える身体を抱くように布へと包まった。
焚き火の小さな炎が、心細く揺れる。
炎を見つめていると、自然と涙が零れ落ちた。
「……どうして……」
声は震え、かすれていた。
あの頃、信じていた仲間も、希望も、すべてが崩れ去った。
今残っているのは、恐怖と孤独だけ。
やがて意識は薄れ、眠りへと落ちていく。
――再び、夢を見る。
どこかが襲われている。
耳を裂く悲鳴、必死の怒号。
燃え盛る炎が夜を照らし、その中で血を吐くように倒れていく住民たち。
目を凝らす。
――獣人たちだ。
耳を裂かれるような断末魔をあげ、倒れていく。
その火の海を踏みしめ、影が立っていた。
赤い眼光が、狂気と絶望を宿して煌めく。
だがその奥に――微かに悲しみが混じっていた。
それは誰?
カイル? それとも――。
『……コレハ……ワタシ?』
呟いた瞬間、夢は破れた。
セリナははっと目を開ける。
気づけば夜明け前、木の幹に背を預けるようにして眠っていた。
荒く息を吐きながら額の汗を拭い、立ち上がろうとする。
夢の内容はすぐに霧のように薄れていった。
赤い眼光。炎に包まれる獣人の村。
……それが何を意味するのか、思い出せない。
ただ胸の奥に不安だけが残る。
セリナは虚ろな目で、また歩き出した。
行くあてもないまま、彷徨うように。
彷徨い始めて、どれほどの夜月が過ぎただろうか。
いつの間にか、セリナの姿はかつての静謐な「聖女」の面影を留めてはいなかった。
ボロ布を重ねたような衣は泥にまみれ、髪は風に乱れて枝や葉を絡ませている。
肌は擦り切れ、頬には土の粒が張りつき、足取りは死人のそれのように鈍い。
かつて祈りを捧げた穏やかな眼差しは消え、代わりに虚ろな光だけが瞳の奥で揺れていた──まるで、歩く亡霊である。
彷徨ううちに、セリナは二つのことに気づいていた。
一つは、眠るたびに必ず同じ悪夢を見るということ。
赤い眼光が燃える炎の中で誰かを襲う、その断片的で忌まわしい光景。
もう一つは、目覚めるといつも見慣れぬ場所にいること。
だが、どちらも彼女にとってはどうでもよかった。
いつしか足は「魔の森」へと迷い込んでいた。
冬の足音が近づいているのだろうか、風は冷たく肌を刺し、吐く息は白く濁った。
木々は葉を落とし、地面は凍てつき始めている。
体温を奪われ、セリナは幹に躓いて転んだ。
膝をつき、手をついて体を起こす気力もなく、ただその場にべたりと倒れ込む。
倒れた瞬間、なぜか不思議な「抜ける感覚」が全身を走った。
冷たい土の匂いのはずが、ふと暖かさがじんわりと体を包む。
外套の隙間から差し込む微かな暖気が、凍えた胸の奥を和らげていく。
(ああ、もうここで……いいかもしれない)
──そんな投げやりな諦念が、瞼を重くした。
その時だった。
「セリナ?」
──ひどく、懐かしい声が、森の静寂を切り裂いた。
霞む視界のなかで声の方へ目を向けると、黒い影がひとつ、樹間に立っていた。
冷気の空気の裂け目から差し込むように見えたその輪郭は、確かに人の形をしている。
ゆっくりと近づくその姿に、セリナの心が不思議と震えた。
暖かさは、ただの幻ではなかったのだろうか。
「バニッシュ……」
掠れた声が、意識の端でつぶやかれる。
その名は彼女の唇から零れると同時に、身体を包んでいた薄氷のような力が溶けるかのように、世界が途切れた。
セリナは、意識を落としていった。
淡く青紫に光る液体が、月明かりを浴びて妖しく揺らめく。
(……あの男を、信じられない……)
胸の奥で必死にそう呟く。
だが同時に、この城に留まり続けることの限界も痛感していた。
勇者は狂い、仲間は死に、そして自分はただ恐怖に震えているだけ――。
「これは……毒かもしれない……。でも……」
唇を噛む。血の味が広がる。
もし毒なら、今ここで終わるだけ。
だが、このままここにいれば……いずれ、あの狂気に呑まれたカイルに殺される。
――なら。
セリナは震える指で、小瓶の栓を外した。
カチリと乾いた音が響く。
異様に不気味な香りが鼻を刺した。
「……っ……」
喉が凍りつきそうなほどの恐怖を押し殺し、目を固く閉じる。
そして一気に、液体を喉へと流し込んだ。
――ドロリとした不快な感触。
薬ではない。
水でもない。
ただ「異物」。それ以上でも以下でもなかった。
「――――っ!!」
次の瞬間、身体の奥底から灼けるような熱が走る。
胃から胸へ、胸から全身へと火が広がる。
皮膚の下で血が煮え滾るような錯覚。
「や、ああああああああああああああああああっ!!!」
絶叫が部屋を震わせた。
汗が滝のように吹き出し、髪が乱れ、手足が痙攣する。
爪先から頭の天辺まで、すべての神経が焼かれる。
祈りも、希望も、言葉さえも吹き飛ぶ。
あるのはただ――理性を喰らい尽くすほどの灼熱。
セリナは床に爪を立て、喉が裂けるほどの悲鳴を上げ続けた。
――絶叫が途切れた。
「セリナ様!? 大丈夫ですか!?」
外で見回りの兵が叫ぶ声が聞こえる。
だがセリナには返事をすることができなかった。
全身を焼き尽くすような痛みは収まり、荒い呼吸だけが残っていた。
――はぁ、はぁ……。
額から滴る汗を拭う余裕もなく、セリナは膝を抱え込みながら震えていた。
そのうち、外で兵が焦ったように叫び声を上げる。
「返事がない……! 破れ!」
次の瞬間、扉が体当たりで破られ、兵士が雪崩れ込む。
だが――兵士の視線は部屋の中を忙しく彷徨うばかりで、セリナを見つけることはなかった。
「どういうことだ……!? 絶叫が聞こえたのに……セリナ様がいない……?」
セリナの目が大きく見開かれる。
――見えていない。
兵士には、自分の姿が見えていないのだ。
(……薬は、本物……!?)
ふと、脳裏にフードの男の言葉がよぎる。
――「一時の間、姿を見えなくする薬」――。
ならば今が唯一の機会。
この地獄から抜け出すための、たった一度きりの道。
「……っ!」
セリナは歯を食いしばり、立ち上がった。
兵の肩を突き飛ばす。
「ぐっ!? な、何だ……風か!?」
兵は不可解そうに辺りを見回す。
その隙に、セリナは廊下を駆け出した。
石畳を叩く足音が自分だけに響く。
誰にも気づかれず、誰にも追われず――。
ただ、恐怖と焦りが背中を押す。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
長い廊下を抜け、暗い城門をくぐり抜ける。
夜風が頬を打つ。
初めて「自由」の匂いを感じた。
(とにかく……遠くへ逃げなくちゃ……!)
セリナは振り返らない。
ただひたすらに、城から遠ざかるように走り続けた。
――どれほど走ったのだろうか。
セリナはただ前だけを見つめ、息が切れ、呼吸が苦しくても足を止めなかった。
胸は焼けるように痛み、喉は枯れ、何度も地面に倒れそうになる。
枝に躓き、茨に腕を裂かれ、草で擦り傷を負いながらも、それでも必死に走り続けた。
行く当てもない。
バニッシュの居場所など知らない。
それでも――ただ、カイルの手の届かぬ場所へ。
「はぁ……はぁ……っ……!」
足元の段差に気づくことはなかった。
ガクンと身体が落ち、一メートルほどの高さから滑り落ちる。
「きゃ……っ!」
背中を打ちつけ、視界が揺らぐ。
もう立ち上がる体力も気力も残っていなかった。
霞む視界の中で、セリナはかすかに唇を動かす。
「……バニッシュ……」
その名を呟いた瞬間、意識は途切れた。
――夢を見た。
赤い炎が夜空を舐める。
恐怖に駆られた悲鳴が、怒号が、村全体を覆っていた。
人々は必死に抵抗しようとするが、次々と斃れていく。
(……ここは……村? いや、里……?)
焼け落ちる家屋の間を走り抜ける影――。
倒れる者たち。
よく見ると、その人々の耳は異様に長い。
「……エルフ……?」
火の海に沈む里の中央に、影が佇んでいた。
その影はゆっくりと振り返る。
――赤く輝く双眸。
光を失った瞳ではない。
燃えるような紅の眼光。
「……カイル……? それとも……」
その存在が誰なのか、判別する前に――
「っ――!」
セリナは飛び起きた。
冷や汗に濡れた体を抱きしめ、荒い息を吐く。
夢の中で見た光景が頭にこびりつき、震えが止まらない。
――あれは、予兆なのか。
それともただの悪夢なのか。
森の冷たい空気の中、セリナは一人、答えの出ない恐怖と共に身を縮めた。
耳にかすかなせせらぎが届いた。
近くに、小川が流れている。
セリナはよろめく身体を引きずりながら、その水辺へと歩み寄った。
手を伸ばし、指先で掬った冷たい水を口へ。
「……っ……」
ひび割れた唇を潤すように、一口、二口――やがて飢えた獣のように両手で水を掬い、必死に喉へと流し込んだ。
あの灼けるような感覚が、まだ身体の奥底に残っていた。
燃え盛る火を鎮火させるかのように、必死で水を飲む。
やがて喉も腹も冷たい水で満たされ、セリナはようやく顔を上げた。
小川の水面が揺れる。
そこには――擦り傷だらけで、恐怖に支配された自分の顔が映っていた。
「……ひどい顔……」
呟きは風に消えた。
指で頬をなぞると、そこには乾ききらない血と泥の感触が残る。
それは勇者の仲間として共に戦った頃の姿ではない。
ただ、逃げ惑い、震えるだけの、ひとりの女の姿。
セリナは震える足で立ち上がった。
もはや帰る場所も、頼るべき仲間もいない。
それでも――歩かなければならない。
どこへ向かうのかも分からず、ただ彷徨うように、一歩、また一歩。
その背を押すのは、恐怖か、それとも希望か。
セリナの足音だけが、森の静寂に吸い込まれていった。
自分が賞金首になっていることを、セリナはすでに知っている。
だから人里も、街道も――徹底的に避ける。
途中で拾った薄汚れた布を頭から被り、顔を隠すように歩く。
乾いた喉を潤すために立ち寄った小さな村では、極力言葉を発さず、最低限の食料だけを買い求めた。
会話を避け、視線を避け、ただ影のように。
再び街道を外れ、森を縫うように移動する。
やがて日は傾き、空は茜色から群青へと変わっていく。
見つけた洞穴に身を滑り込ませ、震える身体を抱くように布へと包まった。
焚き火の小さな炎が、心細く揺れる。
炎を見つめていると、自然と涙が零れ落ちた。
「……どうして……」
声は震え、かすれていた。
あの頃、信じていた仲間も、希望も、すべてが崩れ去った。
今残っているのは、恐怖と孤独だけ。
やがて意識は薄れ、眠りへと落ちていく。
――再び、夢を見る。
どこかが襲われている。
耳を裂く悲鳴、必死の怒号。
燃え盛る炎が夜を照らし、その中で血を吐くように倒れていく住民たち。
目を凝らす。
――獣人たちだ。
耳を裂かれるような断末魔をあげ、倒れていく。
その火の海を踏みしめ、影が立っていた。
赤い眼光が、狂気と絶望を宿して煌めく。
だがその奥に――微かに悲しみが混じっていた。
それは誰?
カイル? それとも――。
『……コレハ……ワタシ?』
呟いた瞬間、夢は破れた。
セリナははっと目を開ける。
気づけば夜明け前、木の幹に背を預けるようにして眠っていた。
荒く息を吐きながら額の汗を拭い、立ち上がろうとする。
夢の内容はすぐに霧のように薄れていった。
赤い眼光。炎に包まれる獣人の村。
……それが何を意味するのか、思い出せない。
ただ胸の奥に不安だけが残る。
セリナは虚ろな目で、また歩き出した。
行くあてもないまま、彷徨うように。
彷徨い始めて、どれほどの夜月が過ぎただろうか。
いつの間にか、セリナの姿はかつての静謐な「聖女」の面影を留めてはいなかった。
ボロ布を重ねたような衣は泥にまみれ、髪は風に乱れて枝や葉を絡ませている。
肌は擦り切れ、頬には土の粒が張りつき、足取りは死人のそれのように鈍い。
かつて祈りを捧げた穏やかな眼差しは消え、代わりに虚ろな光だけが瞳の奥で揺れていた──まるで、歩く亡霊である。
彷徨ううちに、セリナは二つのことに気づいていた。
一つは、眠るたびに必ず同じ悪夢を見るということ。
赤い眼光が燃える炎の中で誰かを襲う、その断片的で忌まわしい光景。
もう一つは、目覚めるといつも見慣れぬ場所にいること。
だが、どちらも彼女にとってはどうでもよかった。
いつしか足は「魔の森」へと迷い込んでいた。
冬の足音が近づいているのだろうか、風は冷たく肌を刺し、吐く息は白く濁った。
木々は葉を落とし、地面は凍てつき始めている。
体温を奪われ、セリナは幹に躓いて転んだ。
膝をつき、手をついて体を起こす気力もなく、ただその場にべたりと倒れ込む。
倒れた瞬間、なぜか不思議な「抜ける感覚」が全身を走った。
冷たい土の匂いのはずが、ふと暖かさがじんわりと体を包む。
外套の隙間から差し込む微かな暖気が、凍えた胸の奥を和らげていく。
(ああ、もうここで……いいかもしれない)
──そんな投げやりな諦念が、瞼を重くした。
その時だった。
「セリナ?」
──ひどく、懐かしい声が、森の静寂を切り裂いた。
霞む視界のなかで声の方へ目を向けると、黒い影がひとつ、樹間に立っていた。
冷気の空気の裂け目から差し込むように見えたその輪郭は、確かに人の形をしている。
ゆっくりと近づくその姿に、セリナの心が不思議と震えた。
暖かさは、ただの幻ではなかったのだろうか。
「バニッシュ……」
掠れた声が、意識の端でつぶやかれる。
その名は彼女の唇から零れると同時に、身体を包んでいた薄氷のような力が溶けるかのように、世界が途切れた。
セリナは、意識を落としていった。
62
あなたにおすすめの小説
無能扱いされ、パーティーを追放されたおっさん、実はチートスキル持ちでした。戻ってきてくれ、と言ってももう遅い。田舎でゆったりスローライフ。
さら
ファンタジー
かつて勇者パーティーに所属していたジル。
だが「無能」と嘲られ、役立たずと追放されてしまう。
行くあてもなく田舎の村へ流れ着いた彼は、鍬を振るい畑を耕し、のんびり暮らすつもりだった。
――だが、誰も知らなかった。
ジルには“世界を覆すほどのチートスキル”が隠されていたのだ。
襲いかかる魔物を一撃で粉砕し、村を脅かす街の圧力をはねのけ、いつしか彼は「英雄」と呼ばれる存在に。
「戻ってきてくれ」と泣きつく元仲間? もう遅い。
俺はこの村で、仲間と共に、気ままにスローライフを楽しむ――そう決めたんだ。
無能扱いされたおっさんが、実は最強チートで世界を揺るがす!?
のんびり田舎暮らし×無双ファンタジー、ここに開幕!
猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣で最強すぎて困る
マーラッシュ
ファンタジー
旧題:狙って勇者パーティーを追放されて猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣だった。そして人間を拾ったら・・・
何かを拾う度にトラブルに巻き込まれるけど、結果成り上がってしまう。
異世界転生者のユートは、バルトフェル帝国の山奥に一人で住んでいた。
ある日、盗賊に襲われている公爵令嬢を助けたことによって、勇者パーティーに推薦されることになる。
断ると角が立つと思い仕方なしに引き受けるが、このパーティーが最悪だった。
勇者ギアベルは皇帝の息子でやりたい放題。活躍すれば咎められ、上手く行かなければユートのせいにされ、パーティーに入った初日から後悔するのだった。そして他の仲間達は全て女性で、ギアベルに絶対服従していたため、味方は誰もいない。
ユートはすぐにでもパーティーを抜けるため、情報屋に金を払い噂を流すことにした。
勇者パーティーはユートがいなければ何も出来ない集団だという内容でだ。
プライドが高いギアベルは、噂を聞いてすぐに「貴様のような役立たずは勇者パーティーには必要ない!」と公衆の面前で追放してくれた。
しかし晴れて自由の身になったが、一つだけ誤算があった。
それはギアベルの怒りを買いすぎたせいで、帝国を追放されてしまったのだ。
そしてユートは荷物を取りに行くため自宅に戻ると、そこには腹をすかした猫が、道端には怪我をした犬が、さらに船の中には女の子が倒れていたが、それぞれの正体はとんでもないものであった。
これは自重できない異世界転生者が色々なものを拾った結果、トラブルに巻き込まれ解決していき成り上がり、幸せな異世界ライフを満喫する物語である。
スキルはコピーして上書き最強でいいですか~改造初級魔法で便利に異世界ライフ~
深田くれと
ファンタジー
【文庫版2が4月8日に発売されます! ありがとうございます!】
異世界に飛ばされたものの、何の能力も得られなかった青年サナト。街で清掃係として働くかたわら、雑魚モンスターを狩る日々が続いていた。しかしある日、突然仕事を首になり、生きる糧を失ってしまう――。 そこで、サナトの人生を変える大事件が発生する!途方に暮れて挑んだダンジョンにて、ダンジョンを支配するドラゴンと遭遇し、自らを破壊するよう頼まれたのだ。その願いを聞きつつも、ダンジョンの後継者にはならず、能力だけを受け継いだサナト。新たな力――ダンジョンコアとともに、スキルを駆使して異世界で成り上がる!
最難関ダンジョンをクリアした成功報酬は勇者パーティーの裏切りでした
新緑あらた
ファンタジー
最難関であるS級ダンジョン最深部の隠し部屋。金銀財宝を前に告げられた言葉は労いでも喜びでもなく、解雇通告だった。
「もうオマエはいらん」
勇者アレクサンダー、癒し手エリーゼ、赤魔道士フェルノに、自身の黒髪黒目を忌避しないことから期待していた俺は大きなショックを受ける。
ヤツらは俺の外見を受け入れていたわけじゃない。ただ仲間と思っていなかっただけ、眼中になかっただけなのだ。
転生者は曾祖父だけどチートは隔世遺伝した「俺」にも受け継がれています。
勇者達は大富豪スタートで貧民窟の住人がゴールです(笑)
ギャルい女神と超絶チート同盟〜女神に贔屓されまくった結果、主人公クラスなチート持ち達の同盟リーダーとなってしまったんだが〜
平明神
ファンタジー
ユーゴ・タカトー。
それは、女神の「推し」になった男。
見た目ギャルな女神ユーラウリアの色仕掛けに負け、何度も異世界を救ってきた彼に新たに下った女神のお願いは、転生や転移した者達を探すこと。
彼が出会っていく者たちは、アニメやラノベの主人公を張れるほど強くて魅力的。だけど、みんなチート的な能力や武器を持つ濃いキャラで、なかなか一筋縄ではいかない者ばかり。
彼らと仲間になって同盟を組んだユーゴは、やがて彼らと共に様々な異世界を巻き込む大きな事件に関わっていく。
その過程で、彼はリーダーシップを発揮し、新たな力を開花させていくのだった!
女神から貰ったバラエティー豊かなチート能力とチートアイテムを駆使するユーゴは、どこへ行ってもみんなの度肝を抜きまくる!
さらに、彼にはもともと特殊な能力があるようで……?
英雄、聖女、魔王、人魚、侍、巫女、お嬢様、変身ヒーロー、巨大ロボット、歌姫、メイド、追放、ざまあ───
なんでもありの異世界アベンジャーズ!
女神の使徒と異世界チートな英雄たちとの絆が紡ぐ、運命の物語、ここに開幕!
※不定期更新。
※感想やお気に入り登録をして頂けますと、作者のモチベーションがあがり、エタることなくもっと面白い話が作れます。
異世界転生した俺は、産まれながらに最強だった。
桜花龍炎舞
ファンタジー
主人公ミツルはある日、不慮の事故にあい死んでしまった。
だが目がさめると見知らぬ美形の男と見知らぬ美女が目の前にいて、ミツル自身の身体も見知らぬ美形の子供に変わっていた。
そして更に、恐らく転生したであろうこの場所は剣や魔法が行き交うゲームの世界とも思える異世界だったのである。
異世界転生 × 最強 × ギャグ × 仲間。
チートすぎる俺が、神様より自由に世界をぶっ壊す!?
“真面目な展開ゼロ”の爽快異世界バカ旅、始動!
クラス全員で転移したけど俺のステータスは使役スキルが異常で出会った人全員を使役してしまいました
髙橋ルイ
ファンタジー
「クラス全員で転移したけど俺のステータスは使役スキルが異常で出会った人全員を使役してしまいました」
気がつけば、クラスごと異世界に転移していた――。
しかし俺のステータスは“雑魚”と判定され、クラスメイトからは置き去りにされる。
「どうせ役立たずだろ」と笑われ、迫害され、孤独になった俺。
だが……一人きりになったとき、俺は気づく。
唯一与えられた“使役スキル”が 異常すぎる力 を秘めていることに。
出会った人間も、魔物も、精霊すら――すべて俺の配下になってしまう。
雑魚と蔑まれたはずの俺は、気づけば誰よりも強大な軍勢を率いる存在へ。
これは、クラスで孤立していた少年が「異常な使役スキル」で異世界を歩む物語。
裏切ったクラスメイトを見返すのか、それとも新たな仲間とスローライフを選ぶのか――
運命を決めるのは、すべて“使役”の先にある。
毎朝7時更新中です。⭐お気に入りで応援いただけると励みになります!
期間限定で10時と17時と21時も投稿予定
※表紙のイラストはAIによるイメージです
スキルで最強神を召喚して、無双してしまうんだが〜パーティーを追放された勇者は、召喚した神達と共に無双する。神達が強すぎて困ってます〜
東雲ハヤブサ
ファンタジー
勇者に選ばれたライ・サーベルズは、他にも選ばれた五人の勇者とパーティーを組んでいた。
ところが、勇者達の実略は凄まじく、ライでは到底敵う相手ではなかった。
「おい雑魚、これを持っていけ」
ライがそう言われるのは日常茶飯事であり、荷物持ちや雑用などをさせられる始末だ。
ある日、洞窟に六人でいると、ライがきっかけで他の勇者の怒りを買ってしまう。
怒りが頂点に達した他の勇者は、胸ぐらを掴まれた後壁に投げつけた。
いつものことだと、流して終わりにしようと思っていた。
だがなんと、邪魔なライを始末してしまおうと話が進んでしまい、次々に攻撃を仕掛けられることとなった。
ハーシュはライを守ろうとするが、他の勇者に気絶させられてしまう。
勇者達は、ただ痛ぶるように攻撃を加えていき、瀕死の状態で洞窟に置いていってしまった。
自分の弱さを呪い、本当に死を覚悟した瞬間、視界に突如文字が現れてスキル《神族召喚》と書かれていた。
今頃そんなスキル手を入れてどうするんだと、心の中でつぶやくライ。
だが、死ぬ記念に使ってやろうじゃないかと考え、スキルを発動した。
その時だった。
目の前が眩く光り出し、気付けば一人の女が立っていた。
その女は、瀕死状態のライを最も簡単に回復させ、ライの命を救って。
ライはそのあと、その女が神達を統一する三大神の一人であることを知った。
そして、このスキルを発動すれば神を自由に召喚出来るらしく、他の三大神も召喚するがうまく進むわけもなく......。
これは、雑魚と呼ばれ続けた勇者が、強き勇者へとなる物語である。
※小説家になろうにて掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる