151 / 171
縁の決戦編
救われない願い
しおりを挟む
――ドゴォォンッ!!
爆音とともに、火炎魔法が炸裂した。
黒煙と熱風が闘技場を覆い尽くし、地面が焦げ、空気が歪む。
「……はぁ……はぁ……」
カイルは肩で息をしながら、苛立ちを吐き出すように言った。
「手こずらせやがって……」
消耗は、隠しきれない。
呼吸は荒く、魔力の脈動も不安定だ。
「物理的な攻撃が効かなくても……魔法なら、効くだろ」
爆煙の中から、影が揺れる。
「……っ……」
よろけながら現れたのは、黒牙だった。
それでも構えを解かない。
カイルの魔法も最初の頃の威力はなく、黒牙でも耐えられるほどだった。
それでも息は荒く、身体は限界に近い。
だが、瞳だけは、まだ折れていなかった。
「……これで……終わりにしてやる……!」
カイルは大剣を握り直す。
残り僅かな魔力を、無理やり引きずり出す。
刃の周囲に、再び火炎が集い始めた。
――その時、カイルの動きが、止まった。
その顔は、まるで――亡霊を見たかのように強張り、カイルの目が見開かれる。
呼吸が止まり、全身が硬直する。
その異変に気づき、黒牙も思わず振り返った。
爆煙の向こう。
焦げた岩肌の上に――立っている影があった。
全身は、ボロボロで鎧は砕け、血と煤に塗れ、まともに動けるはずがない身体。
「……おじ……さん……?」
黒牙の声が、震える。
そこにいたのは――バニッシュだった。
剣は失われ、満身創痍。
だが、瞳には――確かな光が宿っている。
必ず立ち上がる。
そう、信じていた。
その願いが、今、現実として目の前に立っている。
「……っ……」
黒牙の目に、涙が滲んだ。
信じていたものが、報われた涙だった。
沈むはずだった男が、守るべき世界のために――再び、立ち上がった。
そして、カイルの喉から――かすれた声が漏れた。
「……バ……ニッシュ……? ……な……なんで……」
カイルは、驚愕と戸惑いを隠しきれず、一歩後ずさった。
――あり得ないはずだった。
自分の最強の一撃、焔聖黒雷斬をまともに受け、ついさっきまで倒れ伏し、死にかけていたはずの男が――立っている。
「……ば、かな……」
大剣を握る手が、目に見えて震える。
理解が、現実を拒絶していた。
その視界に映るのは、全身がボロボロになりながらも、それでも守るもののために立ち上がったバニッシュの姿。
その姿は――かつて自分が心から憧れた英雄譚、四英傑伝に描かれた英雄の姿と、あまりにも重なっていた。
「……違う……」
カイルは、首を小さく振る。
「……お前じゃない……俺の信じた……俺が、目指したものは……」
声が、次第に荒れていく。
「――お前じゃないんだ!!」
叫びと共に、残された魔力が解き放たれた。
火炎が逆巻き、大地が震え、熱が、空間全体を覆い尽くそうとする。
「……はぁ……はぁ……」
バニッシュの呼吸は、今にも途切れそうだった。
立っていること自体が奇跡に近い。
だが、その眼差しは、驚くほど静かだった。
恐怖も、迷いも、そこにはない。
鏡律封陣――あれは、古代魔法の原理と、自らが組み上げた魔法理論を融合させて完成させた結界。
どちらも、理論によって整然と構築された体系だったからこそ、融合は可能だった。
だが――魔族の魔法理論だけは違った。
感情や環境に左右され、魔素そのものを操る、極めて不安定な思想。
魔素を操ることは出来た。
だが、感情が影響する分、自分の理論との融合は、どうしても噛み合わなかった。
何度も悩み失敗した。
――出来ない。
――無理だ。
そう、思い込んでいた。
「……違ったんだ……」
バニッシュは、かすれた声で呟く。
融合を阻んでいたのは、理論の違いではない。
自分自身の迷いだった。
守るべきもの、背負うと誓ったもの、それを前にしてなお、揺れていた心。
だが今――その迷いは、完全に消えていた。
守ると背負うと、そう誓った心だけが残っている。
バニッシュは、折れたままの破邪の剣を、静かに掲げた。
足元に、重く、深い魔法陣が展開される。
鏡でも、光でもない、深淵のように静かで、底知れぬ闇を湛えた結界。
吸い込むような、圧倒的な静寂。
「――深淵力封結界陣」
バニッシュは、静かに唱えた。
それは、理論と理論、意思と感情、人の魔法と魔族の魔法が――初めて、完全に融合した瞬間だった。
火炎が逆巻く中、深淵の結界が、ゆっくりと世界を覆い始める。
結界が、完全に――世界を覆った。
それは、温かいようでいて、同時に冷たい。
包み込む安堵と、底知れぬ深淵が同居する、奇妙な感覚。
「……な、何だ……!? これは……!」
カイルは思わず天を仰いだ。
不気味で、しかしどこか懐かしさを伴う結界。
その内側で、異変はすでに起きていた。
きらり、きらりとカイルの身体から、光の粒のようなものが引き剥がされていく。
「……っ!?」
それは、血でも魔力の奔流でもない――力そのものだった。
「……ま、まさか……! 俺の……力を……!」
気づいた時には、すでに遅い。
残った魔力をかき集め、逆巻かせていた火炎は、音もなく、結界に呑み込まれていた。
「……くそ……! させるかぁぁぁぁ!!」
カイルは叫び、地を蹴った。
一直線に――バニッシュを穿つために。
バニッシュに大剣が振り下ろされる。
それは、カイルの意地の一撃。
ガァンッ!!
鈍い衝撃音と共にカイルの前に塞がったのは黒牙だった。
真正面から――カイルの大剣を受け止める。
黒牙はカイルの大剣をはじき返す、カイルは力を吸収されたこともあり、力なく弾かれてしまう。
「……なっ……!」
大きく体勢を崩すカイル。
その瞬間を――黒牙は逃さなかった。
「――うわあぁぁぁ!!」
剣を振り上げる。
恐怖も、迷いも、誇りも、想いもすべてを込めて、全身全霊の一閃。
カイルは反射的に大剣を掲げ、受けに入る。
バキィンッ!!
カイルの大剣は、根元から砕け散った。
「……ぁ……」
その刹那、黒牙の刃が――確かに、カイルの身体を捉える。
血が飛び、衝撃が走り、カイルの身体は、よろめくように後退した。
崩れ落ちそうになる身体。
砕けた剣の残骸が、地面に転がる。
深淵の結界の中で、力を奪われ、武器を失い、初めて――カイルは、敗北という現実に直面していた。
黒牙は、剣を握ったまま、息を荒くしながら立っている。
その背後には――静かに立つ、バニッシュの姿。
深淵の結界が、ゆっくりと霧散していく。
奪われていた力が完全に消え去り、現実の空気が、重く戦場に戻ってきた。
その中心で――カイルは、崩れるように膝をついた。
砕けた大剣の残骸が、指先から転げ落ちる。
肩で息をすることすら出来ず、ただ首を垂れる。
敗北――それ以上でも、それ以下でもない現実。
「……」
黒牙は、その姿を見下ろしていた。
胸の奥に渦巻く感情――怒り、憎しみ、悲しみ、悔しさ。
兄を奪った仇が、今、無防備にうなだれている。
黒牙は、ゆっくりと剣を振り上げた。
――その時。
「……待ってくれ」
かすれた声が、背後から響いた。
黒牙が振り返る。
そこには、全身を引きずるようにしながら、それでも立つ――バニッシュの姿があった。
「……カイルを……殺さないでくれ……」
「……っ!?」
黒牙の手が、震える。
「で……でも……!」
堪えきれず、声を荒げた。
「こいつは……兄さんを……!!」
その叫びは、今まで胸に溜め込んできたすべてだった。
バニッシュは、ゆっくりと首を振る。
「……お前の気持ちは、わかる」
痛みを噛み締めながら、それでも言葉を選ぶ。
「憎くて……許せなくて……ここで終わらせたいと思うのも、当然だ」
一瞬、視線が伏せられる。
だが――すぐに、顔を上げた。
「……それでも、コイツには……生きて、罪を償ってほしい。自分が壊したものと、向き合い続けてほしいんだ」
「……」
黒牙は、唇を噛み締める。
目の前にいるのは、兄の仇。
それを殺すなと言われて、簡単に納得できるはずがない。
――それでも、バニッシュは、自分が信じた男だった。
倒れても、立ち上がり、それでも誰かを守ろうとした人間だった。
そして――黒牙が、ここに立てた理由そのものだった。
黒牙は、大きく息を吐いた。
胸に溜まった、割り切れない感情を、吐き出すように。
「……わかったよ」
剣を、静かに下ろす。
「……おじさんが、そこまで言うなら……」
黒牙の身体を包んでいた闇が、すうっと引いていく。
揺らめいていた影は消え、魔纏憑鬼が完全に解かれた。
憎しみを断ち切ったわけではない。
許したわけでもない。
それでも――一歩、前に進む選択をした。
膝をついたままのカイルは、何も言わず、ただ首を垂れている。
魔纏憑鬼を解いた瞬間、黒牙の身体から力が抜け落ちた。
まるで――糸が切れた人形のように。
「……はは……」
その場に、へたりと座り込む。
「……もう……ヘトヘトだよ……」
強がるように笑うが、呼吸は荒く、指先は小刻みに震えていた。
急激な覚醒状態で魔纏憑鬼を発動し、限界まで力を使い切ったのだ。
「……すまない。本当に……ありがとう」
バニッシュは、静かに微笑み、そう言った。
その笑みは、どこまでも穏やかで――戦場に立つ者のものとは思えないほどだった。
そして、踵を返し、膝をついたままの男の前へと歩み出る。
「……これで終わりだ、カイル。お前が犯した罪は……大きい」
一歩、距離を詰める。
「だからこそ――生きて、償っていくんだ」
その瞳には、怒りはなかった。
あったのは、かつて同じ道を歩いた者への――悲しみと、どうしようもない寂しさだけだった。
「……」
カイルは何も答えない。
首を垂れたまま、動かない。
バニッシュは、それ以上何も言わず、背を向けた。
黒牙の方へと振り返る。
「……とにかく、ここから出よう」
かすかに息を整えながら。
「みんなの所に……戻らないとな」
そう言って、バニッシュは黒牙へと手を差し伸べた。
「……うん」
黒牙は、小さく頷く。
その手を取ろうと――伸ばした、その時――ぞわり、と黒牙の背筋を、言いようのない悪寒が走った。
「……っ!」
視線が、瞬時に――バニッシュの背後へと跳ねる。
「――おじさん……!!」
叫び声は遅く、それは一瞬の出来事だった。
ドンッ!!
鈍い衝撃音。
同時に、バニッシュの背中に――焼けるような激痛が走った。
「……ぐ……っ……!」
喉から、かすれた呻き声が漏れる。
その背後でさっきまで、敗北に打ちひしがれ、項垂れていたはずの男が――立っていた。
「……は……」
血に塗れた手。
そこには――短いナイフが握られている。
背中から――バニッシュを貫いていた。
「……終わりだと……?」
カイルの口が、歪んだ笑みを形作る。
「……終わるのは……てめぇだ、バニッシュ!!」
ナイフをさらに突き込むように力を込める。
「……っ!!」
「どのみち……ここから出るには……どちらかが贄になるしかねぇ」
カイルの瞳は、完全に狂気に染まっていた。
「だったらよ――お前が贄になれ。バニッシュ!!」
決戦の場に、再び禍々しい瘴気が揺らめき始める。
勝利の後に訪れたはずの静寂は、一瞬にして、絶望に塗り替えられた。
「……お、お前が……そんな行動に出るのは……わかっていた」
刺された背中の激痛に顔を歪めながらも、バニッシュは――静かに、そう言った。
「……なに……!?」
思わず、カイルの声が裏返る。
想定外だったのは、抵抗でも反撃でもない。
その声音に、恐怖も動揺もなかったことだ。
「……これは……俺の罰だ」
バニッシュは、血を吐くように言葉を紡ぐ。
「お前たちを……見限った。追放されるままに……見捨てた」
脳裏をよぎる、あの日の光景、何も言わず、何も出来ず、背を向けた自分。
「……堕ちていくお前たちを……止められなかった」
ナイフが刺さったまま、それでも、はっきりと。
「それが……俺の弱さだ……これは、その弱さへの……罰だ……」
かすかに、笑う。
「……何、言ってやが――」
カイルが言いかけた、その瞬間。
――ゴンッ!!
鈍く、骨に響く音。
「――がっ!!」
バニッシュは、後頭部で――渾身の頭突きを叩き込んでいた。
不意を突かれ、カイルは顔を押さえながらよろめき、数歩――後ずさる。
「……この……クソが……!!」
血走った目で、カイルが睨み上げる。
バニッシュは――振り向き様に折れたままの破邪の剣を、迷いなく――振り抜こうとする。
――その刹那、きらり、と破邪の剣に――光が灯った。
「……っ……!?」
折断された刀身の先端から、白銀の光が溢れ出す。
欠けた部分を補填するように、純粋な光の刃が形成されていく。
それは、迷いを断ち切った心に応えるかのように。
「……」
バニッシュは、躊躇しない。
すべてを――一本の線に収束させる。
そして、光刃は、蔓延る瘴気を裂き、一直線に――カイルを捉える。
「――な……」
ザンッ!!
乾いた音が響いた。
カイルの左の額から――黒い角が、宙を舞った。
「……ぁ……?」
地面に転がる、それは歪んだ力の象徴だった角。
それを失ったカイルの顔から、狂気が――一瞬だけ、抜け落ちる。
光刃を振り抜いた、その反動。
「――っ……」
バニッシュの身体は、支えを失ったように――ドサリと音を立てて倒れ伏した。
カイルとの死闘と限界を超えた魔力行使、そして、背中に深々と突き立てられた刃。
足は、もはや踏ん張りを利かせる力を失っていた。
「……はぁ……っ……」
荒い呼吸のまま、バニッシュは必死に体を起こし、視線を上げる。
そこに映ったのは―― 両手で頭を抱え、よろよろと後退していくカイルの姿だった。
「……あ……あぁ……」
苦悶とも、恐怖ともつかない声。
足取りは定まらず、まるで――自分の身体ではないかのよう。
そしてカイルの体から、黒い瘴気のようなモヤが、ゆっくりと抜け出していく。
煙のように、蛇のように、空へと溶けていくそれは――まるで、カイルの内側に巣食っていた狂気そのものが、引き剥がされていくかのようだった。
「……カイル……」
かすれた声で、名を呼ぶ。
瘴気が抜けるほどに、カイルの動きは不安定になっていく。
一歩、また一歩とよろめき後退していくカイル。
そして――カイルの身体が、崖の淵を越える。
「……っ!」
「――カイル!!」
バニッシュは叫んだ。
痛みも、限界も忘れ、這うように地面を掴みながら、崖の方へと藻掻く。
指が岩を掻き、血が滲み、それでも――前へ。
崖の淵に辿り着き、身を乗り出して――下を覗き込む。
「……っ……!」
落ちかけた身体を、崖の壁に片手で引っかけているカイルがいた。
指先が、必死に岩に食い込んでいる。
もう一方の手は、力なく宙を彷徨っていた。
深淵の底は、見えない。
落ちれば――助からない。
「――待ってろ! 今、助ける!!」
バニッシュは歯を食いしばり、背中に突き立ったままのナイフを掴んだ。
「……っ!!」
引き抜いた瞬間、血が噴き出す。
視界が一瞬、白く弾けた。
意識が、遠のきかける。
「……ぐ……っ……!」
それでも、倒れなかった。
震える手で、そのナイフを――地面へ。
ドンッ!!
岩肌に、深々と突き刺さる。
柄を、ぎゅっと、掴む。
それを支点に、身体を引き寄せ、必死に、腕を伸ばす。
崖下から、かすれた叫びが響いた。
「……なぜだ……」
カイルの声は、震えていた。
「俺は……強くなったはずだ……最強の力を……圧倒的な力を……」
怒りでも、狂気でもない。
それは――ただ純粋に力を求め、変わろうとした男の言葉。
「……なのに……なぜだ……なぜ……振り向けば……お前が、そこにいる!! バニッシュ!!」
必死に、顔を上げる。
そのカイルの顔を見つめて、バニッシュは――微笑んだ。
それは、戦場で向ける勝者の笑みではない。
ただ、昔から変わらない――仲間に向ける笑顔だった。
「……当たり前だろ」
かすれた声。
それでも、確かに届く声。
「俺は――昔も、今も……お前の仲間だ」
指先が、届く距離まで来ている。
迷いなく、バニッシュは、さらに腕を伸ばした。
その瞬間、崖の上でも、崖の下でも――二人の時間だけが、静かに、止まったように感じられた。
カイルは、目を大きく見開いた。
崖の縁に縋りつく指先が、わずかに震える。
その視界いっぱいに――必死に腕を伸ばす男がいた。
「……早く……!」
バニッシュの声が裂ける。
「早く、手を……!!」
その叫びに、カイルは小さく息を吐いた。
「……お前に話した物語に出てくる青年。あれは……俺だ」
「……カイル……?」
名前を呼ぶ声が、揺れる。
「お前という天才に出会い……俺は、嫉妬した」
指が、さらに滑る。
「負けたくなかった……ただ、それだけだったんだ」
「そんなことより――! いいから早く手を!!」
バニッシュは叫ぶ。
そして――カイルは、ふっと笑った。
それは、狂気に歪んだ笑みではない。
敗者の冷笑でもない。
昔、何度も見た――共に夢を語った頃の、あの笑顔だった。
その次の瞬間、カイルは――岩壁に縋っていた手を、静かに離した。
「……っ!!」
「――これから歩むお前の英雄譚……」
落ちていく中で、かすかな声が届く。
「俺は……先に地獄で、見届けてやる」
「――カイルーーーー!!」
バニッシュは叫び、なおも腕を伸ばそうとする。
身体を前へ投げ出しそうになる。
「ダ、ダメだよ!!」
黒牙の声。
必死に――バニッシュの身体を、後ろから掴み、引き戻す。
奈落へと落ちていく、カイルの身体が――ゆっくりと、瘴気へと崩れていく。
人の形を保てず、黒い霧となり、やがて――闇の中に浮かぶ、黒いオーブへと吸い込まれていった。
引きずり上げられたバニッシュは、そのまま地面に崩れ落ちた。
――ゴンッ。
拳が、硬い岩肌を叩く。
「……う……ぐ……」
嗚咽とも、呻きともつかない声が喉から漏れた。
何度も、何度も、バニッシュは地面を叩いた。
救えなかった。
セリナも、ミレイユも――そして、カイルも。
救いたいと願った。
手を伸ばした。
最後まで、諦めなかった。
それでも――救えなかったという現実だけが、冷たく胸に突き刺さる。
「……っ……」
胸の奥が、ぎりぎりと抉られる。
英雄なんかじゃない。
正しかったわけでもない。
ただ、救いたかっただけなのに――結果は、これだ。
黒牙は、その姿を黙って見つめていた。
声をかけることもできず、ただ、静かに涙を流すバニッシュの背中を、視界に焼き付ける。
――その時、空間全体が、低く軋むように揺れ始めた。
「……っ!?」
黒牙が顔を上げる。
崖の下でカイルを贄として取り込んだ黒いオーブが、脈打つように光を放ち――一直線に、空へと飛び立った。
まるで、何かに呼ばれるように。
まるで、目的地が決まっているかのように。
オーブは瘴気を引き裂き、やがて見えなくなる。
それと同時に――ピシ……ッと、嫌な音が空間に走った。
「……ひ、び……?」
周囲の空間そのものに、無数のひびが走っていく。
瘴気が荒れ狂い、まるでこの場所そのものが――耐えきれず壊れ始めているかのようだった。
「……お、おじさん!!」
黒牙は、はっとしてバニッシュを見た。
「早く! 早くここから出ないと!!」
「……」
だが――バニッシュは、反応しない。
膝をついたまま、地面を見つめ、まるで魂が抜け落ちたかのようだった。
「……おじさん!!」
黒牙は必死に叫ぶ。
揺れる空間、広がる亀裂、もはや猶予はない。
「……おじさん!!!」
その叫びが、空間の悲鳴にかき消された。
――バキンッ!!
破砕音と共に空間に走っていたひびが、一斉に砕け散った。
上空に、渦が生まれる。
闇と光が入り混じり、すべてを吸い込もうとする、不気味な歪み。
「……っ!?」
強烈な引力。
身体が、地面から浮く。
「……うわ……っ!」
黒牙は必死に踏ん張ろうとするが、もはや抗えない。
バニッシュの身体も、同じように宙へと引き上げられていく。
「……おじさん!!」
黒牙は、腕を伸ばしたが、届くことが出来ずに闇の渦が、二人を――容赦なく、飲み込んだ。
砕け散る瘴気の世界の中で、バニッシュと黒牙の姿は――完全に、かき消えた。
爆音とともに、火炎魔法が炸裂した。
黒煙と熱風が闘技場を覆い尽くし、地面が焦げ、空気が歪む。
「……はぁ……はぁ……」
カイルは肩で息をしながら、苛立ちを吐き出すように言った。
「手こずらせやがって……」
消耗は、隠しきれない。
呼吸は荒く、魔力の脈動も不安定だ。
「物理的な攻撃が効かなくても……魔法なら、効くだろ」
爆煙の中から、影が揺れる。
「……っ……」
よろけながら現れたのは、黒牙だった。
それでも構えを解かない。
カイルの魔法も最初の頃の威力はなく、黒牙でも耐えられるほどだった。
それでも息は荒く、身体は限界に近い。
だが、瞳だけは、まだ折れていなかった。
「……これで……終わりにしてやる……!」
カイルは大剣を握り直す。
残り僅かな魔力を、無理やり引きずり出す。
刃の周囲に、再び火炎が集い始めた。
――その時、カイルの動きが、止まった。
その顔は、まるで――亡霊を見たかのように強張り、カイルの目が見開かれる。
呼吸が止まり、全身が硬直する。
その異変に気づき、黒牙も思わず振り返った。
爆煙の向こう。
焦げた岩肌の上に――立っている影があった。
全身は、ボロボロで鎧は砕け、血と煤に塗れ、まともに動けるはずがない身体。
「……おじ……さん……?」
黒牙の声が、震える。
そこにいたのは――バニッシュだった。
剣は失われ、満身創痍。
だが、瞳には――確かな光が宿っている。
必ず立ち上がる。
そう、信じていた。
その願いが、今、現実として目の前に立っている。
「……っ……」
黒牙の目に、涙が滲んだ。
信じていたものが、報われた涙だった。
沈むはずだった男が、守るべき世界のために――再び、立ち上がった。
そして、カイルの喉から――かすれた声が漏れた。
「……バ……ニッシュ……? ……な……なんで……」
カイルは、驚愕と戸惑いを隠しきれず、一歩後ずさった。
――あり得ないはずだった。
自分の最強の一撃、焔聖黒雷斬をまともに受け、ついさっきまで倒れ伏し、死にかけていたはずの男が――立っている。
「……ば、かな……」
大剣を握る手が、目に見えて震える。
理解が、現実を拒絶していた。
その視界に映るのは、全身がボロボロになりながらも、それでも守るもののために立ち上がったバニッシュの姿。
その姿は――かつて自分が心から憧れた英雄譚、四英傑伝に描かれた英雄の姿と、あまりにも重なっていた。
「……違う……」
カイルは、首を小さく振る。
「……お前じゃない……俺の信じた……俺が、目指したものは……」
声が、次第に荒れていく。
「――お前じゃないんだ!!」
叫びと共に、残された魔力が解き放たれた。
火炎が逆巻き、大地が震え、熱が、空間全体を覆い尽くそうとする。
「……はぁ……はぁ……」
バニッシュの呼吸は、今にも途切れそうだった。
立っていること自体が奇跡に近い。
だが、その眼差しは、驚くほど静かだった。
恐怖も、迷いも、そこにはない。
鏡律封陣――あれは、古代魔法の原理と、自らが組み上げた魔法理論を融合させて完成させた結界。
どちらも、理論によって整然と構築された体系だったからこそ、融合は可能だった。
だが――魔族の魔法理論だけは違った。
感情や環境に左右され、魔素そのものを操る、極めて不安定な思想。
魔素を操ることは出来た。
だが、感情が影響する分、自分の理論との融合は、どうしても噛み合わなかった。
何度も悩み失敗した。
――出来ない。
――無理だ。
そう、思い込んでいた。
「……違ったんだ……」
バニッシュは、かすれた声で呟く。
融合を阻んでいたのは、理論の違いではない。
自分自身の迷いだった。
守るべきもの、背負うと誓ったもの、それを前にしてなお、揺れていた心。
だが今――その迷いは、完全に消えていた。
守ると背負うと、そう誓った心だけが残っている。
バニッシュは、折れたままの破邪の剣を、静かに掲げた。
足元に、重く、深い魔法陣が展開される。
鏡でも、光でもない、深淵のように静かで、底知れぬ闇を湛えた結界。
吸い込むような、圧倒的な静寂。
「――深淵力封結界陣」
バニッシュは、静かに唱えた。
それは、理論と理論、意思と感情、人の魔法と魔族の魔法が――初めて、完全に融合した瞬間だった。
火炎が逆巻く中、深淵の結界が、ゆっくりと世界を覆い始める。
結界が、完全に――世界を覆った。
それは、温かいようでいて、同時に冷たい。
包み込む安堵と、底知れぬ深淵が同居する、奇妙な感覚。
「……な、何だ……!? これは……!」
カイルは思わず天を仰いだ。
不気味で、しかしどこか懐かしさを伴う結界。
その内側で、異変はすでに起きていた。
きらり、きらりとカイルの身体から、光の粒のようなものが引き剥がされていく。
「……っ!?」
それは、血でも魔力の奔流でもない――力そのものだった。
「……ま、まさか……! 俺の……力を……!」
気づいた時には、すでに遅い。
残った魔力をかき集め、逆巻かせていた火炎は、音もなく、結界に呑み込まれていた。
「……くそ……! させるかぁぁぁぁ!!」
カイルは叫び、地を蹴った。
一直線に――バニッシュを穿つために。
バニッシュに大剣が振り下ろされる。
それは、カイルの意地の一撃。
ガァンッ!!
鈍い衝撃音と共にカイルの前に塞がったのは黒牙だった。
真正面から――カイルの大剣を受け止める。
黒牙はカイルの大剣をはじき返す、カイルは力を吸収されたこともあり、力なく弾かれてしまう。
「……なっ……!」
大きく体勢を崩すカイル。
その瞬間を――黒牙は逃さなかった。
「――うわあぁぁぁ!!」
剣を振り上げる。
恐怖も、迷いも、誇りも、想いもすべてを込めて、全身全霊の一閃。
カイルは反射的に大剣を掲げ、受けに入る。
バキィンッ!!
カイルの大剣は、根元から砕け散った。
「……ぁ……」
その刹那、黒牙の刃が――確かに、カイルの身体を捉える。
血が飛び、衝撃が走り、カイルの身体は、よろめくように後退した。
崩れ落ちそうになる身体。
砕けた剣の残骸が、地面に転がる。
深淵の結界の中で、力を奪われ、武器を失い、初めて――カイルは、敗北という現実に直面していた。
黒牙は、剣を握ったまま、息を荒くしながら立っている。
その背後には――静かに立つ、バニッシュの姿。
深淵の結界が、ゆっくりと霧散していく。
奪われていた力が完全に消え去り、現実の空気が、重く戦場に戻ってきた。
その中心で――カイルは、崩れるように膝をついた。
砕けた大剣の残骸が、指先から転げ落ちる。
肩で息をすることすら出来ず、ただ首を垂れる。
敗北――それ以上でも、それ以下でもない現実。
「……」
黒牙は、その姿を見下ろしていた。
胸の奥に渦巻く感情――怒り、憎しみ、悲しみ、悔しさ。
兄を奪った仇が、今、無防備にうなだれている。
黒牙は、ゆっくりと剣を振り上げた。
――その時。
「……待ってくれ」
かすれた声が、背後から響いた。
黒牙が振り返る。
そこには、全身を引きずるようにしながら、それでも立つ――バニッシュの姿があった。
「……カイルを……殺さないでくれ……」
「……っ!?」
黒牙の手が、震える。
「で……でも……!」
堪えきれず、声を荒げた。
「こいつは……兄さんを……!!」
その叫びは、今まで胸に溜め込んできたすべてだった。
バニッシュは、ゆっくりと首を振る。
「……お前の気持ちは、わかる」
痛みを噛み締めながら、それでも言葉を選ぶ。
「憎くて……許せなくて……ここで終わらせたいと思うのも、当然だ」
一瞬、視線が伏せられる。
だが――すぐに、顔を上げた。
「……それでも、コイツには……生きて、罪を償ってほしい。自分が壊したものと、向き合い続けてほしいんだ」
「……」
黒牙は、唇を噛み締める。
目の前にいるのは、兄の仇。
それを殺すなと言われて、簡単に納得できるはずがない。
――それでも、バニッシュは、自分が信じた男だった。
倒れても、立ち上がり、それでも誰かを守ろうとした人間だった。
そして――黒牙が、ここに立てた理由そのものだった。
黒牙は、大きく息を吐いた。
胸に溜まった、割り切れない感情を、吐き出すように。
「……わかったよ」
剣を、静かに下ろす。
「……おじさんが、そこまで言うなら……」
黒牙の身体を包んでいた闇が、すうっと引いていく。
揺らめいていた影は消え、魔纏憑鬼が完全に解かれた。
憎しみを断ち切ったわけではない。
許したわけでもない。
それでも――一歩、前に進む選択をした。
膝をついたままのカイルは、何も言わず、ただ首を垂れている。
魔纏憑鬼を解いた瞬間、黒牙の身体から力が抜け落ちた。
まるで――糸が切れた人形のように。
「……はは……」
その場に、へたりと座り込む。
「……もう……ヘトヘトだよ……」
強がるように笑うが、呼吸は荒く、指先は小刻みに震えていた。
急激な覚醒状態で魔纏憑鬼を発動し、限界まで力を使い切ったのだ。
「……すまない。本当に……ありがとう」
バニッシュは、静かに微笑み、そう言った。
その笑みは、どこまでも穏やかで――戦場に立つ者のものとは思えないほどだった。
そして、踵を返し、膝をついたままの男の前へと歩み出る。
「……これで終わりだ、カイル。お前が犯した罪は……大きい」
一歩、距離を詰める。
「だからこそ――生きて、償っていくんだ」
その瞳には、怒りはなかった。
あったのは、かつて同じ道を歩いた者への――悲しみと、どうしようもない寂しさだけだった。
「……」
カイルは何も答えない。
首を垂れたまま、動かない。
バニッシュは、それ以上何も言わず、背を向けた。
黒牙の方へと振り返る。
「……とにかく、ここから出よう」
かすかに息を整えながら。
「みんなの所に……戻らないとな」
そう言って、バニッシュは黒牙へと手を差し伸べた。
「……うん」
黒牙は、小さく頷く。
その手を取ろうと――伸ばした、その時――ぞわり、と黒牙の背筋を、言いようのない悪寒が走った。
「……っ!」
視線が、瞬時に――バニッシュの背後へと跳ねる。
「――おじさん……!!」
叫び声は遅く、それは一瞬の出来事だった。
ドンッ!!
鈍い衝撃音。
同時に、バニッシュの背中に――焼けるような激痛が走った。
「……ぐ……っ……!」
喉から、かすれた呻き声が漏れる。
その背後でさっきまで、敗北に打ちひしがれ、項垂れていたはずの男が――立っていた。
「……は……」
血に塗れた手。
そこには――短いナイフが握られている。
背中から――バニッシュを貫いていた。
「……終わりだと……?」
カイルの口が、歪んだ笑みを形作る。
「……終わるのは……てめぇだ、バニッシュ!!」
ナイフをさらに突き込むように力を込める。
「……っ!!」
「どのみち……ここから出るには……どちらかが贄になるしかねぇ」
カイルの瞳は、完全に狂気に染まっていた。
「だったらよ――お前が贄になれ。バニッシュ!!」
決戦の場に、再び禍々しい瘴気が揺らめき始める。
勝利の後に訪れたはずの静寂は、一瞬にして、絶望に塗り替えられた。
「……お、お前が……そんな行動に出るのは……わかっていた」
刺された背中の激痛に顔を歪めながらも、バニッシュは――静かに、そう言った。
「……なに……!?」
思わず、カイルの声が裏返る。
想定外だったのは、抵抗でも反撃でもない。
その声音に、恐怖も動揺もなかったことだ。
「……これは……俺の罰だ」
バニッシュは、血を吐くように言葉を紡ぐ。
「お前たちを……見限った。追放されるままに……見捨てた」
脳裏をよぎる、あの日の光景、何も言わず、何も出来ず、背を向けた自分。
「……堕ちていくお前たちを……止められなかった」
ナイフが刺さったまま、それでも、はっきりと。
「それが……俺の弱さだ……これは、その弱さへの……罰だ……」
かすかに、笑う。
「……何、言ってやが――」
カイルが言いかけた、その瞬間。
――ゴンッ!!
鈍く、骨に響く音。
「――がっ!!」
バニッシュは、後頭部で――渾身の頭突きを叩き込んでいた。
不意を突かれ、カイルは顔を押さえながらよろめき、数歩――後ずさる。
「……この……クソが……!!」
血走った目で、カイルが睨み上げる。
バニッシュは――振り向き様に折れたままの破邪の剣を、迷いなく――振り抜こうとする。
――その刹那、きらり、と破邪の剣に――光が灯った。
「……っ……!?」
折断された刀身の先端から、白銀の光が溢れ出す。
欠けた部分を補填するように、純粋な光の刃が形成されていく。
それは、迷いを断ち切った心に応えるかのように。
「……」
バニッシュは、躊躇しない。
すべてを――一本の線に収束させる。
そして、光刃は、蔓延る瘴気を裂き、一直線に――カイルを捉える。
「――な……」
ザンッ!!
乾いた音が響いた。
カイルの左の額から――黒い角が、宙を舞った。
「……ぁ……?」
地面に転がる、それは歪んだ力の象徴だった角。
それを失ったカイルの顔から、狂気が――一瞬だけ、抜け落ちる。
光刃を振り抜いた、その反動。
「――っ……」
バニッシュの身体は、支えを失ったように――ドサリと音を立てて倒れ伏した。
カイルとの死闘と限界を超えた魔力行使、そして、背中に深々と突き立てられた刃。
足は、もはや踏ん張りを利かせる力を失っていた。
「……はぁ……っ……」
荒い呼吸のまま、バニッシュは必死に体を起こし、視線を上げる。
そこに映ったのは―― 両手で頭を抱え、よろよろと後退していくカイルの姿だった。
「……あ……あぁ……」
苦悶とも、恐怖ともつかない声。
足取りは定まらず、まるで――自分の身体ではないかのよう。
そしてカイルの体から、黒い瘴気のようなモヤが、ゆっくりと抜け出していく。
煙のように、蛇のように、空へと溶けていくそれは――まるで、カイルの内側に巣食っていた狂気そのものが、引き剥がされていくかのようだった。
「……カイル……」
かすれた声で、名を呼ぶ。
瘴気が抜けるほどに、カイルの動きは不安定になっていく。
一歩、また一歩とよろめき後退していくカイル。
そして――カイルの身体が、崖の淵を越える。
「……っ!」
「――カイル!!」
バニッシュは叫んだ。
痛みも、限界も忘れ、這うように地面を掴みながら、崖の方へと藻掻く。
指が岩を掻き、血が滲み、それでも――前へ。
崖の淵に辿り着き、身を乗り出して――下を覗き込む。
「……っ……!」
落ちかけた身体を、崖の壁に片手で引っかけているカイルがいた。
指先が、必死に岩に食い込んでいる。
もう一方の手は、力なく宙を彷徨っていた。
深淵の底は、見えない。
落ちれば――助からない。
「――待ってろ! 今、助ける!!」
バニッシュは歯を食いしばり、背中に突き立ったままのナイフを掴んだ。
「……っ!!」
引き抜いた瞬間、血が噴き出す。
視界が一瞬、白く弾けた。
意識が、遠のきかける。
「……ぐ……っ……!」
それでも、倒れなかった。
震える手で、そのナイフを――地面へ。
ドンッ!!
岩肌に、深々と突き刺さる。
柄を、ぎゅっと、掴む。
それを支点に、身体を引き寄せ、必死に、腕を伸ばす。
崖下から、かすれた叫びが響いた。
「……なぜだ……」
カイルの声は、震えていた。
「俺は……強くなったはずだ……最強の力を……圧倒的な力を……」
怒りでも、狂気でもない。
それは――ただ純粋に力を求め、変わろうとした男の言葉。
「……なのに……なぜだ……なぜ……振り向けば……お前が、そこにいる!! バニッシュ!!」
必死に、顔を上げる。
そのカイルの顔を見つめて、バニッシュは――微笑んだ。
それは、戦場で向ける勝者の笑みではない。
ただ、昔から変わらない――仲間に向ける笑顔だった。
「……当たり前だろ」
かすれた声。
それでも、確かに届く声。
「俺は――昔も、今も……お前の仲間だ」
指先が、届く距離まで来ている。
迷いなく、バニッシュは、さらに腕を伸ばした。
その瞬間、崖の上でも、崖の下でも――二人の時間だけが、静かに、止まったように感じられた。
カイルは、目を大きく見開いた。
崖の縁に縋りつく指先が、わずかに震える。
その視界いっぱいに――必死に腕を伸ばす男がいた。
「……早く……!」
バニッシュの声が裂ける。
「早く、手を……!!」
その叫びに、カイルは小さく息を吐いた。
「……お前に話した物語に出てくる青年。あれは……俺だ」
「……カイル……?」
名前を呼ぶ声が、揺れる。
「お前という天才に出会い……俺は、嫉妬した」
指が、さらに滑る。
「負けたくなかった……ただ、それだけだったんだ」
「そんなことより――! いいから早く手を!!」
バニッシュは叫ぶ。
そして――カイルは、ふっと笑った。
それは、狂気に歪んだ笑みではない。
敗者の冷笑でもない。
昔、何度も見た――共に夢を語った頃の、あの笑顔だった。
その次の瞬間、カイルは――岩壁に縋っていた手を、静かに離した。
「……っ!!」
「――これから歩むお前の英雄譚……」
落ちていく中で、かすかな声が届く。
「俺は……先に地獄で、見届けてやる」
「――カイルーーーー!!」
バニッシュは叫び、なおも腕を伸ばそうとする。
身体を前へ投げ出しそうになる。
「ダ、ダメだよ!!」
黒牙の声。
必死に――バニッシュの身体を、後ろから掴み、引き戻す。
奈落へと落ちていく、カイルの身体が――ゆっくりと、瘴気へと崩れていく。
人の形を保てず、黒い霧となり、やがて――闇の中に浮かぶ、黒いオーブへと吸い込まれていった。
引きずり上げられたバニッシュは、そのまま地面に崩れ落ちた。
――ゴンッ。
拳が、硬い岩肌を叩く。
「……う……ぐ……」
嗚咽とも、呻きともつかない声が喉から漏れた。
何度も、何度も、バニッシュは地面を叩いた。
救えなかった。
セリナも、ミレイユも――そして、カイルも。
救いたいと願った。
手を伸ばした。
最後まで、諦めなかった。
それでも――救えなかったという現実だけが、冷たく胸に突き刺さる。
「……っ……」
胸の奥が、ぎりぎりと抉られる。
英雄なんかじゃない。
正しかったわけでもない。
ただ、救いたかっただけなのに――結果は、これだ。
黒牙は、その姿を黙って見つめていた。
声をかけることもできず、ただ、静かに涙を流すバニッシュの背中を、視界に焼き付ける。
――その時、空間全体が、低く軋むように揺れ始めた。
「……っ!?」
黒牙が顔を上げる。
崖の下でカイルを贄として取り込んだ黒いオーブが、脈打つように光を放ち――一直線に、空へと飛び立った。
まるで、何かに呼ばれるように。
まるで、目的地が決まっているかのように。
オーブは瘴気を引き裂き、やがて見えなくなる。
それと同時に――ピシ……ッと、嫌な音が空間に走った。
「……ひ、び……?」
周囲の空間そのものに、無数のひびが走っていく。
瘴気が荒れ狂い、まるでこの場所そのものが――耐えきれず壊れ始めているかのようだった。
「……お、おじさん!!」
黒牙は、はっとしてバニッシュを見た。
「早く! 早くここから出ないと!!」
「……」
だが――バニッシュは、反応しない。
膝をついたまま、地面を見つめ、まるで魂が抜け落ちたかのようだった。
「……おじさん!!」
黒牙は必死に叫ぶ。
揺れる空間、広がる亀裂、もはや猶予はない。
「……おじさん!!!」
その叫びが、空間の悲鳴にかき消された。
――バキンッ!!
破砕音と共に空間に走っていたひびが、一斉に砕け散った。
上空に、渦が生まれる。
闇と光が入り混じり、すべてを吸い込もうとする、不気味な歪み。
「……っ!?」
強烈な引力。
身体が、地面から浮く。
「……うわ……っ!」
黒牙は必死に踏ん張ろうとするが、もはや抗えない。
バニッシュの身体も、同じように宙へと引き上げられていく。
「……おじさん!!」
黒牙は、腕を伸ばしたが、届くことが出来ずに闇の渦が、二人を――容赦なく、飲み込んだ。
砕け散る瘴気の世界の中で、バニッシュと黒牙の姿は――完全に、かき消えた。
10
あなたにおすすめの小説
猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣で最強すぎて困る
マーラッシュ
ファンタジー
旧題:狙って勇者パーティーを追放されて猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣だった。そして人間を拾ったら・・・
何かを拾う度にトラブルに巻き込まれるけど、結果成り上がってしまう。
異世界転生者のユートは、バルトフェル帝国の山奥に一人で住んでいた。
ある日、盗賊に襲われている公爵令嬢を助けたことによって、勇者パーティーに推薦されることになる。
断ると角が立つと思い仕方なしに引き受けるが、このパーティーが最悪だった。
勇者ギアベルは皇帝の息子でやりたい放題。活躍すれば咎められ、上手く行かなければユートのせいにされ、パーティーに入った初日から後悔するのだった。そして他の仲間達は全て女性で、ギアベルに絶対服従していたため、味方は誰もいない。
ユートはすぐにでもパーティーを抜けるため、情報屋に金を払い噂を流すことにした。
勇者パーティーはユートがいなければ何も出来ない集団だという内容でだ。
プライドが高いギアベルは、噂を聞いてすぐに「貴様のような役立たずは勇者パーティーには必要ない!」と公衆の面前で追放してくれた。
しかし晴れて自由の身になったが、一つだけ誤算があった。
それはギアベルの怒りを買いすぎたせいで、帝国を追放されてしまったのだ。
そしてユートは荷物を取りに行くため自宅に戻ると、そこには腹をすかした猫が、道端には怪我をした犬が、さらに船の中には女の子が倒れていたが、それぞれの正体はとんでもないものであった。
これは自重できない異世界転生者が色々なものを拾った結果、トラブルに巻き込まれ解決していき成り上がり、幸せな異世界ライフを満喫する物語である。
異世界転生した俺は、産まれながらに最強だった。
桜花龍炎舞
ファンタジー
主人公ミツルはある日、不慮の事故にあい死んでしまった。
だが目がさめると見知らぬ美形の男と見知らぬ美女が目の前にいて、ミツル自身の身体も見知らぬ美形の子供に変わっていた。
そして更に、恐らく転生したであろうこの場所は剣や魔法が行き交うゲームの世界とも思える異世界だったのである。
異世界転生 × 最強 × ギャグ × 仲間。
チートすぎる俺が、神様より自由に世界をぶっ壊す!?
“真面目な展開ゼロ”の爽快異世界バカ旅、始動!
ギャルい女神と超絶チート同盟〜女神に贔屓されまくった結果、主人公クラスなチート持ち達の同盟リーダーとなってしまったんだが〜
平明神
ファンタジー
ユーゴ・タカトー。
それは、女神の「推し」になった男。
見た目ギャルな女神ユーラウリアの色仕掛けに負け、何度も異世界を救ってきた彼に新たに下った女神のお願いは、転生や転移した者達を探すこと。
彼が出会っていく者たちは、アニメやラノベの主人公を張れるほど強くて魅力的。だけど、みんなチート的な能力や武器を持つ濃いキャラで、なかなか一筋縄ではいかない者ばかり。
彼らと仲間になって同盟を組んだユーゴは、やがて彼らと共に様々な異世界を巻き込む大きな事件に関わっていく。
その過程で、彼はリーダーシップを発揮し、新たな力を開花させていくのだった!
女神から貰ったバラエティー豊かなチート能力とチートアイテムを駆使するユーゴは、どこへ行ってもみんなの度肝を抜きまくる!
さらに、彼にはもともと特殊な能力があるようで……?
英雄、聖女、魔王、人魚、侍、巫女、お嬢様、変身ヒーロー、巨大ロボット、歌姫、メイド、追放、ざまあ───
なんでもありの異世界アベンジャーズ!
女神の使徒と異世界チートな英雄たちとの絆が紡ぐ、運命の物語、ここに開幕!
※不定期更新。
※感想やお気に入り登録をして頂けますと、作者のモチベーションがあがり、エタることなくもっと面白い話が作れます。
無能扱いされ、パーティーを追放されたおっさん、実はチートスキル持ちでした。戻ってきてくれ、と言ってももう遅い。田舎でゆったりスローライフ。
さら
ファンタジー
かつて勇者パーティーに所属していたジル。
だが「無能」と嘲られ、役立たずと追放されてしまう。
行くあてもなく田舎の村へ流れ着いた彼は、鍬を振るい畑を耕し、のんびり暮らすつもりだった。
――だが、誰も知らなかった。
ジルには“世界を覆すほどのチートスキル”が隠されていたのだ。
襲いかかる魔物を一撃で粉砕し、村を脅かす街の圧力をはねのけ、いつしか彼は「英雄」と呼ばれる存在に。
「戻ってきてくれ」と泣きつく元仲間? もう遅い。
俺はこの村で、仲間と共に、気ままにスローライフを楽しむ――そう決めたんだ。
無能扱いされたおっさんが、実は最強チートで世界を揺るがす!?
のんびり田舎暮らし×無双ファンタジー、ここに開幕!
クラス全員で転移したけど俺のステータスは使役スキルが異常で出会った人全員を使役してしまいました
髙橋ルイ
ファンタジー
「クラス全員で転移したけど俺のステータスは使役スキルが異常で出会った人全員を使役してしまいました」
気がつけば、クラスごと異世界に転移していた――。
しかし俺のステータスは“雑魚”と判定され、クラスメイトからは置き去りにされる。
「どうせ役立たずだろ」と笑われ、迫害され、孤独になった俺。
だが……一人きりになったとき、俺は気づく。
唯一与えられた“使役スキル”が 異常すぎる力 を秘めていることに。
出会った人間も、魔物も、精霊すら――すべて俺の配下になってしまう。
雑魚と蔑まれたはずの俺は、気づけば誰よりも強大な軍勢を率いる存在へ。
これは、クラスで孤立していた少年が「異常な使役スキル」で異世界を歩む物語。
裏切ったクラスメイトを見返すのか、それとも新たな仲間とスローライフを選ぶのか――
運命を決めるのは、すべて“使役”の先にある。
毎朝7時更新中です。⭐お気に入りで応援いただけると励みになります!
期間限定で10時と17時と21時も投稿予定
※表紙のイラストはAIによるイメージです
スキルはコピーして上書き最強でいいですか~改造初級魔法で便利に異世界ライフ~
深田くれと
ファンタジー
【文庫版2が4月8日に発売されます! ありがとうございます!】
異世界に飛ばされたものの、何の能力も得られなかった青年サナト。街で清掃係として働くかたわら、雑魚モンスターを狩る日々が続いていた。しかしある日、突然仕事を首になり、生きる糧を失ってしまう――。 そこで、サナトの人生を変える大事件が発生する!途方に暮れて挑んだダンジョンにて、ダンジョンを支配するドラゴンと遭遇し、自らを破壊するよう頼まれたのだ。その願いを聞きつつも、ダンジョンの後継者にはならず、能力だけを受け継いだサナト。新たな力――ダンジョンコアとともに、スキルを駆使して異世界で成り上がる!
クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる
アルカス
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。
でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
スキルで最強神を召喚して、無双してしまうんだが〜パーティーを追放された勇者は、召喚した神達と共に無双する。神達が強すぎて困ってます〜
東雲ハヤブサ
ファンタジー
勇者に選ばれたライ・サーベルズは、他にも選ばれた五人の勇者とパーティーを組んでいた。
ところが、勇者達の実略は凄まじく、ライでは到底敵う相手ではなかった。
「おい雑魚、これを持っていけ」
ライがそう言われるのは日常茶飯事であり、荷物持ちや雑用などをさせられる始末だ。
ある日、洞窟に六人でいると、ライがきっかけで他の勇者の怒りを買ってしまう。
怒りが頂点に達した他の勇者は、胸ぐらを掴まれた後壁に投げつけた。
いつものことだと、流して終わりにしようと思っていた。
だがなんと、邪魔なライを始末してしまおうと話が進んでしまい、次々に攻撃を仕掛けられることとなった。
ハーシュはライを守ろうとするが、他の勇者に気絶させられてしまう。
勇者達は、ただ痛ぶるように攻撃を加えていき、瀕死の状態で洞窟に置いていってしまった。
自分の弱さを呪い、本当に死を覚悟した瞬間、視界に突如文字が現れてスキル《神族召喚》と書かれていた。
今頃そんなスキル手を入れてどうするんだと、心の中でつぶやくライ。
だが、死ぬ記念に使ってやろうじゃないかと考え、スキルを発動した。
その時だった。
目の前が眩く光り出し、気付けば一人の女が立っていた。
その女は、瀕死状態のライを最も簡単に回復させ、ライの命を救って。
ライはそのあと、その女が神達を統一する三大神の一人であることを知った。
そして、このスキルを発動すれば神を自由に召喚出来るらしく、他の三大神も召喚するがうまく進むわけもなく......。
これは、雑魚と呼ばれ続けた勇者が、強き勇者へとなる物語である。
※小説家になろうにて掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる