神崎家シリーズSS集

松丹子

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神崎さんちの3きょうだい

百人一首編

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「政人。まず何も言わずにこれを暗記しなさい」

「……何これ」

 夏休みになるや、政人は姉の和歌子に紙を差し出された。

 嫌々受け取ると、眉を寄せる。

「……サクヤコノ……?」

 和歌子は腕を組んで、こくりと大きく頷く。いつものことながら、偉そうな態度が癇に障るのだが、そう口にすれば半殺しに遭うのは間違いないので、あえて言うことはない。

「これであんたの素質を見極めるわ」

 偉そうにふんぞり返った和歌子は、この春中学生になったばかり。

 ようやく学校が離れたとほっとしたところだったが、日々、姉に平穏を脅かされ続けてきた政人は、直感的に嫌な予感がした。

「ソシツって……何の」

 和歌子がびしっと政人を指さす。

「私の好敵手になり得るか、という素質よ! いいから! 明日までに覚えなさい!」

 動きの勢いが良すぎて、危うく目つぶしを食らうところだった。瞬間的に身の危険を感じた政人の心臓はばくばくと脈打っている。

 コウテキシュ、という言葉はよく分からないが、とにかくこういうときの姉に逆らうとろくなことがない。

 姉はポニーテールをなびかせて部屋を去って行く。

 政人はその背中と、手元に残されたメモを見比べながら、やれやれとため息をついた。


 その翌朝、和歌子は突然、政人の部屋を訪れて声を張った。

「さあ、政人! 昨日の和歌は覚えた?」

 まだベッドから出てもいないタイミングである。性悪な姉のことだ、もちろんそれも計算のうちだろう。

 つまり、直前に覚えたのでは許さないということだ。

 政人はやや寝ぼけた頭のまま、息を吸い、一気に棒読みした。

「ナニハヅニサクヤコノハナフユゴモリイマハハルベトサクヤコノハナ」

 政人にとっては、意味も分からない文字の羅列だ。呪文のような詠唱に、和歌子はふむと小バカにしたような目をした。

「ふん……詠むときは『なにわ』だし『今は春辺』ね。でもまあ、正解としときましょう」

「そんなんわかんねーよ!」

 政人は顔を赤らめながら言い返す。和歌子はふふんと満足げに鼻を鳴らした。

「まあ、素質がなくはないみたいね」

 その瞬間、政人ははっと察した。

 自分はもしかして、間違った選択をしたのではないかと。

 そう――地獄の特訓はこの翌日から始まるのだった。


 ***


「次はこれよ。夏休みが終わるまでに全部暗記!」

 次いで渡されたのは、一冊の本だった。その背には、姉がこの春から通い始めた中学校名がスタンプされている。その一般的な公立中学校は、あと二年後、政人も通う予定の学校でもある。

 題名に、百、という文字が見えて、政人は絶望した。

「ひ、ひゃくぅ?」

 あの文字の羅列を、百も覚えなくてはならないのか。

 無謀だ。無茶だ。無理に決まっている。

 しかしそんな常識論は、強硬な姉には通用しない。

「一日三つ覚えれば夏休み中にイケるはず」

「そんなの無理に決まって――!」

 叫ぼうとした政人は、途中で言葉を飲み込んだ。姉の負のオーラが見えたからである。

 容姿は柔らかで女性的な和歌子だが、実際のところ拳での勝負になれば、間違いなく政人が負ける。

 彼女が空手の有段者だということもあるが、何のためらいもなく急所を狙ってくるのだからたまらない。姉には今まで何度泣かされ、何度命の危機を感じたことか――

 脂汗が背を伝い落ちる。走馬灯のごとく脳裏を駆け抜けた過去に涙を飲み、政人は頷いた。

「……がんばります」

「それでよし」

 姉は長い髪を背中に払いのけ、颯爽と政人の部屋を去っていった。

 残された政人は、手にした本を見つめて、ひとりため息をついた。

 本には、【意味と一緒におぼえよう 百人一首】と書いてあった。


「あら、政人。それどうしたの?」

 その日の夕方、夕飯の準備をしようとした母の美都子は、政人が部屋で真剣な顔で本を睨み付けているのを見て首をかしげた。

 政人はうんざりした顔で、唇を尖らせる。

 まだ性徴期を迎えていない息子は、そうすると女児のようにも見えた。

「お姉ちゃんが、覚えろって……お母さん、知ってる?」

「もちろん。百人一首でしょ」

 懐かしいわねぇ、と口にしながら、息子の手元を覗き込む。

「和歌子がねぇ……練習相手にでもしようとしてるのかしら。中学で、新年の恒例行事だって聞いたのよ。あの子負けず嫌いだから……」

「行事って、何が?」

「だから、百人一首が」

 政人が困惑した顔で美都子を見上げている。美津子はそう気づくと苦笑した。

「それ、丸暗記してもあんまり意味ないわよ」

「えっ? そうなの?」

 政人が目を丸くしてまばたきした。美都子は頷き、考えながら口を開く。

「カルタみたいなものだから。上の句から下の句を連想する練習の方がいいんじゃないかしら。上の句は、最初の数文字で分かる札もたくさんあるし……明日、図書館で一緒に本を探してみようか?」

「うん、そうする!」

 政人はとたんに安心したらしい。目を輝かせて、「隼人と遊ぶ!」と部屋を出てくる。

 美都子が家事をしている間、末子の隼人の面倒を見るのはだいたい政人の役目だ。

 当人も楽しんでいるらしいので、任せることにしている。

「隼人ー」

「にーちゃん」

 三才になった隼人は、政人を見て目を輝かせた。

 政人は足元に抱きついてくる弟を受け止める。

「何して遊ぶ?」

「お絵かきしゅるー」

「いいよ。じゃあ、そうしよう」

 政人と隼人はリビングの机に紙を広げて、落書きを始めた。


 ***


 その翌々日、台所にやって来た和歌子が不機嫌そうに唇を尖らせていた。

「あら、今日はご機嫌ナナメ?」

「……お母さん、政人に要らないこと教えたでしょ」

「要らないこと?」

「これ!!」

 和歌子が美津子に突き付けたのは、政人と図書館で借りた百人一首の本だった。

 題して、【決まり字で覚える競技かるた】。冒頭の数文字で札が決まるものは、そこだけを効率よく覚えられるようになっている。

「あいつ、ほんとにこの二文字とか三文字で覚えようとしてんの! 上の句と下の句の最初すら覚える気ないのよ! そんなの邪道よ! 歌人に失礼だわ!」

「じゃあ、和歌子は覚えてるの?」

「…………だいたいはね!」

 沈黙が長かった気がするが、返事が控えめだったので、突っ込まないであげよう。

 プライドの高い娘に気遣いつつ、美津子は「そう」と頷くと、

「これやこの」

「行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関!」

「ひとはいさ」

「心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける!」

「あひみての」

「あい……むかし……うーと……」

「ほら、下の句が先に出る。やっぱり決まり字で覚えてるんじゃないの?」

「ち、違っ……な、何だっけ」

 和歌子が眉を寄せて、手にしていた本をぱらぱらめくる。

「逢い見ての後の心に比ぶれば昔はものを想はざりけり!」

 美津子が言うと、和歌子が「それ!」と指さした。

「あんたねぇ。そんなに必死になってやらなくてもいいじゃない。政人まで巻き込んで……どうせ、学校でやる前に、相手させるつもりでしょう?」

「だって! だって、私負けるわけにいかないもん!」

「何で」

 和歌子は拳を握ると、真剣な顔で美津子に訴える。

「だって、私の名前、和歌子だよ! なのに、百人一首くらい覚えられないなんて……負けたらバカにされちゃう!!」

「そ、そんな……」

 美津子は唖然として言葉を失う。

 確かに、和歌子、という名前ではある。けれど。

(そういう意味で付けたわけじゃないんだけどなぁ……)

 和を歌う。平和を歌う、人を和ませる、場を明るくする――そういうつもりでつけた名前が、こんな形で理解されるとは思わなかった。

 美津子がどう説明したものかと考えているうちに、和歌子は「とにかく、政人にばっかり甘くしないで! どうせ政人もあと二年後にはやるんだから!!」と言い放って台所を出て行った。

(やれやれ……)

 一見華奢に見えて力強い娘の背中を見送って、美津子はため息をつく。

 本当に、娘の負けず嫌いも困ったものだ。

 彼女が課題を見つける度、ありとあらゆるトレーニングにつき合わされる政人に同情するのだった。


 ***


 夏休みが終わる頃になると、家では毎日のように二人の声が聞こえた。

「たかさごの!」

「おかみの桜咲きにけりとやまのかすみたたずもあらなむ」

「ふくからに!」

「むべ……いや……えーと……秋……草……」

 突っかかった政人に、和歌子が憤る。

「あんたねー! ちゃんと全部覚えなさいっつったでしょ!」

 政人は不服げに姉を見た。

「……じゃあ、姉ちゃんは覚えてんの?」

 しばしの間。

「あんたの話をしてんのよ!」

 政人は憤慨した。

「あっ! てことは、姉ちゃんは覚えてないんじゃん! ずりー! そんなのずりー!!」

「う、うるさいわね! いいからやるわよ!」

「何でだよ! 俺だけ覚えさせるのかよ!!」

「黙れ政人っ!!」

 すぱーん、と後頭部を叩かれて、政人は半泣きのまま「くっそぉおお!」と和歌子を睨む。

「姉ちゃんなんかに負けねぇからな!」

「私だってあんたなんかに負けるもんですか!!」

(これが年始まで続くのかしら……)

 美津子は二人の様子を見ながら、呆れてため息をつくのだった。


 その後、和歌子のスパルタ訓練の成果を遺憾無く発揮した政人が、姉の三連覇を脅かす最大の敵になるのは、それから二年後の話――。
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