ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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 ということで、早く終われと願った一日はまさかの延長戦に突入である。春菜が改めてその事実に気づいたのは、終業時間を過ぎて三原がデスクを去ったときだ。日高は予定通り早退しているので、これで晴れてーーもとい、悩ましいことに、小野田と二人きりになる。
 お手伝いすべき業務は、まだミスのあった部署の確認が済んでいないらしい。30分待つように言われている。
「こまっちゃん」
 三原は帰り際、こっそりと春菜に声をかけた。小野田は他部署に電話中だ。
「驚いただろうけど、課長は課長だから。心配も遠慮も緊張もいらないよ。いつもの優しい小野田課長だ」
「それは、分かってるんです。分かってるんですけど……」
 この気持ちは男性には分かるまい。ああ、だってほら、今、電話しながら額をかく悩ましげな顔つきすら、こっそり撮って待受にしたいくらいだもの。眼福とはまさにこのこと。
「……ちょっと飲み物買ってこよう」
 部屋を出る三原に続いて、春菜も財布を手に部屋を出た。
 フロアにある自販機で、自分用にレモンティーを買った春菜は、一瞬迷った後で微糖のコーヒーのボタンも押した。
(朝、ビスケットご馳走になったし)
 思いながら、缶コーヒーを手にデスクへ戻る。半分は、今日一日挙動不振で使い物にならなかった部下としてのお詫びの気持ちもあるのだが。
「課長、どうぞ。朝はご馳走さまでした」
 書類に目を通している小野田のデスクにコーヒーを置くと、小野田が驚いたように顔を上げた。
 その目が、春菜の顔をとらえてふわりと微笑む。
「ありがとう。ちょうど、コーヒー飲みたかったんだ」
(ーー最っ、高)
 心中ではガッツポーズを意味する拳は、現実には自分を律するためのものだ。腰の横で痛いくらいにギリギリと握りしめている。
 春菜は当たり障りのないーーみっともないニヤニヤ笑いではなくーー営業用の笑顔を浮かべて、自分のデスクに戻ろうときびすを返した。
(ちゃんとそのつもりでいれば、対応できるじゃない)
 自分を褒めていて油断したその手首を、小野田が掴んだ。
 はっとして振り返る。その先に小野田の穏やかな微笑みを見つけて、覚悟ができていなかった春菜は一瞬呼吸困難になり、視線をさ迷わせる。
「よかった。今日、僕と関わらないようにしてるみたいに見えたから」
「そ、そんなことは……」
 ない、と言い切れずためらう。少しの間の後、俯いた。
「……すみません」
 小野田は首を振って、立ったままの春菜に合わせて立ち上がった。春菜は頭上から注がれる視線にますます顔を上げられなくなる。
「ちゃんとしたら、喜んでもらえるかなと思ったんだけど……僕の考えが甘かったね。普段通り、気軽に話してもらうには、昨日までと同じ方がーー」
「そんな、もったいない!!」
 小野田の言葉を遮って、春菜は勢いよく顔を上げた。小野田がきょとんとしている。
(ああ、そんな顔も素敵ーー)
 違う違う、そうじゃなくて。
 また混乱モードになりそうな自分を律して、春菜は口を開いた。
「こんなに素敵なのに、元通りにしちゃうなんてもったいないです!私が……あの、ちょっと避けてたのは」
 気まずいが白状し、
「その……見惚れて仕事にならないからで」
 俯く。
(は、恥ずかしー!)
 今なら顔から火が出せそうだ。穴があったら入りたい。虎穴に入らずんば虎児を得ずーーは違うか。
 再び頭が無意味な高速回転を始めている春菜の前で、小野田は噴き出した。
「……見惚れて?」
「は……はい。すみません」
 小野田はしばらく笑った後で、咳ばらいをして息を整えた。春菜は一日分の体力を消費しきったような気分でただただ小さくなっている。
「それは光栄だね」
 小野田はわずかに腰を曲げて、春菜の顔を覗き込んだ。
「俺もーー小松さんと仕事してると、ときどきそうなるから」
 ーーん、っ?
 春菜の疑問は、課長卓上で鳴った内線によって遮られた。
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