ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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「明日のサテライト会議のセットしてきまーす」
「うん、お願いします」
 サテライト会議は出先と本社の会議室を繋いで行う会議だが、その会場設営は基本的に春菜たちの属するIT推進課の仕事である。割と古くからある会社であり、地位が上がれば上がるほど機械に疎い人が増えるので、会議中に接触不良などがあるときにもIT推進課に電話がかかってくる。
「5A会議室の鍵借りまーす」
 会議室を管理している庶務課に声をかけると、え?と声が上がった。
「5A、さっき会計課が持って行ったけど」
「え?」
 春菜は鍵の貸出簿を見た。確かに会計課と書いてある。
「明日の会議の設営?」
 寄って来たのは一期上の田畑さおりさんだ。予約簿を見比べて苦笑した。
「あー。もしかして、朝比奈さんが予約の電話取った?」
「あ、はい」
 朝比奈とは、庶務課のパートの女性だ。彼女がいるときは、会議室関係の問合せを担当している。
 会議室の予約システムこそ、電子化しろよとよく言われるのだが、会議室が限られているので早い者勝ちではなく重要度で調整できるよう、また仮押さえばかりにならないように、庶務課を通して予約するのがルールだ。出先以外の場合は自分で予約簿に書きに来ることになっているが、月に何度も同じ会議室を予約するので、電話一本で対応してくれる流れになりつつあった。
「朝比奈さん、時々やるのよね。ダブルブッキング」
 田畑は苦笑しながら嘆息した。今日は朝比奈がいない日らしい。
「会計課、残業する気満々だったよ。庶務課は何時まで残ってるかって聞いてたもん」
「えええ」
 春菜は思わず声を上げる。脳裏を五十嵐の誘いがよぎった。久々の同期会なのに。
「5Bじゃダメなの?」
「5Bじゃ入りきらないんです。スクリーン置いちゃうと見えない人が出ちゃって、クレームがあったらしくて」
「あーそうかぁ」
 貸出簿を繰りながら田畑が頷き、春菜に言った。
「逆に会計課に5B行ってもらえないか聞いてみる?一緒に行こうか。うちの責任でもあるから、付き合うよ」
「いいんですかぁ?」
 思わず出たのは情けない声だった。基本的にシステム部以外の人とあまり関係のない部署であるため、会計課と聞くとお金の管理をしている厳しい人たちのイメージがある。田畑はにこりと笑って、じゃあ行こうと予約簿を閉じた。

 田畑はすらりと背が高く、背筋もぴんと伸びている。八センチほどの高いヒールを履いているのに、足の運びに無理がない。ヒールの差もあって、小柄な春菜からは見上げるほどの身長差である。
「田畑さんて、バレエやってたりします?」
「踊る方?ううん」
 田畑は首を振って、少し照れくさそうに笑った。
「でも、社交ダンスやってたわ。……みんなには内緒にしてるんだけどね」
「しゃ、社交ダンス」
 ってあれですか。男と女がやたら密着して踊るやつですか。
 春菜の心の声は、ばっちり顔に出ていたらしい。田畑は苦笑した。
「そうよね。社交ダンスっていうとそういうイメージでしょ、なんかこう、いかがわしいっていうか、バブリーっていうか……」
 春菜に歩調を合わせて歩きながら、田畑は言った。
「でも、結構楽しいのよ。祖父母が二人でやっててね。いいなって思って始めたの。夫婦でダンスなんて、素敵じゃない?」
(夫婦でダンスかぁ。おじいちゃんおばあちゃんになっても、手を取り合って……)
「素敵ですねぇ」
 春菜は素直に頷いた。田畑が嬉しそうに笑う。
「春ちゃんはそう言ってくれそうだったから。でも、みんなには内緒ね」
 細く長い指を口元に寄せ、田畑が言った。切れ長の目に色気を感じて、同性なのにドキッとする。
「でも、田畑さん背が高いから、相手も背が高くないと釣り合わなそうですね」
「そうねぇ。高い人と組むのは楽だけど、低い人と組むのは大変なのよね」
 田畑が言いながら思い出したように笑い始めた。
「どうしたんですか?」
「ううん。あのね」
 言いかけて、躊躇うように目を泳がせる。春菜が首を傾げると、田畑はふふと笑った。
「いいや。春ちゃんには言っちゃおう。耳貸して」
 まるで内緒話をする少女のように、田畑は春菜の耳元に手を添え、小さい声で言った。
「小野田課長と組んでみたいなって、ずっと思ってたの。最初にお目にかかったときから」
 一瞬、春菜は目の前がかすんだ気がした。
 が、それは田畑が離れると気のせいだと気づく。ーーいや、気のせいだと、自分に思い込ませる。
「小野田課長ですか。確かに、釣り合いそうですね」
 身長もーー容姿も、人柄も。
「姿勢、いいのよね。背筋がぴんと伸びてて。ついつい目で追っちゃう」
 あんまり身なりにこだわらなそうなのに、不思議よね、と田畑は笑った。
(課長、いましたよ。ちゃんと、課長のこと、見てくれる人ーー私より素敵な人)
 心の中で報告しながら、春菜は曖昧に微笑んだ。うずく胸の痛みに懸命に気づかない振りをしながら。
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