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第三章 天の川は暴れ川(ヒメ/阿久津交互)
06 三度目の正直
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八月末のその日は、マーシーを含む同期四人と暑気払いの予定だった。
しかし出先での会議が長引いた上、電車の車両点検の影響で戻って来るのがだいぶ遅れた。八時頃に駅に着いたのでメッセージを入れたとき、バッテリーの残量が心許ないことに気づく。
居酒屋へ向かって歩きながら、途中で充電器でも買うかとコンビニの場所を思い浮かべた。
居酒屋に向かう途中に、コンビニがあったことを思い出した。一本だけ道を入り、ぐるりと一区画回っていけばいいだけだ。わずかな遠回りで済む。
そうと決まれば足の運びも大きく進んで行くと、コンビニの前で男二人が入口を塞いでいた。
歳は俺と変わらないくらいか。手元に缶ビール、そしてくっきりと分かるタバコの臭い。
邪魔。
単純にそう思った俺は、何も考えずに口を開いた。
「あの、すみません。中、入りたいんですけどどいてもらえますか?」
男は据わった目で振り返った。自慢じゃないが目つきの悪さなら滅多に負けない俺は、黙ってそれを見返す。
ちなみに俺は別に格闘技をやっていたわけでも何でもない。体育の柔道で、柔道部顧問だった体育教師にセンスがあると褒められ、勧誘されたくらいか。
柔道といえばジョーだが、あいつの立ち姿は適当なようで隙がなく、到底太刀打ちできそうにない。まあ、それくらいのことは分かる程度にセンスがあるということか。
俺はスラックスのポケットに片手をつっこんだままで、ビジネスバッグを持つもう片手は肩の上にある。
睨みつけた訳でもなく、ただ黙って見返しただけなのだが、男はうろたえておずおずと下がった。俺は内心舌打ちする。
デカい態度取っといて、小っせぇ奴。だったら最初からコンビニの入口なんざ塞ぐな、ボケ。
こういう奴がいるからオッサンの地位が落ちていくんだと心中毒づきながら、足を一歩進めた。
そのとき、男の陰に隠れていた小さな人影に気づいてぎくりと足を止めた。
マジかよ。
思わず顔が引き攣る。
大きな瞳に涙をためて俺を見上げて来たのは、間違いなくあの改札の女だった。
「ーーあ」
女が何か言うより先に、俺は黙って顔を背け、逃げるようにコンビニに入っていく。
後ろにドアが閉まる気配を感じながら、俺はちくちくと胸を苛む罪悪感に唇を引き結んだ。
ずらりと並ぶスマホの充電器をぼんやりと眺めながら、ドアの方に気を配っている自分に気づく。
もしかして、あいつ絡まれてたわけ?
思いながら、同時に納得もした。
あいつは俺に助けられたと言っていたが、それもこんな感じだったんだろう。俺には全く、あいつを助けた気はないのだが、タイミングがよかった(のか、悪かったのか)だけなのだ。
俺がヒーローになれる訳ねぇだろ。
つい、自嘲じみた苦笑が浮かぶ。
そもそも、なる気もない。
ヒーローへの憧れを口にしていたのは、せいぜい小学生くらいまでの話だ。
あの頃の俺は、女に一途に尽くす男に憧れたし、社会は正義の上に成り立っていると本気で思っていた。そして、誰かを守ることが強さだと信じて疑わなかった。
少年のときの俺に言ってやりたいくらいだ。
おい、違うんだぜ、少年。社会ってのは案外、緩くて黒くて重いところだ。絶対の正義なんてもんは無いし、何もかも誰かの自己都合の上に成り立ってんだよ。そんな甘っちょろいこと思ってられんのも、まだガキの内だけなんだよ。
ふ、と鼻で息を吐き出し、充電器を一つ手に取ってレジに向かう。型が合うかをぼんやり確認していた俺は、目の前に立った人影に気付かなかった。腕がぶつかって気づく。
前に持った充電器をどかすと、そこに立っていたのはあの女だった。
先ほどは決壊寸前だった涙はどこかへ蒸発したのか、やや潤んではいるものの、先ほど見たそれとは違う意味に取れた。
そしてーー頬は紅潮している。
「阿久津さん」
女の声は、前に聞いたものよりもはっきりしていた。俺は可能な限り眉を寄せ、先ほど男がうろたえたとき以上に目つきを悪くして女を見やる。
「私、澤田ヒメと言います。二つ隣の駅の小児科で医療事務の仕事をしてます。先日は、自己紹介もせず、すみませんでした」
俺の視線にも憶することなく、女はテキパキと言って頭を下げた。緩やかな色素の薄い髪がはらりと顔にかかる。
意外と、図太い?
この手のタイプの女は、甘えたがりか天然を装った計算高い女だろうと踏んでいた。下げられた頭に戸惑いつつ、ああそう、と気の無い応対をする。
澤田ヒメは顔を上げた。まっすぐに俺の目を見て、一言一言はっきりと口にする。
「さっきので、三回目です。阿久津さんにそのつもりはなくても、私は確かに三回、助けてもらいました」
俺の表情の変化を見逃すまいとするその視線の強さに、ついたじろいだ。
「私に興味がないのは、分かってます。でも、少しだけでも、私のことを知って欲しいんです。一度だけでいいんで、お礼させてください。お願いします」
またぺこりと頭を下げられ目を反らすと、レジ前に立つ店員と目が合った。
つりあわない容姿の男女のやり取りが気になっているのだろう。俺は苦い顔をしてまた澤田の頭を見下ろす。
「付き纏われるのは迷惑だ。俺のことは忘れろ」
「忘れられません」
一際大きな声をあげて、澤田はまた勢いよく顔を上げた。ふわり、と広がった髪から、一瞬だけ匂いが立ち上る。
先ほど男たちの周りに漂っていたタバコの匂いに紛れた、フローラルな香り。
彼女に不思議と似合っているその匂いをかぎ取り、俺は思わず戸惑った。ガキだと思っていた彼女を、一瞬だけ、女に感じた自分に気づく。
一瞬だけだ。
自分を律するように心中で呟く。
「忘れられるなら、あんな、改札の前に毎日いたり、しません」
澤田は元々ハの字に近い眉をますます情けなく寄せた。その目がまた潤んで来るのを見て、内心焦る。
コンビニの店員から見たら、俺がいじめているようにでも見えかねない。
「勝手にしろ」
吐いた言葉はほとんどその場しのぎのつもりだったが、澤田の顔が途端に華やいだので足を後ろに引きかけた。
「じゃあ、勝手にします!」
にこり、と笑うその顔は、やはり少女と言ってもいいほど幼い。
が、芯の強さを感じ取り、俺は内心舌を巻いた。
「とりあえず、今日は名前を覚えてもらっただけで」
「覚えてねぇぞ」
「澤田ヒメ、澤田ヒメです。メモしましょうか?あ、油性マジック買いましょう。手の甲にでも書けば忘れませんよね?」
本気の目で陳列棚に手を伸ばすので、俺はとっさにその手を掴んで引き下げた。手が触れた途端、顔を朱に染めて潤んだ瞳で見上げられる。
うわぁ、やりづれぇ。
自分がこういう目で見られる日が来ると思っていなかった俺は、どう対応したらいいのかわからない。
今度マーシーに聞いておこう。いや、あんまり参考になりそうにない。あれはマーシースタイルとして完成しすぎている。
心中の混乱を察されないよう、俺は手を離しながら舌打ちした。澤田を置いてレジに向かう。
澤田は何か考えているようだったが、俺が会計を済ませたとき、ぱたぱたと走り寄ってきて紙を渡した。手帳を破ったらしいメモに、名前と、連絡先が書いてある。
どうしろと。
睨みつける俺の意図は察したらしい。澤田はにこりと笑って、俺にその紙を押し付けた。
「アヤノさんに渡してください。ちゃんと、先日のお礼を言いたいので」
俺は一瞬目を見開きかけ、反らした。
どうして俺の弱点をこいつが知っている。
いや、そんなつもりはないのかもしれない。橘女史がどんなことをこの女に吹き込んだのかは分からないが、女同士に感じるものがあった可能性もある。
俺は吸った息を深々と吐き出しながら、その紙をひったくるように受け取った。乱暴にジャケットのポケットにおさめ、歩き出す。
澤田はまたちょこまかと後ろについてきた。入口を塞いでいた男二人はもう消えたらしい。
「あっ、あの、阿久津さん」
「何だよ」
苛立ちを隠しもせず、俺は声だけで答える。
「駅までの道、教えてください」
澤田の言葉に、膝ががくりと崩れそうになるのを感じた。
しかし出先での会議が長引いた上、電車の車両点検の影響で戻って来るのがだいぶ遅れた。八時頃に駅に着いたのでメッセージを入れたとき、バッテリーの残量が心許ないことに気づく。
居酒屋へ向かって歩きながら、途中で充電器でも買うかとコンビニの場所を思い浮かべた。
居酒屋に向かう途中に、コンビニがあったことを思い出した。一本だけ道を入り、ぐるりと一区画回っていけばいいだけだ。わずかな遠回りで済む。
そうと決まれば足の運びも大きく進んで行くと、コンビニの前で男二人が入口を塞いでいた。
歳は俺と変わらないくらいか。手元に缶ビール、そしてくっきりと分かるタバコの臭い。
邪魔。
単純にそう思った俺は、何も考えずに口を開いた。
「あの、すみません。中、入りたいんですけどどいてもらえますか?」
男は据わった目で振り返った。自慢じゃないが目つきの悪さなら滅多に負けない俺は、黙ってそれを見返す。
ちなみに俺は別に格闘技をやっていたわけでも何でもない。体育の柔道で、柔道部顧問だった体育教師にセンスがあると褒められ、勧誘されたくらいか。
柔道といえばジョーだが、あいつの立ち姿は適当なようで隙がなく、到底太刀打ちできそうにない。まあ、それくらいのことは分かる程度にセンスがあるということか。
俺はスラックスのポケットに片手をつっこんだままで、ビジネスバッグを持つもう片手は肩の上にある。
睨みつけた訳でもなく、ただ黙って見返しただけなのだが、男はうろたえておずおずと下がった。俺は内心舌打ちする。
デカい態度取っといて、小っせぇ奴。だったら最初からコンビニの入口なんざ塞ぐな、ボケ。
こういう奴がいるからオッサンの地位が落ちていくんだと心中毒づきながら、足を一歩進めた。
そのとき、男の陰に隠れていた小さな人影に気づいてぎくりと足を止めた。
マジかよ。
思わず顔が引き攣る。
大きな瞳に涙をためて俺を見上げて来たのは、間違いなくあの改札の女だった。
「ーーあ」
女が何か言うより先に、俺は黙って顔を背け、逃げるようにコンビニに入っていく。
後ろにドアが閉まる気配を感じながら、俺はちくちくと胸を苛む罪悪感に唇を引き結んだ。
ずらりと並ぶスマホの充電器をぼんやりと眺めながら、ドアの方に気を配っている自分に気づく。
もしかして、あいつ絡まれてたわけ?
思いながら、同時に納得もした。
あいつは俺に助けられたと言っていたが、それもこんな感じだったんだろう。俺には全く、あいつを助けた気はないのだが、タイミングがよかった(のか、悪かったのか)だけなのだ。
俺がヒーローになれる訳ねぇだろ。
つい、自嘲じみた苦笑が浮かぶ。
そもそも、なる気もない。
ヒーローへの憧れを口にしていたのは、せいぜい小学生くらいまでの話だ。
あの頃の俺は、女に一途に尽くす男に憧れたし、社会は正義の上に成り立っていると本気で思っていた。そして、誰かを守ることが強さだと信じて疑わなかった。
少年のときの俺に言ってやりたいくらいだ。
おい、違うんだぜ、少年。社会ってのは案外、緩くて黒くて重いところだ。絶対の正義なんてもんは無いし、何もかも誰かの自己都合の上に成り立ってんだよ。そんな甘っちょろいこと思ってられんのも、まだガキの内だけなんだよ。
ふ、と鼻で息を吐き出し、充電器を一つ手に取ってレジに向かう。型が合うかをぼんやり確認していた俺は、目の前に立った人影に気付かなかった。腕がぶつかって気づく。
前に持った充電器をどかすと、そこに立っていたのはあの女だった。
先ほどは決壊寸前だった涙はどこかへ蒸発したのか、やや潤んではいるものの、先ほど見たそれとは違う意味に取れた。
そしてーー頬は紅潮している。
「阿久津さん」
女の声は、前に聞いたものよりもはっきりしていた。俺は可能な限り眉を寄せ、先ほど男がうろたえたとき以上に目つきを悪くして女を見やる。
「私、澤田ヒメと言います。二つ隣の駅の小児科で医療事務の仕事をしてます。先日は、自己紹介もせず、すみませんでした」
俺の視線にも憶することなく、女はテキパキと言って頭を下げた。緩やかな色素の薄い髪がはらりと顔にかかる。
意外と、図太い?
この手のタイプの女は、甘えたがりか天然を装った計算高い女だろうと踏んでいた。下げられた頭に戸惑いつつ、ああそう、と気の無い応対をする。
澤田ヒメは顔を上げた。まっすぐに俺の目を見て、一言一言はっきりと口にする。
「さっきので、三回目です。阿久津さんにそのつもりはなくても、私は確かに三回、助けてもらいました」
俺の表情の変化を見逃すまいとするその視線の強さに、ついたじろいだ。
「私に興味がないのは、分かってます。でも、少しだけでも、私のことを知って欲しいんです。一度だけでいいんで、お礼させてください。お願いします」
またぺこりと頭を下げられ目を反らすと、レジ前に立つ店員と目が合った。
つりあわない容姿の男女のやり取りが気になっているのだろう。俺は苦い顔をしてまた澤田の頭を見下ろす。
「付き纏われるのは迷惑だ。俺のことは忘れろ」
「忘れられません」
一際大きな声をあげて、澤田はまた勢いよく顔を上げた。ふわり、と広がった髪から、一瞬だけ匂いが立ち上る。
先ほど男たちの周りに漂っていたタバコの匂いに紛れた、フローラルな香り。
彼女に不思議と似合っているその匂いをかぎ取り、俺は思わず戸惑った。ガキだと思っていた彼女を、一瞬だけ、女に感じた自分に気づく。
一瞬だけだ。
自分を律するように心中で呟く。
「忘れられるなら、あんな、改札の前に毎日いたり、しません」
澤田は元々ハの字に近い眉をますます情けなく寄せた。その目がまた潤んで来るのを見て、内心焦る。
コンビニの店員から見たら、俺がいじめているようにでも見えかねない。
「勝手にしろ」
吐いた言葉はほとんどその場しのぎのつもりだったが、澤田の顔が途端に華やいだので足を後ろに引きかけた。
「じゃあ、勝手にします!」
にこり、と笑うその顔は、やはり少女と言ってもいいほど幼い。
が、芯の強さを感じ取り、俺は内心舌を巻いた。
「とりあえず、今日は名前を覚えてもらっただけで」
「覚えてねぇぞ」
「澤田ヒメ、澤田ヒメです。メモしましょうか?あ、油性マジック買いましょう。手の甲にでも書けば忘れませんよね?」
本気の目で陳列棚に手を伸ばすので、俺はとっさにその手を掴んで引き下げた。手が触れた途端、顔を朱に染めて潤んだ瞳で見上げられる。
うわぁ、やりづれぇ。
自分がこういう目で見られる日が来ると思っていなかった俺は、どう対応したらいいのかわからない。
今度マーシーに聞いておこう。いや、あんまり参考になりそうにない。あれはマーシースタイルとして完成しすぎている。
心中の混乱を察されないよう、俺は手を離しながら舌打ちした。澤田を置いてレジに向かう。
澤田は何か考えているようだったが、俺が会計を済ませたとき、ぱたぱたと走り寄ってきて紙を渡した。手帳を破ったらしいメモに、名前と、連絡先が書いてある。
どうしろと。
睨みつける俺の意図は察したらしい。澤田はにこりと笑って、俺にその紙を押し付けた。
「アヤノさんに渡してください。ちゃんと、先日のお礼を言いたいので」
俺は一瞬目を見開きかけ、反らした。
どうして俺の弱点をこいつが知っている。
いや、そんなつもりはないのかもしれない。橘女史がどんなことをこの女に吹き込んだのかは分からないが、女同士に感じるものがあった可能性もある。
俺は吸った息を深々と吐き出しながら、その紙をひったくるように受け取った。乱暴にジャケットのポケットにおさめ、歩き出す。
澤田はまたちょこまかと後ろについてきた。入口を塞いでいた男二人はもう消えたらしい。
「あっ、あの、阿久津さん」
「何だよ」
苛立ちを隠しもせず、俺は声だけで答える。
「駅までの道、教えてください」
澤田の言葉に、膝ががくりと崩れそうになるのを感じた。
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