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第六章 夏の終わりの夜の夢(阿久津視点)
01 軋む音
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そんなこんなで俺は、毎朝駅のホームの定位置で澤田と会い、一言挨拶を交わしてから出勤するようになった。
いいように丸め込まれたような気がしなくもないが、そこは気にしないことにしておく。こうなればもうどうとでもなれだ。なるようになれ。
いつも通り電車を降りて定位置へと向かうと、澤田がいる場所に男が立っていた。その陰に小柄な姿が見える。
あー、あれがジョーが言ってた奴か?
思い、近づくことをためらう。男は俺より背が低いが、俺より若い。そこそこ小綺麗ななりをしていて、顔立ちは可もなく不可もなくというところか。目つきの悪い俺と比べれば、断然そいつの方が好感度が高そうだ。
とはいえ、何も声をかけずに過ぎれば、澤田がまた何かしでかしかねない。約束破ったんですよ! とでも橘女史に連絡されれば、経過報告も込みで事情聴取が始まるに違いない。
安易に予測可能な未来図を思い浮かべて渋面になり、首を振ると嘆息した。
「おはよ」
通り抜けざま声をかけると、澤田の目がぱあっと輝いて俺を見上げた。
「あっ、おはようございます!」
澤田に話しかけていた男が、驚いたように俺を見やる。目つきの悪さを自覚しているので、あえてそいつの顔を見ることは避け、そのまま進んでいく。
「行ってらっしゃいませ!」
浮き立つ気持ちを隠そうともしない、澤田の声が俺の背にかかる。
ちら、と周りの人間が俺を見てくる。俺は我関せずという顔で歩いていく。
ふと男がどうしたか気になり、階段を降りる前に、一度振り向いた。
もう男は去ってしまったようだった。澤田は俺の姿を追っていたらしい。振り向くや目が合い、紅潮した頬をほころばせて笑う。俺はなんとなく気まずく思って足早に去った。
澤田の無邪気な笑顔を見る度、俺の中の何かが軋む。心の中のどこかが締め付けられてみしりと音をたて、俺は毎度眉をひそめてそれから目を反らす。
雑踏に紛れて歩きながら、俺をとらえた何ものかをも、その雑踏に紛らわせてしまおうとしている自分に気づく。
誰を誰とも認識しない人ごみ。おそらく毎日、顔ぶれはほとんど変わらないだろうに、生気の乏しい知らない顔ばかりだ。きっと向こうにも俺がそう見えていることだろう。
駅から出てオフィスへと歩いていく。その道を歩くにも、人の流れに逆らうことはほとんどない。自分で歩いているものの、ほとんど動く歩道のようだ。順番を追い抜くこともなく、前の人に続いて順々、粛々と進む。
テナントの多くはまだ閉じられている。開いたビルに入っていく人がときどき流れから離脱する。オフィス街の朝は、爽やかさなどほとんど感じない。一度閉じられた店が開く前のような、けだるげな空気。
重い足を運ぶ労働者たちは、またつまらない一日が始まると心中で嘆きながら、自らを緩やかな牢獄へ送り込み、生活するための金を稼ぐ。
我ながらつまらない毎日を送っているものだ。
思って自嘲する。
無関係な人ばかりの人ごみを抜け出す頃には、また違う人波に入る。
無機質な一階のロビーでエレベーターを待つ人々は、同じ会社の人間なのに知人はほとんどいない。
俺は静かに息を吐き出した。
ほら、もう、澤田の笑顔に感じた胸の軋みなど忘れている。
いつもと変わらない、かったるい気分。
まあそれでも働くけどさ。
エレベーターが一台修理中になっている。人ごみはなかなかはけない。いっそ階段で行こうかと頭の中で算段しだしたとき、後ろに気配を感じて振り向いた。
マーシーと橘女史が話しながら入ってくる。
途端に味気ないロビーが色づいた。
きっとそう感じたのは俺だけじゃないだろう。二人に目をやる人は、二人に挨拶を交わす人よりも断然多い。
「おはよ」
マーシーが俺に声をかけてきた。小柄な妻が人ごみに揉まれないよう、多分無意識に配慮しながら。
「おはよ」
俺は無表情なまま答えたつもりだったが、自覚している。その目は二人を見る前の乾ききった無表情さではなく、人間味を持っていることを。
マーシーは俺の無愛想さを気にもせずに微笑んだ。橘女史も、他の人との挨拶を終えて俺に微笑む。
「おっはよー、阿久津」
「ああ」
「何よそれ。ちゃんとおはようって言いなさいよ。お母さんそんな子に育てた覚えはありません」
「お前の息子じゃねぇよ」
「そりゃそうだ。あんたみたいな女泣かせな息子も困るし、かわいいうちの子たちがあんたみたいになっても困る」
いつも通りのくだらない会話を交わす。橘は笑っている。俺は呆れた顔をするか、笑うとしても意地悪な笑顔を浮かべるだけだ。
これも就職してから十八年、顔を合わせれば繰り返されてきたこと。
「阿久津、どうかしたか?」
「は?」
首を傾げたマーシーが、俺の目を覗き込んで来た。
「なんか疲れてるみたいだけど」
「あーまあ、昨夜激しかったからな」
俺が冗談を返すと、マーシーが噴き出した。
「あ、そう。まあそうならいいけどさ」
「よくない。やだ。最悪。キモい。何言ってんの朝から」
「あれ? お前、そういう冗談分かるようになったの?」
顔を赤らめて頬を膨らませる橘に、小馬鹿にしたような目を送る。橘はさらに顔を赤らめた。
「阿久津、最低。その話はやめっ。私、階段で行く!」
「あーお前3階だもんな。そうすれば」
マーシーはひょこりとエレベーターホールを覗き込む。
「一台メンテナンス中か。俺も階段で行くかなぁ。阿久津、どうする?」
「すし詰めで乗るのも嫌だしな。俺も行くわ」
橘女史の後を追うように、マーシーと二人歩き出した。
いいように丸め込まれたような気がしなくもないが、そこは気にしないことにしておく。こうなればもうどうとでもなれだ。なるようになれ。
いつも通り電車を降りて定位置へと向かうと、澤田がいる場所に男が立っていた。その陰に小柄な姿が見える。
あー、あれがジョーが言ってた奴か?
思い、近づくことをためらう。男は俺より背が低いが、俺より若い。そこそこ小綺麗ななりをしていて、顔立ちは可もなく不可もなくというところか。目つきの悪い俺と比べれば、断然そいつの方が好感度が高そうだ。
とはいえ、何も声をかけずに過ぎれば、澤田がまた何かしでかしかねない。約束破ったんですよ! とでも橘女史に連絡されれば、経過報告も込みで事情聴取が始まるに違いない。
安易に予測可能な未来図を思い浮かべて渋面になり、首を振ると嘆息した。
「おはよ」
通り抜けざま声をかけると、澤田の目がぱあっと輝いて俺を見上げた。
「あっ、おはようございます!」
澤田に話しかけていた男が、驚いたように俺を見やる。目つきの悪さを自覚しているので、あえてそいつの顔を見ることは避け、そのまま進んでいく。
「行ってらっしゃいませ!」
浮き立つ気持ちを隠そうともしない、澤田の声が俺の背にかかる。
ちら、と周りの人間が俺を見てくる。俺は我関せずという顔で歩いていく。
ふと男がどうしたか気になり、階段を降りる前に、一度振り向いた。
もう男は去ってしまったようだった。澤田は俺の姿を追っていたらしい。振り向くや目が合い、紅潮した頬をほころばせて笑う。俺はなんとなく気まずく思って足早に去った。
澤田の無邪気な笑顔を見る度、俺の中の何かが軋む。心の中のどこかが締め付けられてみしりと音をたて、俺は毎度眉をひそめてそれから目を反らす。
雑踏に紛れて歩きながら、俺をとらえた何ものかをも、その雑踏に紛らわせてしまおうとしている自分に気づく。
誰を誰とも認識しない人ごみ。おそらく毎日、顔ぶれはほとんど変わらないだろうに、生気の乏しい知らない顔ばかりだ。きっと向こうにも俺がそう見えていることだろう。
駅から出てオフィスへと歩いていく。その道を歩くにも、人の流れに逆らうことはほとんどない。自分で歩いているものの、ほとんど動く歩道のようだ。順番を追い抜くこともなく、前の人に続いて順々、粛々と進む。
テナントの多くはまだ閉じられている。開いたビルに入っていく人がときどき流れから離脱する。オフィス街の朝は、爽やかさなどほとんど感じない。一度閉じられた店が開く前のような、けだるげな空気。
重い足を運ぶ労働者たちは、またつまらない一日が始まると心中で嘆きながら、自らを緩やかな牢獄へ送り込み、生活するための金を稼ぐ。
我ながらつまらない毎日を送っているものだ。
思って自嘲する。
無関係な人ばかりの人ごみを抜け出す頃には、また違う人波に入る。
無機質な一階のロビーでエレベーターを待つ人々は、同じ会社の人間なのに知人はほとんどいない。
俺は静かに息を吐き出した。
ほら、もう、澤田の笑顔に感じた胸の軋みなど忘れている。
いつもと変わらない、かったるい気分。
まあそれでも働くけどさ。
エレベーターが一台修理中になっている。人ごみはなかなかはけない。いっそ階段で行こうかと頭の中で算段しだしたとき、後ろに気配を感じて振り向いた。
マーシーと橘女史が話しながら入ってくる。
途端に味気ないロビーが色づいた。
きっとそう感じたのは俺だけじゃないだろう。二人に目をやる人は、二人に挨拶を交わす人よりも断然多い。
「おはよ」
マーシーが俺に声をかけてきた。小柄な妻が人ごみに揉まれないよう、多分無意識に配慮しながら。
「おはよ」
俺は無表情なまま答えたつもりだったが、自覚している。その目は二人を見る前の乾ききった無表情さではなく、人間味を持っていることを。
マーシーは俺の無愛想さを気にもせずに微笑んだ。橘女史も、他の人との挨拶を終えて俺に微笑む。
「おっはよー、阿久津」
「ああ」
「何よそれ。ちゃんとおはようって言いなさいよ。お母さんそんな子に育てた覚えはありません」
「お前の息子じゃねぇよ」
「そりゃそうだ。あんたみたいな女泣かせな息子も困るし、かわいいうちの子たちがあんたみたいになっても困る」
いつも通りのくだらない会話を交わす。橘は笑っている。俺は呆れた顔をするか、笑うとしても意地悪な笑顔を浮かべるだけだ。
これも就職してから十八年、顔を合わせれば繰り返されてきたこと。
「阿久津、どうかしたか?」
「は?」
首を傾げたマーシーが、俺の目を覗き込んで来た。
「なんか疲れてるみたいだけど」
「あーまあ、昨夜激しかったからな」
俺が冗談を返すと、マーシーが噴き出した。
「あ、そう。まあそうならいいけどさ」
「よくない。やだ。最悪。キモい。何言ってんの朝から」
「あれ? お前、そういう冗談分かるようになったの?」
顔を赤らめて頬を膨らませる橘に、小馬鹿にしたような目を送る。橘はさらに顔を赤らめた。
「阿久津、最低。その話はやめっ。私、階段で行く!」
「あーお前3階だもんな。そうすれば」
マーシーはひょこりとエレベーターホールを覗き込む。
「一台メンテナンス中か。俺も階段で行くかなぁ。阿久津、どうする?」
「すし詰めで乗るのも嫌だしな。俺も行くわ」
橘女史の後を追うように、マーシーと二人歩き出した。
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