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第七章 織り姫危機一髪。(ヒメ/阿久津交互)
06 バーカウンターの女
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午前中の出張を終えて帰社しようと思ったとき、会社から電話があった。出ると課長からだ。
『アーク、今日の出張、O駅だったよね。もう終わった?』
「終わりました。今から戻ろうと思っていたとこです」
英語で話す俺を、ちらちらと周りの人が見ながら歩いていく。まだ英語で話す姿も珍しいのだろう。
我が社は外資系のインテリアメーカーだ。とはいえ販売先は一般家庭ではなく、ホテルやイベント会場を主にしている。
『さっき、S駅の近くにあるCホテルから電話があって。八年前に購入した椅子の座面の張替えをお願いしたいって言うんだけど、その座面に使った布の在庫があるか、見てきて確認してくれないかな』
修理も積極的に受けて、長く使ってもらうのが我が社のモットーなので、こういう電話はよくあることだ。
しかし、俺は苦笑する。
「午後って、今11時ですけど。何時からですか?」
『15時。その辺りお得意さんも多いし、営業がてら挨拶に回ってたらあっという間でしょ』
「俺営業職じゃないんだけどなぁ」
『まあまあ、そう言わずに』
営業出身の課長はそう笑った。
四年前、九州支社から本社に戻ってきたら、営業部にある顧客サービス課への異動だった。後輩であるアキには驚かれたものだ。
「阿久津さんみたいに偉そうな態度の人、仮にも営業部に入れちゃって大丈夫ですか?」と心配している風に言われたときには、コイツ本気で俺のこと馬鹿にしてるなと睨みつけてやったが。
俺とて彼女が思うほど馬鹿じゃない。だから、大きな問題もなくやっている。良くも悪くも、無難に。
「じゃ、それ終わったら直帰しますよ。急ぎの仕事もないし」
『オッケー、いいよ。頼むね』
明るい声が答えて電話が切れる。
俺は改めて腕時計を見て、嘆息した。確かにS駅はここから程近い。そうは言っても本社も同じ都内にあるのだ。そこまで無駄を省かずともいいと思うのだが。
そうは言っても上司の命令である。適当に時間を潰そうと、頭の中にある顧客リストを引っ張り出す。
課長に言われたように、O駅にもS駅にも我が社の顧客は多い。さすがに四年いると全くアテがないわけでもなく、近場の顧客を二つ三つ回ってから、遅めのランチを取ることにした。
だいたいどこのオフィスでも、12時からの一時間が昼休みになる。13時から休めばゆっくりできるだろう、という算段だ。
読みは見事に当たり、四人掛けの席を一人で占領した上、食後のコーヒーまで楽しめる、快適な昼食を摂ることができた。
コーヒーを飲みながら手元の資料を確認していると、不意に人影が視界に入った。俺は目を上げる。
「久しぶりぃ、あーくん」
なんとなく歪んだ笑顔を浮かべる女が立っている。ストレートのボブショートは彼女の頬を覆うようにカットされ、さらりと揺れた。
懐かしい顔に、俺は苦笑じみた笑顔を返す。
「久しぶり、美郷」
「うん」
美郷は俺の前の席を指差した。
「ここ、空いてる?」
「ああ」
俺はコーヒーに手をかけながら答えた。
「ごゆっくり。俺、これ飲んだら出るから」
言ったとき、美郷の手がコーヒーカップに添えられた俺の手を包んだ。
もともと痩せぎすな女だったが、赤いネイルをしたその手は筋張っている。手の甲からは肌の衰えも感じた。
「やだぁ、つれないこと言わないでよ。こうして会ったのも何かの縁じゃない。少し話そ? 時間、あるんでしょ」
俺は壁にある時計を見た。残念ながらまだ13時半にすらならない。
諦めて嘆息すると、背もたれに寄り掛かった。
「まあ、いいけど」
美郷は赤い口紅を塗った薄い唇を笑みの形に歪めた。
美郷とは、まだ20代の頃に飲み屋で会った。女一人でバーカウンターにいた女だ。口説けと言っているようなものだろう。
ちょうど女を抱きたいと思っていた俺は、男に抱かれたいと思っていた美郷と合意してホテルへ入った。
連絡先は交換しなかったが、女が途切れて鬱憤がたまったときに、同じ店でまた美郷に会った。美郷もちょうど男が途切れたところだったので、二度目の関係を持った。
美郷は当時から痩せぎすで、抱き心地がいいとは到底言えなかったが、俺とて穴があれば用は足りると思っていた時期だ。プライベートについて踏み込んで聞いて来ることもなく、面倒を言わない美郷との関係は気が楽だった。
二度目の行為を終えた後、二人でくだらない約束をした。
三度目があれば、そのときには連絡先を交換しようと。
そして、三度目は30歳のときだった。俺は橘を諦めようと、手当たり次第女を漁った時期だ。女が鉢合わせて修羅場になり、馬鹿みたいな恋愛ごっこに嫌気がさしたときだった。
「やぁねぇ」
美郷はそのとき、けだるげに顔を歪めて笑った。晴れやかな笑顔は彼女には無縁なようだった。
「どうせ、あーくんもいるんでしょ、女神様が」
「女神様ぁ?」
俺は眉を寄せ、女を睨みつけた。
「何言ってんの。男も女も、結局ただそれだけだろ。やることやって、欲求が満たされればそれでいいよ」
「満たされるならいいけどね」
美郷はお見通しだというように鼻で笑った。
「二度と侵せない女神様が心に住まわってるんなら、ずっと満たされないままでしょ」
俺はむっとして美郷の腰を引き寄せた。
「ゴタクはどーでもいいからさ。することしようぜ」
美郷は馬鹿にするように笑ったが、おとなしくまた俺に抱かれた。
そんなことがあってから、恋愛ごっこに疲れると美郷を抱いた。美郷に男がいた時期もあったのでそういうときには疎遠になったが、美郷も男が途切れると俺に連絡を寄越すようになった。
が、32のとき、俺は九州支社に異動になった。そこで美郷との連絡は一度途切れた。
しかしその翌々年、マーシーと橘女史が結婚した。同期で集まるお祝いパーティーを俺が企画してやった。終わると燃え尽きたようになりかけた俺は、これはまずいと美郷に連絡をしたが繋がらず、仕方なく金で女を買った。
東京に戻ってきたのは今から四年前、34のときだ。
それ以降は美郷に連絡をつけることもなく、俺は金で女を買った。ときどき、飲み屋でひっかけた。それまでは彼女というものも作っていたが、割り切ればこれほど気楽な欲求解消法もない。ホテル代を出すと言えば、抱かれる女は意外と多かった。
そして今まで、美郷を忘れていた。
「またしばらく、ご無沙汰なんだぁ。私」
俺はコーヒーを口に運びながら、美郷の不健康そうな肌を見ている。
「今日は予定あるの? 仕事の後」
ちらりと、澤野の笑顔が脳裏をよぎった。
そんな自分に苦笑する。
「ないけど」
「じゃあ、来て」
美郷は頬杖をついて、首を傾げた。
「いつものお店で待ってる」
きっとこの女は、俺が頷くまで動かないんだろう。
そう思って、俺は黙ったままあごを引いた。
美郷は楽しげな笑い声をたてて、じゃあ、と席を立った。
俺はその後ろ姿に目をやる。ワンピースの下から覗く脚は骨と皮だけのように細かった。
それを見ながら、蹴ったら折れるかな、と馬鹿なことを思った。
『アーク、今日の出張、O駅だったよね。もう終わった?』
「終わりました。今から戻ろうと思っていたとこです」
英語で話す俺を、ちらちらと周りの人が見ながら歩いていく。まだ英語で話す姿も珍しいのだろう。
我が社は外資系のインテリアメーカーだ。とはいえ販売先は一般家庭ではなく、ホテルやイベント会場を主にしている。
『さっき、S駅の近くにあるCホテルから電話があって。八年前に購入した椅子の座面の張替えをお願いしたいって言うんだけど、その座面に使った布の在庫があるか、見てきて確認してくれないかな』
修理も積極的に受けて、長く使ってもらうのが我が社のモットーなので、こういう電話はよくあることだ。
しかし、俺は苦笑する。
「午後って、今11時ですけど。何時からですか?」
『15時。その辺りお得意さんも多いし、営業がてら挨拶に回ってたらあっという間でしょ』
「俺営業職じゃないんだけどなぁ」
『まあまあ、そう言わずに』
営業出身の課長はそう笑った。
四年前、九州支社から本社に戻ってきたら、営業部にある顧客サービス課への異動だった。後輩であるアキには驚かれたものだ。
「阿久津さんみたいに偉そうな態度の人、仮にも営業部に入れちゃって大丈夫ですか?」と心配している風に言われたときには、コイツ本気で俺のこと馬鹿にしてるなと睨みつけてやったが。
俺とて彼女が思うほど馬鹿じゃない。だから、大きな問題もなくやっている。良くも悪くも、無難に。
「じゃ、それ終わったら直帰しますよ。急ぎの仕事もないし」
『オッケー、いいよ。頼むね』
明るい声が答えて電話が切れる。
俺は改めて腕時計を見て、嘆息した。確かにS駅はここから程近い。そうは言っても本社も同じ都内にあるのだ。そこまで無駄を省かずともいいと思うのだが。
そうは言っても上司の命令である。適当に時間を潰そうと、頭の中にある顧客リストを引っ張り出す。
課長に言われたように、O駅にもS駅にも我が社の顧客は多い。さすがに四年いると全くアテがないわけでもなく、近場の顧客を二つ三つ回ってから、遅めのランチを取ることにした。
だいたいどこのオフィスでも、12時からの一時間が昼休みになる。13時から休めばゆっくりできるだろう、という算段だ。
読みは見事に当たり、四人掛けの席を一人で占領した上、食後のコーヒーまで楽しめる、快適な昼食を摂ることができた。
コーヒーを飲みながら手元の資料を確認していると、不意に人影が視界に入った。俺は目を上げる。
「久しぶりぃ、あーくん」
なんとなく歪んだ笑顔を浮かべる女が立っている。ストレートのボブショートは彼女の頬を覆うようにカットされ、さらりと揺れた。
懐かしい顔に、俺は苦笑じみた笑顔を返す。
「久しぶり、美郷」
「うん」
美郷は俺の前の席を指差した。
「ここ、空いてる?」
「ああ」
俺はコーヒーに手をかけながら答えた。
「ごゆっくり。俺、これ飲んだら出るから」
言ったとき、美郷の手がコーヒーカップに添えられた俺の手を包んだ。
もともと痩せぎすな女だったが、赤いネイルをしたその手は筋張っている。手の甲からは肌の衰えも感じた。
「やだぁ、つれないこと言わないでよ。こうして会ったのも何かの縁じゃない。少し話そ? 時間、あるんでしょ」
俺は壁にある時計を見た。残念ながらまだ13時半にすらならない。
諦めて嘆息すると、背もたれに寄り掛かった。
「まあ、いいけど」
美郷は赤い口紅を塗った薄い唇を笑みの形に歪めた。
美郷とは、まだ20代の頃に飲み屋で会った。女一人でバーカウンターにいた女だ。口説けと言っているようなものだろう。
ちょうど女を抱きたいと思っていた俺は、男に抱かれたいと思っていた美郷と合意してホテルへ入った。
連絡先は交換しなかったが、女が途切れて鬱憤がたまったときに、同じ店でまた美郷に会った。美郷もちょうど男が途切れたところだったので、二度目の関係を持った。
美郷は当時から痩せぎすで、抱き心地がいいとは到底言えなかったが、俺とて穴があれば用は足りると思っていた時期だ。プライベートについて踏み込んで聞いて来ることもなく、面倒を言わない美郷との関係は気が楽だった。
二度目の行為を終えた後、二人でくだらない約束をした。
三度目があれば、そのときには連絡先を交換しようと。
そして、三度目は30歳のときだった。俺は橘を諦めようと、手当たり次第女を漁った時期だ。女が鉢合わせて修羅場になり、馬鹿みたいな恋愛ごっこに嫌気がさしたときだった。
「やぁねぇ」
美郷はそのとき、けだるげに顔を歪めて笑った。晴れやかな笑顔は彼女には無縁なようだった。
「どうせ、あーくんもいるんでしょ、女神様が」
「女神様ぁ?」
俺は眉を寄せ、女を睨みつけた。
「何言ってんの。男も女も、結局ただそれだけだろ。やることやって、欲求が満たされればそれでいいよ」
「満たされるならいいけどね」
美郷はお見通しだというように鼻で笑った。
「二度と侵せない女神様が心に住まわってるんなら、ずっと満たされないままでしょ」
俺はむっとして美郷の腰を引き寄せた。
「ゴタクはどーでもいいからさ。することしようぜ」
美郷は馬鹿にするように笑ったが、おとなしくまた俺に抱かれた。
そんなことがあってから、恋愛ごっこに疲れると美郷を抱いた。美郷に男がいた時期もあったのでそういうときには疎遠になったが、美郷も男が途切れると俺に連絡を寄越すようになった。
が、32のとき、俺は九州支社に異動になった。そこで美郷との連絡は一度途切れた。
しかしその翌々年、マーシーと橘女史が結婚した。同期で集まるお祝いパーティーを俺が企画してやった。終わると燃え尽きたようになりかけた俺は、これはまずいと美郷に連絡をしたが繋がらず、仕方なく金で女を買った。
東京に戻ってきたのは今から四年前、34のときだ。
それ以降は美郷に連絡をつけることもなく、俺は金で女を買った。ときどき、飲み屋でひっかけた。それまでは彼女というものも作っていたが、割り切ればこれほど気楽な欲求解消法もない。ホテル代を出すと言えば、抱かれる女は意外と多かった。
そして今まで、美郷を忘れていた。
「またしばらく、ご無沙汰なんだぁ。私」
俺はコーヒーを口に運びながら、美郷の不健康そうな肌を見ている。
「今日は予定あるの? 仕事の後」
ちらりと、澤野の笑顔が脳裏をよぎった。
そんな自分に苦笑する。
「ないけど」
「じゃあ、来て」
美郷は頬杖をついて、首を傾げた。
「いつものお店で待ってる」
きっとこの女は、俺が頷くまで動かないんだろう。
そう思って、俺は黙ったままあごを引いた。
美郷は楽しげな笑い声をたてて、じゃあ、と席を立った。
俺はその後ろ姿に目をやる。ワンピースの下から覗く脚は骨と皮だけのように細かった。
それを見ながら、蹴ったら折れるかな、と馬鹿なことを思った。
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